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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第12話 許可証のない優しさ

 役所の正門は、冬の朝でも人で温まっていた。


  石造りの階段に立つ衛兵が、列の端から端まで視線を往復させる。吐く息は白く、肩から下げた書類袋の角が、ぶつかるたびに乾いた音を立てた。空がまだ薄青いのに、窓口の札はすでに点灯している。黄晶都の朝は、起きた瞬間から忙しい。


  志音は、昇一の短い通告を胸の中で反芻しながら、列へ並んだ。

  「許可なく書くな、ってさ。……いや、言い方が良くないか。ええと、ぼくの解釈だと――」


  言い切る前に、華音が水筒のふたを開け、志音へ差し出した。

  志音は「分かった」と言いながら飲む。冷たい水が喉を通り、さっき芽を出しかけた長話が、ぐっと奥へ引っ込んだ。


  愛恋は手帳を開いたまま、列の進み具合と窓口番号を見比べている。陽海は書類袋を二つ抱え、肩で息を整えた。何度も並んでいる人の顔を見て、目だけで「大丈夫」と頷く。


  「今日の目的は、ひとつです」

  華音が、指を一本だけ立てた。

  「志音さんが、レビュー札を“公に扱う”ための許可を取ること。……それと、迷惑を増やさないこと」


  迷惑を増やさない。言われると、志音は急に自分の靴先を見た。足元の石は、薄く光っている。昨夜の読書会の残り火が、まだ都のどこかに残っているのに、ここで燃やし直したら、あっという間に炎になる。


  列がゆっくり動き、扉の中へ吸い込まれる。

  役所の中は、外より乾いていた。紙の匂いとインクの匂いが混ざり、鼻の奥が少し痛む。壁には掲示板がいくつもあり、文字が細かく並んでいる。読もうとすると目が泳ぐ。志音は思わず「これ、誰が読めるんだ」と口に出しそうになり、また水筒を見た。


  入口で配られた案内紙は、三枚重ねで、同じ文が微妙に違う。

  「こっちは“提出”で、こっちは“申請”。こっちは……“申請のための提出”?」

  志音が眉を寄せると、愛恋が紙の端を揃え、同じところだけ指で示した。

  「語尾が違います。こっちは“してください”。こっちは“願います”。……願いますのほうが、相手の肩が上がりにくいです」


  陽海が、受け取った紙束を見て息を吐いた。

  「紙が多いと、心も重くなるな……いや、重くならないように持つ」

  そう言って、紙束をいったん胸から離し、肩の力だけ抜いた。見ていた年配の女性が、真似するように息を吐いて、紙束の持ち方を変える。ちょっとした動きが、列の中を伝わった。


  窓口前には、椅子が並び、番号札を握った人たちが肩を寄せ合って座っている。座っているだけなのに、どこか戦場みたいに見えた。呼び出しの声が届かず、同じ番号が二度呼ばれ、焦った人が立ち上がり、また座り直す。


  「座る順番、変えましょう」

  華音は声を張らずに、手のひらだけを見せた。調律官の合図だ。呼び出し番号の若い順に前へ、遅い順は壁際へ。立ち上がる人の足がもつれかけたところに、陽海がさっと腕を差し出す。支えるのではなく、転びそうな角度だけを塞ぐ。


  「こっち、番号が早い人が座ると、呼ばれた時に迷子にならない」

  陽海が言うと、数人が小さく笑った。笑いは短い。だが、その短さが良い。長い笑いは、誰かの苛立ちを置き去りにする。


  志音は、椅子の列の前へ立ち、口を開いた。

  「ええと、ぼくの提案は――」

  華音が、志音の袖を軽く引いた。引かれた袖の布が、指先に当たる。志音は続きを飲み込み、代わりに短く言った。

  「番号が早い人、前。遅い人、壁。これだけ」


  それだけで、動き出す人がいた。志音は驚き、次に照れた。長い説明より、短い言葉のほうが速い。自分の癖が、少しだけ恥ずかしい。


  愛恋は掲示板の文章を指でなぞり、語尾を確認している。視線が「禁止」「罰則」「没収」の文字へ止まるたび、眉がほんの少しだけ動いた。

  「申請書の項目、“動機”は……『都の秩序を乱さないため』が無難です。『皆のため』は、受け取り手が構えます」

  「皆のため、って言うと、責められる気がするもんね」

  志音がぼそっと言うと、愛恋はペンを置かずに頷いた。

  「責める言葉が先に出やすい場所ほど、です」


  窓口が一つ進むたびに、「次は二番」「次は七番」と声が飛ぶ。呼ばれた人が立ち上がり、紙束を落とし、周囲がざわつく。

  そこへ、ひときわ大きい咳が響いた。年配の男が書類束を落とし、紙が床へ散った。周囲の視線が一斉に集まり、誰かが舌打ちをしそうな間が生まれる。


  志音は反射でしゃがみ、紙を拾い始めた。拾いながら、口の中で言葉を選ぶ。

  「……落ちた紙って、拾うと順番が分からなくなるよね。ここ、角を揃えて重ねよう。ほら、番号が上に来ると、次が探しやすい」


  年配の男は、最初は硬く口を結んでいた。だが、志音が紙を揃える手つきに合わせて、肩が少し下がる。陽海が拾った紙を渡す。愛恋が「こちら、控えの印が押されています」とだけ添えた。華音は水筒を、男の目の前へ置いた。


  男はしばらく水筒を見てから、短く言った。

  「……助かった」


  その一言が、役所の空気をほんの少しだけ柔らかくした。志音は心の中で「今のを札に書きたい」と思い、すぐに首を振った。ここは役所。許可がない。


  ようやく呼び出し番号が近づく。窓口の女性職員が、目の下に薄い影を作ったまま、淡々と手を動かしている。声は枯れていないのに、丁寧さが擦り切れている。


  「次の方。申請理由、口頭でもいいですが、短くお願いします」


  志音は、息を吸った。いつもの癖なら、ここで自分の来歴を語る。地球で何を書いて、どんな読者と出会って、どれだけ泣かせて笑わせたか――。

  だが、華音が隣で小さく頷いた。愛恋がペン先を止め、陽海が書類袋を抱え直す。


  志音は、言葉を削った。

  「ぼくが書く文が、誰かの怒りを増やすのが怖い。だから、許可を取って、ルールの中で書きたい」


  職員の手が、一瞬だけ止まった。目が志音の顔へ上がり、すぐに書類へ戻る。

  「……それなら、誇張や断罪は避ける、という誓約が必要です」


  愛恋がすっと紙を差し出した。語尾が整っていて、無駄がない。志音はその紙を見て、喉の奥が熱くなった。自分の言葉が誰かに支えられて、形になる。


  誓約書の欄は細かい。志音が書き始めると、手首が固くなりそうで怖い。華音が、志音の手首の位置を少しだけずらし、紙へ力が乗りすぎない角度に整えた。触れた指先が、ほんの一瞬だけ温かい。

  志音は「ありがとう」と言いかけ、言葉を短くした。

  「助かる」


  華音は、小さく息を吐いた。笑ったのかどうか、志音には分からない。だが、水筒のふたを閉める音が、柔らかく聞こえた。


  職員が次の紙をめくった。

  「提出は、隣の印章窓口で。戻ってきてください」

  「隣の……隣?」

  志音が思わず聞き返すと、職員は机の角を指した。

  「この廊下を曲がって、三つ目が“隣”です」


  三つ目が隣。志音は口の端を引きつらせた。陽海が「三つ目なら、迷わない」と言って先に歩き、愛恋が紙束の順番を整え直す。華音は、並んでいた人たちへ短く声を掛けた。

  「呼ばれた番号、聞こえたら、手を挙げてください。分からなければ、私が繰り返します」


  誰かが「ありがとう」と言い、別の誰かが「先にどうぞ」と返した。小さな優しさは、許可証がなくても動く。志音はそれを見て、胸の奥が温かくなった。温かさが、勝手に言葉になりそうで、また水を飲んだ。


  印章窓口は、さらに紙が多かった。判子のような石印が、机の上で列を作っている。押す人の手が疲れて、石印の角度が少しずつずれている。愛恋が角度を直し、陽海が押しやすいよう紙を差し出し、志音は「はい」「いいえ」だけで答える。華音は列の後ろの人へ水を回す。


  少しずつ、役所の流れが、詰まりから川へ変わる。


  元の窓口へ戻ると、職員は淡々と書類を受け取り、最後の欄へ視線を落とした。

  「掲示場所は……広場は禁止ですか」

  志音が先に聞くと、職員は紙をめくり、淡々と答える。

  「許可が下りても、監察官の立ち会いが要ります。……昇一様の印です」


  志音の背中が冷えた。昨夜の視線。欠けた宝石片。あの人の「書くな」は、ただの規則ではない。何かを守っている。


  窓口の手続きが進むにつれ、待合の空気が少しずつ流れ始めた。椅子の並びが整い、落ちた紙が揃い、呼び出しの声が通る。誰かが「ありがとう」を短く言い、別の誰かが「今は水を飲もう」と返す。


  その時、奥の扉の向こうから、紙が裂ける音がした。


  びり、びり、と、乾いた音が続く。人が息を止める。待合のざわめきが、一斉に細くなる。


  扉が開き、奥の書庫から一人の職員がよろよろ出てきた。両腕に書類束を抱え、目の白い部分が、薄く黄ばんでいる。唇が動き、言葉が落ちる前に、手が動いた。


  「……こんな紙、いらない」


  職員は、申請書の束を掴み、真ん中から破き始めた。

  紙片が、雪みたいに舞った。


  誰かが叫ぶ前に、志音の掌の中で、隠していた札が震えた。光が濁りかけ、指先が重くなる。


  華音が一歩前へ出る。声を張らない。けれど、空気の中心へ届く呼吸で言った。


  「水を、飲んでください。――言葉の順番を、戻します」



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