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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第11話 読書会、はじまり

 夜の黄晶都は、昼より静かだと思っていた。


  広場に来るまでは。石畳の上に灯る看板の光が、人の顔を下から照らし、屋台の湯気が星みたいに散っている。共鳴塔の結晶は遠くで鈍く光り、風が吹くたび、細い鈴のような音がした。


  ナツカは昼間よりも簡素な服で、木箱を二つ並べただけの低い舞台に立っていた。芝居の口上の代わりに、彼女は先に水差しを置く。置いた瞬間、誰かの肩がふっと下がるのが、志音にも見えた。


  「順番を守りましょう。読む人は、まず飲む。聞く人も、飲めるなら飲む。言葉が濁りそうなら、手を上げて」


  言い方が柔らかいのに、背筋が正される。陽海が客の輪の外側を歩き、押し合いになりそうな場所へ、さりげなく体を差し込む。愛恋は手帳を閉じ、右手を少し上げて「言い換え役」を名乗った。華音は志音の横で、水筒を抱えたまま周りを見ている。目は人の顔を見ているのに、耳は空気の向こうを聞いているようだった。


  志音は胸ポケットの札を指で押さえた。書きたくてうずうずしている。自分の言葉が役に立つなら、と考えると同時に、自分の声を聞いてほしい気持ちも混ざる。混ざった瞬間、札の端がじんわり温かくなった。焦って、志音は水筒のふたを開けた。


  「志音さん、今は“飲む”が先です」


  華音の声は小さい。だが小さいまま、志音の胸の中の騒がしさを沈める。志音はひと口飲み、喉をならす。冷たい水が通ると、札の温かさが落ち着いた。


  椅子の横には、空の籠が一つ。ナツカが指先で縁を弾くと、乾いた音が鳴った。


  「札はここへ。読み終えたら戻して。今日の言葉は、今日のうちに片付けます」


  片付ける、という言い方が不思議と気持ちいい。志音は思わず「それ、いいですね」と言いかけ、慌てて飲みかけの水を喉に流し込んだ。褒め言葉が先走ると、札が勝手に光りそうで怖い。


  陽海が籠を持ち上げ、輪の外へ一歩だけ運ぶ。通る人の肘が当たりにくい位置。彼は説明をせず、ただ置き直した。誰も文句を言わない。文句を言う前に、道が整っているからだ。


  広場の真ん中に、木箱の椅子が六つ置かれた。座るのは強制ではない。けれど、腰を落ち着けた人から順に、呼吸が揃う。ナツカは笑顔のまま、眉だけで「最初は誰?」と聞いた。


  年配の女性が一歩前へ出た。両手に札を持っている。震えているのに、握りしめている。志音はその手に覚えがあった。昼の屋台で、背中を丸めて小銭を数えていた人だ。


  「……私は、孫に、手紙を書けなくなりました」


  言った瞬間、周囲の空気が少し硬くなる。硬くなる前に、愛恋が一歩半だけ前へ出た。頭を下げ、短く言った。


  「今の文は、ここまでで十分です。続きを書かなくても、今夜は大丈夫です」


  女性は驚いた顔で愛恋を見て、それから胸を押さえた。涙は落ちない。けれど、目の奥がほどけるのが見えた。


  ナツカはうなずき、別の札を指さした。


  「もし、読めるなら一行だけ。孫が笑う瞬間を、思い出せる一行を」


  女性は水差しの水を飲み、札を掲げた。紙が震え、光が揺れる。


  『おまえの手は、熱くて、私の冬がほどけた。』


  読む声が広場に落ちると、誰かが短く笑った。笑いは嘲りではなく、思い出に触れたときの、くすぐったい笑いだった。次の瞬間、笑った本人が慌てて目をこすった。涙が勝手に出ている。


  次に、粉の匂いがする男が札を掲げた。指の腹に小麦粉が残っている。屋台の焼き窯を任されているらしい。


  「看板の文が、刺さるって言われてな。刺さらないように、直したい」


  男は水を飲み、札を読んだ。


  『焦げたのは、私の火加減。君の舌じゃない。』


  広場のあちこちで、ふっと笑いが漏れた。笑った後に、皆が自分の口元を確かめる。笑いが誰かを傷つけていないか、確かめる癖が、今夜はここに生えている。


  男は照れたのか、耳まで赤くして頭を掻いた。そこへ陽海が屋台の方へ目をやる。先ほど揉めかけていた客が、焦げた部分を指で外し、何も言わずに一口食べた。男はその様子を見て、胸の前で拳を小さく握った。


  志音は息をのんだ。短いのに、温度がある。こういう文を、志音は書きたい。そう思った時、隣で華音が水筒を志音の膝にそっと置いた。置き方は優しいのに、意味ははっきりしている。落ち着け、順番を守れ。


  読書会は、次々と続いた。働き口を失いかけた若者が、契約の一文を読み上げる。夫婦が、言い直しの練習をする。陽海が口を挟まず、背中を見せるだけで、場の角が丸くなる。愛恋は「二つ出します」と言って、言い換えを差し出す。華音は、黙ったまま水差しの位置を少しずらす。争いの芽が近づきそうになると、彼女は水を近づけ、言葉を遠ざけた。


  そして、ナツカが志音へ視線を投げた。眉がすっと上がる。


  ――あなたの番。


  志音は立ち上がりかけて、座り直した。胸の中が先に走ったのを、自分で抑える。深呼吸。水。もう一口飲む。周りの目が集まっても、言葉の先に飛びつかない。


  「……おすすめの一行、です」


  志音は札に短く書いた。書きながら、自分のことを語り出しそうになるのを噛み止める。書くのは“自分の評価”ではなく、“誰かの暮らし”へ渡す言葉。


  『謝れない夜は、鍋の火を弱くして、隣に水を置け。』


  読んだ瞬間、広場が一度だけ、しんとした。しんとしたまま、誰かが「それ、うちでもやる」と言った。別の誰かが笑った。「鍋の火が強すぎたら、言葉も強くなるもんな」。笑いが広がり、今度は誰かが泣いた。泣いた人の肩を、隣の人が叩かない。叩く代わりに、水差しを少し寄せた。


  志音は、胸の奥が熱くなり、同時に怖くなった。自分の文が、人を動かしている。動かすのは気持ちいい。けれど、間違えたら刃になる。志音は札をしまい、両手を見せた。もう書かない、という合図だ。


  そのとき、広場の端の暗がりで、紙が擦れる音がした。


  志音は目を凝らした。灯りの届かない壁際に、男が立っている。黒い外套。胸元に、金具の付いた札挟み。水差しの光が、彼の手の宝石片を一瞬だけ照らした。欠けた黄いろが、指の間で光る。


  昇一だった。昼に見た監察官の硬い背筋。あの人が、ここを見ている。


  昇一は人の輪へ近づかず、ただ見ている。視線が札から札へ移り、最後に志音へ止まる。志音の喉が乾いた。水筒を持ち上げて飲む。飲みながら、昇一の目が「書くな」と言っているのが分かった。


  読書会が終わりに近づくころ、ナツカは最後の一言だけを短く告げた。


  「明日も、同じ場所で。来られる人だけでいい」


  人々は散っていく。さっきまで熱かった空気が、夜の冷たさへ戻る。戻るのに、戻りきらない温度が残っている。志音はその残り火を胸に抱えたまま、華音の隣を歩いた。


  帰り道、いつもなら口喧嘩が起きそうな角で、二人の男が立ち止まった。片方が「悪かった」と言い、もう片方が「今は水を飲もう」と返した。志音は思わず笑い、すぐに口を押さえた。笑いが零れた瞬間、札が反応しそうで怖い。


  翌朝、陽海が門の見回りから戻ってきて、息を弾ませた。


  「今朝、広場の近くでの揉め事が、いつもより少なかった。……気のせいじゃない」


  華音は頷き、志音へ水筒を差し出した。志音は受け取り、飲む。昨日の夜の残り火が、胸の底で静かに揺れた。


  だが、その静けさは長く続かなかった。


  昼前、宿の戸口に硬いノックが響いた。扉を開けると、昇一が立っていた。外套の裾に、夜の埃が残っている。眠っていない目で、志音の胸元を見た。


  「許可なく書くな」


  短い通告だった。言い逃れの余地がない。志音は反射で自分の口を開きかけ、華音が水筒のふたを指で押さえた。


  まず飲め、と。


  志音は飲み、喉を鳴らし、昇一の目を真っ直ぐ見た。



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