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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第10話 自分語りの落とし穴

 洞の湿気が、ふっと戻った。


  志音は、指先を引いた。冷たさが離れない。掌の中で札がまだ震え、黄いろい滲みが縁をなぞっている。胸の奥に、紙と埃の匂いが残っていた。


  息をしようとして、喉が鳴った。地球の本棚の前で、息を止めたままだったのだと、今さら気づく。


  「志音さん」


  呼ばれて、顔を上げる。灯り札の光の下で、華音が水筒のふたを開けていた。差し出された口は、小さい。飲み込める量だけを示すみたいに。


  志音は、受け取って一口飲んだ。冷たい水が喉を通り、さっき見た背表紙の色が、少しだけ遠のく。遠のくのに、胸はやけに痛い。戻りたいのか、戻りたくないのか、自分でも分からない痛みだ。


  陽海が盾の縁を叩かないように指で押さえ、志音の視界の端へ入ってきた。無言で、親指を立てる。大丈夫か、と聞いている。


  志音は、返事の代わりに笑ってしまいそうになり、慌てて唇を結んだ。笑いが濁れば、ここでは刃になる。


  昇一が結晶を見上げたまま言った。

  「そこまでだ。地上へ戻る。……あんたの札、今は触るな」


  命令の形なのに、声が少しだけ低い。志音は頷き、指を握り込んだ。握ると、札の角が掌に当たり、現実の硬さが戻ってくる。


  黄晶洞の階段を上がる間、陽海は先頭で盾を横にし、すれ違う人の肩がぶつからない距離を作った。愛恋は古文書を抱え、足元の石の欠けを一つずつ避ける。華音は最後尾で、志音の呼吸が乱れない速度を選び続ける。速すぎない。遅すぎない。返事のない気遣いが、背中に当たった。


  階段の途中で、志音の膝が一度だけ抜けた。視界が黄いろく揺れる。陽海が盾を床へ立て、志音の肩をそっと押し返した。力ではなく、倒れる方向を変える押し方だ。


  「……助かります」


  志音が言うと、愛恋が即座に口を挟まなかった。代わりに、少しだけ首を傾げる。言葉を選んでいる顔だ。

  「“助かりました”のほうが、今の体には優しいと思います」


  志音は「助かりました」と言い直した。たった一文字で、胸の中の突っ張りがほどけるのが分かる。言い換えは、薬にもなる。


  地上へ出ると、夜の空気が頬に刺さった。共鳴塔の先端は薄く光り、塔の周りの黄いろい輪が、風に揺れている。屋台は片づけの最中で、炭の匂いと、濡れた木箱の匂いが混ざっていた。


  「……見えたんです」


  志音は歩きながら、声が勝手に出た。止めたいのに、舌が先に動く。

  「結晶に触れた瞬間、ぼくの部屋の本棚が、目の前に。背表紙が並んでて、段ボールの匂いがして。新刊を買って帰った日に、紙袋を開けるときの――」


  言い始めると、細部が溢れてくる。自分のことを語って、安心したい。そうしないと、今の痛みが形にならない。言葉にすれば、棚は消えない気がする。


  志音は、気づけば自分の歩く場所まで説明していた。

  「棚の右端が、短編集で。左端が、長いの。真ん中は、途中で読むのをやめたのを、わざと逆さに置いて――いや、逆さはよくないか。ええと、目印で――」


  陽海が口の端を引きつらせ、笑いを飲み込んだ。愛恋はすっと視線を落とし、代わりに歩く音を整える。笑わない。笑わせない。今は、言葉の温度を上げすぎない時間だと分かっている。


  昇一は途中の分かれ道で足を止めた。詰所へ戻る方角だ。胸元の欠けた宝石片が、衣の下で小さく鳴る。

  「家へ戻れ。今夜は書くな。……読んだ感想でも、誰かを刺すことがある」


  志音は言い返しかけて、飲み込んだ。昇一が“刺す”と言った瞬間、洞で見たヒビの線が頭をよぎった。刺さった言葉は、ヒビを走る。


  昇一は志音を見ずに、華音へ言った。

  「調律札は……使いすぎるな」


  それだけ言って、闇へ溶けた。背中が遠ざかるほど、都の空気が少しだけ軽くなる。命令が減った分、言葉を選ぶ責任が増える。


  華音は、隣を歩きながら頷かなかった。否定もしない。ただ、ふたたび水筒のふたを締め、志音の口元だけを見る。


  志音は、さらに続けた。

  「それで、ぼく、そこで暮らしてたんです。毎晩、読んで、短い感想を書いて。誰かが“これ読んでよかった”って言ってくれると、嬉しくて――」


  声が弾みそうになり、志音は慌てて抑えた。弾む言葉は、褒め殺しになりやすい。けれど、止めるのも怖い。止めたら、背表紙が消えてしまう気がした。


  「……華音さん、聞いてます?」


  呼びかけて、ようやく気づく。華音は返事をしない。目は前を見ているのに、焦点が少しだけ遠い。街灯の黄いろの中で、まつ毛の影が長く落ちていた。肩の線が、いつもより細く見えた。


  志音は足を緩めた。石畳の音が、一つだけ遅れる。


  「華音さん?」


  もう一度呼ぶと、華音の足がふらついた。踏み出しかけたつま先が、石の欠けに引っかかる。志音は反射で腕を伸ばし、華音の肘を支えた。


  指先に、体温が伝わる。驚くほど軽い。息が浅く、胸が小さく上下している。志音は、支えた腕を強くしないように気をつけた。強く掴めば、華音の言葉が逃げ道を探して、余計に濁る。


  「……大丈夫です」


  華音はそう言って、口角だけを上げた。笑顔の形なのに、声が細い。志音の腕からすっと離れようとする動きが、逆に“触れられたくない”と告げていた。


  志音は、手を引っ込めた。代わりに、自分の掌を上に向けて見せる。何もしない合図。昨夜、愛恋が言ったのと同じだ。


  「……今、ぼく、しゃべりすぎました」


  言うと、喉の奥が熱くなった。いつもは、しゃべりすぎたあとに言い訳を足す。今日は、足したくない。足せば濁ると、指先が知っている。


  華音は一拍遅れて、小さく息を吐いた。吐いた息が白く、街灯の黄いろの下でほどける。

  「志音さんの話は……嫌ではないです。けれど、今は……」


  語尾が揺れた。華音は、揺れを笑いで覆い隠すように、唇を噛んでから笑った。

  「今は、足元が冷たいので。うまく息が、揃わないだけです」


  志音は、すぐに分かった。言い換えだ。自分を守るための言い換え。愛恋の丁寧なものとは違い、華音の言い換えは、相手を安心させるために自分を削る。


  志音は質問を飲み込んだ。「どこが痛い?」と聞けば、華音は答えを用意しようとして、さらに息が乱れるかもしれない。


  だから志音は、ひとつだけ選んだ。言葉より先に、動きを変える。

  「じゃあ、歩く速さ、合わせます。……ぼくの話は、あとにします」


  “やめる”ではなく、“あとにする”。昨日、愛恋が教えた言い回しが、舌の上でちょうど収まった。華音の瞳が、ほんの少しだけ志音の方へ戻る。


  志音は、華音の歩幅に自分の踵を合わせた。石畳の音が、二つ、同じ間隔になる。呼吸も、知らないうちに揃っていく。


  しばらく沈黙が続いた。沈黙は、怖くなかった。怖いのは、黙った隙間に、勝手な言葉が入り込むことだ。志音はそれを防ぐように耳を澄ませた。風の音。屋台の木箱を重ねる音。遠い笑い声。人の生活の音。


  華音の指先が、時々、水筒の側面を撫でる。ふたの位置を確かめるように。志音は、その動きを見て、胸の中が静かになった。言葉より先に、手が言っている。“水がある。だから、急がなくていい”。


  角を曲がったところで、広場の灯りが見えた。昼の喧騒が引いたはずなのに、人が集まっている。輪の中心に、赤い外套。


  ナツカだ。


  舞台は組まれていない。代わりに、木箱が一つ。灯り札の明かりの下で、ナツカは紙を一枚掲げていた。紙の角が風で揺れ、観客が顔を近づける。近づきすぎないように、ナツカが足の位置を指で示す。指示は短い。言葉は少ない。


  「今夜、短い文を持ち寄りませんか。読むだけでもいい。声が出せない人は、手で合図を。水は、ここに」


  ナツカが木箱の上に、水差しを置く。昼と同じ道具だ。けれど夜の水差しは、舞台よりも現実に近い。喉を潤すための道具であり、言葉の順番を守るための道具。


  人々がざわめいた。誰かが「許可は」と言いかけ、別の誰かが「今は喧嘩をしたくない」と言い直す。言い直した瞬間、輪の角が少し丸くなる。


  志音は足を止めた。胸の奥で、結晶の冷たさと本棚の匂いがぶつかり、火花みたいに痛む。戻る道があるなら、掴みたくなる。掴めば、ここで出会った手が離れる気がする。


  華音が、志音の袖をつまんだ。引っ張らない。触れているだけだ。志音は、その小さな圧で、今夜は“聞く側”でいられる気がした。


  ナツカがこちらを見た。笑顔のまま、眉だけが動く。


  ――来る?


  志音は、答えを口にする前に、水筒のふたを開けた。まず飲む。言葉を置く順番を守るために。


  そして、志音は一歩、輪の中へ踏み出した。



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