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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第1話 転生先は書評の都

 冷えた石畳が、頬にじかに当たっていた。


  志音は、目を開けた。鼻の先に、黄いろい光が滲む。街灯の火……ではない。空気そのものが、淡く色づいている。吐く息は白く、口の中がからからに乾いていた。


  ここは、どこだ。


  身を起こすと、背中に湿った布の感触が貼りつく。裏路地の壁は、黄みを帯びた石で組まれ、角には氷が薄く張っている。冬の冷たさが、遠慮なく服の隙間を探り当ててきた。


  志音は、コートの胸を探る癖でスマホを探し、指先で空振りした。代わりに出てきたのは、見慣れない薄い紙だ。紙というより、光る膜。掌に吸いつくように乗り、角度を変えるたび、淡い光が波打った。


  「……紙? いや、札?」


  言葉にした瞬間、札の表面に、細い線が浮かぶ。自分の声に反応したみたいに。


  志音は、息をのんだ。ひとまず生きている。寒さで歯が鳴りそうだが、指は動く。足も動く。なら、次は腹だ。


  ぐう、と情けない音が鳴った。


  志音は腹を押さえて笑いそうになり、すぐに笑いを引っ込めた。笑うには、寒い。笑うには、空っぽだ。


  路地の向こうが明るい。人の声。馬のいななき。金属が触れ合う音。志音は札を握ったまま、壁伝いに進んだ。


  路地を抜けた瞬間、視界が広がった。


  大通り。石畳。屋根の形は尖り、店の看板はどれも文字で飾られている。いや、文字だけじゃない。文字が、淡い光を帯びている。書いた言葉が、街の灯りになっている……そんな感じがした。


  そして遠く、都の中心に、巨大な黄いろの結晶がそびえていた。塔のように積まれた建物の上に、さらに結晶が鎮座している。太い柱のように空へ伸び、薄い雲を黄いろく染めていた。


  「……黄晶都、ってやつか?」


  知らない地名なのに、口から出た。札が、掌の中で微かに温かくなる。


  志音の足は勝手に門へ向かった。城壁のような外壁。門番が二人、槍を持ち、通行人の荷をざっと見ている。行列の端に立ち、志音は首を伸ばした。


  門番の片方が志音を見つけ、眉を動かした。目線が、志音の服の縫い目をなぞる。次に、志音の顔。最後に、志音の手。


  「身分札は?」


  言葉はわかった。なのに、志音の頭は追いつかない。


  「えっと……今、持ってなくて」


  志音がそう言いながら、つい昔の癖で、話の前置きを足そうとした。

  『地球では、ぼく、「おすすめ小説をレビューしてみる。」なんて看板を掲げて――』と言いかけて、腹の音が勝手に続きを遮った。


  門番の目が細くなる。


  「持ってないなら、引き返せ」


  「いや、ほんとに、ちょっとだけ……今日、起きたらここで――」


  志音は説明を重ねた。重ねるほど、門番の肩が上がる。声の勢いが増す。通行人が、視線を避けるように歩幅を速めた。


  まずい。言葉が、刃の形になりかけている。


  志音は口を閉じた。胸のあたりが痛い。別に殴られたわけでもないのに。自分の言葉が空回りして、人の顔色が変わる、その瞬間の痛みだ。


  門番が槍の石突きを鳴らした。


  「出ろ。都の者を困らせるな」


  志音は後ずさり、石畳で足を滑らせた。雪解けの水が、薄く路面に残っている。背中に冷たい風が刺さった。


  その時、行列の中から、子どもの声が飛んだ。


  「お腹、鳴った!」


  笑い声が起きる。だが、笑いはすぐに咳払いに変わる。誰かが「静かに」と囁く。門番の険しい顔が、さらに硬くなる。


  志音は、恥ずかしさで耳まで熱くなった。札を握り直し、門から離れた。


  ――まずは、食べ物だ。


  門の外にも店はあった。だが、店先の看板が、都の中よりも暗い。書かれた言葉の光が弱い。寒さのせいか、客の入りも少ない。


  志音は一軒の宿屋の前で立ち止まった。木の扉に、短い文が彫られている。

  『旅人よ、眠りで言葉を整えよ』


  整える。言葉を。宿屋の看板が、そう言う。


  志音は喉を鳴らした。勇気じゃない。空腹が背中を押した。


  扉を開けると、暖かい空気が顔に当たった。薪の匂い。煮込みの匂い。客の笑い声。志音は、その匂いだけで膝が抜けそうになった。


  カウンターにいる女将が、志音を見て手を止めた。視線が、志音の手元の札に吸い寄せられる。


  「お客さん。泊まる?」


  志音は頷き、財布の代わりに、両手を見た。何もない。札だけがある。


  「……お金が、ないです」


  正直に言うと、女将の眉が一瞬だけ上がった。次の瞬間、ため息が落ちた。


  「じゃあ、帰りな。うちは――」


  その言葉の途中で、志音の掌の札が、ふわりと浮いた。


  湯気の上を泳ぐみたいに、札が宙に漂い、志音の目の前で止まった。札の表面に、文字が滲む。

  黒い線ではない。光そのものが、文字の形を取っていた。


  志音は、思わず声を出した。


  「……書けってことか」


  札は、ひんやりとした重みを志音の掌に戻した。まるで「早く」と急かすように。


  志音は深呼吸し、女将の目を見た。さっき門番に向けた言葉の山を思い出し、舌の先で、余計な比喩を飲み込んだ。


  ここは、短く。正直に。誇張なしで。


  志音は札に指を添え、言葉を落とした。


  『湯気の匂いだけで、泣きそうになった。あたたかい。ここなら眠れる。』


  書いたつもりで、実際には、指先で空をなぞっただけに見えた。だが札が、すうっと明るくなる。文字が定着し、淡い光が広がった。


  その光が、カウンターの木目に落ち、宿屋の空気が少しやわらぐ。客の笑い声が、ざわつきから、丸い笑いに変わる。


  女将が、札を見つめたまま、口角をほんの少し上げた。


  「……あんた。変なやつだね」


  「よく言われます。……あ、今のは、余計でした」


  志音は慌てて口を押さえた。女将は肩を揺らして笑い、台帳を引き寄せた。


  「一晩。食事は、残りものになるよ。いいかい?」


  「それで十分です」


  志音は頭を下げた。腹の底がじんと熱くなり、目が滲む。食べ物じゃない。拒まれなかったことが、染みた。


  女将が札を返しながら言った。


  「その札、都のもんだ。勝手に光らせると、面倒が来る。……あんた、今日来た顔だね」


  「今日、というか……起きたらここでした」


  また自分語りが顔を出す。志音は一歩引き、言い直した。


  「ここで生きていくために、働き口を探したいです」


  女将は顎で奥を示した。小さな部屋。粗い毛布。木の机。窓の外には、黄いろい光が漂っている。


  「まず寝な。顔色が雪みたいだ。起きたら、詰所に行きな。札のことを知ってる人間がいる」


  詰所。門番の顔がよぎり、志音の喉が鳴った。


  「……怒られませんか」


  「怒られるさ。けど、怒られながら生きてる人間もいる」


  女将は言い切り、鍋の蓋を開けた。湯気が、志音の顔に立ちのぼる。香りが胸を満たす。


  志音はその夜、残りものの煮込みを二杯おかわりし、毛布にくるまって眠った。


  ――翌朝。


  窓の外は、昨日よりも黄いろが濃い。志音は起き上がり、札を確かめる。昨夜の短い文が、まだ光っていた。


  外へ出ると、門の向こうから人が押し寄せていた。都の中へ入る者、出る者。言葉の看板が朝日に揺れ、街が目を覚ます。


  志音は、宿屋の女将に教えられた詰所へ向かった。道の途中で、誰かが怒鳴り声を上げているのが聞こえた。売り言葉に買い言葉が重なり、声が硬くなる。


  その瞬間、都の中心の共鳴塔が、遠くで一度だけ脈打った。


  胸の札が、かすかに震えた。


  志音は足を止めた。自分の心臓の鼓動と、塔の鼓動が、わずかに重なる。寒さとは違う、薄い痛みが胸に刺さる。


  「……この世界で生き抜いてやる」


  志音は、誰にも聞こえない声で言った。言った瞬間、札の光が、ほんの少しだけ強くなった。



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