◆第5話 地獄の闘神は敗北に飢える◆
守護者は四人。
牙は形になりつつあるが――まだ足りない。
「魔王軍が“軍”として動くなら、絶対に必要な存在がいます」
玉座の下で、ノアが告げた。
魔眼の賢者は、塔から城に住処を移してからというもの、
誰よりもよく城内を歩き回り、観察している。
「前衛。その頂点。
“負けない者”ではなく――“負けたがる者”が必要です」
「負けたがる?」
リアナが小さく首をかしげた。
「はい。
勝利だけを求める者は、いずれどこかで止まる。
けれど、“敗北すら快楽に変える者”は、限界を知らない」
僕は頷く。
「……地獄の闘神、メルカドだな」
その名を出した瞬間、空気がわずかに熱を帯びた。
ヴィオラが口元を吊り上げ、ラザロスが目を細める。
「おもしろそうな名前ね」
「どうせ俺より死なないんだろう」
セレネはくすりと笑った。
「戦場で泣き叫ぶ者が増えるわけですね。……素敵です」
リアナは不安そうに僕を見上げる。
「魔王さま……本当に、その闘神と戦うつもりですか?」
「当然だ。
あいつの欲望は、“自分より強いものに叩き伏せられること”だ。
――なら、僕がやるしかない」
僕が立ち上がると、四人の守護者がそれぞれの形で頭を垂れた。
「行こう。地獄の闘技場へ」
◇◇◇
地獄の闘技場。
人間の王国から捨てられた罪人、敗軍の兵、魔物、亜人。
あらゆる種族が“最後の戦い”を求めて落ちてくる場所。
その中心で、ただひとり立ち続けた男がいた。
「おい、来たぞ」
「また誰か、挑戦者か?」
観客席を埋めるのは、戦いに飢えた亡者たち。
血と砂の匂い。
汗と鉄と叫びが染み込んだ空気。
闘技場の中央に立つ男は、鎧の代わりに古い布切れを身につけ、
肩からは無数の傷が刻まれている。
だが、どの傷も“致命傷”になり損ねたものばかりだった。
「……また弱そうなのが来たな」
俺たちを見上げて、男は笑った。
粗い髭、鋭い目つき。
顔そのものは人間だ。
だが、その背後に漂う気配は人間の枠をとうに外れている。
「地獄の闘神、メルカド」
俺が名を呼ぶと、男の笑みがわずかに深くなる。
「お。覚えてる奴がいるとはな。
ここに落ちてきてから、誰も俺の名なんざ呼ばなかった」
「おまえが殺しすぎたからだろう」
「そうとも言うな」
メルカドは肩を回し、首を鳴らした。
「で? お前らはなんだ? 見物人か? それとも死ににきたのか?」
リアナが俺の袖を掴む。
その手は震えているのに、離そうとしない。
「魔王さま……」
「見ていろ」
俺は彼女の手を一度握り返し、そのまま闘技場の砂地へと降り立った。
周囲がざわめく。
ヴィオラが観客席の影からこちらを見下ろし、
ラザロスは柵にもたれ、
ノアは目を細め、
セレネは観客たちの感情を味見するかのようにくすくす笑っている。
メルカドは俺をひと目見て、鼻を鳴らした。
「おい、アンタ。名前は?」
「欲望の魔王だ」
「ははっ。いいじゃねえか。
“勇者”よりよっぽど性に合う。
けどな――魔王だろうが勇者だろうが、俺にとっちゃ同じだ」
メルカドの目が獲物を捉える獣のそれに変わる。
「“俺を本気で殴ってくれる奴”かどうか。それだけでいい」
俺は笑った。
「殴ってほしいのか?」
「ああ、死ぬほどな」
その言葉に、ラザロスが小さく噴き出した。
「いい趣味だ」
メルカドは拳を構え、俺に告げる。
「ここに来た奴はみんな、俺を殺そうとした。
俺を倒して名を上げるためにな。
だけど――“俺を叩き伏せて満足させる奴”なんて、ひとりもいなかった」
砂が鳴る。
空気が震える。
メルカドが、一歩踏み込んだだけで観客席がどよめいた。
「期待してるぜ、魔王。
俺を負かしてくれ。
そうじゃなきゃ――この拳で、お前の世界を全部壊す」
宣戦布告。
だが、その奥にあるのは純度の高い欲望。
――負けたい。
――だが、負けさせられる価値のある相手じゃなきゃ意味がない。
「いい目だ、メルカド」
俺は軽く手を上げる。
「力を貸せ。
十人の守護者のひとりとして、僕の軍に入れ」
「はっ。口だけなら、誰でも言える」
メルカドの足が地を蹴った。
次の瞬間、視界が砂と拳で染まる。
◇◇◇
重い。
拳がぶつかる瞬間、骨が軋む音がした。
普通の人間なら、腕ごと吹き飛んでいるだろう。
闘神の一撃は、単純な筋力だけではない。
戦いへの渇望、敗北への憧憬、そのすべてを拳に叩き込んでいる。
だが――遅い。
「悪くない」
俺は拳を受け止め、そのまま指を絡めて握り潰すように力を込めた。
ごきり、と嫌な音がした。
メルカドの腕の骨が、逆方向に曲がる。
「――っははははは!!」
悲鳴ではなく、笑い声が響いた。
「いいッ! そうだよ、こうじゃなきゃなあ!!」
自分の腕が折れているというのに、メルカドは嬉しそうだ。
折れた腕を無理やり振り回し、もう片方の拳で殴りかかってくる。
俺はそれを避けず、胸で受けた。
衝撃で足元の砂が爆ぜる。
リアナの悲鳴がかすかに聞こえた。
「魔王さま!」
だが、その心配は必要ない。
「その程度か?」
胸を打った拳を、そのまま握り込む。
魔力を流し込み、一瞬で骨を砕く。
両腕が折れる。
それでもメルカドは膝をつかない。
「クッ……は、はは……
なんだよ、お前……
力も、魔力も、格が違いすぎる……!」
「それを知りに来たんだろう?」
俺は一歩、前に出る。
メルカドは本能で後退り――しようとして、笑った。
「……そうだな。
“逃げたら負け”って、誰かが言ってた」
両腕が折れたまま、メルカドは頭突きで突っ込んでくる。
愚かで、まっすぐで、滑稽で――美しい。
「いい愚かさだ」
俺はその頭を平手で受け止め、地面へ叩きつけた。
砂が爆ぜ、土が割れ、観客席が揺れる。
地面に大きな亀裂が走り、そこから魔王の魔力が滲み出ていく。
メルカドの身体は地面にめり込みながらも、まだ笑っていた。
「なぁ、魔王……
こんな負け方、初めてだ……」
口から血を吐きながら、それでも目は輝いている。
「殺すのか?」
俺が問うと、メルカドは首を振った。
「いや……殺してほしいなんて、一言も言ってねえ。
――俺は、“何度でも負けさせてくれる相手”が欲しかったんだ」
周囲が静まり返る。
負けたい。
ただ、それだけ。
勝利に飽き、敗北に飢える闘神。
「魔王」
地面に伏せたまま、メルカドは笑う。
「俺を守護者にしろ。
この身が砕け散るまで、何度でもお前に叩き伏せられる立場にしろ。
そうじゃなきゃ、俺はきっと――また世界をぶっ壊しちまう」
欲望の告白。
俺は手を伸ばし、メルカドの頭を掴んだ。
そのまま引き起こし、立たせる。
「いいだろう、メルカド。
おまえは今日から、十人の守護者のひとり――“地獄の闘神”だ」
契約陣が足元に広がる。
ラザロスの不死の紋、ヴィオラの狩猟紋、ノアの魔眼紋、セレネの涙紋。
それらとはまた違う、荒々しい戦いの文様がメルカドの身体に刻まれていく。
折れた両腕の骨が、音を立てて元に戻っていく。
だが、それは治癒ではない。
“戦うために立たせる”ための呪いだ。
「契約だ。
おまえは、戦い続ける。
勝ち続け、負け続ける。
その敗北はすべて、僕のためのものだ」
メルカドは息を荒げながら、笑った。
「最高だ……
負けることに意味があるなんて、聞いたことねえ」
「僕が与える。
おまえの敗北に、価値と意味を。
世界が滅ぶその日まで、僕のために戦え。
――守護者メルカド」
契約が完了した瞬間、観客席が揺れた。
誰もが理解した。
この男は、もう地獄の闘技場だけの闘神ではない。
欲望の魔王の軍勢。
その、最前線に立つ“狂戦士”だ。
◇◇◇
城へ戻る途中、リアナが俺の隣でそっと問う。
「魔王さま……怖くなかったのですか?
闘神を相手に、わざわざ殴り合うなんて……」
「怖くなかったと言えば嘘になるな」
正直に答えると、リアナが目を丸くした。
「でも――楽しかった」
「……え?」
「こっちが本気を出さなければ、相手の欲望は満たされない。
それは、おまえも同じだろう?」
リアナの頬が赤く染まる。
セレネがその表情を見逃さず、くすくすと笑う。
「魔王さまは本当にひどい方ですね。
誰に対しても、“本気”を与えてあげる」
ノアは静かに呟いた。
「愚かさを恐れない王。
だからこそ、賢さも、狂気も、涙も、戦いも――全部集まってくる」
ヴィオラは肩を鳴らし、メルカドの背中をドンと叩いた。
「いいじゃない、闘神。
これからは、あたしとも遊んでよ」
「おう。負けっぱなしは性に合わねえ。
負けるのは魔王にだけで十分だ」
ラザロスは空を見上げる。
「死ねない奴と、負けたがる奴……。ほんと、ろくでもない軍だな」
それでも、誰も笑って否定しない。
十人の守護者――五人目。
軍の“核”が、半分揃った。
さて――次は。
「……人間の裏切り者、か」
聖王国の宰相。
表では“正義の代弁者”、裏では“魔王と取引する者”。
欲望の魔王の軍は、
いよいよ“世界そのもの”へ手を伸ばし始める。




