◆第3話 魔眼の賢者は“愚か”でありたい◆
十人の守護者。
そのうち、すでに二人が揃った。
血の狩猟姫ヴィオラ。
不死の実験体ラザロス。
牙と盾は手に入った。
だが――“頭脳”が足りない。
世界を欲望で染め上げるには、力だけでは足りない。
欲望は理不尽で、破滅的で、だからこそ甘い。
だが、それを本当に世界に広げるには、冷徹な知性が必要だ。
「次は、賢者だな」
玉座の間で呟くと、リアナがこちらを見上げた。
赤い衣を揺らしながら、心配そうに眉を寄せる。
「魔王さま……あの“魔眼の賢者”のところへ行くのですか?」
「知っているのか?」
「はい。教会でも何度も名前を聞きました。
“未来を視てしまった男”――『時読みのノア』。
神託よりも正確に未来を言い当てる、と……」
「へえ、そいつはいい」
ヴィオラが爪を眺めながら笑った。
「未来がわかる奴がいるなら、あたしたちの邪魔もぜんぶ視えてるってわけでしょ?
――殺し甲斐があるわね」
「殺さないわ」
リアナがすぐに反応する。
自分でも驚いたように口を押さえたが、ヴィオラは肩をすくめた。
「冗談よ。……半分は」
ラザロスは玉座の柱にもたれかかり、ぼんやりと天井を見ているだけだった。
だが、その瞳は何かを待っている。
“命令”という鎖を。
僕は立ち上がる。
「ノアは、世界の“先”を視る。
そんな男が、まだ人間側にいるのは面倒だ。
――連れてくる。
僕の軍の“頭脳”として」
◇◇◇
魔眼の賢者ノアがいるのは、聖王国の外れ、山頂に立つ古い塔だ。
教会の管理下にはあるが、誰も近づきたがらない。
「……空気が重い」
山道を登りながら、リアナが囁いた。
その横で、ヴィオラは退屈そうに欠伸をする。
「魔族の領域よりマシじゃない? ここ、まだ空が青いもの」
ラザロスは一言も喋らず、ただ足を運ぶ。
死ねない男の足取りは、妙に静かで、妙に淡々としている。
塔の前まで来ると、扉はすでに開いていた。
「……開いてます」
リアナの声には警戒の色がある。
だが、中から既に声が届いた。
「ようこそ、“欲望の魔王”。
君がこの塔の前に立つことは――十年前から視えていた」
十年前。
僕がまだ“魔王”ではなかった頃だ。
人だった頃か、それともなる直前か。
(ほう……)
その一点だけで、僕は少し興味を深めた。
塔の中に足を踏み入れると、そこにはひとりの男がいた。
痩せた身体。
色素の薄い髪。
右目には古びた布が巻かれ、左目だけがこちらを見ている。
だがその左目は――まるで何も見ていないようでもあり、すべてを見通しているようでもあった。
「はじめまして、魔王」
男は椅子に座ったまま、静かに頭を下げた。
「“時読みのノア”と申します。
君がここへ来る未来は、ずいぶん前から視えていた」
「そうか。十年前からだと聞いたが」
「ええ。君が“魔王”として目覚める前。
十七歳の夜――“世界を欲望で塗り替える”という願いを抱いた瞬間から」
リアナが息を呑む。
ヴィオラが眉をひそめ、ラザロスがわずかに目を細める。
僕は笑った。
「やはり、興味深い目を持っているようだ」
「恐れ多い」
ノアは小さく笑う。
だが、その声には疲労と諦めが混ざっていた。
「未来が視えるというのは、便利なようでいて――本当は、とても退屈なのですよ」
「退屈?」
「ええ。
誰が誰を愛し、誰が誰を裏切り、どの国が滅び、どの国が栄えるか。
誰が死に、誰が生き延び、誰が笑い、誰が泣き叫ぶか。
……全部、“視えてしまう”。
少し先は霧のようでも、最終的な形はほとんど変わらない。
だから私は、長い間ずっと――世界に“飽きていた”」
その言葉に、僕は内心で笑った。
(飽きているのか)
未来に。
決まりきった筋書きに。
救いの形に。
正しさに。
ノアの左目がゆっくりと僕を見る。
「――けれど、ひとつだけ、“視えない未来”がある」
「僕か」
「そう。
君だ、魔王。
“欲望の魔王”だけが、私の魔眼をすり抜ける」
ノアの声は、わずかに震えていた。
恐怖ではない。
期待とも、興奮とも違う。
それは――飢えだ。
「ずっと待っていたのです。
視えない存在が、世界をどこへ連れていくのか。
正しさでも、救いでもなく。
欲望という、どうしようもないものを旗印に掲げる存在が」
リアナが不安そうに僕とノアを見比べる。
ヴィオラはニヤニヤと口元を歪め、ラザロスは黙って聞いている。
僕は一歩、ノアに近づいた。
「では、僕はおまえにとって――退屈な世界に落ちた、一滴の毒か」
「いいえ」
ノアははっきりと首を振った。
「“救い”です」
リアナの肩がびくりと震えた。
「救い、ですって……?」
「はい。
私は“未来が視える”からこそ、ずっと“何も選べなかった”のです。
どの選択も、最終的にどうなるか視えてしまう。
だから私は、いつも“合理的に正しい方”を選んでしまう。
――愚かになれなかった」
愚かになれない賢者。
それは、一見すると称賛されるべき在り方だ。
だが。
「愚かになれない者は、欲望を抱けない。
欲望を抱けない者は、生者の側に立てない」
ノアの声は、どこか憧れるように震えていた。
「魔王。
君は、“愚かになることを恐れない存在”だ」
その言葉に、僕は口角を上げた。
「そうだな。
世界を欲望で染め上げようとするのは、どう考えても“愚か”だ。
だが――だからこそ甘い」
ノアの左目が、熱を帯びる。
「私は知性を持ってしまった。
ゆえに愚かになれない。
だからこそ――
“君の側で愚かになりたい”」
その告白は、まるで愛の告白のようですらあった。
リアナが顔を赤くし、ヴィオラが吹き出し、ラザロスが苦笑する。
「……なあ魔王さま。
あんた、男にもそういう目で見られるのね」
「やかましい。黙っていろ」
僕はヴィオラを片手で黙らせ、ノアを見下ろす。
「ノア。
おまえは、賢者だ。
世界の未来を視て、最も合理的で正しい選択をしてきた。
――だが、僕はそんなものには興味がない」
ノアの瞳が揺れる。
「興味がない?」
「正しさも、合理性も、世界の均衡も。
そのどれもが、欲望より下だ。
僕が欲しいのは、理性の果てで笑う“愚かな決断”だ。
自分が壊れるとわかっていて、それでも手を伸ばす行為。
それこそが――欲望だ」
しん、と塔の中が静まり返る。
ノアの喉が小さく鳴った。
「……つまり、魔王。
君は“愚かになろうとする知性”を、歓迎するのですね?」
「ああ。
だから――ノア」
僕は手を差し出した。
「未来を捨てて、僕に堕ちろ」
一瞬、ノアは何も言わなかった。
だが表情は雄弁だ。
未来を手放す恐怖。
それでも、視えないものを見たいという飢え。
そこに、自分の知性すら投げ出したいという倒錯した欲望。
やがて、ノアはゆっくりと立ち上がった。
布で覆われた右目にそっと指を添える。
「――魔王」
「なんだ」
「片目では、まだ“賢者”のままでいられそうです。
両の目で見てしまえば、私はもう戻れない」
その言葉と共に、ノアは右目を覆う布をほどいた。
露わになった右目は、深い瑠璃色に輝いていた。
瞳の中に、無数の光が瞬く。
「見せてください。
あなたという“視えない未来”を」
ノアがこちらを見た瞬間、塔の空気が爆ぜるように揺れた。
魔眼が、僕を覗き込む。
あらゆる未来を視てきた瞳が、初めて“視えない”という事実にぶつかる。
「……っ、これは……!」
ノアの身体が震えた。
理解不能。
予測不能。
視えない。
「視えない……!」
それは、彼にとって初めての“未知”だった。
恐怖。
興奮。
歓喜。
混ざり合った感情が、ノアの理性を上塗りしていく。
「魔王。
あなたの歩く先だけが、わたしには視えない。
世界が滅ぶ未来も、国々が崩れる未来も、
教会が燃える未来も、人が欲望に溺れる未来も視えるのに――
その中心にいる“あなた”だけが、いつも霧の中だ」
ノアは喘ぐような声を漏らした。
「……堕ちますよ、魔王。
私の知性ごと、愚かさの中へ」
リアナがぎゅっと僕の袖を掴む。
嫉妬と不安と、同じ“堕ちた者”としての理解。
ヴィオラは愉快そうに笑い、ラザロスは静かに目を閉じた。
僕は手を伸ばし、ノアの顎を持ち上げる。
「いい顔だ、ノア。
未来に飽きた賢者が、ようやく愚かになれる表情だ」
塔の床に魔法陣が広がる。
契約の紋が、足元から立ち上る。
「ノア。
おまえは十人の守護者のひとり――“魔眼の賢者”として、僕の軍に仕えろ。
未来を読む目で、世界を僕のために誤らせろ。
正しさを砕き、合理性を捻じ曲げ、
すべてを“欲望にとって都合のいい形”へと導け」
ノアの身体に紋が刻まれていく。
その線は他の二人とは違い、複雑な陣のように皮膚の下で輝いた。
「……これが、魔王との契約……」
「そうだ。
おまえが未来を視る限り、僕の歩む先は曖昧な霧のままだ。
だが、ひとつだけ決まっていることがある」
「ひとつだけ?」
「おまえの最後は、必ず僕のために使われる」
ノアは息を詰まらせ、それから――笑った。
「……やはり、君は最低で、最高だ」
契約は終わった。
“魔眼の賢者”ノア。
十人の守護者、三本目の牙。
塔の外に出ると、空には厚い雲がかかっていた。
だが、その雲の切れ間から、わずかに星が覗く。
「魔王」
後ろからノアが呼びかけてきた。
その声は、もう“賢者”のものではない。
「ひとつだけ、まだ視える未来があります」
「ほう?」
「あなたが世界の頂点に立つ未来です」
リアナが目を見開き、ヴィオラが口笛を吹き、ラザロスが目を伏せる。
「そこから先は――やはり霧の中。
けれど、そこに至るまでの道筋なら、いくらでもねじ曲げられる。
どうか私を、存分に愚かにしてください。
あなたの欲望のために、世界を誤らせ続ける愚者として」
僕は満足げに頷いた。
「いいだろう。
おまえの愚かさが深いほど、僕の欲望は美しくなる」
魔王軍。
血の狩猟姫ヴィオラ。
不死のラザロス。
魔眼の賢者ノア。
――三本目まで揃った牙が、静かに世界へ向けられる。
◇◇◇
次に求めるべきは、“心”を弄ぶ者か。
あるいは“夢”を侵す者か。
残り七人。
そして四天王。
欲望の魔王の軍勢は、まだ始まりに過ぎない。




