◆第25話 勇者は、願ってはいけないことを願う◆
夜更けの魔王国。
静まり返った回廊を、
アリアはひとり歩いていた。
剣は腰にある。
だが、抜くつもりはない。
胸の奥が、落ち着かない。
言葉にならない何かが、
ずっと喉の奥につかえている。
(……今日、見た願い……
どれも……
生きたいっていう欲望だった……)
老兵の願い。
女性の願い。
拒まれた男の願い。
そのすべてが、
“嘘をついていなかった”。
だからこそ、
アリアは気づいてしまった。
(……じゃあ……
私は……?)
勇者としての願い。
国から与えられた使命。
神から託された役割。
――それらを全部取り除いたら。
(……私は……
何を願う……?)
◇◇◇
玉座の間。
魔王は、ひとり書簡を読んでいた。
戦況、外交、移民、救援。
世界は、確実に動いている。
そこへ、
足音。
「……魔王……」
振り返る。
アリアが立っていた。
魔王は、何も言わず、
書簡を置いた。
「……願いの間を……
見てから……
ずっと……
考えていました……」
魔王は、急かさない。
沈黙が、許される空間。
アリアは、拳を握りしめた。
「……私は……
勇者として……
“願う資格”がないと思っていました……」
魔王の目が、わずかに細くなる。
「願いは、資格制じゃない」
アリアは、首を振る。
「……でも……
私が願えば……
誰かが……
代わりに苦しむ気がして……」
声が震える。
「だから……
ずっと……
何も願わないことが……
正義だと……
思ってました……」
魔王は、静かに言った。
「それで、お前は幸せだったか」
アリアは、即答できなかった。
――答えは、もう出ている。
涙が、溢れる。
「……いいえ……」
魔王は、短く言った。
「なら、間違っている」
その言葉は、
責めるためのものではなかった。
事実を、
事実として置いただけ。
◇◇◇
アリアは、震える声で言った。
「……私……
願って……いいんでしょうか……」
「言ってみろ」
魔王は、遮らない。
「叶えるかどうかは、
俺が決める」
その距離感が、
アリアを救った。
叶えるとは言わない。
拒まれる可能性もある。
――だから、嘘がつけない。
アリアは、目を閉じた。
深く、息を吸う。
「……私……
もう……
誰かの“象徴”として……
生きたくない……」
言葉が、零れ落ちる。
「勇者として……
正義として……
希望として……
利用される人生は……
嫌です……」
胸が、焼ける。
(言ってしまった……)
アリアは、唇を噛んだ。
だが――
止まらない。
「……私は……
間違えても……
考えながら……
生きたい……」
涙が、床に落ちる。
「救えない人がいても……
迷っても……
それでも……
自分で選んで……
剣を抜くか……
抜かないか……
決めたい……!」
沈黙。
長い、長い沈黙。
魔王は、しばらくアリアを見つめていた。
そして、
ゆっくりと口を開く。
「それが、お前の願いか」
アリアは、震えながら頷く。
「……はい……」
魔王は、立ち上がった。
玉座の段を降り、
アリアと同じ高さに立つ。
「その願いはな」
一拍。
「世界を救う願いより、ずっと重い」
アリアの心臓が跳ねる。
「自由に考えるということは、
誰のせいにもできないということだ。
失敗も、後悔も、
全部――自分のものになる」
アリアは、逃げなかった。
「……それでも……
私は……
それがいい……」
魔王は、静かに頷いた。
「なら、条件を出す」
アリアは、息を呑む。
「この国で、
“勇者”として扱われることはない。
命令も、使命も、称号もない」
「……はい……」
「その代わり」
魔王の目が、鋭くなる。
「逃げ道も、与えない。
選んだ結果からは、
目を逸らすな」
アリアは、まっすぐに答えた。
「……それで……
構いません……」
魔王は、初めて――
はっきりと笑った。
「……欲望だな」
その言葉は、
侮蔑でも誘惑でもない。
承認だった。
◇◇◇
その夜。
アリアは、自室で剣を見つめていた。
もう、
“抜くべきかどうか”ではない。
(私は……
剣を……
“選ぶ”ために……
持っている……)
その理解が、
彼女を少しだけ、強くした。
窓の外、
黒旗が風に揺れる。
それはもう、
恐怖の象徴ではなかった。
――選択の場。
勇者は、
初めて“自分の願い”を持った。
それは、
堕落でも、裏切りでもない。
人として生きるという、
たったひとつの欲望だった。




