◆第21話 勇者は“敵国”で息をする◆
夜の境界を越えたとき、
アリア・レーンは気づいた。
――追われていない。
魔王の歩調は速くも遅くもない。
逃走でも、連行でもない。
ただ“移動”だ。
(……どうして……誰も追ってこないの……?)
空を見上げると、雲が裂け、星がはっきりと見える。
聖王国の空よりも、妙に澄んでいた。
やがて視界が開ける。
黒い城壁。
だが威圧ではなく、整然とした構造。
門前には兵が立っているが、武器は下げられている。
「魔王さま、お戻りですか」
「客人を連れている。
剣はそのままでいい」
アリアは思わず自分の腰に触れた。
――剣が、ある。
(奪われない……?)
門が開く。
中に広がっていたのは、
アリアの想像していた“魔王城”とはまるで違う光景だった。
明かり。
人の声。
笑い声。
忙しなく行き交う兵と民。
瓦礫も、血の匂いもない。
(……ここが……魔王国……?)
誰も、怯えていない。
誰も、ひれ伏していない。
ただ、それぞれが“やるべきこと”をしている。
魔王は振り返らずに言った。
「ここでは、剣を抜く必要はない。
抜きたくなったら――理由を言え」
アリアは、うまく返事ができなかった。
◇◇◇
案内されたのは、牢ではない。
簡素だが清潔な部屋。
ベッド、机、水、食事。
扉の外には見張りが立っているが、
扉は――内側からも開く。
「……逃げても、いいんですか……?」
アリアの問いに、魔王は淡々と答えた。
「逃げたいならな。
止めはしない」
「……どうして……?」
魔王は、ようやくアリアを見る。
「逃げる自由がない選択に、意味はない」
その言葉に、
アリアの胸がきつく締め付けられた。
(……聖王国では……
“正しい選択”しか許されなかった……)
魔王は続ける。
「お前は勇者だ。
だがここでは――
“答えを探している人間”だ」
そう言って、去ろうとする。
アリアは思わず声を上げた。
「……魔王……!」
魔王は足を止めた。
「……私……
ここで……何をすればいいんですか……?」
一瞬の沈黙。
「見ろ」
魔王は短く答えた。
「聞け。
考えろ。
選べ。
――それだけだ」
扉が静かに閉まった。
◇◇◇
翌朝。
アリアは、外の音で目を覚ました。
剣を持ったまま、部屋を出る。
止める者はいない。
城内を歩くと、
子どもたちが走り、
商人が交渉し、
兵士が訓練している。
(……普通……)
魔族も、人間も、亜人も混じっている。
上下関係はあるが、
恐怖で縛られている様子はない。
そのとき。
「……あ」
小さな声。
振り向くと、
金髪の少女が、アリアを見て立ち止まっていた。
「……あなた……勇者さま……?」
周囲の空気が、少しだけ揺れる。
(気づかれた……)
だが――
少女は、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「……え?」
少女の後ろから、母親らしき女性が現れる。
「この子……聖王国で病気だったんです。
魔王国の医療隊に助けてもらって……」
アリアの喉が詰まる。
「……私は……
まだ……何も……」
「でも、勇者さまが戦っていたから……
魔王さまが来たって、皆言ってます」
少女は笑った。
「勇者さまも……
魔王さまも……
わたしたちを助けてくれた人です」
――同列。
勇者と魔王が。
その認識が、
アリアの心を強く揺さぶった。
◇◇◇
昼。
訓練場で、
ヴィオラとメルカドが模擬戦をしていた。
「お、勇者じゃん」
「剣、抜いてみる?」
冗談のような誘い。
だが目は真剣だ。
「……今は……いいです」
ヴィオラは肩をすくめる。
「そ。
抜きたくなったら、理由を言いな。
ここはそういう国だ」
メルカドが笑う。
「理由なしで殴るのは、うちじゃ流行らねぇ」
(……理由……)
アリアは、自分の剣を見つめた。
◇◇◇
夕方。
城の高台で、
アリアはひとり立っていた。
魔王国の街が一望できる。
恐怖で統治されていない国。
欲望を否定しない国。
それでも秩序がある国。
(……私は……
何を“悪”だと思ってたんだろう……)
そこに、リアナがそっと近づく。
「……勇者さま」
「……あなたは……?」
「リアナです。
魔王さまの……側にいる者です」
言い淀み。
だが、嘘はつかない。
リアナは微笑んだ。
「怖いですか?」
アリアは、正直に答えた。
「……怖いです。
でも……
“間違っている”って、言い切れなくて……」
リアナは頷く。
「……それでいいと思います。
魔王さまも……
“すぐに決めなくていい”って言ってました」
沈黙。
アリアは、ぽつりと呟く。
「……私……
ここで……息ができます……」
リアナの目が、少し潤んだ。
◇◇◇
夜。
アリアの部屋。
机の上には、
聖王国の聖典と、
魔王国の法律書が並んでいる。
正義と欲望。
どちらも、まだ閉じられたまま。
窓の外、
黒旗が静かに揺れていた。
アリアは、剣を抱きしめる。
(私は……
勇者として生きるのか……
それとも……)
答えは、まだ出ない。
だがひとつだけ、確かだった。
――ここでは、考えることを許されている。
それは、
彼女にとって初めて与えられた“自由”だった。




