◆第1話 血の狩猟姫と契約の口づけ◆
玉座の間に、低く震えるようなざわめきが満ちていた。
闇の柱が立ち並ぶ広間、その中央に置かれた黒曜石の玉座。
そこに腰掛けるのは、他でもない――僕だ。
僕の右隣には、赤い衣をまとった一人の少女が立っている。
元・聖女見習い、今は“魔王の花嫁”リアナ。
白かった瞳は今、深い紅を帯びている。
「……静まれ」
軽く指先を動かすと、ざわめきはぴたりと止んだ。
黒鎧の魔族、翼を持つ悪魔、角を生やした美女、獣人の戦士たち。
玉座の間に集められたのは、今のところ僕が支配下に置いている“全戦力”だ。
――しかし、まだ足りない。
世界を“欲望”と“僕色”に染め上げるには、これではまるで物足りない。
この程度ではただの一国を焼き払うのが精々だ。
世界を覆うには、もっと深く、重く、どうしようもないほど濃い“欲望の軍”が必要だ。
「聞け」
僕の声が響く。
その響きは魔力と共鳴し、玉座の間の空気を震わせる。
「今日この日をもって、我が軍を“魔王軍”と名乗る」
どよめきが走る。
リアナが隣で小さく震えながらも、誇らしげに微笑んでいた。
「だが、今のままではまだ“軍”とは呼べぬ。
世界をひれ伏させるには、柱がいる。
十本の牙、十人の守護者。そして、その上に立つ四天王――」
僕は指先を持ち上げ、空中に魔力で図を描く。
闇の光で描かれた陣形が、空中に浮き上がる。
「欲望を理解し、それを力に変え、世界を蝕む者たち。
それが“守護者”だ。
そしてその中でも特に優れた四人を“四天王”とする」
兵たちの視線が一斉に熱を帯びていく。
名誉、権力、魔王に近づく権利――欲望が渦を巻く。
その空気を、僕は心地よく吸い込んだ。
「まずは一人目だ」
僕は立ち上がる。
リアナが僕を見上げる。
「魔王さま……まさか、自ら?」
「当然だ。最初の一本目の牙は、僕自身の手で選びたい」
リアナは唇を噛み、それからゆっくりと頷いた。
嫉妬と誇りと、少しの不安が混じった表情。
「お供いたします。魔王さまの歩むところに、わたしも」
その言葉が心地よかった。
僕は彼女の頭を軽く撫で、そのまま手を取る。
「行こう。――“血の狩猟姫”のところへ」
◇◇◇
最初の守護者候補は、ある辺境の森にいる。
かつて人間の王国が討伐隊を送るほど恐れられた存在。
王都では今でも、子どもを脅かすための言葉として使われている。
――悪い子は“血の狩猟姫”に喰われてしまうよ。
森の入口は、まるで世界から切り取られたように静かだった。
昼間だというのに、樹々の影が異様に濃い。
風さえも気配を潜めている。
「ここ……空気が、ちがう……」
リアナが腕を抱いて身をすくめた。
その仕草はかつての聖女見習いの名残でありながら、
今は赤い衣がその線をくっきりと浮かび上がらせている。
「狩人の領域だ。ここから先は、獲物か獣か、二つに一つ」
「わたしたちは、どちらに?」
「決まっている。僕は獣でも獲物でもない」
リアナは少し笑い、僕の腕に指を絡めた。
「では、わたしは……魔王さまの影としてついていきます」
森の奥へ進むほど、空気は粘つくように重くなる。
地面には獣の足跡、人間のものと思しき骨の欠片。
赤黒く染み付いた痕は、雨でも風でも消せなかった“狩りの記憶”。
(なるほど――悪くない)
やがて、空気が変わった。
風の流れが途切れ、音が吸い込まれ、気配が一つに絞られる。
「来るぞ」
僕が呟いた瞬間、森の奥から、何かが一直線に飛び出してきた。
赤い影。
獣じみた速度。
しかし、その動きは計算され尽くした狩人のそれ。
僕を狙うのではない。
真っ直ぐに、僕の隣――リアナへ。
「っ!」
リアナの喉が小さく鳴る前に、僕は片手を伸ばした。
飛びかかる影の喉元を、指二本で止める。
風が裂ける音と共に、時間がゆっくりと流れ出す。
赤い髪。
獣のように鋭い瞳。
舌なめずりするように、僕の指先を睨みつける唇。
「へえ……今のを止めるの?」
女の声だった。
低く、艶があり、獲物を前にした愉悦を隠そうともしない。
僕は掴んだ喉を離し、彼女を地面へと下ろす。
「初対面の挨拶がそれとは、ずいぶんと野性的だな。……“血の狩猟姫”」
女は口の端をつり上げた。
「人間どもはそう呼ぶわね。あんたは?」
「欲望の魔王だ」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の瞳が愉快そうに細められた。
「魔王、ねえ。おもしろいじゃない。
で? あんたがわざわざ、わたしを殺しに来たってわけ?」
リアナが横でぴくりと肩を震わせる。
けれど、その瞳にはかすかな嫉妬の色も混じっていた。
(魔王さまに“おもしろい”なんて言って……)
そんな心の声が聞こえてきそうだ。
僕は首を横に振る。
「逆だ。“血の狩猟姫”――おまえを僕のものにしに来た」
女は一瞬きょとんとし、それから声を上げて笑った。
「ははっ、いいね、それ。
散々追いかけられて、“殺してやる”とか“封印してやる”とか、
そんなことばっかり言われてうんざりしてたところ」
笑いながらも、その身体は一歩も隙を見せていない。
いつでも飛びかかれるよう、膝は柔らかく、指先には力がこもっている。
「わたしを“もの”にするって? ねえ魔王さま。
――わたしを飼いならせると思ってるの?」
挑発的な言葉。
だが、その奥には微かな期待が滲んでいた。
“飼いならされること”を、どこかで願っている獣の目。
僕はゆっくりと距離を詰める。
彼女は逃げない。
代わりに、唇を舐めて僕を見上げた。
「名は」
「ヴィオラ」
血のような髪の色に似合う名だ。
僕はその名を一度、舌の上で転がした。
「ヴィオラ。おまえは強い。
人間を狩り、魔物を狩り、森を庭のように歩く。
――だが、その力を世界のどこへ向ければいいのか、知らない」
ヴィオラの表情がわずかに動いた。
「……」
「だから、こうして同じ場所を巡っている。
獲物を変え、遊び場を変えながらも、結局この森から出ない。
本当はわかっているはずだ。
このままここにいても、やがてあなたを楽しませる獲物はいなくなる」
図星だったのか、彼女は舌打ちをした。
「うるさいわね。……ほんと、“魔王”ってやつは口がよく回る」
「欲望の匂いを嗅ぎ分けるのが、僕の本質だから」
僕は手を差し出した。
「来い。森の狩猟姫で満足しているには、おまえは惜しすぎる」
ヴィオラは差し出された手をじっと見つめる。
掴むか、撃ち払うか――その瞳の中で、二つの選択肢がせめぎ合う。
「……わたしを、どうするつもり?」
「十人の守護者のひとりにする。
世界を欲望で染める、その牙として」
「ふうん」
ヴィオラは一歩、僕に近づいた。
森の匂い、血と土と獣の気配を混ぜたような香りが近づいてくる。
「それだけじゃ足りないわね」
彼女は顔を寄せ、僕の耳元で囁く。
「“守護者”なんて肩書きじゃ、森から出る気にはなれない。
もっと――わたしを縛る言葉がほしい」
挑発。
けれど、それは半分以上、願いでもあった。
僕は彼女の顎を指で持ち上げ、視線を絡める。
「では命じよう。ヴィオラ。
おまえは今日この時から、“魔王の牙”にして――魔王の所有物だ」
リアナの肩がぴくりと震えた。
その表情には、明らかな嫉妬が浮かんでいる。
しかし同時に、それが“魔王軍”を形作る重要な瞬間だと理解している顔でもあった。
堕ちた聖女は、もう“正しさ”ではなく、僕の“欲望”を基準に世界を見ている。
ヴィオラは目を細め、ニヤリと笑った。
「いいわね、その言い方。
そこまで言われて、逃げる獣はいないでしょ?」
「契約しよう」
僕は魔法陣を展開する。
闇色の紋が地面に広がり、赤い光が脈打ち始める。
「血を」
そう告げると、ヴィオラは何のためらいもなく、自分の指先に牙を立てた。
つう、と赤い滴が零れ、彼女はそれを陣の中央へと落とす。
「これでいいの?」
「十分だ」
僕もまた、自分の指先を軽く裂く。
魔王の血は黒い光を帯び、魔法陣へと吸い込まれていく。
赤と黒。
二つの色が絡まり、渦を巻き、形を変えていく。
リアナが息を呑む。
「これが……魔王さまの“契約”……」
「そうだ。これはただ従わせるためのものではない」
僕はヴィオラの手を取り、血のついた指先を自分の唇へと運ぶ。
指先に触れる、軽い口づけ。
それは儀式であり、鎖であり、誓約そのもの。
「これは、僕とおまえの欲望を結ぶ“契り”だ。
おまえが狩りを望む限り、僕は獲物を与える。
おまえが戦いを望む限り、世界を戦場にしてやる。
その代わり――」
僕は唇を離し、囁く。
「おまえの最後の獲物は、必ず僕であれ」
ヴィオラの瞳が、ぎらりと光った。
「……いいわ。
魔王さまを喰えるなら、世界中の獲物を狩ってやる」
魔法陣が強く輝き、やがてその光は彼女の身体へと吸い込まれていく。
ヴィオラの肌に黒い紋が浮かび、それが首筋から胸元、腕、背中へと広がっていく。
「なにこれ……燃えるみたい……」
「おまえが僕に繋がっている証だ。
その紋が消える時――おまえの魂は、完全に僕のものになる」
ヴィオラは息を荒げながらも、笑った。
「最高ね、それ。
あんた、とことん性格が悪くて好みだわ」
契約は終わった。
“血の狩猟姫”ヴィオラ。
十人の守護者の一人目。
魔王の牙として、世界を狩り尽くす存在。
リアナがそっと僕の袖を引く。
「魔王さま……これで、ひとり目ですね」
「ああ。これで、一本目の牙が生えた」
僕は森を見渡す。
ここは、もはやヴィオラだけの狩場ではない。
「行こう、ヴィオラ。
おまえの新しい狩場は、この森の外――世界だ」
ヴィオラは肩を鳴らし、満足げに笑った。
「いいわよ、魔王さま。
世界中の悲鳴を、“あたしの狩りのBGM”にしてあげる」
こうして、“魔王軍強化”の物語は静かに、しかし確実に動き出した。
一本目の牙が世界に向けられた瞬間だった。
◇◇◇
――次に求めるべきは、どんな欲望を抱えた守護者か。
残り九人。
そして、その上に立つ四天王。
世界を染める準備は、ようやく始まったばかりだ。




