◆第16話 勇者は“悪”を見に行く◆
聖王国――夕暮れ。
勇者アリア・レーンは、まだ城の外に出ていなかった。
鎧は新品。
剣は与えられたもの。
旗印は聖王国の紋章。
だが――心は未完成のままだ。
「……魔王を討つ」
口に出すたびに胸がざわつく。
(討つべきはずなのに、
本当に“悪”なのか確信が持てない……)
孤児院で育った彼女は知っている。
“正しさ”を押し付けられた痛み。
“欲を持つな”と言われ続けた苦しさ。
だからこそ、魔王の国の噂が心に刺さる。
「欲望を叶える国」
「誰もが望んだ生活を手に入れた」
「民が自分で魔王を王に選んだ」
(……恐ろしいはずなのに……なぜ、少しだけ眩しく感じるんだろう)
その揺らぎが顔に出ていたのだろう。
聖騎士長レオニスが、鋭い視線で問いかけてきた。
「勇者。迷いが見える」
「あ、いえ……」
「どう見ようとも、魔王は悪だ。
奴は人の欲望を利用し、世界を堕落させる存在。
それ以上でも以下でもない」
(……本当に?)
喉まで出かけた疑問を飲み込む。
そのとき――
突然、鐘が鳴り響いた。
――侵入者。
兵たちが走り、城壁の上に駆け上がる。
アリアもその流れに飲まれるように外を見下ろした。
そして――息を呑む。
広大な草原の向こう。
夕陽の中に、黒い旗。
魔王軍だ。
だが攻撃姿勢ではない。
隊列は美しく整い、武器は収められている。
騎獣も魔獣も、落ち着いたまま立ち止まっている。
最前列に――魔王がいた。
アリアの胸が、熱く脈打つ。
(噂じゃない……本当に……いた……)
信じられないほど静かな存在感。
暴力ではなく、支配でもなく、
――ただ「華」があった。
彼が歩み出た瞬間、
兵士たちは刀を構えようとしたが――
「動くなッ!! 近寄るなッ!!」
「敵意を見せるなッ!!」
聖騎士長レオニスが叫んだ。
(……怖れている?)
アリアは気づいた。
恐怖の対象は「力の強さ」ではない。
――“魔王に味方したくなってしまうこと”を恐れている。
魔王はひとりで歩き続ける。
武器を持たず、守護者も連れず。
ただ夕焼けを切り裂くように、まっすぐ。
城壁の下まで来ると、
静かに言った。
「勇者を呼べ」
城壁の上に動揺が走る。
レオニスが怒声を飛ばす。
「黙れ、魔王! ここは聖王国、貴様の……!」
「呼べと言っただけだ」
魔王はレオニスを見もしない。
城壁の上の――ただひとりを見ていた。
「そこにいるだろう、アリア・レーン」
アリアの心臓が跳ねた。
“名前を呼ばれた”。
初対面のはずなのに。
レオニスが制止しようと肩に手を置くが、
アリアはその手を押し返し、城壁の縁まで歩いた。
「……私が、勇者です」
声は震えている、けれど逃げてはいない。
魔王は、ほんの少しだけ笑った。
「なるほど。
光、というより――火だな」
「火……?」
「光は見れば眩しいが、火は触れば熱い。
誰かを照らすためではなく、
自分が前へ進むための熱だ」
アリアは言葉を失う。
(……話してみてわかる。
噂とは違う。
この人は、ただ“悪”じゃない)
魔王は続けた。
「俺はヴァルデア王国に行った。
飢え、病、暴動、絶望。
神は応えなかった。
正義も届かなかった。
だから――俺が応えた」
兵士たちの顔が揺れる。
(それは……正しい……)
魔王は城壁を見上げたまま、目をそらさない。
「アリア・レーン。
俺と戦いたいなら、理由を持て。
“神に言われたから”では足りない。
“誰かが悪いと言ったから”でも足りない。
――お前自身が、俺を“悪だ”と決めてから来い」
胸の奥を殴られたような衝撃。
(……そんなの、言い返せない……)
レオニスが怒鳴る。
「魔王! 勇者を惑わすつもりか!」
魔王は、淡々と言い返す。
「惑うのは心があるからだ。
疑うのは思考があるからだ。
迷うのは、自分の正しさを持とうとしているからだ。
――それを“悪”と言うなら、俺は喜んでそう呼ばれよう」
アリアは言葉が出なかった。
【この人は――悪ではない。
けれど確かに“危険”だ。】
その危険さは、憎むべきものではなく
――惹かれてしまいそうな種類の危険。
魔王は背を向ける。
「いつでも来い、勇者。
その剣に“お前自身の正義”が宿った時は、
戦ってやる」
去り際に、
視線だけでアリアに問いを投げた。
『今、剣を抜けないのはなぜだ?』
アリアの心臓が跳ね、呼吸が止まる。
(剣を抜けない理由は……
魔王が強いからじゃない……
“間違っているように見えないから”だ……)
魔王軍は静かに撤退し、
黒い旗は夕闇の彼方へ消えていった。
誰も戦おうとせず、
誰も追わなかった。
ただ、
勇者ひとりの心に深い傷を残して。
◇◇◇
部屋に戻ったアリアは、
ベッドの上で両手を胸に押し当てて座り込んだ。
(どうして……あの魔王を見て……
“悪”だって言い切れないの……?)
涙が落ちる。
苦しい。
悔しい。
怖い。
でも――本当の感情は、それじゃない。
(会いたいと思ってしまった……)
その瞬間――
アリアは自分が、初めて勇者として“致命的な弱点”を持ったことに気づいた。
魔王を憎めない。
ただそれだけで、
世界の均衡はひっそりと大きく傾いた。
◇◇◇
魔王国――玉座の間。
リアナが震えた声で言う。
「魔王さま……勇者の前で、剣を抜かなかったのは……」
「殺す気がないからだ」
「どうして……?
勇者なんて、敵なのに……」
俺ははっきり言った。
「勇者は“神に選ばれた存在”じゃない。
“世界が必要とした存在”だ。
そして世界が必要とする光は――
いつだって影のすぐ隣に生まれる」
守護者と四天王が、静かに笑った。
勇者はまだ敵ではない。
味方でもない。
もっと深い位置――
“堕とす価値がある位置” に立っている。
「次に勇者が来るときは、戦場だろう」
とバハルザード。
「その心はもう濁り始めている」
とゼファル。
「夢の中で揺さぶる価値がありますわ」
とリリス。
「大地に立つのか、崩れるのか見物だ」
とアースガルド。
リアナは不安な顔で魔王の袖を掴む。
「……勇者を……傷つけるんですか?」
俺は彼女の瞳を見て、答えた。
「傷つける気はない。
ただ――正義のためではなく“自分のため”に剣を振るうまで導くだけだ」
リアナは息を呑みながらも理解する。
(魔王さまは、勇者さえ“自分の意思を持つ存在”として認めようとしてる……
だから、従わせても壊しても意味がない……)
涙が滲んで、
それでもリアナは微笑んだ。
「魔王さまって……本当に最低で、最高ですね……」




