◆第11話 深淵の夢魔は“醒めない王”を待っていた◆
その夜、魔王国ラスタ=ディアの誰もが、よく眠れなかった。
兵士はうなされ、侍女は涙を流し、
魔族でさえ寝床から起き上がって胸を押さえた。
夢を見た。
忘れられないほど甘く、
二度と戻りたくないほど痛く、
そして、どこか“現実より現実”に思える夢を。
「……あれは、なんだったんだ」
城下の兵のひとりが、夜明けとともに呟いた。
彼は夢の中で、
死んだ家族と再会していた。
穏やかな食卓。
笑い声。
何の悩みも、戦争もない世界。
――そして、最後の最後に囁かれた声。
『このまま眠っていなさい。
起きなければ、この幸せは続くのだから』
兵は震えながら、
夢の中で必死に目を覚まそうとしていた自分を思い出す。
(眠っていたい。
でも、起きなきゃ――魔王さまの旗の元に立つって、誓ったんだ)
その葛藤の感触だけが、
目覚めたあとも胸の奥に残っていた。
◇◇◇
「魔王さま。今夜の“泣いている人間”の数、いつもの三倍です」
朝、セレネが嬉しそうに報告してきた。
瞳は完全に仕事モードだ。
「寝ている間に涙を流し、
起きてからも胸を押さえて立ち上がれない人がたくさんいます。
夢で、何かを“見失った”ような顔をしていて……
とても、美味しそうです」
隣のノアが静かに頷く。
「やはり来ましたね」
「深淵の夢魔か」
俺が言うと、リアナの肩がびくりと震えた。
「夢魔……? 人の夢に入り込む悪魔……?」
ノアは指先で空中に円を描き、
塔の上に巨大な“月”の幻を浮かべた。
「深淵の夢魔――名前は、
“リリス・ノクターン”」
ヴィオラが腕を組み、窓の外の空をちらりと見た。
「空はバハルザードが押さえた。
死者の門はゼファル。
次は……夢ってわけね」
メルカドが鼻を鳴らす。
「殴れない相手は面倒だな」
「殴る前に寝かされて、
夢の中でボコボコにされるタイプだよ」
ラザロスが適当そうに言うが、声は冗談ではなかった。
ファルドはあくびをしながら工具を弄ぶ。
「まあ、夢だろうが何だろうが、
起きたときに爆発してなきゃ問題ない」
カイトは書類を閉じ、静かに言う。
「問題なのは、
“魔王殿にどんな夢を見せるか”――でしょう」
リアナの心臓が跳ねた。
ノアが魔眼を伏せるように閉じる。
「……未来視が、さっきから“霞んで”います。
まるで、わざと見せたくない場面を隠すように」
「夢魔が干渉しているのか」
俺が問うと、ノアは頷いた。
「今夜、魔王が眠れば――
必ず“深淵の夢”が訪れます。
そこで、あなたの“核”を覗き見しようとする」
セレネが舌なめずりする。
「魔王さまの一番深いところ……
わたしも覗いてみたいですわ」
リアナは顔を赤くし、
思わず一歩、俺の前に出た。
「魔王さまに変なことをする悪魔なら、
わたしが――」
言いかけたところで、ヴィオラが笑う。
「夢の中まで護衛するの? 聖女さま」
「……元、です」
小さな反論。
だが、その瞳には確かな決意が宿っていた。
俺は玉座から立ち上がった。
「いいだろう。
夢魔が来るというなら――こっちから“寝てやる”」
「魔王さま、軽く言わないでください!」
リアナが慌てて袖を掴む。
ノアが補足するように言う。
「夢魔リリスは、
“相手が一番望んでいる未来”と、
“一番見たくない過去”を同時に見せるタイプです」
カイトが静かに続けた。
「王も英雄も、皆そこで折れた。
“叶った夢”の中に永住しようとして現実に戻れなくなるか、
あるいは“見たくないもの”から逃げるために自ら門を閉じる」
「起きられるかどうか――
それこそが試練というわけです」
リアナの指に力がこもる。
「わたしも……一緒に行けませんか?」
俺は少し考え、頷いた。
「――半分だけだ」
「半分……?」
「夢の“手前”までは連れていく。
けれど、“僕自身の夢の核”には、
誰も入れない」
リアナは唇を噛み、それでも頷いた。
「……それでも、そばにいます」
◇◇◇
夜。
バハルザードの作った穏やかな空に、
一筋だけ黒い雲が混じった。
ゼファルの冥界の気配とも違う。
それは、静かな“眠気”の形をしていた。
俺は寝台に横たわり、
隣に座るリアナの手を握った。
「怖いか?」
「怖いです。
でも……魔王さまが“なにを本当に望んでるのか”
わたしも知りたい」
正直で、愚かで、愛しい言葉だ。
「なら、少しだけ見せてやる」
俺が目を閉じると同時に、
世界が静かに反転した。
◇◇◇
最初に落ちたのは、音だった。
ざわめき。笑い声。
市場の喧騒。
武器の鍛えられる音。
子どもの走る足音。
目を開けると、そこは――
「……魔王国?」
リアナが隣にいた。
だが、その服は今と違う。
純白ではなく、黒を基調とした礼服。
胸には魔王国の紋章。
「“魔王妃”の服だな」
俺自身も、玉座ではなく、
城下の広場の真ん中に立っていた。
兵たちも、民も、皆笑っている。
そこには戦争も、恐怖もない。
ただ、“欲望と秩序”が程よく混ざった平和。
セレネの涙は飾りになり、
ヴィオラの血は演習用の訓練でのみ消費され、
メルカドは祭りの試合でだけ殴り合い、
ラザロスは医療研究の実験台になり、
ファルドはインフラ整備に忙殺され、
ノアは教科書を書き、
カイトは行政に埋もれ、
バハルザードは空路を守り、
ゼファルは葬儀を見守る。
「これ……」
リアナが呆然と呟く。
「魔王さまが目指した、“欲望の世界”……?」
俺は黙っていた。
胸の奥に、何かが刺さる。
――温かい。
――悪くない。
――これでも、いいかもしれない。
そう思ってしまいそうになる。
だが、その瞬間。
『足りないのでしょう?』
耳元で、柔らかな声が囁いた。
振り向くと、
人影がひとつ。
長い髪。
男とも女ともつかない中性的な顔立ち。
しなやかな身体。
瞳は夜のように深く、
微笑みは夢のように甘い。
「――初めまして、魔王。
深淵の夢魔です」
リアナの胸がざわりと騒ぐ。
本能レベルで“危険”を告げる声。
リリスは、俺だけを見て微笑んだ。
「見せてみました。
あなたが世界を欲望で染め上げた後――
“理想的に落ち着いた未来”を」
「上手く纏めたな」
俺が苦笑すると、リリスはくすりと笑った。
「ええ。
戦争は最小限。
欲望はある程度管理され、
血も涙も娯楽として消費される。
誰もがそこそこ満足し、
誰もがそこそこ不満を抱え、
でも暴発するほどではない。
――悪くない、“終着点”です」
リアナは、その未来に呑まれていきそうになっていた。
(誰も死なない世界……
魔王さまも、守護者のみんなも、
普通に笑って生きている……
こんな世界、駄目なはずがない……)
だが、そのとき。
俺が小さく笑った。
「そうだな。
悪くない世界だ」
リリスの目が細くなる。
「――“悪くない”?」
「だが、“悪くない”だけだ」
俺は一歩、前に出た。
周囲の景色がかすかに揺れる。
「欲望は、“悪くない”だけでは満足しない。
最高でも、最悪でも、どちらでもいい。
ただ――“限界”でなければ、欲望ではない」
リリスの笑みが、そこで一瞬止まった。
「……理解が早いですね。
普通なら、この世界に浸かっていく。
“もう戦わなくていい”、“もう誰も傷つかない”、
“もう充分だ”と、言い訳しながら」
リアナはハッとして、俺を見る。
「魔王さまは……嫌なんですか?
こんな世界は……?」
俺は、はっきりと言った。
「“終わり”が見えている世界は、嫌いだ」
その瞬間、世界がひび割れた。
街並みが瓦解し、
笑い声が反響して遠ざかり、
空の色が、ゆっくりと夜に溶け込んでいく。
リリスが息をついた。
「……やはりあなたは、“ここ”で満足してくれない」
瞳が、少しだけ愉悦に染まる。
「いいえ、わかっていました。
あなたは“永遠の昼”にも“永遠の夜”にも飽きる。
だからこそ――
次は、“見たくない方”もお見せしましょう」
リアナの手が震えた。
「いや――魔王さまは――!」
言い終える前に、
リアナの足元が崩れた。
「――!? 魔王さま!?」
俺が手を伸ばすより早く、
リアナは闇に引きずり込まれていった。
「安心を。
あなたの“守護者たち”が、
それぞれの悪夢で遊ばれているだけです」
リリスが囁く。
「狩猟姫には“獲物のいない森”。
不死者には“終わりなき安らぎ”。
闘神には“二度と負けられない世界”。
参謀には“完璧に安定した世界”。
賢者には“全て視え尽くした未来”。
吸血メイドには“誰も泣かない世界”。
鉄匠には“二度と兵器を作らなくていい世界”。
――皆、壊れてしまいそうな顔で、
それでもどこかで微笑んでいます」
俺は黙って聞いていた。
リリスはゆっくりと顔を近づける。
「さて――あなたには、何を見せましょうか」
世界が、真っ暗になった。
◇◇◇
静寂の中、
足音がひとつ、響く。
――コツ、コツ。
何もない空間。
だが、そこに“誰か”がいる気配。
温かい手。
笑い声。
呼ばれた名前。
『――ユウト』
胸の奥が、強く痛む。
僕の、名前。
魔王になる前の、ただの“僕”。
(……誰、だ)
顔は霞んで見えない。
声だけが、いやに鮮明だ。
『どうして、こんな世界を選んだの?』
質問。
『どうして、こんな道を選んだの?』
責めているわけではない。
ただ、知りたいだけの声。
『一緒に、普通に生きる未来だって――あったのに』
俺は、目を閉じた。
(ああ、そうだ。
きっと、あったんだろうな)
誰かと並んで歩く未来。
仕事をして、食事をして、笑って、泣いて、
適度に幸せで、適度に不幸で、
――“悪くない”人生。
『それでも、魔王になったの?』
俺は、笑った。
「なったんじゃない。
“なるしかない”と思って選んだ」
闇の中で、誰かが息を呑む気配。
『どうして……?』
「“悪くない”じゃ、足りなかったからだよ」
言葉が、自然に出た。
「世界を“欲望”で染めるなんて、
どう考えても愚かだ。
誰かは泣くし、誰かは死ぬし、
誰かは裏切るし、誰かは報われない。
――それでも、“見てみたい”と思ってしまった。
だから、僕はこっちを選んだ」
沈黙。
リリスの気配が、近くで揺れる。
『普通の幸せよりも――
愚かな欲望を、選んだのですね』
「そうだ」
『後悔は、ないのですか?』
「あるに決まってる」
即答だった。
「でも――“後悔できる今”が、心地いい」
闇が、静かに震えた。
『あなたは、本当に……』
リリスの声が、低く、熱を帯びる。
『――最低で、最高の王ですね』
世界が砕けた。
◇◇◇
目を開けると、
そこは、俺の玉座の間だった。
リアナが俺の手を握ったまま、
涙を流して座り込んでいる。
守護者たちはそれぞれ、
どこか疲れた顔をしながらも、
立っている。
ヴィオラは肩をすくめる。
「最悪の夢だった。
獲物のいない森なんて、地獄より酷い」
ラザロスはぼそっと呟く。
「ずっと眠ってていい世界なんて、
気持ち悪くてしょうがないよ」
メルカドは苦笑して拳を振る。
「勝って当たり前の試合ばっかり――殴る気も失せる」
セレネは顔をしかめる。
「誰も泣かない世界って、
こんなにも退屈なんですね……」
ファルドは全身を伸ばし、欠伸をした。
「兵器を作らなくていい平和な工房……
三日で飽きた」
カイトは肩を竦める。
「完璧に安定した世界は――
退屈すぎて、死にたくなりますね」
ノアは静かに微笑む。
「全て視え尽くした未来は、
ただの“死”と同じでした」
皆、悪夢から戻ってきている。
そして、その中央。
玉座の階段の下に、
ひとりの人物が立っていた。
夢と現実の境目を纏うような衣。
瞳は夜のように深く、
微笑みは幻想そのもの。
「――おはようございます、魔王」
深淵の夢魔は、
静かに膝をついた。
「あなたは、どんな夢を見せても“醒める”王でした。
理想の未来を見せても、
最悪の過去を突きつけても、
“悪くない”と切り捨てて、なお前へ進む。
そんな愚かさに、
私は――心底惚れました」
リアナがきゅっと俺の袖を握る。
「……魔王さまの夢に、
わたしもちゃんと……いましたか?」
俺は彼女の頭をそっと撫でた。
「いたさ。
“悪くない未来”の中に、な」
リアナは一瞬だけ傷ついた顔をし、
それから泣き笑いのような表情で笑った。
「じゃあ、“最高の未来”は――これからですね」
リリスがくすりと笑う。
「いいですね、その言葉。
夢魔としては、“今が一番マシだった”なんて未来は嫌いですから」
彼女は胸に手を当て、深く頭を垂れた。
「契約を。
私は、四天王“夢帝リリス”。
欲望の魔王のために、
世界中の眠りと悪夢と夢を支配しましょう。
あなたの軍が疲れたときは甘い夢を、
敵が慢心したときは悪夢を、
裏切り者には、自分の本心しか見えなくなる夢を」
俺は手を差し出し、
彼女の指を取る。
黒と紫の魔法陣が床に広がり、
夢の紋が刻まれていく。
「四天王――“夢帝リリス”。
世界の眠りを、僕の欲望のために染めろ」
「喜んで」
夢の契約が結ばれた瞬間、
ラスタ=ディアの空に、もうひとつ“偽りの月”が浮かんだ。
それは、
欲望の魔王のためだけに昇る――夢の月。
◇◇◇
四天王、三人。
天帝バハルザード。
冥王ゼファル。
夢帝リリス。
残るは、“地”を統べる王のみ。
空を手に入れ、
門を押さえ、
夢を染めた魔王国は――
いよいよ、本格的に世界へと手を伸ばし始める。




