◆第9話 暴嵐の龍帝は空を譲らない◆
空が、割れた。
雷鳴とともに夜雲が裂け、
その奥から、巨大な影が這い出してくる。
最初に見えたのは、黄金に近い雷光を帯びた鱗。
次に、雲海を切り裂くほど長い翼。
最後に――城を見下ろす、冷たい竜の瞳。
『……悪くない匂いだな、人の王よ。いや――“欲望の魔王”』
声は、雷そのものだった。
耳ではなく、骨の奥で響く。
リアナが俺の隣で悲鳴を飲み込み、
守護者たちはそれぞれ反応を示す。
ヴィオラは目を輝かせる。
「……でっか」
メルカドは興奮に喉を鳴らす。
「いい。殴り甲斐どころじゃねえな」
ラザロスは眉をひそめた。
「これは……さすがに、一回くらい死ねるかも」
セレネは震える兵士たちを眺めて微笑む。
「空から泣き顔が降ってきそうですね……」
ノアは静かに魔眼を光らせ、
カイトは表情ひとつ変えずに全体を俯瞰している。
ファルドは、ただ一言。
「……乗ってみてえ」
彼らしい感想だった。
俺はバルコニーから一歩、空へ歩み出る。
地面も足場も無いはずだが、
魔力をまとった空気が自然に“足場”を作り出した。
『降りてくるのではないか、人の王。
空を欲する者は、空まで来い』
暴嵐の中で、竜が笑う。
「いいだろう」
俺は振り返り、リアナの頭を軽く撫でた。
「見ていろ、リアナ。
空を手に入れれば、世界の半分は片付く」
「……魔王さま……お気をつけて……!」
彼女の声を背に受けながら、
俺はそのまま空へと歩き出した。
◇◇◇
雷は、優しい。
少なくとも、暴嵐の龍帝のそれは、
俺を殺すためではなく“値踏みするため”の雷だった。
翼をひと振りするだけで、
雲が砕け、空気が千切れ、稲光が奔る。
城下の兵たちは空を見上げて震え、
遠くの山々はひそかに土砂崩れを起こしているだろう。
『名乗れ、人の王』
「欲望の魔王だ」
『――欲望の。
愚かな名だ。
だが、嫌いではない』
竜の瞳が、俺だけを射抜く。
『この空は、我がものだ。
雷も嵐も、雲も風も、全て我が翼の下にある。
――その空に、貴様は“国”を掲げた』
竜の視線が、城の黒旗をかすめる。
『欲望魔国(ラスタ=ディア)。
世界を欲望で染める国か。
ならば問おう、魔王よ』
雷鳴が一段と強くなる。
『その欲望は、“空をも飲み込む”に足るか?』
「試してみればいい」
俺は右手を持ち上げた。
風が変わる。
竜が、ただの巨大な怪物ではなく“天空の主”であると理解できるほど、
空が彼に従っているのがわかる。
だが――
「空は、おまえのものではない」
『ほう?』
「空は、“欲望を見上げる者”のものだ。
届かないと知りながら、手を伸ばす愚か者の――」
俺は口角を上げる。
「……そして、その愚か者たちの頂点が、僕だ」
竜の瞳が、細くなる。
『愚かさを誇るか、人の王』
「欲望と愚かさは、同じものだ」
次の瞬間、竜の翼が大きく広がった。
世界が横に倒れたような感覚。
風が、雷が、雲が、
すべて俺へ向かって押し寄せてくる。
『ならば――見せてみろ、人の魔王よ。
この空を覆う暴嵐を、
貴様の欲望でねじ伏せてみせろ!!』
雷が降る。
◇◇◇
一撃目は、ただの“威嚇”だった。
だが、その威嚇で山が一つ消し飛ぶ。
稲光が空気を裂き、熱と衝撃が地平線の向こうまで走る。
城のバリアが悲鳴を上げるようにきしむ。
ノアが即座に展開した防御術式がなければ、
城の半分は吹き飛んでいた。
『まだ立っているか、人の王』
「当然だ」
俺は、雷の中で笑う。
「いい雷だ。
“生きている者にしか届かない”雷だ」
『?』
「死んでいる者、諦めた者、
何も望まない者には落とせない。
――おまえはずっと、
“空を欲しがる愚か者”を探していたんだろう?」
竜がわずかに目を見開いた。
図星らしい。
『……面白い人の王だ。
多くは、我を見るだけで地に伏す。
貴様は、我の雷を見て笑うのか』
「欲望より強いものを前にしたとき、“笑う”のが僕の性質だ」
俺は指を鳴らした。
黒い雷が、俺の周囲に生まれる。
暴嵐の龍帝の雷とは違う。
あちらは“世界の理”に近い純粋な力。
俺の雷は、“欲望に汚された雷”だ。
嫉妬の色、憎悪の熱、
羨望の光、焦燥の速度。
人間たちが夜ごと空に投げてきた、
あらゆる負の感情が形になった雷。
『……それは――』
「人間たちが、“届かない空”に向かって叫んだ声だよ」
俺は黒い雷を空へ放つ。
金色の雷と、黒い雷がぶつかり合う。
暴嵐の龍帝の雷が世界を裂き、
俺の雷が人間たちの叫びを乗せて噛みつく。
しばし、空は黒と金の閃光に埋め尽くされた。
城下で兵たちが膝をつき、
聖王国の都で神官たちが祈りを捧げ、
遠くの村々で子どもたちが怯える。
それでも――
雷鳴の下で笑っているのは、竜と魔王だけだった。
◇◇◇
『認めよう。
貴様の欲望は……
“空を喰らうだけの厚顔”を持っている』
暴嵐の龍帝が翼を畳む。
雷光がわずかに弱まり、風の狂気が落ち着いていく。
『だが、まだ足りぬ』
「ほう?」
『空は、空だけで成り立っているのではない。
海の蒸気、地の熱、人の息――
全てを飲み込んで渦を成す。
欲望の魔王よ。
貴様の“国”は、まだ空だけを欲している』
「それの何が悪い?」
『世界を欲望で染めるつもりなら――
貴様は“地上の欲望”も、“海の欲望”も、“闇の欲望”もまとめて喰らわねばならぬ。
貴様はまだ、空の半分しか見ていない』
その言葉に、俺は笑った。
「なら、教えてもらおうか」
『……?』
「僕に足りない空、足りない視界、足りない欲望――
それを補う者が必要だ。
――おまえのような、“空そのもの”が」
竜の瞳が細くなる。
『貴様、最初から――』
「僕は最初から、おまえを四天王にする気でいた。
暴嵐の龍帝。
天を支配する竜。
この世界の誰よりも“高み”を知る存在。
――僕に膝をつけ」
暴言とも、命令とも、誘いとも取れる言葉。
沈黙。
嵐が、ほんの一瞬だけ止んだ。
城下では誰も息を飲み、
守護者たちは固唾を飲んで空を見上げる。
『……人の王よ』
やがて、暴嵐の龍帝は静かに口を開いた。
『我に膝をつかせたいのなら――
貴様は“空より愚か”でなければならぬ』
「愚か?」
『そうだ。
空は、常に全てを見ている。
だが、決して地に降りぬ。
降りた瞬間、空はただの獣になる。
それを理解しているからこそ、我は空に留まり続けた。
――だが、貴様は違う』
竜の瞳が笑う。
『空を見上げる者でありながら、地に足をつけ、血を浴び、泥を踏む。
自ら愚かさに身を浸し、その上で空を奪おうとしている。
そんな愚かさに、我は――』
雷鳴の奥で、竜が笑った。
『――惚れた』
リアナが目を見開く。
ヴィオラが吹き出し、メルカドが「は?」と素で声を漏らし、
セレネは楽しそうに手を叩き、ラザロスは肩を震わせ、ノアは静かに頷き、カイトは微笑みを隠そうともしない。
ファルドだけが、ぽつりと呟いた。
「……竜も口説けるのかよ、魔王」
暴嵐の龍帝は、ゆっくりと首を垂れた。
『欲望の魔王よ。
我は“暴嵐の龍帝バハルザード”。
今この瞬間をもって、貴様の空を認めよう。
我が雷は、貴様の国を照らすために降る。
我が翼は、貴様の欲望を運ぶために羽ばたく。
――我が空、貴様に貸そう』
頭を垂れる暴嵐の龍帝。
その巨大な身体が膝をついているように見えた瞬間、
世界はたしかに、少しだけ傾いた。
「契約しよう、バハルザード」
俺は空中に魔法陣を描く。
今までの守護者たちのそれよりも、遥かに巨大な陣。
雷と闇が混ざり合い、
空そのものに紋が刻まれていく。
『契約だ。
我は貴様の“四天王”となろう。
天を統べる暴嵐の王として、貴様の旗の下に空を捧げる』
雷が収束し、竜の胸元に黒い紋章が刻まれた。
四本の爪と、渦巻く嵐を象った紋。
それは――四天王の証。
「ようこそ、四天王。
暴嵐の龍帝――“天帝バハルザード”」
バハルザードが翼を広げた。
今度の雷鳴は、祝福に近い。
◇◇◇
城へ戻ると、
兵たちの間でひそかな噂が広がっていた。
――空に竜がいた。
――魔王さまの前で、膝をついていた。
――あれが、新しい“王”なのか。
リアナは俺の隣でほっと息を吐き、
そのまま肩に頭を預けてきた。
「……魔王さまの“愚かさ”って、時々怖いです」
「そうか?」
「でも――好きです」
その言葉に、セレネがすかさず反応する。
「はい、そこ。“哀哭”の材料になりますわね」
リアナが真っ赤になり、
ヴィオラが笑い、メルカドがからかい、ラザロスが遠い目をし、
ノアとカイトはそれぞれ何かを書き留めている。
ファルドはすでに、空を飛ぶ竜用の兵装を考え始めていた。
四天王、ひとり目。
“天”を押さえた。
残るは――“地”と“闇”、そして“門”。
世界は、まだ傾き始めたばかりだ。




