風下の警告
アウトドアが人気の一方で、私たちは自然の厳しさや生き物との距離感を忘れがちです。
便利な道具が時に傲慢さを助長します。
本作は、一人の登山者の小さな過ちが大きな禍根を残す様を描き、自然との共存に必要なものは何かを問いかけます。
チングルマの白い花畑が、まるで残雪のように風に揺れている。七月の太陽は惜しみなく光を注ぎ、ハイマツの深い緑と、どこまでも続く稜線のコントラストを鮮やかに浮かび上がらせていた。俺、佐伯治はこの景色をもう四十年近く見ているが、飽きるという感情が湧いたことは一度もない。
「絶景っすね!」
背後から聞こえた弾んだ声に、俺はゆっくりと振り返った。そこにいたのは、全身を真新しいブランドで固めた青年だった。顔にはまだ都会の空気が抜けきらず、しかしその目は子供のように輝いている。高梨と名乗ったか。
「ああ。だが、こいつは山のほんの一面だ」
俺は短く応え、水筒のキャップを閉めた。彼の腰に、オレンジ色のグリップが特徴的なホルスターがぶら下がっているのが目に入る。新品のクマスプレーだ。
「これでヒグマもイチコロっすよ」
高梨は、俺の視線に気づくと、誇らしげにスプレーのグリップを叩いた。その言葉の軽さに、俺の眉間に思わず皺が寄る。
「そいつはな、最後の最後、命を守るためのもんだ。お守りじゃないし、ましてや武器でもない」
「分かってますって。でも、備えあれば憂いなし、ですよね?」
悪びれもなく笑う顔に、俺はそれ以上言葉を継ぐのをやめた。知識だけを詰め込み、自然への畏敬を忘れた登山者が増えた。彼もその一人なのだろう。高梨は「お先に!」と軽く手を上げると、軽快な足取りで先のカーブへと消えていった。その背中を見送りながら、俺は胸の内に広がっていく小さな不安の澱を、深く長い息と共に吐き出した。
それから三十分ほど歩いただろうか。稜線が大きく右にカーブする先で、五、六人の登山者が足を止め、息を殺しているのが見えた。双眼鏡を取り出すまでもない。カーブの先のハイマツ帯の縁、登山道からわずか数十メートルの距離に、黒い塊がうずくまっていた。ヒグマだ。まだ若い個体だろうか、一心不乱に何かを食んでいる。
ベテランと思しき一人が、後続の我々に静かに手で合図を送る。刺激しないように、距離を保ち、クマが立ち去るのを待つ。それがこの聖域における、人間側の最低限の礼儀だ。
そこへ、あの青年、高梨が追いついてきた。
「うわ、マジか!リアルヒグマ!」
小声だが、その声は興奮に上ずっている。俺が「静かにしろ」と目で制するより早く、彼は信じられない行動に出た。他の登山者の小さな制止を振り切り、ヒグマの方へずかずかと歩き出したのだ。
「大丈夫、脅かして追い払うだけですから」
誰に言うともなく呟くと、高梨はヒグマからまだ三十メートルはあろうかという距離で立ち止まり、こともなげに腰のクマスプレーを抜いた。
「おい、やめろ!」
俺の怒声が響くのと、彼がスプレーのトリガーを引くのは、ほぼ同時だった。
シュッ、と短い音が響き、オレンジ色の刺激的な霧が風上からヒグマのいる方角へと流れていく。まるで、庭の害虫に殺虫剤でも撒くかのように。
ヒグマは、逃げなかった。
食べるのをやめ、ゆっくりと顔を上げた。そして、その黒く濡れた瞳で、じっと高梨を見つめている。その視線には、驚きや恐怖の色は見えない。まるで、理解不能な存在を観察するかのような、冷たいほどの知性が宿っていた。
高梨は一瞬怯んだようだったが、虚勢を張るようにさらに数回、霧を噴射しながら、何事もなかったかのようにヒグマの横を通り過ぎていく。突き刺さる視線から逃れるように、その足取りは明らかに早まっていた。
問題は、その後だった。
ヒグマはその場を離れるどころか、おもむろに立ち上がると、高梨がスプレーを噴射した場所に鼻を近づけ、地面の匂いを執拗に嗅ぎ始めたのだ。風に乗って流れてきたカプサイシンの刺激臭と、「人間」という存在を、その優れた嗅覚で脳に深く刻み込んでいるかのように。
その場にいた誰もが悟った。状況は好転するどころか、最悪の方向へ向かったことを。
あのヒグマは学んでしまったのだ。人間は不快な匂いを放つが、実害なく通り過ぎていく存在だと。あるいはもっと悪いことに、「人間=不快な刺激」と結びつけ、次に出会う者に苛立ちをぶつけるかもしれない。
「もう……進めないな」
誰かが力なく呟いた。ヒグマは登山道近くに留まり続け、予測不能な危険な存在と化した。我々は、登頂を断念せざるを得なかった。ついさっきまで神々しく輝いていた稜線が、一人の人間の傲慢さによって、不気味で不穏な空気に満たされていた。
下山後、麓の山小屋で荷を解いていると、高梨が気まずそうに俺のそばへやってきた。
「あの……すみませんでした」
「謝る相手が違うだろう」俺は顔も上げずに言った。「君のやったことは、ただの自己満足だ。あのクマに間違ったことを教え込み、次にあの道を通る人間を、そしてクマ自身をも危険に晒したんだ」
高梨は、最新の登山靴のつま先を見つめたまま、言葉を失っていた。彼が万能のお守りだと信じていたオレンジ色のスプレーは、使い方を誤れば、自然との繊細な関係を破壊するだけの凶器でしかなかったのだ。
その夜、俺は一人、山小屋の外に出て、漆黒のシルエットとなって浮かび上がる山の稜線を見上げていた。無数の星が、まるで山の厳粛さを見守るように瞬いている。
ふと、風が吹いた。
その風が、どこからか、あの唐辛子のツンとした匂いを運んできたような気がした。もちろん幻嗅だ。だが、それは確かに、あの山に残されてしまった人間の愚かさの匂いだった。そして、これから先も容易には消えることのない、「警告」の匂いだった。
山は何も語らない。ただ、そこに在り続けるだけだ。その静寂が、何よりも雄弁に俺たち人間の未熟さを問いかけているように思えてならなかった。(了)
本作のテーマは自然への「畏敬の念」です。
人間は自然の前では無力であり、その認識が安全の第一歩です。
多くの人が無自覚に自然との境界線を越えています。
この物語が、読者の心に自然との向き合い方を考える一粒の種となることを願っています。