第一話:雨、鉄、記憶
雨が降っていた。音もなく、じとりと大地に染み入るような、湿り気を帯びた夏の雨だった。
その日、八重垣忍は、ひとつの扉を越えた。鉄と錆の匂いに満ちた、分厚い扉である。
――がしゃん、と。
音は重く、容赦がなかった。背後に閉ざされた世界。前もって知っていたわけではない。だが、どこかで予感はしていた。
自分がいずれ“こちら側”に落ちるだろうという、確信のようなものを。
「また変なのが来たなァ」
「見ろよ、目が死んでねぇ。変に頭が切れそうなツ
ラだぜ」
鉄格子の中で、先に入れられた者たちが、忍の身なりと顔を舐めるように見ていた。
“新入り”とは、そういうものである。血で血を洗う世界にあって、最も不確かな存在。何者でもなく、されど、何者にもなり得る。
「名は?」
看守の一人が訊いた。記録用の帳簿を片手に、ぞんざいに、しかし決して侮らない目で。
「……八重垣 忍」
「罪状は?」
「さあな。俺が知りたいぐらいだ」
目の前の男は、ほんのわずか眉をしかめたようだったが、それ以上は追及してこなかった。どうせこの世界では、罪が真実である必要はない。帳簿に書かれていること、それがすべてだ。
「ここは、“更生労働所・第六区”。表向きはね。実態は強制労働と内部統制の実験場だ。覚えておけ」
忍は黙っていた。何かを悟ったような、あるいは何も聞いていなかったような目で。
「お前がこの中で生き延びたければ、“菅笠人”を目指せ。……囚人の中で、囚人を支配する者だ」
「ふうん、牢名主とは言わねぇんだな」
忍の皮肉に、看守は軽く目を細めた。にやりとも笑わず、ただ業務として淡々と。
やがて、何も語らぬ者が現れた。頭に菅笠をかぶり、顔は見えず、気配も希薄。看守には「牢三」と呼ばれていた。監督役――つまり、囚人にして、囚人を律する立場の者だ。
菅笠の影に隠された眼差しは、ただひとつ、「お前が誰であろうと関係ない」と語っていた。
忍は引きずられるように、その場を後にした。
廊下はじめじめと濡れ、壁には古びた訓示が貼られている。
「悔い改めぬ者、手を振るうに値せず」
「労せずに得た言葉は、命を滑らせる」
ふと目を止めた忍の眉が、わずかに動いた。
「……さて、これは教育のための施設だったかね」
独りごちる声に、誰も答える者はいなかった。
ただ雨音だけが、変わらず外の世界を叩いていた。