イアンの女神
イアン・プレステルは物心ついた時にはもう天才と呼ばれていた。二歳で文字を覚え、四歳で書斎の本を読み終えた。勉強では五つ上の兄をあっという間に追い抜き、親族はみな、後継者をイアンに変更するべきだと言った。家庭教師からは誉め言葉しか聞いたことがなかった。
同年代の子どもはみんな、馬鹿に思えた。
だから、兄がハーモニー学園に入学する時には自分も一緒に入学したいと思っていた。しかし、宰相を務める父は許してくれなかった。
「イアン、お前は学者になりたいのか? それなら、許そう。違うなら、学問以外に勉強すべきことがあることを理解しなさい」
イアンは宰相になるつもりだった。父より上手くできる自信もあった。だから、学問以外も身につけた。剣、教養、社交。どれもそんなに難しいものではなかった。
だから、通常の入学年齢になった時、ハーモニー学園の入試問題は簡単過ぎて真面目にやるのが馬鹿らしいと思った。
どうせ、一位なのだ。算術の最後の問題は難しかったので、解答できるのは自分だけだ。一位が確定しているのなら、簡単な問題を一つ間違えておこう。簡単だから、配点は低いはず。それにうっかりミスがあると思わせた方が親しみを持ってもらえる。
そう思っていたのに。
「入試成績一位の君に新入生代表として、挨拶を頼みたい」
ハーモニー学園の学長に頼まれたのも当たり前だと思っていた。
それが学長の帰る前の一言で呆然となった。
「それにしても、算術で間違えたのは惜しかったね。あれがなければ、全科目で一位だったのに」
「ちょっと、待ってください。私以外に最後の問題が解けた人間がいるんですか」
「ああ。ヴィオラ・グラント嬢って、ご存知かな? なかなか、優秀なお嬢さんだ」
おかしい。社交界にも出てきていない無名の令嬢が私より賢いなんて、そんなはずはない。
イアンは少し調査してみた。グラント領は近年、急に豊かになった領だった。
「まさか、金を使ったのか。いや、そんなことはないだろう」
そう思っていたイアンは入学式で衝撃を受けた。遅刻した上にジョージ王太子にエスコートされて現れた少女。銀の髪を一つにまとめた美しい少女。それがヴィオラだと知った時、入試に不正が行われたと思ってしまった。
つい、本人に不正を疑っていると口にしてしまったのは失敗だった。決闘を申し込まれたのは意外だったが、どうせ、勝つから問題ないと思っていた。
それが計算速度で負けるとは。しかも、それで焦って、三問も間違って、敗者になるとは。
イアンは両手で顔を覆った。負けた顔を見られたくない。
「大丈夫ですか?」
よりによって、ヴィオラが手を差し出してきた。反射的に振り払おうとした手がテーブルの上をなぎ払った。物が落ちる音。そして。
パリン。
何かが割れた音。
イアンが顔を上げると、ヴィオラが泣きそうな顔で割れたガラスペンを拾い上げていた。
その顔が小さい子供のようで、胸をつかれた。
自分はどこで間違ったんだろう。誰よりも賢いと思い上がって、こんな女の子に暴言を吐いて。
「す、すまない」
謝ろうとした時にミューラー先生の声が響いた。
「イアン!」
「はいっ」
イアンは立ち上がった。敗者にはするべきことがある。ヴィオラの前に立つと、深く頭を下げた。
「ヴィオラさん、大変、申し訳ありませんでした。自分の未熟さに気づかず、お父上を侮辱したこと、深くお詫び申し上げます。ヴィオラさんは不正ではなく、実力で合格したこと、そして、算術では私より優秀であることがよくわかりました。本当にすみませんでした」
競技場の観客から拍手が起こり、余計に情けなくなった。
「以上。観覧者は二人が退場するまで待機してください。その後、指示に従って、退席していただきます」
ミューラー先生の声にイアンはもう一度頭を下げた。
「ヴィオラさん、正式なお詫びは改めてさせてください。今日はこれで失礼します」
競技場を出て、逃げるように控え室に向かう。トボトボと歩いていると、後ろから声をかけられた。
「あの、大丈夫ですか? 体調が悪いのなら、私、治癒魔法が使えますけど」
ヴィオラだった。
馬鹿な自分に優しく声をかけてくれるなんて。
イアンは胸を押さえた。
「いえ、大丈夫です。悪いのは頭だけです」
つい、ひねくれた言い方をしてしまった。
「ヴィオラさんは本当に賢いんですね」
「そんな。私が勝てたのは慣れていただけです。私の領にはもっとできる人もいるんですよ」
謙遜したヴィオラの言葉はかえってイアンの胸を抉った。
「もっといるんですか。教えてください。どうやったら、そんなふうになれるんですか。特にかけ算から速くなりましたよね」
「ああ、あれは一桁のかけ算を全て覚えているからです」
「覚えている?」
予想外の答えだった。
「じゃあ、私も覚えれば、もっと、速く計算できるようになるということですね」
「……あの、イアンさんみたいな賢い人がそんなことをするのはもったいないと思うんです」
「勝者がそんなことを言うんですか」
「私は覚えるのが得意なだけです。速く計算できた方が便利かもしれませんが、イアンさん、もう充分、速いじゃないですか。もっと、他のことに賢さを使って欲しいんです。例えば、私が外国の情報を覚えても、どう外交していけば、この国のためになるのかなんて分かりません。でも、イアンさんなら、できるんです」
まるで、予言者のようにヴィオラは断言した。その姿が輝いて見える。
「私ならできる……」
父の言葉を思い出した。学問以外に勉強すべきことがある。そうだ、この学園に入らなければ、ヴィオラのような人間がいることを知らないままになるところだった。
彼女は私の目を覚まさせてくれた女神だ。
「君と同じ年に入学にしてよかった」
「え?」
イアンの呟きを聞き取れず、小首を傾げたヴィオラはとても可愛かった。