君はかわいい女の子
白雪 野薔薇
それが彼女の名前でした。
まるで物語の主人公のようにキラキラした名前とは裏腹に、彼女はとても静かで地味で目立つことがとにかく苦手、というよりそれを恐れているような子でした。
彼女は私が小学5年生の時にマンションの隣の部屋へ引っ越してきました。
「隣に越してきた白雪です」
彼女の母が挨拶に来た時のことはよく覚えています。
色ムラの無い長く綺麗な茶色い髪をひとつにまとめ、マスクと黒縁メガネをした彼女の母は、見えているところが少ないのに、とても美人である事が分かりました。
「美姫?」
いつも家の扉を開けると余所行きの声になる母とは違う声がしました。
「まゆちゃん?」
私の母は"真雪”と言いますが、名前というかあだ名で呼ばれているところなんて見たことがありません。
母は"母”であるだと思っていた私は、母もあだ名で呼ばれる1人の人間なのだと知り、なんとも不思議な気持ちになりました。
「やっぱり美姫だ!うわぁ!変わってないー!久しぶりだね!何年ぶり?10年?いや、もっとだよね?後ろにいるのは娘ちゃん?初めましてー!」
母のやけに明るい声が響きました。
「そうね、10年は会ってなかったね。でもよく分かったね」
「えー、だって変わってないもーん!子ども産んでも美人なまんま!」
「ふふ、まゆちゃんも変わってない。ほら、野薔薇。挨拶して」
「野薔薇ちゃんっていうの?よく顔を見せてよ!」
母は後ろに隠れていた野薔薇の顔を覗き込み訪ねましたが、俯いた野薔薇は何も言わず俯いたままでした。
「私の娘は那由っていうの。今年11歳になるのよ。ほら、挨拶して」
母は笑顔のまま私を紹介しました。
「那由ですっ!」
私は精一杯明るい声で言いました。
「初めまして。野薔薇も今年で11歳になるの。夏休み明けから同じ小学校に通うから仲良くしてあげてね」
野薔薇の母が言いました。
私も母と同じように隠れる野薔薇を覗き込みました。
美人な母とは対照的に、黒炭のように黒い髪は触っていないのにゴワゴワしているのが分かり、分厚いメガネの下の瞳はつぶらで小さく、肌にはそばかすがありました。
だから母は何も言わなかったんだな。ていうか言えなかったんだ。
可愛くないもんな。
私はそう思いました。
不細工な子だ。
私の仲良しグループには入れないな。
そうも思いました。
「よろしくね」
"仲良くする”とは言ってない。
"よろしく”ってだけ。
母たちの手前そう言いました。
「じゃあ私、そろそろお仕事だから……」
「え、今から?あ!夜勤?」
「え……っとそんな感じ」
「そっかー!頑張ってね!じゃあまた!」
2人は挨拶を交し、母は扉を閉めると溜息をつきました。
「あんなに親子で顔が違うと、整形を疑われても仕方ないわよね」
そんなことを言っていた気がします。
「お友達なの?」
私の問いに母は答えてくれませんでした。
そして晩御飯の時に私が父の前でその話題に触れた時、母の眉間に小さいシワが寄ったのを見ました。
「そんな美人な方が引っ越してきたんだな。俺も挨拶に行くか?」
「やめて」
母は父の冗談にクスリともしませんでした。
夏休みが終わり、野薔薇は転校してきました。私が通っていた小学校は一学年3クラスあるのですが、野薔薇は私と同じクラスでした。
「白雪野薔薇です。よろしくお願いします」
消え入りそうな小さい声で野薔薇は言い、担任に後ろの席に案内されていました。
話しかけてきたら嫌だな。
そう思いましたが、野薔薇が私に話しかけることはありませんでした。
私の友達も野薔薇に話しかけず、他のクラスメイトが数人声をかけ、彼女はその子たちと仲良くしていました。
それでも、帰る場所は同じなのでマンション内で鉢合わせることは何度もありました。
「あ」
野薔薇が私に気が付くと、いつも悪い事をしたみたいな顔をします。
私は彼女をマンションで見かけると毎回階段を使いました。
5階にあるので体力を使うのですが、エレベーターで数秒一緒になるのも嫌で、私は野薔薇を避けていたのです。
嫌いとかでは無いです。
嫌いになるほど、彼女のことを知りませんから。
一緒にいるのが嫌だったのは、私とタイプが全く違うからです。
私は外で遊ぶのが大好きで、休み時間はドッチボールや鬼ごっこをしていましたが、彼女は教室で友達とコソコソとお喋りをしながらイラストを書いたり、教室にいない時は図書室にいました。
私たち2人が交わることなんて一度もありませんでした。
それでも、私たちの家が隣同士で母親2人が知り合いだという事実は変わりません。時々、野薔薇が私の家に来ることがありました。
「まゆちゃんごめんね。野薔薇を預かってもらっちゃって」
「いいのよぉ。野薔薇ちゃん、ほら上がって」
「お邪魔します」
「美姫さんもご飯食べていきなよ」
私は野薔薇母のことを"美姫さん”と名前で呼んでいました。
美姫さんは野薔薇より家に来る機会が多く、母が買い物に出かけている時は私が対応しており、仲良くなったのです。
「那由ちゃんは明るくて良いね。野薔薇にも見習って欲しい」
よくそう言われました。
美姫さんの喋り方は他の大人とは少し違い、年の離れたお姉さんみたいで、一人っ子の私は姉ができたみたいで嬉しかったです。
こんな人が母ならどれだけ良いだろうとも思いました。
「那由ちゃんごめんねぇ。私今からお仕事なの。また次の機会にお邪魔するから」
「遅くなりすぎないようにね」
「ご飯食べ終わったら家に帰らせて。1人で出来る子だから」
「じゃあね」と軽く手を振り、美姫さんはピンヒールをコツコツ鳴らしながら一度も振り向かずに歩いていきました。
「ご飯……しようか」
母は野薔薇を招き入れ、リビングに通しました。
私はソファに座ってテレビをつけ、野薔薇はウロウロしていました。
「野薔薇ちゃん、座ってくつろいでね。那由!宿題終わったの?」
「アニメ終わったら見るー」
「録画しとくから宿題終わらせなさい!」
「はぁい」
私は野薔薇をリビングに置いたまま自室に向かう途中、母が野薔薇に話しかける声が聞こえました。
部屋に入り、宿題に手をつけるも続く訳なく、漫画を読んだりしてご飯ができるのを待っていました。
コン、コン、コン
ノックが聞こえたのは1時間後くらいです。
「那由ちゃん……」
扉の外から聞こえてきたのは野薔薇の声でした。
「ご飯できたって……」
「はぁい」
漫画がいいところだったので、そのまま読み続けていました。
ガチャ
「え?」
扉を開けたのは野薔薇でした。
「え、なに?」
「あ……ご飯できたって……」
「え?聞こえたけど?今漫画読んでんの。読み終えたら行くから。勝手に開けないでくれる?」
「あ……ごめん……」
野薔薇はそう言ったのに、部屋の前でずっとソワソワしていました。
「ねぇ、なに?」
「あ……今読んでるのって『ヘヴン』の最新号?」
『ヘヴン』というのは少女漫画雑誌で、当時の私の愛読書です。
「そうだけど」
「わ、私も読んでるの!」
野薔薇の女子グループがコソコソと『ヘヴン』の話をしているのを私は知っていました。
私の友達は誰も読んでおらず、少し羨ましく思っていました。
「へぇー、そうなんだ」
「那由ちゃんは何が好き?私は『黒澤くんは黒王子』と『Kissで恋して』が好きなんだよね。『黒澤くん』は黒澤くん派と白井くん派で別れてて、私は白王子、白井くん派なの。ねぇ那由ちゃんは?」
「……黒澤くん」
「黒澤くんもかっこいいよね!無愛想だけど優しいところとかギャップ萌えっていうか……」
そこまで話してから、野薔薇は「しまった」という顔をしました。
好きなことを沢山話すと笑われると思ったのでしょうか。
彼女は怒られた時のようにしょんぼりしていました。
「白井くんもさ……優しさの中に触れられない過去みたいなのがあるから、なんか気になるよね」
野薔薇のことを肯定したかった訳ではありません。
ただ、私が好きだと思うものを共有したかっただけです。
「そう……そうだよね!」
野薔薇は嬉しそうに笑いました。
その顔は、美人な美姫さんによく似ていると思いました。
「ふたりともご飯できたよー!」
母に呼ばれ、私たちはリビングに向かいました。
晩御飯はハンバーグでした。
特別な日のハンバーグは中に半熟卵、上にはチーズが乗っていて豪華になります。
「うわぁ!」
野薔薇の驚く声を聞き、母は満足気に微笑みました。
「野薔薇ちゃんは何が好きなの?」
晩ご飯の間、母は野薔薇に質問を続け、野薔薇はそれにずっと応えていました。
それはご飯の後も続き、ここに来る前のことや美姫さんのことについても聞いていましたが、私は録画されていたアニメをソファでくつろぎながら1人で見ていたので、野薔薇がなんと答えていたのかは分かりません。
9時になっても美姫さんは戻ってきませんでした。
母は「まだ居てもいい」と言いましたが、野薔薇は首を振りました。
「宿題が終わっていないので」
そう言って隣の家へと帰っていきました。
それと入れ違いに、父が帰ってきました。
「お母さんが帰って来ないなら泊まったらいいのに」
父も母も心配そうにしていましたが、私は、明日野薔薇が『ヘヴン』について教室で話しかけてきたらどんな対応をしようかとか、そんなことばかりを考えていました。
結局、美姫さんが帰ってきたのは12時を過ぎてからで、トイレに行った時に母と美姫さんの声がリビングから聞こえていましたが、寝ぼけていたので何の話をしていたかまでは知りません。
次の日、野薔薇は教室で話しかけてきませんでした。
いつものように、仲良しグループの子達と内緒話をするようにコソコソ話すだけです。
変わったことといえば、教室を出てマンション内で出くわしても、私は野薔薇を避けることをしなくなり、エレベーターで出会うとどちらかともなく『ヘヴン』について話すようになりました。
仲良しではないけど、気の合う幼馴染でした。
しかし、6年生に上がった時、野薔薇について変な噂が流れるようになりました。
野薔薇についてというか美姫さんについてです。
水商売をしている。
その事は私も知っていましたが、当時は"水商売”がどういう意味を持つのか、正確には理解出来ずにいて、私は"綺麗な格好で夜の仕事に出る人”のことだと思っていました。
「違うよ。男の人を"たぶらかす”ことだよ」
同じクラスになった野薔薇と仲が良かった子にそのようなことを言われました。
「たぶらかす?」
「小悪魔ってこと」
"小悪魔”は『ヘヴン』でも度々出てくるワードだったので意味は何となく分かります。
しかし、それが美姫さんに当てはまるのかは分かりませんでした。
「それが仕事なの?」
「危険だしそういう仕事してるお母さんってヤバいんだって。だから、あまり遊ばない方がいいってウチのママが言ってた」
彼女は野薔薇と遊ばなくなり、野薔薇は男子からからかわれ、女子からは避けられるようになりました。
私は野薔薇とはクラスが違いましたが、野薔薇が1人で居るのをよく見かけました。
だからといって話しかけることはしませんでしたが、野薔薇も、特に1人でいることに気まずさや孤独感を感じているようには見えませんでした。
エレベーターで話しかけても、弱音を吐くことやクラスメイトから無視されていることを私に打ち明けたりもしませんでした。
美姫さんにも言っていなかったようです。
数週間に一度、美姫さんは野薔薇を私の家に預けました。
母も最初は快く引き受けていましたが、頻度が増えていくにつれ、少し不機嫌さを露わにするようになりました。
ある日から美姫さんは野薔薇を連れてこなくなりました。
「野薔薇ももう6年生だしね。晩御飯くらい作れるようになったから」
5年生の時の調理実習、野薔薇は卵焼きを盛大に焦がしていました。
料理が上手になったのか、それとも美姫さんがついた嘘なのか、それは分かりません。
でも、学校のことは話さなかったのに、私の家に行きたくなかったことは伝えたのかと思い、私は酷く傷ついたのでした。
中学生に上がる直前、祖父が亡くなり、祖母を1人にしておけないからということで、私たち家族は祖母の住む家に引っ越しました。
校区は変わらなかったので、中学も野薔薇とは一緒でしたが、会うことは極端に減りました。
住むところもクラスも別々、私は陸上部に入部し、野薔薇は手芸部に入ったそうです。
ほとんど関わらず、野薔薇の話も全く聞かなくなって1年経った1年の終わりに、また野薔薇の噂が流れてきました。
「手芸部の地味女がリョータ先輩と付き合っている」
リョータ先輩というのは、私と同じ陸上部で生徒会長もしている人です。
人望があり、明るくて賢く、その上イケメンでもありました。
リョータ先輩を狙っている陸上部員も沢山いました。
私も密かに憧れていましたが、高嶺の存在でした。
そんな人が手芸部の地味女と付き合っている。
その噂を聞いた時、手芸部の誰かとは聞いていないのに、直感的に「野薔薇だな」と思いました。
噂の渦にいたくない子なのに、その種になりやすい子なのです。
「なんかぁ、ヤバい母親がいるって噂」
同じ小学校ではない陸上部の同級生、田中芹菜が準備体操中に教えてくれました。
「私、その子知ってるかも」
「まぁじぃ?どんな子?地味可愛いって感じ?」
「ううん。地味な子」
「うへぇ。リョータ先輩ったら地味専かよ。愛美先輩のこと、どうすんだろ」
リョータ先輩と書記で幼なじの愛美先輩は、付き合っているとは言っていないけど、みんなが知ってる公式な彼女みたいな存在でした。
そんな彼女からしたら、野薔薇はどのように映るのでしょうか。
「交友関係派手だしねぇ。イジメ……とまではいかなくても無視とかされそうだよねぇ」
「ふーん」
「まぁ、関係ないよね」
「そうね」
そう言って準備体操は終わりました。
関係ないのです。
小学校が一緒で母親が仲良しだっただけの子なのです。
なのに、私はその話を母にしました。
「野薔薇っていたじゃん?」
私が母にそう言ったのは祖母と母とで晩御飯を食べていた時でした。
「野薔薇ちゃん?」
祖母が聞きました。
「お母さんの友達の子の名前が野薔薇って言うの。白雪野薔薇」
「白雪……?」
「野薔薇ちゃんがどうしたの?」
「イケメンの先輩と付き合ってるんだって」
「あぁ!白雪って、真雪が付き合ってた人と付き合った、あの地味な子かぁ!」
目を見開き、大きな声で祖母は言いました。
「仲良かったのになぁ!よく家に遊びに来てたなぁ!」
母は何も言わずに黙々と白ご飯を食べていました。
祖母はそれだけ言うと「風呂」と言ってリビングを出ていきました。
私と母の咀嚼音だけが響いていました。
私はたくあんを飲み込むタイミングを失ってずっと噛んでいました。
「お父さん、遅いね」
母が言いました。
父の帰りが遅くなったのはこの家に越してきてからです。
祖母と長くいたくないのだろうというのは何となく分かりますが、だからといって美姫さんのお店に行くのは違うよなぁ、と思っても、私はそれを伝えると母が傷つくことが分かっていたので、何も答えませんでした。
美姫さんは父を誑かしたのでしょうか。
やはり小悪魔なのでしょうか。
私は中学生になっても『ヘヴン』を買って読んでいました。
野薔薇も、まだ読んでいるのでしょうか。
リョータ先輩の噂は陸上部だけではなく、学校中に広がっていました。
そしてその噂の人は、やはり野薔薇のことでした。
リョータ先輩は「付き合っていないし知らない」の一点張りで、数日後、愛美先輩と正式に付き合いだし、残ったのは野薔薇の噂のみになりました。
"リョータ先輩と付き合っていると言った虚言癖の女”
その噂はもちろん手芸部まで回り、野薔薇は仲良くしていた手芸部の先輩たちからも陰口を叩かれ、同じクラスの人からも無視され、とうとう学校に来なくなったそうです。
「リョータ先輩も悪いのに、ちょっとヒドイよね」
そう言った芹菜も、リップを付けたというだけで先輩から「思いあがっている」と言われるようになり、陸上部を辞めたので、これ以上野薔薇の話を聞くことはありませんでした。
しかし、何の縁なのでしょうか。
部活で怪我をして保健室に行ったら、そこに野薔薇がいました。
「那由ちゃん?」
「保健の先生、いないの?」
「会議に出てるんだって。どうかしたの?」
「怪我しちゃって」
「あ、本当だ。水で洗った?」
「あー、一応」
「じゃあ消毒してあげる」
「いいよ」
私は棚から消毒液と脱脂綿を取り、自分で手当をしました。
それを野薔薇は黙って見ていました。
その顔が、何故か始めてみる顔をしていて、不思議でした。
「陸上部なんだよね」
「まぁね」
「田中さんも陸上部だったよね」
「芹奈のとこ知ってんの?」
「うん」
意外でしたが、芹菜は派手だから名前ぐらい知っているかと思いました。
「最近、連絡先交換したの」
「え」
驚きました。
2人に接点なんてないはずです。
それに、芹菜は野薔薇みたいな暗くて地味な子、苦手なはずです。
「この前、保健室で会ったの。先輩に殴られたとかなんかで」
「あぁ……」
リップを付けて怒られた芹菜は、1回だけでは辞めませんでした。
それにキレた先輩が芹菜を呼び出したそうですが、まさか殴られていたとは。
「その手当をしてあげたんだけど、その時に私の眼に気付いたみたいで」
「眼?」
野薔薇のことをよく見てみると、二重になっていました。
「アイプチなの」
「アイプチ……」
だから初めてみる顔になっていたのか、と納得したのと同時に、アイプチとかするのかと思いました。
「それでメイクの話になったの。お母さんが持ってるメイク道具しか知らなかったんだけど、私に合うメイクの仕方とかメイク用品について色々教えてくれるって言ってくれて。今度一緒に遊びに行くの」
「ふーん」
顔が変わっても、好きなことになると話相手のことを忘れて早口になるところは変わっていませんでした。
『ヘヴン』の話題になった時も同じ顔をしていた気がします。
「『ヘヴン』ってまだ読んでる?」
「ヘブン?あー、『黒澤くん』完結しちゃったね」
「ね」
「面白かったよね」
「面白かった」
野薔薇は、もう『ヘブン』を読んでいないのでしょう。
それでも一緒に「おもしろい」と言っていた漫画のタイトルがすぐに出てくれた事が、私は嬉しかったです。
その後すぐに保健の先生が帰ってきて、私が自分でした怪我の手当を少し直してくれて、私は部活に戻ろうとした時、野薔薇に呼び止められました。
「那由ちゃん、ごめんね。私ばかり話しちゃって。お母さん、この前那由ちゃんどうしてるかなぁって言ってた。私の家はあのままだから、また今度遊びに来てね」
私は「うん」とだけ言って、保健室をあとにしました。
しかし、野薔薇の家に行くことはありませんでした。
芹菜と野薔薇がこの後も仲が良かったのかも分からないまま、私たちは中学を卒業し、私は近所の高校に入学しました。
ありふれた日常に、野薔薇だけはいなくて、そしてそれが当たり前になったある日、私は野薔薇と再会しました。
「野薔薇?」
「え」
「白雪野薔薇だよね?」
「う……ん」
「那由だよ」
高校3年の冬でした。
「あ!那由ちゃん!!」
電車のシートに座っていた私の前に、吊り革を持った細身で長い黒髪が綺麗な女の人が、野薔薇でした。
空いた隣の席に座った野薔薇は、なんだか良い匂いがしました。
「えー!久しぶり!」
「ね、久しぶり」
「何年ぶり?もう高校生だよ」
「卒業しちゃう」
「全然あってなかったよね~」
「本当」
「大学、どこ行くの?」
「東京の専門学校」
「えー!すごい!一人暮らしじゃん」
「まぁね」
私は東京にある服飾の専門学校に行くことが決まっていました。
野薔薇は高校に入って本格的にメイクを始め、そこから人にメイクをすることが楽しくなり、メイクの学校に行きたかったそうですが、学費の関係で諦めたそうです。
「整形するお金欲しいから働こうとおもうの」
「整形するの?」
「うん」
即答でした。
「お母さん、なんて?」
「え、何も。良いんじゃないって言ってたよ」
「へぇー」
昔、母が言っていた言葉を思い出しました。
忘れていましたが、野薔薇は不細工で、美姫さんは美人でした。
「ここに住んでる人ってさ、変わらないじゃない?だから変化に敏感でさ、整形すると顔変わるから、やり辛いっていうのはあるんだけど……」
「東京に行ったらいいよ」
「え」
私の口は、かつての野薔薇のように勝手に動いていました。
「東京は"そういう人”が沢山いるよ。そうだ!一緒に東京行こうよ。一緒に住んだら家賃も安いし、働き口だって東京の方がいっぱいあるよ。私と一緒って美姫さんに言ったら、きっとOKしてくれるよ」
私はずるいのです。
野薔薇が「じゃあそうする」と言わないことを分かっていて、わざとそう言いました。
野薔薇は困ったように泣きそうな顔をしながら、
「ありがとう」
たったそれだけ言いました。
その後、中学の時の話をしたり高校での話をしたりしましたが、私も野薔薇も東京や整形の話はしませんでした。
「じゃあまたね」
「うん、また」
私たちはそう言って別れました。
数ヶ月後、私は東京に行き、学校とバイトに励み、地元のことなんてすっかり忘れて生きていました。
東京には想像通り色んな人間が住んでいました。
服装が奇抜な人、少女のような男性、坊主の女性、ずっと眼帯をつけてる人、何かを叫んでいる人、プラカードを持つ団体、様々でした。
そういう人を見る度、私は自分を見失うのです。
己の平凡さにひれ伏し、井の中の蛙であることを思い出すのです。
なんで私のような人間が東京なんかに来たのか。
他に来なければならない人間がいたはずなのに。
そんな事を思いながらも私は東京にしがみつき、今年で10年目になります。
この間、休みを利用して久方ぶりに地元へと帰りました。
世界は著しく変化していくというのに、私が数十年を過ごしたあの地元は時を止めたように何も変わっていませんでした。
ユルユルと進む電車の中で、野薔薇によく似た女性を見かけた気がします。
その隣にはリョータ先輩によく似た男性と、あの頃の野薔薇によく似た女の子がいました。
彼女が今も変わらず幸せで暮らしていることを、私は願ってやまないのです。
何をしているかなんてどうでもいい、幸せに生きていたらそれでいいって思ってる、中学時代の同級生のことを思いながら。