第二十話 お嬢様の決心
俺は眠ったままのリーゼロッテを横抱きにして運んでいたのだが、途中で目覚めた彼女は「一人で歩ける」と言う。
素直に床に降ろして、俺はゆっくりと歩みを進めるリーゼロッテについて行った。
少し話がしたかったので、俺はリーゼロッテに続いて部屋に入る。
部屋に置いてある調度品は高級ホテルもかくやというレベルの逸品だが、如何せん数が少ない。
男が一人暮らしをしている部屋を綺麗にして、極限までハイセンスにしたようなイメージだ。
「すごいわね。本当に時間が停まってるわ。時計はちっとも動かないし、屋敷には誰もいないみたい」
「なあ」
「いいのよ、アラン。今までのは全部、私の我儘だわ。……そうよね、ハルとは結婚できるか分からないけれど、私だって統治者になるかもしれないのだし。いつまでも子どもじゃいられないわよね」
リーゼロッテは事も無げに言う。
しかし、今まで感情を隠したことなど、一度も無いような奴だ。
感情を隠す術を知らないのだろうその顔には、言いようもない寂寥感と無念さが滲んでいる。
「諦めるのか?」
「そうするしかないじゃない。相手は神様よ? それに…………いや、何でもない。とにかく、もういいの」
「それに、何だよ。俺にだって分かることはあるんだぞ? リーゼロッテ。お前が夢を諦めるって言い始めたのは、俺とハルが巻き込まれるって聞いたときだよな?」
「うっ」
嘘も下手だ。
こんなことで、伏魔殿のような王宮に行って、生きていけると思っているのだろうか?
「俺たち全員の記憶が消されたって、ただの執事と、ただの婚約者に戻るだけだ。関係性なんて……そんなに変わらないよな? 困るのは、世界をリセットするとかいう方だと見たね」
「そんなことは……」
「隠さずに教えてくれ。本来の道で、俺たちはどうなる?」
「……もしもヒロインに選ばれなければ、不幸な道を辿ることになるわ。アランも、ハルも。でも、いいじゃない。私が大人しく悪役令嬢を演じれば、記憶を持ったままストーリーを進められるのよ。最悪の事態は回避できるわ」
最悪の事態……ね。
リーゼロッテは国を追放されるかもしれない。
だが、今のうちに追放先を豪華にしておいて、何不自由なく暮らしてもいい。とも言われていた。
大人しく悪役令嬢をやるデメリットは、評判が下がることと、格闘家の夢を諦めることだけだ。
では、俺たちは?
命を落とすか、あるいは、その死に方が惨いか?
馬鹿にしないでほしい。この五年間で、俺が何度命を懸けたと思っているのか。
運よくここまで来られたが、命を失いそうな場面は何度もあった。命は惜しいが、今更過度に惜しむほどのものでもない。
「公爵家の私兵や騎士団、武神様なんかと一緒になって、神様に戦いを挑むという道もある」
……現状、俺にとって気がかりなのは、ハルを巻き込むことくらいだ。それ以外はどうでもいい。
「世界を巻き戻す」とやらにどれくらいの時間がかかるかは分からないから、暗殺を狙うことになるし。首尾よく倒せたとして、無限に生き返る可能性もある。
難易度こそ高いが、全く打つ手が無いというわけでもない。
東部の覇権国家アイゼンクラッドの兵力はかなりのものだ。それに対して、どれだけ強いと言っても相手は一人。
袋叩きにして、復活した瞬間に倒し続けるという手だってある。
王宮の魔導士を搔き集めれば、クロスを封印することだってできるかもしれない。
リーゼロッテとハルには護衛を付けて城に放り込み、俺たちで神殺しをやってのけるという道だってあるのだ。
できるかどうかは別として、だが。取れる手はまだある。
「そんな大事にしてどうなるって言うのよ。私が他の夢を探せばいいことでしょ? それでいいのよ、アラン。私はもう、諦める決心がついたの」
「でもよ。それじゃあ、リーゼロッテは」
「いいの。……少し眠りたいから、下がって」
リーゼロッテはベッドにダイブしたきり、枕に顔を埋めて、こちらを振り返ることはなかった。
何度か声を掛けたが、一度も振り返らない。
取り付く島もない、という態度だったので、俺は諦めて部屋を出る。
「本当、不器用だよな」
泣き出すのが早いんだよ。と、俺は呆れる。
廊下にいても、部屋の中からくぐもった泣き声が聞こえる。
恐らく、枕に顔を埋めたまま泣いているのだろう。
……まあ、せっかく隠そうとしたものを、ここで聞いているのも無粋か。
いつもは誰かしら夜遅くまで動いている公爵邸だが、今日は物音一つしない。
廊下を少し歩いてみるが、途中で通る玄関や食堂、窓の外に見える、いつもと変わり映えしない景色。見慣れた景色のはずなのにどこか遠く、日常感がない。
まるで遠い昔に滅んだ国の、遺跡に迷い込んだような――。
妙な気分を覚えながら、俺は男性使用人寮に向けて歩き始めた。
俺は一度、男性使用人寮にある自分の部屋に戻ってきた。
しかし、蝋燭の灯りも付いておらず、部屋の中には誰もいない。
二人一部屋なので、この時間なら本来はアルヴィンがいるはずなのだが。姿は見えなかった。
ここに来るまで誰一人として姿を見ていないので、もしかしてとは思っていたが、その通りだったようだ。
今この屋敷の中で……もしかするとこの世界全体を見ても、動いている人間は俺とリーゼロッテの二人だけなのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は自分のクローゼットから部屋着にしている服を取り出す。
これは「あなたをトレーナーに任命するわ!」と宣言するリーゼロッテから無理やり手渡された、俺専用のトレーニングウェアだ。
これを着て一緒にトレーニングができたことが嬉しかったのか、リーゼロッテは奥様におねだりをして、俺のウェアを六着も揃えた。
俺が元々服をあまり持っていなかったこともあり、クローゼットの半分近くのスペースが、高価なウェアで埋まっている有様だ。
「これだけあれば毎日トレーニングができるわね!」などと言っていたが、もちろん俺にそんな時間はないため、主に部屋着として使われている。
さて、ラフな恰好に着替えた俺は、ベッドに寝転んで、また考え始める。
もしもうちのお嬢様が普通の「お嬢様」になると言うのであれば、俺は様々な苦労から解放されることだろう。
それは屋敷の人間全員の悲願でもある。
いいことか悪いことかと聞かれたら、間違いなくいいことだ。
俺だってもう変な事件に巻き込まれずに済むし、打ち首の心配などしなくていいようになる。
屋敷の外に出ることも少なくなり、安全な公爵家の中にいながら、護衛の手当だけはしっかり貰えるようにもなる。
馬鹿みたいにキツいトレーニングに付き合うこともなくなるし、淑女の教育など、今よりもずっと楽になるだろう。
まったく、いいことづくめだ。
……それでも。
「自由に動く身体が幸せで、お父様もお母様も優しくて……ね」
前世とやらでどれだけ辛い目にあったのかは聞いていないが。
前の世で未練があったから、ここに生まれ変わったのだ。
そこまでして諦め切れなかった夢を諦めてもらって。
泣きじゃくるリーゼロッテを見捨てて。
「はい、解決」という終わり方はナシだ。少なくとも、俺はそう思う。
……それ以前に、お淑やかなお嬢様など、最早違和感でしかない。
リーゼロッテの望みは格闘家になるため、全力で体を鍛えること。
その望みは、「恋愛ゲーム」を望んでいる神様の思惑とは、すこぶる相性が悪い。
先ほど提案したように、クロスと戦うか。
それとも、このままリーゼロッテに夢を諦めさせるか。
俺の中で、選択肢はその二つに絞られていた。
「……さあ、どうする。アラン・レインメーカー」
俺はベッドの上で目を瞑りながら自問する。
振り返れば、俺の短い人生はいつだって逆境だった。
いつだって不利な状態で、いつだって理不尽なスタート地点だった。
どんな時でも逆転の目を探してきたのだ。
いつ、いかなる状況も覆してきた俺ならば。いっそ神様だって相手どれるのではないか?
本当によく考えたか。
手は尽くしたか。
俺は、ベストを尽くしたか。
もう少し考えろ。この状況を好転させる何かを。
リーゼロッテは既に諦めている。
もっとよく考えろ。
この状況を変えるのは、俺にしかできない。
何のために公爵家から、高い給料を貰っていると思っている。執事なら、主の要望を満たしてみせろ。
それがエドワードさんから教わった、執事の心構えってやつだろうが。
とにかく考えろ。
誰も悲しませない……いや、リーゼロッテを悲しませないで済む方法を。
考えて、足りないアタマをフル回転させて。
考えて、考え抜いて。
やがて俺は、一つの結論らしきものに至る。
考えた末、俺の答えは――――。
「分からねえな」
そうだ、分からない。
分かるわけがないんだ。
俺の結論はこれだ。




