とある日侍従はお仕置きしに帰りました。(前編)
ガタン!
重いものが擦れ合うような音がした後に来た、前方に上半身が少しつられるような感覚にラウールは僅かに顔をしかめた。何度体感してもこの浮遊感には慣れるものではない。
乗っているのが王宮の馬車だけあって、この馬車が出発してから停止するまでにラウールが不快な思いをすることは無かった。しかし、停車時に感じるふわりと体が浮き上がるようなあの感覚ばかりは、熟練の御者の技であろうとも完全に消し去ることはできないようだった。
(ま、酔わなかっただけマシか)
ラウールは馬車酔いに強い方ではない。寧ろ極めて弱いと言えるだろう。
そんな彼は以前馬車酔いのせいでフィリップの前で醜態を晒したことがあった。正直思い出したくもないレベルの、悪夢のような醜態だった。王家が比較的寛容で自分がまだ見習いの身だったから良かったものの、そうでなかったらと思うと恐ろしくて仕方ない。ラウールとしては自分の首と胴体には仲良しこよしでいてもらいたいのだ。
(あん時は俺の人生終わったーって真っ青だったっけな。フィリップは汚れた服を着替えるために公務の予定をずらす羽目になったし、俺は俺で半日は従者として使い物にならなかったし……馬車の清掃とちょっとした反省文で済んでホント良かった)
ラウールが当時のことを思い出して遠い目をしていると、馬車の戸がコンコンとノックされ、随伴の護衛の声がした。
「ラウールさま、到着いたしました。お降りになっていただいても結構です」
「分かった。先触れは?」
「今出しました」
「よし」
(逃げる暇など、与えてやるものか)
ラウールは唇の端を吊り上げた。——が、その目は対照的に凍りついている。
今日ラウールが実家であるブラン伯爵家に帰って来たのは、帰省を楽しむためなどではない(そもそも帰省がただ楽しいだけのものになったことは無い)。主人とその婚約者を危険に晒しただけでなく、ラウールの大切な者を蔑ろにし危害を加えた愚か者達に、王家からの命を伝えるためだった。
ラウールは懐にある一枚の紙の重さを感じながら目の前の古い屋敷を見上げた。
「さて、行くか」
* * *
ラウールは幼い頃からかなり器用な人間だった。分厚い革張りの本に書かれた国法は全て暗記していたし、歴代の国王や王妃の名前だってそらで言えたし、剣術も同年代の令息たちの中では負けたことなど殆ど無かった。
中でも得意としたのは魔法だった。
魔法を魔道具なしで使える人間は極めて少数だが、ラウールはその『少数』の中にいた。
ラウールの実家であるブラン伯爵家は初代当主がグラネージュ王国の建国を助けたとして爵位を得て創立された家門だが、初代当主が魔女であったことから、魔法を媒体無しで使える人間を密かに取り込み『保護』するための組織としても機能していた。そのため、ブラン伯爵家一門に生まれた者の多くは魔法を得意としていた。そしてブラン伯爵家の代々の当主は初代当主の異名にちなみ『白魔女』と名乗り、王家に仕えている。
そんな家に生まれたラウールは、必死で学び、鍛錬を行い、自分を磨き上げていた。
(いつか俺も、父上や母上みたいに立派な人になって、家門のために尽くしたいな)
ある日のことだった。
他の貴族家の子息達と遊んでいた時に、将来の話になった。
将来何の仕事につくのか、家のために何をしたいのか。皆競って自分の夢を語り合った。普段は寡黙な子息さえも、目を輝かせて話に加わっていた。
「ラウールは、どうするんだ?」
その場にいた子息たちは皆のめり込むように自分の話をしていたので、それまで聞き役に徹していたラウールに質問が向けられたのは当然のことだったのだろう。
「俺?」
ラウールが目を瞬かせると、子息達はうんうんと頷き、興味津々といった様子でこちらに目を向けてきた。
「俺は——」
「ラウールは、長男だし、家を継ぐんじゃないか?」
ラウールが答えようとしたのを遮って、子息の一人がそう言った。彼はラウールの声に気づいておらず、言葉を被せてしまったことに全く悪気は無かったようだった。
「確かに、それなら将来はブラン伯爵家当主になるんだろうな」
同様にラウールが言いかけたことに気づいていなかった子息がそう相槌を打ったことでラウールの返答はなあなあになった。
幸い(?)ラウールはその程度のことでキレるような性格はしていなかったので、その場で反論することはしなかった。それに、他のことを考えるのに忙しかったのだ。
(当主? 俺が?)
考えてみれば、下に弟妹もいないことだし、世間では長男が家を継ぐのが順当だとされている。それならばやはり自分が伯爵家の当主になるのだろうか。
——もし自分が当主になれば、両親のようにもっと家に尽くせるようになるかもしれない。
(……うん、良いかも)
まずは両親に相談してみよう。ラウールはそう考えながら他の子息達の話に相槌を打った。
「——え?」
帰宅後、夕食の席で早速両親にその日子息達と話したことや将来自分は当主になって一族のために働きたいといったような意気込みを告げると、両親の顔色が明らかに変わった。
二人とも青ざめた顔をしているのは同じだったが、父はラウールを哀しげに、母は未知の生物を見たかのような表情を浮かべているのが対照的と言えた。
「父上……? 母上……?」
周りのメイド達の様子もどこかおかしかった。気まずげな表情を浮かべながらラウールから視線を逸らしていくのだ。ラウールが食堂に満ちる異様な雰囲気にうろたえていると、母が突然眦をキッと吊り上げ、まるで親の仇を見るかのようにラウールを睨みつけた。
「お前まで私を馬鹿にするの!? 私には跡継ぎが産めないからと、お前までが!!」
「ぇ、はは、ぅえ、」
美しい顔を歪め、ラウールの母は狂気的な瞳で彼を射抜いた。ラウールとて母に叱られたことは何回かある。けれど、叱られる時とは全く異なるその視線の冷たい熱さと鋭さに本能的な恐怖を感じ、母上、と呼び掛ける彼の声はか細く震えた。
母はそのままの勢いで続けて吐き捨てた。
「良いわよね、お前は男で。男ならこんな思いをすることなどないんだもの! っ、どうして私ばっかり——」
「やめなさい」
静かな声がその場を圧した。然程大きな声だったわけではないが、落ち着いた低い声は確かにその場に満ちる空気を洗った。
「——ぁ、わた、し」
「頭を冷やしてくるといい」
「……ええ」
父の言葉に我に返った母は、憑き物が落ちたかのように怒気を収めた。彼女はラウールの視線から逃れるように目を伏せて席を立ち、そのまま食堂から出ていった。
母が出ていくのをぼんやりと見送ったラウールに父は向き直って、落ち着かせるように微笑んだ。
「ラウール、おいで。私と話をしようじゃないか」
「……はい、父上」
父はラウールを自室へ招いた。侍女が熱いココアを自分と父の前に置くのをラウールはソファーに座ってぼんやりと見つめていた。
「――さて、何が聞きたい?」
ラウールは向かいに座る父をのろのろと見上げた。
「……どうして、母上は、」
そこまで言いかけて、それ以上は声が出なかった。ラウールは何度も口を開き、言葉を絞りだそうとしたが、凍りついた声帯は思い通りに震えてはくれなかった。口をパクパクとさせる自分はさぞ滑稽なのだろうなと彼は頭のどこかで思った。
ラウールの様子を見て目を伏せた父はゆっくりと頷いた。父もラウールが聞きたいことは初めから分かっていたのだろう。
「――ブラン伯爵家の現当主がお前の母上なのは知っているね」
「……はい」
「私は入り婿だが、代々のブラン家当主もまた同様に入り婿を迎えるのを慣わしとしてきた」
「え?」
ラウールは目を瞬かせた。彼は年の割に物分りが良かった。すぐに父親の言わんとするところを汲み取った。
「あの、それではもしかして」
「うん。ブラン伯爵家を継げるのは女性だけなんだ」
だから代々の当主は白「魔女」って名乗ってるんだよ、と父は苦笑した。
(ああ、そういうことだったのか)
当主になりたいと言った時の父やメイド達の反応の理由に得心がいった。代々の当主の殆どが女性であることを常日頃疑問に感じていたが、女性しかその資格が無いということならば頷ける。当主が男性であった時は「仕方なく」ということなのだろう。男性当主は皆比較的近い親族の女性と結婚していたはずだ。
(でもどうして母上はあんなにお怒りだったんだろう)
ラウールのその疑問に答えるように、父は苦しそうな表情を浮かべて言った。
「今のブラン家本家には子供はお前一人で跡継ぎとなる女児がいない。お前の母上はそのことに酷く悩んでいるんだ。……だから決して、お前を嫌いであのようなことを言った訳では無いんだよ」
「……分かってます」
分かってはいる。自分を罵った母は、我に返った後、傷ついた顔をしていた。
(まぁすぐに母上を許せるかは別だけど)
事情を知らないラウールを一方的に責め立てたのだ。彼が拗ねるのも当然だろう。
ふと、疑問が頭に浮かんだ。
「あの、そういえばどうして女性でなければならないのですか? 何か理由があるのでは?」
ラウールの言葉に父は目を見開き、――くしゃりと顔をほろ苦く歪めて笑った。
「ああ……それはね――」
――返ってきた答えにラウールは唖然とし、呆然とし、そして泣き叫んだ。
どうしてそんなことで自分は当主を継げないのか。
どうしてそんなことのために母が苦しまなくてはならないのか。
そんなことを喚いた記憶がある。
ラウールが散々に父に当たり散らすのを父は自分のせいではないのに申し訳なさそうな、悲しそうな顔で受け止めていた。