アンソロジーコミック発売記念
王弟たちが起こした事件からひと月後。
フィリップの立太子式はおおむね恙なく執り行われ、フィリップもシェリアも最近は残り一年を切った結婚式の準備に奔走していた。
シェリアは今日、結婚式で着用するドレスのデザインを決めるために王宮に来ていた。
王妃が付き添う予定だったのだが体調が思わしくなかったため、アニエスが彼女の代役を務めることになった。
因みにシェリアの母も来るはずだったのだが、領地から出てくる途中、天候が悪化して嵐に遭ったので間に合わなかったのだ。尤も、明日には到着するそうだが。
そういう訳で、シェリアはアニエスと二人、ああでもないこうでもないと頭を突き合わせてドレスのデザインを吟味していた(但し、約一名の熱量が異様に溢れ返っていた)。
「———ああっ、やはりこちらのデザインの方がお姉様の優雅な立ち姿が際立ちますわ! ……いえ、でもそちらのエンパイアラインのドレスも神話の女神を彷彿とさせて正にお姉様のためにあるようで捨てがたいですの!! それともこの妖精の纏う衣のようなオーガンジーの……って、お姉様? 溜息なんてお吐きになられて、如何なさいましたの?」
「え、ええ。ごめんなさい、何かしら」
シェリアはアニエスの怪訝そうな声にハッとして、ごまかすように女神の微笑みを浮かべた。
「先程から心ここにあらず、といったご様子でしたので、声を掛けさせていただきましたの。何かお姉様のお心を曇らせるようなことが———まさか……またお兄様が!?」
クワッ、と金緑の目を見開いたアニエスは、『あの愚兄が……! どうやら徹底的にお話をする必要がありそうですわね……』と何やら恐ろしげなことをブツブツと呟き始めた。それを見てシェリアは慌てて首を振った。
「ち、違うのよ。殿下は何もなさってなどいないわ。……あ、いえ、『何も』ではないけれど、ってそうじゃなくて、」
アニエスの言葉を否定すると同時に学術院でシェリアが危機に瀕して以来のフィリップとのアレコレも思いだしたついでに口に出してしまい、墓穴を掘ってしまったことに気づいた挙句、思考がぐるぐると回りシェリアは何だかよく分からなくなってきてしまった。
「え、と、だから、大丈夫! 殿下に何か酷いことをされたとかではないのよ、本当に!!」
「わ、分かりました。分かりましたから落ち着いてくださいませお姉様!」
押し込むような勢いで否定してきたシェリアの顔が茹で上がっていくのを見て、アニエスは呆気にとられると共に、これは馬に蹴られる案件だと理解したようで、矛をおさめてシェリアをなだめた。
「はぁ……何事もないのでしたら良かったですわ。それと、お兄様とも順調そうで何よりですの」
アニエスが遠い目をして息を吐くと、シェリアは複雑そうな顔をした。そして、赤い顔のまま、歯切れ悪い口調で言った。
「順調……と言えばそうなのだけれど……その、き、キスはしてるのよ? でも、私から何かしたことは無くて……」
数日前に参加した茶会で、友人たちと所謂“恋バナ”をした際に彼女たちがシェリアの思っている以上に婚約者や夫に積極的で、自分のフィリップに対する積極性は足りていないのではとシェリアは思ったのだった。思えば、あのララだってフィリップにアプローチしていたのだ。それが良いか悪いかは別にして。
「……もう少し殿下に積極的になった方がいいのかしら。それに……もっとフィルに近づきたいし……」
シェリアが最後に本音をポツリと呟くと、正面にいたアニエスが懐から出したハンカチで鼻を押さえた。
「……どうしたの? 風邪でも引いたの?」
「いいえ、世界の美しさを実感していたのですわ」
「?」
言葉の意味がよく分からなかったシェリアが小首を傾げると、アニエスは「んぐっ」と呻き声を漏らし、部屋に控えていた女官や侍女たちはいっせいに咳き込んだ。
(風邪でも流行っているのかしら……? 今度、ジンジャーティーを贈ろうかしら)
少ししてアニエスは何事もなかったかのようにハンカチを外して侍女に手渡した。……そのハンカチに何やら赤い斑点が見えたのは気のせいだったのだろう。
コホン、と一つ咳をしてアニエスは口を開いた。
「……正直に申しあげますと、お兄様はお姉様がそばに居らっしゃるだけで幸せだと思いますわ。でも、お姉様がお兄様にアプローチなさるなら、きっとその何倍もお喜びになりますわ」
「やっぱり、そうなのね……」
シェリアは目を伏せた。
(何をすればフィルに喜んでもらえるかしら……。ハンカチに刺繍をしようかしら。でも、前に贈ったことがあるのよね)
うーんうーんと悩んでいると、アニエスがふふっと笑った。どこか悪女めいた、何か企んでいるような笑みだった。
「お姉様、お耳をお貸しくださいな。私にいい考えがありますの」
「……?」
「お兄様に———」
耳元で囁かれたアニエスの言葉に、シェリアは目を見開いて顔を真っ赤に染め上げた。
「え、で、でも」
「大丈夫です。お兄様は絶対にお喜びになりますわ!!」
戸惑うシェリアに、アニエスはそう断言して大きく頷いてみせた。
* * *
フィリップの部屋は、王太子になってから王太子専用の棟に移ることとなった。付属している庭が広くなったので、フィリップはそのうち大きめの四阿を建てようと考えている。勿論、誰にも邪魔されずにシェリアとのんびりお茶を楽しんだりするためである。……そこに下心が無いか、と訊かれれば否定はできないが。
その棟の一室で、フィリップはいつもの如く執務に励んでいた。ペンを走らせていると、ふと、今日の予定が思い起こされた。
(……そういえば、今日はシェリィが王宮に来ているんだったな。早く終われば少しくらい二人の時間がとれるだろうか)
王妃やシェリアの要望により、フィリップはドレスのデザイン決めには参加していない。何でも、結婚式当日に一番綺麗な姿を彼に見せて驚かせたいのだとか。
(本当は私が選んだものを身につけて欲しかったんだが……シェリィの希望でもあるしな。当日のお楽しみということにしておこう)
ふ、とフィリップが思わず笑みを零すと、目敏いラウールがニヤッと笑いかけてきた。
「何だ、良いことでもあったのか?」
「まぁ、そんなところだ」
「へ~え?」
見透かしたようにニヤニヤとするラウールは、実は先日ついに恋人と婚約した。彼は主人であるフィリップに気を遣って何年も婚約せずにいたので、長年申し訳なく思っていたフィリップもこれには安堵した。
また、婚約と同時にラウールは侍従を辞し、正式に官僚として勤めることになった。しかし実質的にフィリップの部下であるのには変わりないのだが。
「まー、幸せそうなことで」
「お前もな」
フィリップがそう切り返すと、ラウールは虚を突かれたように目を見開いたが、ややあってかすかに頬を染めて「どーも」と苦笑した。
そんな会話を交わしながらフィリップが再び視線を机上に落とした時、ノックの音がした。
「入れ」
フィリップが声を掛けると、女官が入ってきた。
「ランバート侯爵令嬢がお見えです」
「……シェリィが? 応接室に案内してくれ」
女官が退出すると、フィリップとラウールは顔を見合わせた。
「ずいぶん早く終わったんだな。予定ではあと一時間はあったはずだろ?」
「ああ……そのはずなんだが」
(何かあったのだろうか)
「———居るか」
フィリップが天井を見上げながら問いかけると、すぐに返答があった。
「はい、殿下」
「王宮内に常と変わった点はあるか」
「いいえ、殿下がお気になさるような類のことは特に」
「そうか……」
「とりあえず、侯爵令嬢の元に向かわれてみては」
『影』の提案にそれもそうだと頷いたフィリップは、ひとまず執務を中断することにして執務室を出た。
「ご機嫌麗しゅう、王太子殿下」
「よく参られた。掛けてくれ」
「はい」
定型的な挨拶を簡単に交わしたフィリップとシェリアは、ソファに座って向かい合った。
紅茶と菓子が運ばれてくるまでの間、シェリアは女神の仮面を隙なく被っていた。
(どうしたのだろうか)
女官や侍女が退出した後、フィリップは口を開いた。
「シェリィ、どうしたの」
シェリアはその言葉にびくりと身体を竦めると、おろおろと視線を彷徨わせた。
「そ、その、急に押しかけてしまって、ごめんなさい……」
「いや、それは構わないよ。急ぎの案件も無かったことだし、寧ろデザイン決めが終わったら二人の時間が取れないかと思っていたんだ」
「そう、でしたか」
そわそわと落ち着かないせいか、いつの間にかシェリアの口調は丁寧なものに変わっていた。
「……」
フィリップは立ち上がるとシェリアの隣に腰掛けた。シェリアは再びビクッとすると、顔をそむけた。
「シェリィ?」
フィリップが微笑みながら甘ったるい声で訊ねると、シェリアは視線こそ外したままだったが、ぎこちなく顔を向けてきた。
「シェリィ、心に掛かるようなことがあるなら教えて欲しいんだ。内容によっては力になる」
「いいえ、そうではなく……」
口籠るシェリアの顔は、何故か林檎色に染め上げられていく。
(何故赤くなるんだ……? ———まさか、他の男に口説かれたとか……!?)
フィリップが斜め上の方向に思考を走らせていると、シェリアは意を決したように唇をかみしめると、フィリップを大きな瞳で見上げてきた。
「あの! 目を、閉じてください!!」
「……ん?」
「っ、だから、目を閉じて欲しいんです!!」
「あ、ああ、分かった」
シェリアの眼光と口調に有無を言わせぬものを感じたフィリップは戸惑いつつも大人しく目を閉じた。
フィリップは暫くそのままでいたが、時計の長針が一回りほどしても何も起こらず、焦れてきたのでシェリアの意図を問おうとした。
「シェリィ、これは一体———」
続けようとした言葉は柔らかい感触に飲み込まれた。
(———え)
蕩けるほど柔らかなそれは、フィリップの認識が正しければ。
(シェリィが、キスしてる)
時間にして、ほんの2、3秒だっただろうか、ゆっくりと離された紅い唇は、きゅっと結ばれた後、小さな音を紡いだ。
「……たまには、私から、って思ったの」
呆然とするフィリップをちらりと見やって、シェリアは不安げに問いかけてきた。
「嫌、だった……?」
「いや全然」
瞬時に再起動したフィリップが食い気味に言うと、シェリアは赤い顔のままホッと息を吐いた。
「でも……どうして急に?」
フィリップが訊ねると、シェリアはぽつぽつと理由を話した。
何でも、周りの友人たちが婚約者に対し思っていたより積極的であるのを知って、自分もフィリップにアプローチした方がいいのかアニエスに相談したところ、『なら、お兄様にお姉様からキスしてみてはどうですの?』とアドバイスされたらしい。
(よくやった、アニエス……!! お前にはこの前欲しがっていた魔道具を買ってやる!!)
フィリップは妹の気遣い(?)にじーんとして喜びを噛み締めた。そしてシェリアの可愛さに悶絶した。
(何なんだ! 何なんだ! 私の婚約者が世界一可愛いんだが!! どうしてくれるんだ!! シェリィが可愛すぎて私はいつか死ぬかもしれないッ!!)
心の中で荒れ狂うものを必死に抑えてフィリップはシェリアに笑いかけた。
「シェリィ。シェリィからキスしてくれて、私はとても嬉しかったよ。……また、してくれるか?」
シェリアはフィリップのその言葉に戻りかけていた顔色を再び赤く染め上げると、小さくコクリと頷いた。
それを見てフィリップは笑みを深めた。
「そうか、じゃあ、もう一回」
「……え?」
「『また』が今日では駄目だという理由はないはずだろう?」
ずざざざっと後退するシェリアに、フィリップは史上最大級に爽やかな笑みを浮かべたのだった。