ふいうち。(キスの日)
これは、とある日のお話。
「———殿下、ランバート侯爵令嬢がお見えです」
フィリップはその声に、読んでいた本から目を上げた。
「シェリィが?」
(シェリィが来るのにもう少し時間があると思っていたんだが……本にのめり込み過ぎたのか?)
ちらりと壁の時計に目をやると、約束の時間にはまだ三十分以上あった。読書に集中しすぎてフィリップの時間感覚が疎かになったわけではないらしい。
(まぁでも早く来てくれた分、シェリィと一緒に居られる時間が長くなるからラッキーだったな)
楽しみにしていた時間の到来に心が浮き立つのを感じながら、フィリップはシェリアの来訪を伝えに来た女官に指示を出した。
「通してくれ」
「承知致しました」
女官は一旦退出すると、少しして金色の髪の幼い少女を連れて戻ってきた。
「ふぃる!!」
その少女はフィリップを見るとパッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。しかし少し手前で何かに気が付いたように『しまった!』という顔をしてぴたりと停止し、フィリップの顔を窺うように見つめてきた。
シェリアのその様子に、心配になったフィリップは座っていた椅子から降りてシェリアに急いで歩み寄った。
「どうしたの、シェリィ。何かあったの?」
するとシェリアはドレスのスカート部分をつまんで俯き、もじもじとした後、小さな声で答えた。
「だって……ふぃるにあえたのに、しゅくじょのごあいさつ、ちゃんとできなかったから……」
「……うん?」
「おかあさまがね、ふぃるのおよめさんになるには、すてきなしゅくじょにならないといけないのよ、っておっしゃったの。だから、ふぃるにあったらしゅくじょとしてちゃんとごあいさつしなくちゃっておもってた、のに……」
そう言ったシェリアの顔が泣きそうに歪んだ。
「……」
フィリップはシェリアの足元に跪くと、俯いたシェリアの顔を見上げた。シェリアはそれに気が付くと涙が零れそうな目を見られまいと両手で顔を隠そうとしたが、フィリップに手をキュッと握り込まれたためにそれは叶わなかった。
(ああ、可愛いなぁ)
フィリップはどうしようもなく頬が緩むのを感じながら優しい声でシェリアに問いかけた。
「シェリィは、私のお嫁さんになりたいの?」
シェリアは一瞬だけ目を見開くと、コクコクと頷いた。その姿に一層頬を緩ませたフィリップは穏やかな声で語りかけた。
「そっか……じゃあ、やり直ししてみようか」
「やりなおし?」
シェリアはポカンとして頭をコテンと傾けた。
(その仕草も可愛いーー!!)
心臓のど真ん中をズギュンと撃ち抜かれて内心悶えながらも、フィリップは何とかこれ以上笑顔が崩壊するのを防いだ(面に出せばシェリアに引かれるのは間違いないと思われたので)。
「~~っ、そう。やり直し。ドアから入ってくるところからやり直せばいいんだよ。それで、私にシェリィの『淑女のご挨拶』を見せて欲しいんだ」
できる?とフィリップが訊ねると、先程までより顔を明るくしたシェリアは大きく頷くと、「みててね、ふぃる!」とパタパタとドアへと走っていった。
扉の陰にシェリアが消えると、ややあって「しつれいいたします」と舌足らずな挨拶が聞こえた。
「らんばーとこうしゃくがむすめ、しぇりあでございます。でんかにおかれましては、ごきげんうるわしゅう」
部屋に入ってきたシェリアはゆっくりと腰を落として礼をした。幼い身体で行っているため大人がするようにはいかず、お世辞にも見事とは言い難い。しかしそれでも形になっており、彼女の努力がうかがえた。
たどたどしくも丁寧で、一生懸命なことが伝わってくるシェリアの挨拶に、フィリップはたまらない気持ちになった。胸の奥がきゅうっと痛んだが決して不快な痛みではなく、それどころかもっと感じていたいとすら思った。
「よく参られた、ランバート侯爵令嬢。———頑張ったね。シェリィ」
どこか得意げなシェリアの頭をフィリップがそっと撫でると、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「えへへ……ありがとう、ふぃる」
暫くシェリアの頭を撫でながらふわふわとした金色の髪の感触を楽しんでいたフィリップだったが、「殿下、お茶の用意ができましたがいかがされますか」という侍女の呼びかけに手を止めた。
「ここに頼む」
「はい」
フィリップはシェリアの手を取ると、ソファまでエスコートした。そしてそこに座るとシェリアを膝の上に抱き上げた。
初めてシェリアを膝に乗せた時は「ふぃる!?」と驚かれたものだが、会うたびにもう何度もしてきたのでシェリアが今更声を上げることはなく、寧ろフィリップが抱いていやすいような姿勢を積極的にとっていた。
前回シェリアと会ったときは王宮の庭園で散策をしたのだが、シェリアは途中で歩き疲れてしまい、早めに帰ることになってしまったのだ。そう長い距離を歩いたわけではないが、普段屋敷から出ることはあまりないであろうシェリアにとってはそれだけでも一苦労であるようだった。
(シェリィを無駄に疲れさせるのは可哀想だし……それにもっとシェリィと話していたい)
そもそもシェリアとこうして会えるのは、フィリップの婚約者選定のために婚約者候補の令嬢達と交流する場が設けられているからだ。今のところ、家柄などのおかげでシェリアは有力候補とされているが、宮中で無闇に疲れた姿を見せてしまうと、『病弱なのでは?』『妃を務められるほど身体が強くないのではないか?』などとあらぬ噂を立てられ、足の引っ張り合いにより最悪候補から降ろされてしまう可能性もある。経験が浅く、まだ宮廷で十分に立ち回れるとは間違っても言えないフィリップでもそのくらいは分かる。
(それだけは、嫌だ)
フィリップとて、幼いとはいえ王族だ。政略結婚のために自分の想いを切り捨てなければならないこともあるのは頭では理解している。しかし同時に自分が心から想う人と共に歩みたいとも思っている。
だからそれが叶うなら。
(……この子と一緒にいたいなぁ)
フィリップは腕の中のシェリアをぎゅうっと抱きしめた。すると苦しかったのか、優しい力でシェリアの手がぺちぺちとフィリップの腕を叩いた。
「ああごめん、痛かった?」
シェリアはふるふると首を振って否定すると、身体をひねってフィリップに向き直った。そしてフィリップの上着の襟をキュッと掴み、ほんの少し背伸びをした。
「? シェリ、ィ———」
何が起こったかフィリップが完全に理解したのは、頬に感じた柔らかな感触が離れていってからだった。
「!! ~~~~!?」
天変地異が起きたかと思うほどの衝撃。
シェリアのプルリと艶を帯びたサクランボ色の唇が触れたところからこらえきれないような熱が拡がっていく。
(———きす、された)
真っ赤になった頬を押さえ、フィリップは背をのけぞらせた。そのままずり落ちるような形で背中から頭にかけてソファの背もたれにぽすりと倒れ込んだ。
「なに、を」
シェリアはフィリップの反応にキョトンとした顔をしていたが、ややあってにっこりと笑った。
「ごほうび!!」
「……え?」
「あのね、わたしががんばったとき、おとうさまやおかあさまはこうやってほめてくれるのよ。だからね、いっつもがんばってるふぃるには、わたしがきすしてあげたいなっておもったの!」
シェリアは照れもせず、頬へのキスなんてなんてことはない、というような満面の笑みでこちらを見つめている。
(ごほうび、か……)
その笑顔にフィリップは何故だかムッとした。同時に対抗心のようなものがむくむくと湧き上がった。
フィリップはソファに預けていた身を起こすと、シェリアの前髪を掻き上げた。そして現れた新雪のような額に顔を近づけ、そっと自分の唇をそこに押し付けた。
ちゅ、と小さく音を立てて唇を離してフィリップがシェリアの顔を見ると、彼女は目をぱちくりとさせて呆然としていたようだったが、何が起こったか理解したようで、先程のフィリップと同じように顔を真っ赤に染めるとパシリと小さな両手で額を覆って俯いてしまった。
フィリップはその姿を見て、してやったり、と得意げな笑みを浮かべた。
さらに二人のその姿を見て、控えていた侍女たちがプルプルと身体を震わせ、女官に至っては鼻に押し当てたハンカチを赤いもので染めながら『尊……ッ!!』と小さく声を漏らしていたが、当然のことながらフィリップもシェリアもそれに気が付くことはなかった。