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里穂が、励ますように真紀さんに言う。
「真紀。あたし、聞いたことがあるわ。膀胱をぎゅっと引き締めると、我慢しやすいって」
真紀さん、けっこう限界がきているようで、藁にもすがる思いの表情で尋ねる。
「……あの里穂。どうやって引き締めるの、かな?」
「うーん。つまり、それは膀胱のあるあたりの筋肉を縮めることによって──よく分からないわね、真紀。とにかく、我慢して」
「……行く。お手洗いに、私は行く!」
「あ、こら待って、いまヘタに動くと小夜に気づかれるから!」
押し入れから出ようとする真紀さんと、それを止めようとする里穂でなんか暴れ出した。
はじめは止めようとしたが、事故から里穂の肘打ちを顔面にくらったので、僕は押し入れの奥まで避難することにした。乱闘騒ぎにかかわるものではないよね。
しばらくして、真紀さんが諦めた。里穂と二人して、肩で息をしている。二人が暴れたせいで、この押し入れ内の二酸化炭素濃度が上がったような気がする。
「分かった。もう少し我慢する。けれど、朝まではもたないからね。朝までは、もたないよ里穂。高尾くんも分かった? 私は、朝までは尿意を我慢できないからねっっ!」
なぜか脅された。
一方、里穂は押し入れから外を覗き、ぎょっとした様子で、僕を手招きする。なんだろうと近づいたら、がしっとつかんできて、僕の耳元に囁き出した。だから吐息がかかるって。
「小夜が、小夜が起きたわ」
「だからさ里穂、耳元で囁かないでくれるかな?」
しかし、確かに小夜が起き出したようだぞ。
押し入れの扉の隙間から眺めていると、布団から這い出した小夜が、何か──何か祈り出した? 虚空に向かって、一種の巫女的なる動作によって、祈りだす。うーむ、なんか怖い。いや、そうか、あれは。
里穂が震え声で言った。
「邪神に祈りを捧げているんじゃないの?」
「うーん。というよりも、あれは夢遊病では?」
「夢遊病って都市伝説じゃないの?」
「いやちゃんとした睡眠障害だから」
「高尾、こっちに──こっちに来るわよ!」
「落ち着け、里穂。小夜は意識においては眠っているんだから、起こさなければセーフ──のはず」
小夜が思い切り押し入れを開ける。目があった──ような気がしたが、おそらく小夜は眠っている──はずだけども。すると、
「黒死館殺人事件!!!!」
と、いきなり叫ばれたので、これはビクッとした。
小夜はうなずくと、布団に戻ってまた横になり、健やかな寝息を立てはじめる。
里穂が僕にしがみ付いてきて、ガタガタと震え出す。
「高尾、なんなの? なんか、怖いのだけど? 小夜が怖いのだけど? いまも意味不明なことをいきなり叫ばれて、けっこう驚いたんだけども?」
「意味不明、まぁ確かに──」
夢遊病中の言動について、第三者が論理的に理解できるはずがない。だからここはスルーするべきなのだ。しかし黒死館殺人事件というのは、確か三大奇書の一冊のタイトルのはず。なぜ、いまここでその書物の名を口に? いやまった、これは深読みしだすと、抜け出せなくなるぞ。
「……まぁ、とにかくいまのうちに脱出しよう」
ふと振り返り、真紀さんを見やる。
真紀さんはなぜか、押し入れの奥で体育座りして、なんとなく虚無的な眼差しをしていた。
……。
さっき小夜がいきなり叫んだときは、僕も凄く驚いたが。たとえば、尿意を我慢していた人だったりすると、ビックリした拍子に、
「いや、まさか真紀さんに限ってそんなことは──」
真紀さんが涙目で、何やら訴えてくる。虚無の涙目だ。
えー。いや、まって。ここは現実をみなければ、現実は無効化される。これを古来より人は、『現実逃避』と名付けてきた。
里穂が「おやっ」という顔で、真紀さんを見やる。
「え、なに真紀? 漏らしたの?」
空気・を・読め。
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