1:即位式
厳かな評議会に、会長の鶴の一声が響く。
「マラークを、イルミナの次期会長に任命する」
その突然の決定に、13血流はじめ誰もが異議を唱えた。ジャッドですら抗議した。
イルミナ会長の座は歴代、モルガン家の血統が統治するしきたりなのだ。
評議会に荒れた声が次々にあがる中、会長は張り付いたような笑みまま会議場をあとにする。
「どういう事です、会長……!」
ジャッドが抑揚のない声を会長の背に投げる。周囲を伺い、追い人がいない事を確認し続けた。
「無謀すぎるだろう、一体どういうつもりだ!?」
とたん会長はぴたりと足を止めた。ゆっくりと振り返るその瞳は正気そのものだが、かつての輝きはとうに失せている。
そんな会長が虚ろに一呼吸、囁くいた。
「……頭の中で、何か、……」
「何?」
「……時間、がない……」
会長は深く咳込んだ。鼻血が絨毯に跡を残す。
「しっかりしろ、……おい! 誰か!」
ジャッドの叫びに手で制止するは、ぴたりと咳を止めた会長だった。鼻血を拭い、どうということなく姿勢を正す。そしてジャッドを見据えた。
「心配は不要だ、ダグラス佐官。君は私の指示通り動けばいい」
戸惑うジャッドの手を振り払い、会長は先を行く。集まる13血流の中、ジャッドは呆然とその場に立ち尽くした。
「……い、一体どういう事だ?」
そして次の早朝。即位式は急遽執り行われた。
巨大な卵のようなホールで、月桂樹の冠を授与されたマラーク会長が、笑顔でイルミナ一同に手を振る。
《会長が御退位されるとともに、新たにマラーク会長が御即位を……》
響くアナウンスに祝意はなく、誰もが沈黙で反対を訴えていた。
式は厳かに始まり、沈黙に終了した。
こうして形式上、イルミナ会長の座はマラークに移行されたのだった。
……・……
穏やかな日差しが暖かい、さながら宮殿のようなテラスにマリアはいた。
薔薇色の絨毯、大理石の柱。そして金細工のほどこされた芸術品のような椅子に、これまた人形のように可愛らしいマリアが絵画のように佇んでいる。
その隣にはいつもゼロがいた。ロボットのくせに執事のようにすまし、紅茶を淹れている。
小鳥が青空に踊る、穏やかな日だった。
金糸のような艶髪にクシを通しつつ、マリアのさくら色の唇から色気溢れるため息をもらす。
「お兄様がようやく悪い夢からお醒めになっていらして。ああ、早くお兄様の御子を授かることができればいいのに」
うっとりとするマリアを横目、ゼロは自身の左胸のダイオードに不具合を感じていく。
『……前会長はあんなに愛妻家だったのに、急にマリアに求愛するなんて変スよ。マラークを会長にするってのも前代未聞っスし』
「いいえ、変ではありませんわ。本来、お兄様の正妻は私ですもの」
『ええ? 現状は妾っていうんスよ、マリア~』
それにマリアは自分に言い聞かせるように、言い伏せる。
「お兄様が戻ってくださるなら、なんだってかまいませんわ。ゼロ、髪を」
ツンとゼロを呼び付け、乱暴にクシを押し付ける。ゼロがのそのそとマリアの滑らかな髪を流した。
「……私、ヘレナに話をつけようと思いますの」
突然のマリアの宣言にゼロは手を止め、艶やかに笑むマリアを見た。マリアの傲慢さに満ちた瞳に、ゼロは内心呆れに溜息ひとつ。
『そういうのは自由って言わないんスよ、ただの身勝手っス』
「いいえ、善は急げですわ! ヘレナとエレナは所詮お兄様の戯れですから、潔くイルミナを去るのが道理というもの」
止めるゼロかまわず、マリアは勢い勇んでドレスを翻した。
道中ゼロがそれとなく忠告を落とすも、マリアはまるでピクニックに向かう子どものように闊歩する。
おてあげに肩をすくませたゼロは、マリアの幼さ残る背に続いたのだった。
やがてたどり着いた会長室のドアの前で、マリアはすました咳払いひとつ。ちらともゼロに振り返らず、お上品にノックした。
ノックに応え出たのはヘレナだった。そっと様子を伺うように、扉がわずかに開く。
「……ど、どちら様……?」
マリアは思わず噴き出しそうになった。
(あらまぁドア越しにだなんて、なんて失礼な人でしょう。それが客人に対する態度かしら?)
そう喉元まで出かけ、呑み込むように抑えた。いたぶるにはまだ早いと。
マリアは悠々とドアノブを引き、大きく扉を開けた。突然のそれにヘレナはバランスを崩し、マリアに倒れ込む。
とっさにゼロがかけより、マリアは愕然に呼吸を忘れた。
ヘレナの青黒く腫れた頬に、肌の色とは思えぬ痣の数々。切れた口の端に滲む赤い痕。
初めて見る大けがに、マリアは心臓に杭を打たれたような痛みが走った。
『えっぜ……ゼロッゼロ! ど、どうしましょう、あぁ……!』
驚嘆に首を振り、蒼白ままゼロを見る。
乱れた髪のヘレナは、とっさに袖で顔を覆った。
「ご、ごめんなさい、ぶつかって……」
消え入るような細い声は、刺すように痛々しい。
ゼロがそっとヘレナを支え、ソファに座らせる。あたりを一瞥し、マリアに頷いた。マリアは息を引きつらせていた。初めて見たそれに、心臓がばかみたいに暴れ飛ぶ。
荒れた部屋は薄暗く、壁には穴が空いていた。割れた皿があちこちに散乱するさまは、嵐が通り過ぎたかのようだ。
ベビーベッドでは、赤ちゃんエレナが泣き疲れて眠っていた。
マリアは呼吸を忘れ、愕然とした。
兄夫婦は幸せな家庭で、毎日笑顔で過ごしていると思っていたからだ。
「あの、何の御用でしょうか……」
呟くヘレナの死んだ魚のような目には、マリアもゼロもうつっていなかった。
絶句するマリアをサポートするように、ゼロがヘレナの肩を抱く。
『ゼロはコナトゥス型生体ロボットっスよ。警備の量産型ゼロと違って独立してるから安心してね。
ねえヘレナ、会長はいつもこんなことをするの?』と荒れた部屋をチラと見やって、穏やかに訊ねる。
その言葉にヘレナがとっさに首を横に振った。
「わ、私が悪いの。家にいるだけなのに家事がまともにできないから……」
ゼロは百も承知に頷いた。
『あのねヘレナ。いい奥さんでいようとする心がけは素晴らしいけど、横暴で不当な扱いを受けているのはわかる?』
人工声帯で一言一句しっかりと、ヘレナに言い聞かせていく。
『いかなる理由であっても、どんな間柄であっても、人間性を否定し蔑ろにすることはしちゃいけないんっスよ』
まるでカウンセラーのようなゼロに、ヘレナは困惑に首を横に振った。まるで虐待を受けた子が母親をかばう目で。
「あの、でも、主人はいつもこんなことするわけじゃないの……」
そう言うヘレナに、ゼロは人差し指を立ててみせた。ゆっくり動かすと、かなり遅れてヘレナの目が追う。
おぼつかぬそれに、ゼロは打ち切るように指を鳴らした。
『測定完了。追視遅れ確認、呼吸と心拍数に異常検知。ヘレナとエレナをマリアの家に保護します』
言って、ゼロは固まるマリアを見た。念押しのそれにマリアは思わず大きく頷く。
手早く荷物を鞄に詰めたゼロは、スムーズにヘレナ達を保護したのだった。
あっという間だった。
自身の部屋に憔悴したヘレナ達がいるなんて、マリアは想像すらしたこともない事態だ。
マリアはヘレナを受け止めた時、パニックを起こしていた事を心から恥じた。
亡き母以外の同性と会話したのは初めてとはいえ、自分の世間知らずさを痛感したのは初めてだった。マリアは籠から解き放たれた鳥のように、ゼロの言っていた自由の意味を見つけた気がしていた。
エレナの泣き声で我に返ったマリアは、自身の部屋でエレナを抱き直す。綺麗に巻かれた髪は散々に引っ張られ、ざんばらに解けてしまったがかまわなかった。
「よちよち、赤ちゃんってとっても重いんですのね……」
一通りヘレナの検査終えたゼロが、エレナをあやすマリアに頷いた。
さすが健康測定器というだけあって手際良く、ヘレナはやっと気を持った様子だった。
ゼロは臆することなく、冷静にマリアに告げた。
ヘレナ達を保護すること、心の治療には時間がかかること。そしてそれにはマリアの家がベストだという事を。
マリアもそれが一番いいと思っていたので、当然に頷いた。迷いは一切なかった。
エレナをヘレナに抱かせたマリアは、湧き上がるドス黒い何かに吐き気を覚えていた。
薄らどこかおかしいと思っていたのだ。ヘレナを溺愛する兄が、自分の傍に来るわけがないと。
兄の寵愛を受けていたヘレナは、かつての自分のように悔しさと寂しさでハンカチでも噛んでいると思っていた。
それがこれだ。痙攣するかのように震えるヘレナは血生臭く、薄汚い。
「ヘレナ……、一体兄と何がありましたの?」
それにヘレナは、唇をキュッと紡いだ。喉に焼石を詰めたような感覚に大粒の涙があふれ、肩が大きく震える。
「わ、わからないの、私……どうしたらいいか……」
ヘレナはすがるようにマリアにしがみつき、嗚咽に事態を嘆いた。
事の始まりは、ほんの些細な事だったという。
エレナの夜泣きに、普段は真っ先にあやす会長が烈火のごとく怒鳴り上げたのだ。
それはまるで人が変わったようで、勢いまま壁を殴りつけ穴を開けたのだそうだ。
さすがに驚いたヘレナだったが、その時は気が立っていたのだろうと思っていた。
しかし事態はエスカレートし、日常的に辱め嘲笑し、少しでも気にくわない事があれば手をあげ威圧するようになったのだ。
「あの人には言わないで……私がこんなこと言ったって知られたら殺される、エレナにもしなにかあったら……」
マリアは絶句まま、ヘレナの涙をうけとめる。だが頭の中は驚くほど冷静だった。感覚は研ぎ澄まされた刃のようだ。
嗚咽をもらすヘレナを腕に、同じ女として怒りに震える。
「……こんな小さな赤ちゃんがいるというのに、兄には失望しましたわ……」
マリアはふと出た自分のつぶやきに驚き、胸の内で納得した。この感情は兄に対する嫌悪と怒りなのだと。
幼い頃からずっと兄の背を追っていた。今はただ、あれに悦んで足を開いていた自分が情けない。
マリアは大きく深呼吸をした。気合いに奥歯を噛み、涙するヘレナを真っ直ぐ見据える。
「誰にも相談できず、さぞ恐ろしかったでしょう。もう大丈夫ですわ、ヘレナ。私達はあなたの味方ですわ」
力強いその言葉に、ヘレナは解けるように涙を流したのだった。