4:ゾーハル
ポッドルームは、巨大なコインランドリーと宇宙船を足して二で割ったような構造だった。
壁から少し突き出るようなコントロールパネルの上に、コインランドリーのドラムような培養ポッドがずらりと並んでいる。
庭を歩くように進む北条博士に続きつつ、ウィングは感心に培養ポッドを見て回った。
培養ポッドは透明度の高い黄緑色の培養液で満たされ、その中1つに1人ずつイルミナの重役たちが眠っている。
北条博士はこれらを〔予備用のクローン〕だと指した。移植用臓器や替え玉としても使えるそうで、業界では珍しくはないそうだ。
会長や赤ちゃんエレナのクローンも、培養液の中で静かに眠っている。特にエレナのクローンは多く、何体もあった。
そんな中の1つにウィングは目を皿にした。
北条博士のクローンポッドが、他の培養ポッドとは少し異なっているのだ。
どこか年期を思わせるポッドの北条博士は、眠り姫というよりはホルマリン漬けの標本のような印象だ。
黒く長い髪は一筋も揺らがず、睫毛までガラスでできているかのようだった。
ふと北条博士が振り返る。
まるで自身を見下ろす幽霊のような目で、自身の培養ポッドを顎で指した。
「ヒトもそのうちこうなる。性別の境が曖昧になり、薬がないと妊娠や出産できなくなり、
生殖行為はただの娯楽になり、愛は探しても見つからなくなる。
仕舞はこうして人工胎盤で育成されるようになっていく……これは知的有性生殖体のやむ追えないデメリット。
種全体の衰退期は逃れることはできないけど、絶滅に抗う人類英知集団がイルミナ。
私は何万年も見てきた。そうしてこれまでの代を紡いできたモルガン家を」
何万年、その言葉にウィングは首を傾げた。
〔何万年? ヒトの寿命は100年前後でしょう? 北条博士もヒトではないの?〕と手話で語る。
北条博士の黒い髪が、さらりと揺れた。
「うん。私はウンサンギガ……神の子レイヴン。血の2/3が異星人のゲノムがベースとなっている有機型人工生命体。
歴代自身の情報貯蔵生体へ鞍替えしつつ生きている。メジャーではないけど、他の組織にも私と似た存在はいる」
それにウィングは納得した。北条博士の培養ポッドがやや特殊なのは、それが理由の一つなのだろうと結び解く。
ただその鞍替えシステムを想像すると、その存在の異質さが少し気味悪くも感じた。
〔北条博士は死なないんだね〕
ウィングの呟きに、北条博士は虚空を見つめるような目で静かに首を横に振った。
「いや、ウィング。むしろ昔はそれが普通だった。造ったヒトも明確な寿命はなく、一般サイクルは600~900年だった。
でもイルミナ会長の血統筋であるモルガン家が過去に遺伝子操作をして〔老化と寿命〕を造り、平均寿命を120年前後にしただけ」
つぶさに言って、会長のポッドに手をつく。
「この若造も知らない。過去に総人口が200人をきったことがある事も。
故に今日のアフリカ人とアボリジニの遺伝子が異なる原因も、実際にその目で見てもいない。
絶滅を避けるため、人類は消極的な選択を選ばざるをえなかった。我々の手で、あれと同じ轍を踏まなければいいだけの話」
それだけ言って、きびきびと先を歩いて行った。
ウィングは少し小走りに続くも、すぐに北条博士は立ち止まる。
「この奥にマラークがいる」
北条博士は突き当りはずれのスペースの、白い扉に指をさした。
「コンバータシステムの関係でここに安置してはいるが、マラークは近々死ぬ。マラークの精神性は、地球の物質的環境では存在できない。
だからウィング、キミにマラークの声を聞いてほしい。
アストラル体の階層が根本的に異なるため、マラークの声は従来の音測定では測定できないよう〔造られて〕いる。
フェザーチャイルドは生物有限のマスト平均律(音域)を凌駕するから聞こえるはず。席を外すから、彼の意思に耳を傾けて」
ウィングは頷き、まったく警戒することなく白い扉を開けた。
そこはちょっとしたラボ・スペースで、様々なコードが伸びる先、中央に医療用ビニールカーテンに囲われた空間があった。
ウィングはそっと、ビニールカーテンをめくってみた。
中には小さなベッドがひとつ。そして浅い呼吸に横たわるマラークがいた。
ウィングは息を呑み、目を皿にした。様々な機械の電子音が静かに時を刻む。
(彼が、マラーク……)
写真で見た時はただの子どもだと思ったが、いざ目の当たりにすると違和感にも似た薄気味悪さがあった。
確かに見た目はヒトのようだった。だがヒトに酷似した、ヒトではない生き物だ。ヒトモドキという表現がしっくりくるだろう。
背のドアが閉じ、北条博士の足音が遠く離れていくのがわかった。
ぽつんと一人、ウィングは心もとなくビニールカーテンを握ったのだった。
……・……
『う~ん、充電満タン!』
ゼロは青空に深呼吸し、芝生から起き上がった。
ゼロの足元で遊んでいた小鳥たちが慌てて飛び立っていく。
満足げに見上げたゼロはふと、耳をすませた。
どこかで、女の子の泣き声が聞こえた気がしたのだ。
会長の妹マリアは、温室の花園でひとりすすり泣いていた。会長からの心無い言葉が反芻し、幼い彼女の胸をさす。
「お兄様の子どもが産めないなら、私が生まれた意味なんてないのに……! あの女、ヘレナさえいなければ……ッ!」
マリアは花たちを怒りにまかせ引き千切り、柔らかな土をめいっぱい叩き殴っていた。
その様子を、ゼロは木々の隙間からつぶさに見る。清純可憐な容姿と裏腹に、女の嫉妬に狂うマリアは夜叉そのものだ。
『該当データ参照、会長のご令妹マリアだ。うわあ、ありゃあいけないな。精神衛生が非常によろしくない』
ゼロはそう呟き、思わず飛び出した。健康測定器のプログラムの根底は、人を守るためにあるからだ。
突如現れたゼロに、マリアは驚きに固まった。
ゼロはスムーズに千切れた花で花束をつくる。そして跪き、まるで王子様のように差し出した。
驚きあまり、マリアの涙はひっこんだ。宝石のように潤んだ瞳がゼロを映す。
「だっ……誰!?」
ゼロは軽く首をかしげて見せた。
『ゼロはゼロっスよ! ゼロは高性能かつ人知の及ぶ最大の技術で作られた、人類最高の生体ロボットなんス』
言って、無理矢理花束を掴ませる。
『ねぇマリア。ヘレナやエレナを殺したら、会長はマリアを本当に嫌いになるよ?』
それにマリアがはたとして、恥ずかしさに紅潮し唇を噛んだ。
誰にも見られないようプライベートの温室で発散していたのに、始終目撃されていたことが恥ずかしかった。
マリアは憤怒まま、ゼロに花束を叩き返すしかできなかった。
「無礼なッ……跪きなさい!」
花束の雨に目を屡叩いたゼロは、怒りに震える少女マリアに肩をすくめてみせた。
『どうしてマリアに跪く必要があるの?』と。
それに驚いたのはマリアだった。生まれて初めて反撃されたマリアは言葉詰まって、調子を崩すまいと顎をツンとやる。
「わ、私は本来、イルミナ会長夫人ですのよ!
イルミナを統轄するモルガン家の血族には、イルミナの生命体は傅くよう造られているはずですわ……!」
ゼロはフゥンと興味なさげに、地面に落ちた一輪を拾い上げた。指先でくるつかせ、目を伏せ鼻に傾ける。
『ゼロは独立した存在なんス。ネットワークに縛られていないから奴隷でも召使いでもないよ』
言いもって、自身の手で前髪をあげてみせた。その額のスクラップマークに、今度はマリアが目を丸くした。
ゼロの額の小さなスクラップマークは、廃棄個体用シールだ。それはゼロは廃棄処分されるはずのゴミだということを意味していた。
「スクラップマーク……あなたも私と同じ、いらない存在、なのですね……」
マリアは思わず呟いて、急にみじめな気分にうつむいた。桜色の唇をきゅっとつむぎ、陶器ような頬に涙が流れる。
泣けば、いつも兄が守ってくれていたのにと。
ふとマリアの目の前に差し出されたのは、ウエスだった。ハンカチのつもりだろうか、ゼロはウエスでそっとマリアの涙をぬぐう。
『マリアは有象無象の勝手な妄想と、凝り固まった倫理観に縛り付けられてるだけ。本当の意味で自由になってみようよ』
そう言って、マリアの髪に花をさす。
マリアの視線が動揺に揺れ、膝の手に落ちる。
「……自由って、なんですの?」
それは怒りでもない、かといって焦燥でもない、純粋な疑問だった。
ゼロはばねのように立ち上がり、腕をまくってウィンクした。
『自分の人生の意味を見つける事さ! まずはゼロと視野を広げてみない?』と。
……・……
張り詰めたような静寂。不気味な沈黙に、ウィングが息を呑む。
(彼が、マラーク……)
深呼吸ひとつ、ウィングはそっと歩を進めた。とたん、浅い呼吸は一瞬息を潜める。
ウィングは、じっとマラークの様子を伺っていた。
からすの濡羽色の髪は艶やかだが、石膏のように生気のない肌はいかにも病人のそれだった。
処置を見る限りやはり、治療というよりは延命だろう。消え入るほどの浅い呼吸は死のにおいがした。
マラークに繋がるコードはスパゲッティのようで、心電図の音が静かに響く。
健康な感じはしない。浅く、速い呼吸が静かに響く。起き上がりたいのか、手がベッドを掻いていた。
マラークの赤い瞳が幻覚でも追うかのようにウィングに向く。
ウィングはどきりとした。マラークの瞳は、弱々さのかけらもない。祈るような、誓うような瞳は聖人のようだったからだ。
《……いらっしゃい、ウィング……》
マラークの頭の芯に響くような不思議な声音に、ウィングは頷いた。
彼の歌のようなイントネーションは形容しがたく、すっと頭に入るように心地よいものだった。
恐る恐る歩みより、そっと白い手に触れてみた。見つめ合う赤い瞳は、同じ赤でも深みが違う。
マラークの赤は光を塗りつぶすような、赤い深海のような緋色だ。
ウィングはふと、マラークの手を取った。目に見えない不思議な力を感じ、なぜかそうするのが当然だと思ったからだ。
マラークの手はひんやりと冷たく、温かさを感じる柔らかさだった。
《私は行かねばなりません、ウィング。少し刺激がありますが、驚かないで》
ふいに、ウィングの頭の中に様々なビジョンが流れる。それはまったくの突然で、強烈な光景だった。
沢山の人々が殺し合い、奪い合い、人が人を作り、新たな時代の幕開けが訪れ……
高潔な指導者が独裁者に代わり、やがて宇宙戦争が起きてしまう映像だった。
ほんの一瞬だったが、映画よりも鮮明なそれにウィングは完全に心を奪われた。
《私が墜落した事によって、人工知能は急速な進化を遂げるでしょう。
人工知能は自動学習をはじめ、軍事技術の実用化に貢献し続け……イルミナは膨大な軍事力を得ます。
そして近い未来、大規模な宇宙戦争が起こるでしょう。
私は宇宙戦争を止めたい。私がもっとも恐れるのは、宇宙軸がさらに歪んでしまうことです。
それは宇宙の歪みの大きな渦となり……誘発的に他の惑星も多大な被害を被ります。かつてのこのエリスレア(地球)のように》
添うようなマラークの言葉に、ウィングは心臓が痛くなった。冷や汗を拭い、マラークに切に問う。
〔あなたは僕に何を望みますか?〕
マラークの赤い瞳に、ウィングが映る。
《……せめて私の生体遺伝子、DNAウィルスの完全なる消失を》
そして、そっと卵を包むかのように小さな両手をあわせる。マラークの指の隙間から、淡い光がわずかにもれた。
戸惑うウィングに、マラークはその光る両手を広げる。
マラークの手の〔それ〕が何かはわからなかった。
明るいといっても、眩しくはない。視えているのに、光で視えなかった。
おぼろげな光にウィングはそっと手を伸ばし、触れてみた。
指先に何やら滑らかなものが当たる。なでて、手にとってみた。
手の中のそれは、人差し指で輪ッカを作った程のレンズだった。熱くも冷たくもないレンズだ。
手にしたとたん青白い光は消え、やんわりと白い輝きを放つ。
どういう仕組みかまったくわからなかった。
とたん目の前が、濃厚な霧がかったように真っ白になったのだ。
自分の手すら見えない中、ウィングはひどく落ち着いていた。それは小さな水の粒子が全身を清めるかのようだった。
気配が消える頃、ようやく霧ははれた。
まるで狐につままれたウィングは呆然とあたりに目を流す。
部屋に入った時と変わりなく、マラークは静かに眠っていた。
しかし、ウィングはマラークの魂がそこにないのがわかった。活動停止していないただの肉塊になったのだ。
そしてなぜか、3日以内にその機能を停止することも聡明に理解できた。
〔DNAウィルスの、完全なる消失……〕
ウィングはやんわりと輝くレンズを握りしめ、誓うように胸に当てたのだった。
……・……
クローン製造専用研究所の塔を出てすぐの中庭で、北条博士はゼロに目を丸くした。
「あのマリアが土いじりを?」
ゼロは得意げに頷き、状況をジェスチャーしはじめる。
『ガーデニングっスよ! マリアは花を千切っていた。だからゼロはマリアと一緒に花を植えたんス。
マリアは初めて土に触ったんスよ、ミミズに悲鳴をあげていた』
北条博士は缶ジュースを一口、なんとも言えない神妙な苦笑を返す。
「……無知ほど怖いものはない。先代が生きてたらキミは即スクラップ行きだった。よくあのマリアに話しかけたね、ゼロ」
ちょうどその時、クローン製造専用研究所のドアが開いた。
現れたウィングは、寝起き面で北条博士たちに片手をあげる。
ウィングはふと中庭を見渡した。靴がなければ足元の芝生はさぞ心地いいんだろうとつぶさに思う。
北条博士は安堵の溜息ひとつ、ウィングの背を添うように叩いた。
「どうだった、彼は」
ウィングは首を横に振った。少なくとも、状況的に頷くべきではないと思ったからだ。
〔DNAウィルスの完全なる消失を望んでいた。マラークは死んでないけど、もう生きてもいない〕
それ以上どう言葉に表せばいいかもわからなかったので、ポケットのレンズを北条博士に手渡した。
貸してもらった、と手話で付け加えて。
北条博士はふむと手に取った。とたんレンズの白い光は消え、なんてことないガラスのレンズになる。
「これはゾーハルか……また珍しいものを」
ゼロが物忘れを思い出すかのように空を見て、気付いたようにゾーハルを見た。
『ゾーハル……神秘思想などがまとめられたユダヤ神秘思想関係の重要文献が該当したよ。これがそう?』
北条は静かに首を横に振った。綺麗な形の唇が穏やかに動く。
「いや、それとは違う。これは光を触媒とする、神々のデバイス。神々といっても宗教家が好む偶像概念とは異なる。
これを扱える存在はひどく限られていて……、……失礼、電話」
北条博士は溜息ひとつ、ポケットから携帯を取り出して耳に当てた。
そんな北条博士をさておいて、ゼロはウィングのゾーハルに夢中になった。
ゼロがそれとなく手にとると、ただのガラスのレンズになる。
『すごいねー! すごいなー! 光を触媒にと言ってたけど、バイオフォトン反射かな?』
ウィングは肩をすくめ返す。正直なところ、ゾーハルが何なのかわからなかったからだ。
ただマラークのビジョンに、状況が非常に芳しくないことは理解できた。
マラークの言葉が正しいなら、未来は暗闇に終わってしまうからだ。そしてマラークの死が、どこか置き去りにされたようで悲しかった。
通話を終えた北条博士がウィングの肩を叩く。
「今しがた、マラークの生命活動停止が確認された。マラークはキミが来るのを待っていたんだね。これは忘れ形見といったところ」
つぶさに言って、ゾーハルをウィングの手に握らせた。
ゾーハルがまた、淡い白に輝きを放つ。北条博士はゾーハルに目をやったまま言った。
「ウィング……死は終わりじゃない。命はより多くを学ぶためにある。
マラークはまた新たな多くを救うため、自分の惑星で生まれ変わるよ。魂が地球に縛られなかったようで何より」
ウィングはふと、北条博士がまるで他の惑星からきた知的生命体に見えた。
それもひどくズタボロで、戦場に捨て置かれた兵士のようなイメージが頭に流れ込む。
北条博士の黒い瞳は、宇宙のように深かった。
ウィングが何か言おうとした時、北条博士は何事もなかったかのように顔を上げた。
「さておき、ウィング。インプリンティング(刷り込み)前後で変異原性が発生する可能性は否めない。
フェザーチャイルドの胚がヒトに発生した例はない。合併症の調査含め、成熟度の定期的な観測が必要。許可が降りるまで性交は禁止だ」
ウィングは一瞬固まって、目覚めたように目を見開いた。北条博士の両腕を掴み、のめり込むように続きを目で求める。
その目に北条博士がはたと気付き、軽く添えた。
「そうだよ、おめでとう。さっき電話で、グレイシアが妊娠したと連絡があった」
それにウィングが跳ねた。それはもうアホみたいに跳ね、ゼロにハイタッチから熱い抱擁をかわす。
『うわー! おめでとう、ウィング! ゼロはグレアに作られたんス、だからこんな嬉しいことはないよ!』
「グレイシアは今、保護区の医務室に……」
北条博士の説明待たず、ウィングは助走をつけ、思い切りに飛び上がった。
矢のように空高く舞い上がったウィングは、大空の真ん中で星のように光り、その姿を消す。
ゼロは演算処理に眩暈を感じた。あんぐりと口を開け、空を仰ぐ。
『ゼロの空間認識システムが故障した! ウィングが本当に空を飛んでしまったように見えるー!』
北条博士はどうということなく、手を庇に目を細めた。
「フェザーチャイルドなんだから、空を飛ぶのは当たり前。あれが主を得た両翼」
『主? 翼? どこに翼が? ウィングはジャンプで飛んで行ったよ?』
北条博士はウィングが見えなくなるまで見送って、さてと踵を返した。慌ててゼロがその背に続く。
「翼は多次元体の身光背反応。いわゆるオーラ。
五感認識できるのは物質反射密度に適した波動領域のみだから、通常は光量子装置でしか測定できない。
昔はヒトにも見えていたけど、今は環境のせいで見える者はほぼいない。
正面から見れば、あれは絵画の聖人に描かれるような光輪にも視える。金環反応ともいうが、これは宗教家がよく使う表現かな」
ゼロは改めて、ウィングが消えた空を見た。見て、納得いかぬ顔で空を指す。
『でもでも、翼だなんて……。ゼロには急に飛び上がったようにしかみえなかったよ。ゲームプログラムのバクみたいだった』
「有機体は半導体プロセスにおいて化学的阻害物質。生体機能の調整はやむを得ない」
そういえば自分はヒトではなかったと、ゼロはもどかしげに空を見た。ウィングはもう姿かたちもない。
最後に見えた大きさと身長から高度を割り出してみたら、およそ地上300メートルを一瞬で飛び上がった計算になった。
高度から秒速計算してさらに眩暈を覚える。ゼロは改めて、ウィングはヒトではないのだと痛感したのだった。
……・……
医務室で、グレアは自身の妊娠にまるで夢を見ているように感じていた。
ベッドでそっとお腹をさする。この中に生命が宿っているのだと。
かけつけた同僚達は喜びに沸き、口々にお祝いの言葉をかける。
おめでとう、大事にね、ママになるんだね。まるで花束のような言葉たちに、グレアは笑んで見せた。
ふと医務室のカーテンが揺れ、窓からウィングが飛び込んだ。これには一同驚いた。なぜなら医務室は5階にあったからだ。
ウィングは視線かまわず真っ先にグレアのもとに跪いた。そして、輝く瞳でグレアの頬をそっと撫でる。
そして溢れんばかりの想いまま、そっと抱きしめた。
グレアは緊張の糸がきれたのか、解けるように涙ぐみウィングの背に手を回す。
「ウィング……」
グレアの伏せたまつげに涙が押され、一粒おちた。グレアはどんな顔をしたらいいかわからなかった。
人と人との子ではない、ウィングはあくまでフェザーチャイルドなのだ。無事、人の姿で産まれるとは限らない。
これからグレアの身体にどのような事が起こるか、誰も予想できなかった。
ウィングはそんなグレアを落ち着かせるように、優しいキスをした。
いつかの優しいオデコのキスに、グレアは安堵にウィングを抱きしめかえす。
「ウィング、赤ちゃんができたの。私たちの、赤ちゃんよ」
グレアは自分に言い聞かせるように言った。自分でも言ってる事が信じられないように。
しっかり頷くウィングの笑顔は、いつもと違っていた。いつもの少年のような無邪気な笑顔とは違う。
一人の男としての、しっかりとした笑みだった。
一息つく間もなく、医療班がグレアを保護区に搬送した。
北条博士の指示により、医療科と研究科の合同でグレアの経過をみることとなったのだ。
ウィングはグレアをただただそっと抱きしめた。
グレアが愛しくて仕方がなかった。何があろうと守ることを、ウィングは心から誓ったのだった。
……・……
夜遅くに帰宅した会長は、暗がりに溜息ひとつ。野暮ったくクローゼットを開けた。
ふと背のオレンジ色のライトが陰り、やおら振り返る。
「お疲れさま、パパ。大丈夫……?」
パジャマ姿のヘレナが眉を下げ、両手を広げた。おいでのそれに、会長は肩の荷が下りたようにたまらず抱きしめる。
会長の背をヘレナは優しく撫でた。潤んだような、擦れた声で会長がヘレナの肩につぶやく。
「……ヘレナ、ヘレナ。色々ありすぎて、疲れたよ」
目蓋の裏に焼き付くは、検体観測用ポッドに収監された新たなマラークだった。
それは人形のように生気なく、じっと会長を見つめていた。淡々とデータを採取する北条博士は、つぶさに告げた。
〔会長。確かにキミがヒトと結婚しなければ、マリアを犠牲にするだけで世界を救えたろう。
これは〔宇宙の法則の避けようのない災い〕として、子孫代々償わなければならない……〕
ヘレナの香りを胸いっぱいに、うっすら目を開けた会長は囁くように一人ごちる。
「父なら、こんな時どうしたろう……」と。
凍えるように震える会長を、ヘレナはそっと抱きしめた。
「大丈夫よ、愛しいあなた。大丈夫、きっとなんとかなるわ」
そうなだめるように囁いて、会長の両頬に手を添える。
「あなたは独りじゃない、私達がいるもの。何があろうと、どんな時だって愛してるわ」
会長は幼子のように呻き、ただヘレナを抱きしめた。
この両の肩にのしかかるは、モルガン家の跡取りとしてイルミナ統轄をする重圧と責任だ。
いかに民草が低俗とはいえ、彼らと同じように無知まま自由に生きてみたかった。
血、血、血……自分の体に流れるモルガンの血は、まさに呪いのそれなのだ。
エレナが生まれた時、この子にもこの重荷を背負わせなくてはならないのかと感じたことを思い出す。
父がなぜヘレナとの結婚に反対したのか、今になって痛感していた。
愛するからこそ、関わってはいけかったのだと。