3:クローン製造専用研究所
扉が開いた先の最上階のフロアは、それはそれは美しい要塞だった。
磨き上げられた床はガラスのように硬く滑らかで、靴底を気持ちよく鳴らす。
フロアは、きんとエアコンのきいたにおいがした。
未来を彷彿とさせるガラスドームには、青空遠く雲が泳いでいる。
北条博士いわく、この建物はオラムの中でも特に際立った【クローン製造専用研究所】とのことだった。
ウィングは空中廊下から、窓の外で流れるライトレールを見た。
ライトレールは流れ星のような軌跡をのこし、研究ビルの合間に消えていく。
どこか物悲しくなったウィングは、グレアに会いたくなった。グレアはシュッセを喜んでいたけれど、全然楽しくはなかったからだ。
(グレアは今、楽しいのかな。グレアが楽しいならいいんだけど……)
「北条博士!」
ふと少年期特有の透き通った声があがって、ウィングとゼロは視線をやった。
声の主は、エレベータから追って現れた1人の少年だった。
絵にかいたような優美な顔立ちで、金髪碧眼が異彩な魅力に華を添えている。そんな少年はまっすぐ北条博士に駆け寄った。
「何」
北条博士は少年を見もせず歩を進める。心なしか早歩きだ。
だが少年はひたむきという言葉がぴったりなほど、一心に北条博士の隣を歩こうと歩調を合わせる。
「翻訳開始因子複合体の立体解析が完了しました! X線結晶構造の……」
「今忙しい」
あまりに無情な北条博士の返答だが、少年は根気強く気の毒なほど食い下がる。
「……っごめんなさい、北条博士。あの、今度いつ会えますか? 今度一緒に……」
「忙しいと言った」
北条博士は言いもって、駅の改札口のような通行路にカードキーをパスする。
生意愛敬のない北条博士の態度に、少年は苦渋に目を伏せ、ためらうように歩を止めた。
「わかりました……北条博士。ごめんなさい」
ウィングはそう言い潰した少年を見送り、北条博士の背に目を白黒させた。
どこか拒絶にも似た北条博士の態度は、ウィングには到底理解できないものだった。
理由はどうあれ、そこまで拒絶することはないだろうにと。
眉を下げるウィングに、ゼロがはたとした。そして、自身のデータを洗う。洗って、ぼそとウィングに耳打ちした。
『さっきの少年は、10年前に死亡したサムソン・ハワード博士のクローンっスよ。
優秀な人材は世界中からかき集められ、死後もクローンとしてイルミナに半永久的に貢献し続けるんス。ハワード博士はその昔、北条博士の恋人だったって記録が……』
ゼロが言い終える前に、北条博士がふと扉の前で立ち止まった。
ウィング達も北条博士に続き、なんとも大きな電子扉を見上げた。扉には、ポッドルームと記載されている。とたんゼロがお手上げに肩をすくめた。
『あ! ここはゼロは入れないよ。セキュリティの関係で、こういった場所に入れないプログラミングされてるんス』
北条博士は流れるように、ポッドルームのセキュリティロックを解除した。電子音が静かに響き、北条博士がふと肩越しに振り返る。
「ゼロ、ウィングの案内ご苦労。しばらく遊んできて」
ゼロは気抜けた声で頷いた。頷きひとつ、解き放たれたようにチャラいポーズをきめる。
『じゃあ庭でソーラー充電してこよ~っと! 最高の日向ぼっこ日和に乾杯』
そう軽く言って、スキップしながら立ち去って行った。
ゼロの背を見送ったウィングはふと、手話で北条に言った。
〔サムソン・ハワード博士とは恋人同士だったのに、どうしてさっきのサムソン・ハワード君には冷たいの? クローンだから?〕と。
北条博士は手話に一瞬固まったが、どうということなく軽く頷いた。
「所詮クローンは、限りなくヒトに似せて造られたヒトモドキ。
明証的直観である自己意識は演繹的な措定に過ぎず、〔前の自分の情報〕は知っていても複雑化された混在的な感情記憶はない。
彼の遺伝子情報をもつだけの、全く別の生き物。本人じゃない」
ウィングは、そう言う北条博士の目がどこか物憂げな事に気付いた。
好きの反対は無関心という。しかし北条博士のサムソンへの対応は、嫌悪でも無関心でもない、違和感のある拒絶だ。
ウィングは考えた。もしグレアが死んでしまったらと。それは想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
グレアが死んでしまったとして、もしグレアのクローンを造れるとしたら。
ウィングはそのクローンを忘れ形見として、一生大事に育てるだろうとも思った。
しかしもしそのクローンが〔愛するグレアにそっくりな、赤の他人〕に育ったら?
ウィングは悲しくなった。だってそれはグレアではないのだから!
北条博士はウィングの思案にかまわず、先を促した。
「さぁ、ウィング。マラークに会いに行こう。マラークはこのポッドルームの奥にいる」と。
ウィングはこくりと頷いた。先を行く北条博士の背を追うしかできなかった。
……・……
少年ことサムソンは、人目憚りに柱の影で涙をぬぐっていた。
思い出すは自分が誕生した日のことだった。
クローンポッドから出た瞬間、北条博士は涙ながら抱きしめてくれたのだ。
だが同じ時を過ごすうち、ふと彼女は戸惑いに目をそらすようになった。
次第に諦めるように手を離した北条博士の胸の内を、サムソンは理解していた。
それでもいつかまた手を取り合えると信じて、もう10年にもなる。
「……仕事に戻らないと」
そう呟いたサムソンが柱の影から出た瞬間、足元の何かに少しよろめいた。
足元の何かは、ミリアムだった。
はからずともサムソンに蹴りを食らったミリアムが、おもちゃのようにころんと転がる。
その勢いで、ミリアムが大事に抱えていたお菓子が床に派手に散らばった。
そばにいたペットのビッグメンが吠えたて、さながらプチパニック状態だ。
サムソンはとっさにミリアムを立たせ、怪我がないか撫でてやった。
「っごめん、ミリアム! 大丈夫?」
ミリアムはけろりと頷いて、散らばったお菓子の指を指す。
「……かし、つっぶぇたったよお?!」
ミリアムのお菓子は個包装が全部剥がされたゼリー菓子だった。
サムソンが手早く拾って、ふとする。
よほど大事に抱えていたのか、転がるお菓子は砂糖がちょっと溶けていて、手垢まみれで生ぬるかった。
ふと、地面に落ちた汚いお菓子と、今の自分が重なってみえた。
サムソンは少し目を伏せた。金細工のように輝く睫毛が震える。
一度床に落ちたお菓子は、もう落とす前のお菓子とは違う。
それはどれだけ似ていようが、自身がハワード博士にはなれないことを彷彿とさせた。
自身は生まれた時から、床にみじめったらしく落ちた菓子と同じなのだと。
「僕のせいでごめんね、このお菓子じゃないとダメだよね。でないと、意味が、ないよね……」
その言葉かまわず、ミリアムは「あいがとー」とお菓子を大事に両手に抱える。
しかしまた両手からこぼれて、ビッグメンがしめたと食いついた。
「もービッグメンたらー!」
ミリアムは言うなり、我先にとお菓子を次々と口に放り込む。
サムソンはあたりの目を気にしつつ、拾い食いするミリアムに屈んで優しくたしなめた。
「ああっミリアム、床に落ちたお菓子は汚いから食べないほうがいいよ」
ミリアムはかまわずお菓子をリスのように頬ばり、回収したお菓子の1つをサムソンに手渡した。
「んー! どーじょ、おいしよー」
ちょっとためらったサムソンだが、好意を無下にはできまいと苦笑に受け取った。
「おいしのよぉー」
ミリアムがお菓子をリスのように頬張って、満面の笑みで自らの頬に手をやる。
手垢まみれで汚いゼリー菓子を、サムソンは静かに口元に運んだ。
落ちたお菓子はゴミが付着していた。それでもちゃんと甘かった。甘くて、やさしい味がした。喜んでもらおうと作られたお菓子の味だ。
「……おいしいね。床に落ちても同じ……同じお菓子だよね。……ありがとう、ミリアム」
サムソンの瞳から、思わず大粒の涙が一つ落ちた。サムソンはそれに我に返り、しきりに涙をぬぐう。
その時ふと、ミリアムの小さな手がサムソンを大きくなでた。お菓子でベトつく手がサムソンの髪を乱す。
ミリアムはやっつけのように、さも撫でるのが当然のように撫でつくし、気が済んだのかパッと離れた。
離れて、とっとと走り去っていく。その小さな背にビッグメンが続いた。
振り返りもって手を振ったミリアムが、「しゃよーたら!」と元気に駆けていく。
幼児ならではのその切り替わりの早さに、サムソンは少し驚いた。驚いて、思わず軽く手を振り返す。
そして思い出したように、小さな背に声をかけた。
「……うん。さようならー、だよ」と。
ミリアムは今度は振り返らず、大きな声で叫んだ。
「しゃよーただっ!」
言って口からこぼれたお菓子をまた拾い食い、ミリアムは春風の突風のようにかけていく。
サムソンはその小さな背が見えなくなるまで、手を振っていた。
なんだか救われた気分に、おぼろげに口元をほころばせたまま。