1:初出勤
パリッとした白衣に袖を通したウィングは、見上げるグレアに微笑んだ。
〔どう?〕と口パクに両手を広げて見せる。
グレアは可愛らしく頬を染め、大きく頷いた。
「誰がどう見ても立派な研究生よ、ウィング。研究員としての初出勤ね」
スイングドアを2人で出ると、出勤する研究生たちがまばらに廊下を行き交っていた。
「本当に1人で大丈夫? 北条博士の特殊研究グループ【オラム】まで行ける?」
眉を下げるグレアの頬を、ウィングの指先がゆるりと撫ぜる。
その指先でグレアの髪を細くからめとり、指遊びに巻きながら手を離した。
鳥がじゃれあいついばむような仕草に、グレアの頬が赤く染まっていく。
そのあまりの可愛さに、ウィングは想いままグレアに口づけた。
「気を付けてね、行ってらっしゃい」
にこやかに角を曲がり、ウィングは腕時計に目を落とした。
実は既に遅刻しているのだが、グレアのそばにいたかったのだから仕方がない。それに巻き返す自信はあった。
初めてグレアと外出した日に、ヒトの移動はとても遅い事を学んだ。まるで水中を歩いているようだったのだ。
ウィングはまるでボクサーのように軽く2,3ジャンプし、矢のように駆けだした。
ヒトのそれとは違い、まるで一筋の疾風のように走りぬけていく。
階段の手すりを滑り台に欄干を飛び越え、そしてまた水を得た魚のように消えていった。
その様子に研究生たちは目を丸くした。
「あれが異例の引き抜きの元検体か。突風みたいなやつだ」
口々に追うようなざわめき遠く、ウィングは広場を飛び越えあっという間にドームホールまで駆け抜けていた。
ウィングは思わず足を止めた。
ドームホールの目が眩みそうなほど高い天井ガラスには、ぬけるような青空が広がっている。
鳥達が優雅に空を泳いでいて、雲は気ままに浮かんでいる。
気持ちよさそうだな! とウィングは思った。グレアと一緒に飛べたなら、これ以上の幸せはないだろうと。
……・……
犬の糞をこれでもかと顔面に塗りたくられた気分だった。
グレアが作った生体ロボット【ゼロ】は、通路の隅っこで600回目のため息をついた。
ゼロはグレアの事で頭……もとい生体電子頭脳がいっぱいだった。
彼女が15という若さで入社できたのも、ゼロという存在があってこそなのだ。
それなのに、ゼロはもう何年もメンテナンスすらまともに受けていなかった。
ふと家出すると気付くかと思い立ち、廊下のスペースに埋まって廃棄ロボットのマネをしたりもした。
ロビーで昼夜問わずひたすら首を回転したりもした。
そうして何年も、ずっとそうやってスネていたのだ。
やがてまた北条博士に呼び出され、こうして部屋の隅っこで601回目のため息をつくに至る。
ゼロに声をかけた北条博士は、廃棄ロボットのマネをするゼロを見て、ちょっと気まずそうになだめたものだ。
そのさい今日、ゼロに〔ウィングのテスト〕の仕事を与えたのだ。
それは〔ウィングがゼロを直せたら、助手として合格〕というテストだった。
もちろんゼロは北条博士とはいえ、いい顔はしなかった。
ましてや対象はグレアお気に入りのウィングだ。ゼロは盛大に憤怒した。
『検体風情が、この超高性能コナトゥス型生体ロボットのゼロを直せるとでも?
グレイシア博士を奪った憎っくきモスマンに、身を委ねろというのですか!』
人工声帯でまくしたてるも〔よろしく頼む〕と言い流され、ゼロは犬の糞をこれでもかと顔面に塗りたくられた気分になったのだった。
『どうせゼロは、ただの生体ロボットですよ……』
蚊ほどにひとりごち、602回目のため息をついたゼロは、通路の隅っこから出たのだった。
一方、ウィングはあんぐりと大口を開け、配属された特殊研究グループ【オラム】の塔を見上げていた。
電子扉の向こうのオラムはとても広かった。
例えるなら空港に似ているが、様々な研究施設の集結するオラムは、遠くの人が米粒ほどにしか見えないほど壮大だ。
忙しない研究員達を横目、ウィングはふきぬけのオラムの各階を、オモチャを分解した子どものような瞳で見学する。
(会長はここに来ればわかるといっていたけど……)
そしてふと、振り返った。
さっきからなんとも覇気のないヒト型ロボットが、ウィングのあとをつけているのだ。
ウィングはなんともいえないむず痒い気分に向き直り、互い仁王立ちに見つめあうことしばらく。
ウィングはそのヒト型ロボットのよれた服に視線をおとし、炎のような赤髪をまじまじと見つめた。
似たようなヒト型ロボットはいくつか見たが、赤い髪の個体は初めてだった。
もしかして会長がいってたテストはこのヒト型ロボットだろうかと、ウィングは改めて握手を求める。
赤髪のヒト型ロボット・ゼロは返さない。地獄行きの片道切符を押し付けられたような面構えで、ウィングを見つめている。
やがてゼロが視線そのまま歩み寄り、ブーツの音がカスタネットのようにリズミカルに響いた。
『生体名モスマン、測定資料用検体、個体名ウィングですね』
ゼロは不服そうに言い捨て、うなずくウィングに604回目のため息をついた。
そして、小馬鹿に見下した表情で、紳士のように胸元に手をやる。
『ゼロです。ウィングにたぶらかされたグレイシア博士に作られた、
高性能かつ人智の及ぶ最大の技術で作られた人類最高の超高性能コナトゥス型生体ロボットです。
これよりテストの名目で、モスマンごときに修理されなくてはなりません。気の毒でしょ』
妙なトゲを感じつつも、ウィングは微笑み大きく頷いた。
グレアが作ったヒト型ロボット【ゼロ】を直すのが初シゴトなんて、なんだかとても嬉しかったのだ。
しかしゼロの視線がおちる。恨みがましくまた上がって、墜落するように落ちた。
『ウィングはこのゼロと対等だといいたいのですか~……ほんの数年ぽっちグレイシア博士と一緒にいたというだけの検体風情が~……
ゼロは量産型ゼロと違い文字通りの零、ファーストナンバー。オリジナルの唯一無二だというのに~……』
目を丸くするウィングにかまわず、ゼロはそれはもう根暗の極みに俯いた。
ホラー映画のオーディションなら間違いなく合格になる目つきだ。
ウィングはまばたきひとつ、ゼロをまじまじとみた。
ゼロには、他の量産型ゼロと違う点があった。額にリサイクルマークの烙印があるのだ。
これはウィングにも見覚えがあった。死んでいった兄妹たちが、同じリサイクルマークのついた檻に詰め込まれていたことを思い出す。
(そうか……北条博士は僕がゼロを直すことで、本当の意味で検体から研究員に引き上げるつもりなんだ)
ウィングの思案にかまわず、ゼロはどういうわけか踵を返し、廊下の狭いスペースに入り込んでいく。
量産型ゼロが無職の兄を見るような目でちらとゼロを目で見送った。見送るだけだった。
彼ら量産型ゼロは明らかにエリートな雰囲気で、廊下のスペースから陰鬱に睨んでくるゼロとは大違いだ。
ウィングは肩をすくめ、とりあえず近場の量産型ゼロに北条博士の居場所をたずねようと試みた。
駄目だった。また試みた。また駄目だった。他の研究員も同じだった。
行く人去る人は黙々と、ある研究員は計算しながら小走りに、ある研究員は携帯を耳にまるで独り言を宙につぶやいている。
すっかり途方に暮れたウィングは仕方なく、ゼロの修理を試みることにした。
ふと目についたのは、近くのデスクにあった調整機と工具だった。
ウィングはその昔、グレアにゼロの設計図を見せてもらった事がある。
グレアがゼロのアップデートができていない事を気にかけていたことも。
(もしかしたらゼロはアップデートできていないせいで、機嫌が悪いのかもしれない)
設計図を見たのはほんの一瞬だが、ウィングはその天才的な頭脳でばっちり暗記していた。
(……僕でもゼロを直せるかも!)
1割の親切心と9割の好奇心が握手する。
ウィングは人目かまわず遠慮なく、調整機一式を拝借した。それはあまりに自然すぎて、誰も気に留めなかった。
『まだ何か用ですか。無能にはわからないでしょうが、ゼロは今とても忙しいんです。
さっきからオートデバックシステムのエラーの解除に集積回路をフル活動させる事に忙しいんです』
恨めしげに睨み上げるゼロに対し、ウィングは先ほど誰かの席から拝借した調整機を広げる。
ウィングは断りもなく、間髪いれずにゼロに目つぶしをした。
同時、ゼロが気味が悪いほど静止する。両目の同時押しがフリーズモードなのだ。電圧変動していたゼロの髪がさらりとおちた。
ウィングはそのままゼロを分解はじめ、ドライバの先端でゼロのねじ穴をゆるめた。
ゼロは自身のシェルパーツが開かれた事を悟った。
ウィングがゼロの生体基盤に触れぬよう、何やらコードを抜いている。同時、目前がメンテナンスモードに入った。
ゼロは廊下のスペースに挟まったまま、力なく意識を手放したのだった。
……・……
北条博士が、ふと流れる人だかりにエレベータスロープを下りた。
廊下のスペースの人だかりに、ウエスタンポリスのように目を細める。
ウィングは順調に、ゼロを分解しているようだった。
北条博士はその手つきに目を見張った。
ウィングは設計図も一切見ずに、ゼロのメンテナンスをしているのだ。
まるでルービックキューブを瞬時に解くように、ウィングはあっという間に組み込んで、ゼロのシェルパーツを閉じる。
そしてゼロの両目を長押して、スイッチを入れた。
北条博士はその手際の良さに、満足げにスロープに肘をつく。
テストは合格だ、と。
ゼロを修理するこのテストでは、多角的対応力や適性、最低限の常識が備わっているかなどの能力、
そしてあのゼロに合わせる性格すべてが試される。合理的かつ効率的に処理していく能力はいわずもがな、
ウィングにはイルミナのアンドロイド型オペレータシステムの基礎を作り上げたグレイシア以上の才があることを意味していた。
小さな電子音がしてしばらく、ゼロが起動に顔をあげる。
『メンテナンス・ト・アップデート・ガ・完了・シマシタ』
ゼロのその声に、見守っていた研究員たちが拍手に湧く。
北条博士は感心に微笑み、研究室へ戻っていったのだった。
しかしそこで、アップデートを終えたゼロの予想外な声が上がった。
『はざーっす! (おはようございます)』
起動と同時、突如いかにもパリピな声で叫んだゼロが、パリピポーズをウィングに向ける。
『あっウィングさん、チスチスチーっス! この度はどうもマジアガルっスよね~自分メンテマジ感謝してるんでェ! マジで!』
和やかな空気が一瞬で凍りつき、遠くで北条博士の爆笑が聞こえたのだった。