3:マラーク
ある日、雲一つない空を裂くように一筋の光が墜ちた。
疑う事のない確かな愛の日々は、たった1つの飛来生命体により浸食されていく。
少しずつ狂い始めた軌道をもし運命とよぶなら、それはとんでもなく狂った時を刻んでいるに違いない。
やがて錆び、腐りおち、音の外れた鐘を響かせるのだ。
最期の時がきましたよ、と。
……・……
鬱蒼と茂った樹々は、無残になぎ倒されていた。
その先で1機の飛行盤(UFO)が糸のような煙をあげている。
墜落した飛行盤から運び出されたのは、3才ほどの男児だった。
太陽光にすら火傷しそうなほどの青白い肌に、烏の濡羽色の艶やかな髪が映える。
鮮血のように真っ赤な瞳が、うっすらと太陽を見た。
かけつけた宇宙生物学者アヴァロン・ジェーンが、調査員たちに指示を出す。
「……すぐに治療室へ!」
この世には光と闇がある。
闇から光が生まれ、宇宙が形作られた。
生命のその在り方しかり、生命そのものは宇宙の一部であり、その縮図ともいえる。
故に、どんなに残虐な人間であろうとも、必ずどこかに〔光〕がある。
仏教でいうところの仏性は、精神的に病でもない限り、〔愛〕という名の光を個々に宿しているものだ。
結論から言えば、この飛来生命体【マラーク】にはそれがない。
正確には、この時点では確かにあったのだ。
【マラーク】は、人間とは比較余地のないほど崇高かつ清廉潔白で、高潔な生命体だった。
彼の魂は非常に神に近かったし、この世の真理も理解していた。まさに救世主のそれ〔だった〕。
だが正義は時として、正義であるがための血を流す。
……・……
「飛来生命体のヒューマノイドエイリアン?」
北条博士は、飛び込んだ宇宙生物学者アヴァロン・ジェーンをひと睨みした。
息を切らすアヴァロン・ジェーンは唾を飲んで、書類の束をずいと突き出す。
北条博士は興味なさげに手をひらつかせた。
「別に珍しくない。下っ端にまわして」と言って、書類をサイドデスクに投げる。
崩れる参考書の山を受け止めたアヴァロンが、ずれた野暮ったい眼鏡をはめ直した。
「そっ、それがかなり特殊なヒューマノイド型なんですよ……! 北条博士、お目通しだけでもどうか」
北条博士は舌打ちひとつ、ペン尻でこめかみを掻いてひったくるように受け取った。
「見るだけ。仕事の邪魔をしないで」
そう言ってあくびひとつ書類をめくり、はたと目を凝らしもう1枚。
真剣にもう1枚めくって、眉をひそめまた1枚めくった。
少し間があった。アヴァロンは息を呑んで北条博士の返答を待つ。
やがて、北条博士は小さく頷いた。
「……わかった、私がやる。でも飛行盤は専門外。……知り合いに1人、腕のいい技師がいる」
北条博士は言いもって、内線電話のボタンを押した。
内線1番。〔イルミナ会長〕直通のその番号に。
……・……
小鳥が歌うある朝のこと。
ウィングに揺り起こされたグレアは、めったに鳴ることのない内線電話のコールに飛び起きた。
転がるように研究室を出て、入り口枠の受話器をとろうとした瞬間、発信元にとんでもなく度肝をぬく。
発信源は内線番号1番……〔イルミナ会長〕からだった。
国1つほどもあるイルミナのトップの着信に、グレアは迷子の子供のようにウィングに振り返った。
咎められる事をしてないわけではない。ウィングとの仲がバレたのだろうかと、冷や汗が頬を伝う。
それを知ってか知らずか、ウィングはガラスごしに「頑張れ」と口パクで手をふる。
ウィングのすこぶる笑顔にうなずき、グレアは大きく深呼吸ひとつ。祈るように受話器をとった。
「はい、こちら試料研究課リドナーです」
緊張に強張る声に奥歯をかむ。
予想外にも返ったのは、若々しい青年のそれだった。
「お、朝早くから研究頑張ってるな! ええと、フェザーチャイルド研究員のグレイシア?」
イルミナ会長の、若々しい軽やかな声が続く。
「これからウィングと一緒に、会長室まで来てくれ。ちょっと話があるから」
その言葉にグレアは電撃を食らったように硬直した。
通話終了にそっと受話器をおろしたグレアは、頭痛にうなだれるかのように両手で顔を覆い、椅子に腰をおとした。
緊張に息まで強張る。
「どっどうしてイルミナ会長が……まさか担当を外されるの? もしウィングとの仲がバレてたら……」
渦のようにめぐる思考を断ったのは、ウィングだった。ウィングは翼のように両手を広げ、穏やかに微笑む。
グレアは唇をむすび、研究室に戻るなりウィングに抱き付いた。顔を胸にうずめ、頬擦りに見上げる。
「会長がこれから来なさいって。どうしよう、私……」
ウィングはうなずき、グレアの額に優しいキスをした。怖い事なんて何もないよ、という優しいキスだった。
グレアはふと、うんと子供の頃を思い出した。ウィングのキスは、おばけが怖くて眠れない夜中に、母さんがくれたキスに似ていた。
……・……
イルミナ生命工学研究所の若き会長は、受話器を置いてさてと襟を正した。
太陽色の髪をワックスで適当に整えた会長は、いかにもエリートな青年実業家に見えるだろう。
鏡で隙がないかチェックしてすぐ、愛する妻と子にキスをした。
「評議会に行ってくるよ。すぐすませてくるから」
会長の妻ヘレナは笑顔で頷いた。
「なんだか最近、騒がしいわね。グレイシア達にはお茶を用意しておくから安心してね」
会長はヘレナをひとなで、砂糖にガムシロップをかけて煮詰めたような甘い声で、愛娘エレナに頬ずりをする。
「あーエレナちゃあん、可愛いでちゅね~? どうしてこんッなに可愛いんでちゅか? パパ行ってきまちゅね~?」
すっかり目尻を下げた会長は、ご満悦に会長室を後にしたのだった。
ちょうどそのころ、ジャッドは腕時計に目を落としていた。
そろそろ会長が来てもおかしくない時間だ。
ふと胸元の携帯が鳴り、ジャッドが耳を当てる。
携帯の向こうで宇宙生物学者アヴァロン・ジェーンの狼狽した声が返った。
《ああっジャッドさん! ARからの通達で、【マラーク】の引き渡し要求がありましたっ!》
AR、その単語にジャッドが眉を潜めた。ARはイルミナと肩を並べる軍事組織だ。
膠着状態の影には、忌々しい歴史が尾を引いている。
ジャッドが携帯を利き手に持ち変えた。
「だからどうした、アーロン」
アヴァロンことアーロンは、続きを待たずにまくしたてる。
《こっ、国防総省から情報が漏れたかとッ……どどどどうしましょう、下手すれば国際問題ですよう……!》
情けない声をあげるアーロンに、ジャッドは溜息ひとつ。まったく腰抜け野郎めと。
受話器の声の主アーロンは、その人柄と仕事量から上司部下問わず多大な信頼を得る人格者だ。
ただ幼い頃は〔落ちこぼれ〕ならぬ〔浮きこぼれ〕のギフテッドで、ほんの10歳でヘッドハントで入社した才を持つ。
人生の半分以上をイルミナで過ごす彼は、階級は違えどジャッドとも親戚にも似た間柄だった。
そのせいかこうしてよくかかってくる電話も、今のようにひっくりかえった声も慣れたものなのだ。
「いちいち声をひっくり返すな。会長もとっくに把握済みだ。これから評議会で可決する。
宇宙生物保護法により、墜落地からの搬送は当人の承諾が必要だ。ARがどう騒ぎ立てようが、保護観察義務はこちらにある。
何より意識混濁のマラークを動かすわけにはいかない。対策は目下検討中と応えておけ」
ジャッドはそれだけ言って、通話を切った。やっつけにポケットに納め、自分の苛立ちに首を振る。
ちょうどその時、廊下の角から飛び出した会長が、急ぎ足に片手をあげた。
「悪いジャッド、待たせたな!」
ジャッドはちらとあたりを伺い、会長に並び親しげな返事を返した。
「ったく。お前はガキの頃から相変わらずだな……。評議会のお偉方が雁首揃えてお待ちかねだぞ」と穏やかにたしなめる。
会長はけろりとしたもので、ジャッドから受け取った紙袋の中身を広げた。
「だろうな。正装までもってきてくれたとはさすが俺の親友、わかってる」
ジャッドはかまわず、刺すように声を潜ませた。
「いいから走りもって着ろ。国防総省からも通達があった、マラークの情報が漏れている。オラム内にネズミ(スパイ)がいるぞ」
急ぎ足で正装に袖を通した会長は、余裕めいた笑みでジャッドを横目見た。
「情報は漏れるもんだ、どいつもこいつも信用ならないさ。評議会の連中もな」
そう言って、豪華絢爛なドアの前で一息つく。
「……お前だけだ、ジャッド。ガキの頃からお前だけが、俺の唯一無二の親友だよ」
その背に、ジャッドは親友の笑みを返した。
「もちろんだ、相棒」と、敬礼を添えて。
……・……
大聖堂を模した会議場は、墓地のように静まり返っていた。
ステンドグラスから射す光は凍り付いたように動かない。
ずらりと並ぶ重々しい面々、その一人が腕時計に視線をおとし、小さな咳払いに顔をしかめる。その隣が憤慨に鼻をならした。
いずれも老いた者達だが、イルミナに従属している各国の要人や財閥、貴族や富豪たちだ。
やがて廊下に響く足音に、皆視線が向いた。
満を持し会長は派手やかに扉をあけ、会釈もなくメインの高座につく。
これはイルミナの集いだ。大聖堂に敷かれた、青銅色の巨大な三角形のカーペットがそれを物語る。
「我らイルミナの13血流の皆方。これよりイルミナ評議会を開催する」
会長は右手を天に立ち上がった。威厳と自信に満ちた瞳が光る。
「神々は光明を見出す」
声高々と響く弁舌に皆が起立し、遠い代よりお決まりのこの宣言を復唱する。
「我々の秘密を見よ。全人類を統一するにあたり、目的は手段を正当化することを忘れてはならない。
我々によってのみ密かに、徐々に各国の政府を掌握する。
我々がこれまですべての革命を手にしたように、これからもそうであることを此所に宣言する。集う13の血流よ、夜明けをこの手に」
……・……
ウィングを研究室から出したのは初めてのことだった。
イルミナ生命工学研究所はまるで大都市のように広大で、果てに見える白い塀が山のように高々と広がっている。
その白い塀遠く、グレアとウィングはイルミナ内のライトレールに揺られていた。
グレアが遠くに輝く中枢センターを指す。
「ウィング、見える? あの中枢センターに、イルミナ会長がいるの。さっき電話してきた、ここイルミナ生命工学研究所の一番偉い人」
ターミナルにも似た中枢センターはガラスのパイプチューブのような通路が伸びていた。
ウィングは巨大なそこで、大きくあたりを見渡す。
オベリスク(方尖塔)のような柱が突き出た、灰色の巨大な建物が空に高々と伸びていた。
金属とも石ともつかない材質の壁には、綺麗な青いラインが引かれてある。なんとも異様な建造物だ。
「き、緊張する……こんな場所、お呼びが無ければとても入れないもの」
強張りに首を振るグレアの肩を、そっとウィングが抱く。
ウィングを見上げたグレアは、その笑顔に緊張がほどけていくのをかんじた。
やがて2人は広いセンター内の案内板をたどり、いくつかの電子ドアをくぐり……ようやく吹き抜けのような広いロビーへと出た。
案内された先は大きなホールだった。青い絨毯には、踏むのをためらいそうなほど精巧な模様が施されてある。
そして一番奥に佇む重厚なドアが1つ。
「ここが、会長室ね」
グレアとウィングは見合って深呼吸ひとつ、2人でドアをノックした。
ノックに応え出たのは会長の妻ヘレナだった。
扉が大きく開いて、ひまわりのような笑顔がさく。
「いらっしゃーい! グレイシアさんと、ウィングね。どうぞ上がって上がって~」
まるで親戚の家に訪れたかのようなフランクさに、グレアは豆鉄砲をくらった顔でお邪魔した。
会長室はべらぼうに広かったが、モデルハウスというよりは生活感のあるあたたかみのある部屋だ。
クリーム色のソファに促され、ウィングとグレアが腰を落とす。
緊張していたグレアは、ヘレナの明るさに少し気が休まった。
グレアは社報で幾度か、ヘレナを見たことがあった。
蜂蜜を垂らしたような髪に、若草色の瞳が特徴的な可愛らしい女性だ。
会長が周囲の反対を押し切ってまで結婚したのは記憶に新しい。
ただ社報では可愛らしい女の子だったが、今ではすっかり母親の顔になっていた。
つい先日生まれた赤ちゃんエレナは、ヘレナの腕の中でご機嫌に笑っている。
「いきなり呼び出してごめんなさいね。私はヘレナよ、よろしくね」
向かいのソファに凛と腰掛けたヘレナは続けて、楽にしてねと穏やかに微笑んだ。
「会長は今いないの。緊急会議が少し長引いてるみたいで……よければそれまでお茶でもどうぞ」
グレアは作法に倣って一口いただいた。
繊細な装飾のティーカップに、透き通ったルビー色の紅茶が香る。
ウィングは紅茶はさておき、ヘレナの腕の赤ちゃんエレナを興味津々に見つめていた。
熱い視線に気付いたヘレナは、嬉しげにウィングにふる。
「抱っこしてみる? この子はね、エレナっていうの。女の子よ」
その言葉に驚いたグレアは、検体に大事な赤ちゃんを抱かせることに驚きを隠せなかった。
万が一にも落としたりしてしまったらと思うと、首を横に振らずにはいられなかったのだ。
しかしウィングは神妙にうなずき、ヘレナから赤ん坊エレナを抱き上げた。
まるで卵でも包むかのようなそれに、グレアは内心ウィングを少しでも疑った事を恥じる。
ウィングは初めて抱く赤ちゃんの感覚に、思わず綻んだ。
なめらかな金糸の髪、サクランボの唇。ミルクのような甘い香りがして、まるで天使のように愛くるしい。
顔はリンゴのように小さく、その口は葡萄すら飲み込めないだろう。
赤ん坊エレナはガラス玉のような大きな瞳で、じっとウィングを見つめている。
ウィングはそっと、人差し指でエレナの頬をなでた。応えるように紅葉のような小さな手が伸び、ウィングの人差し指を包む。
エレナは口をもごつかせ、音のような可愛い笑い声をあげた。
「可愛いね……」
グレアが思わず声をもらし、ウィングと見合ってエレナを見つめた。
まるで夫婦のそれに、ヘレナは微笑ましげに目を細める。
ふと、エレナが目を見開いた。それはもう全力で見開いた。
顔は一気にトマトのように赤くなり、ウィングとグレアが驚きままヘレナを見る。
穏やかな空気に、エレナの盛大なオナラが響いた。
水っぽいオナラとともに、元気なウンチの振動がウィングの手に伝わる。
ウィングもグレアも固まった。可愛い見た目を裏切る盛大な音だ。
「ああっごめん! ウンチよ、エレナったらいつも盛大に気張るの!」とヘレナ。
ウンチを出し切ったエレナは、とてもスッキリ爽快な声を上げる。
緊張の糸が切れたグレアが思わず笑い、ウィングもヘレナも笑った。
それを皮切りに、穏やかな会話に花が咲く。
赤ちゃんエレナとウィングの目がふとあって、エレナはキャアと可愛い声をあげたのだった。
……・……
会長はためいきひとつ、会議場隣の小憩室の扉を閉めた。
マラークの件での評議会は難航を極めた。
13血流の頭目は、先代会長の息子である若き会長をどこか見下した風情に鼻を鳴らす。
そんな中ようやく評議会を終え、会長はやれやれとジャボ(胸飾り)を抜いた。
絵画の聖堂のように荘厳な小憩室は、歴代会長の絵画がおおきく見下ろしている。
会長はそれを背に、苦虫を噛んだような唾をのんだ。歴代会長の正式衣装である中世の侯爵のような夕闇色の羽織を脱ぐ。
慣れた手つきで、バロック調のクローゼットに羽織を戻した時のこと。
「あなた……」
背の扉が静かに開き、少女の面影のこる乙女が切なげに駆け寄った。
乙女は会長の実の妹マリアだ。
可憐なマリアが、会長の袖を愛しげにつかむ。ブロンドの髪がふわりとなびいた。
「いつまで家族ごっこをされるのですか」
マリアは綺麗な形の唇を歪め、悔しげに指を噛む。絹のような白薔薇のドレスの膝をつかみ、いじらしくすねてみせた。
「正妻は私ですのよ。お父様もそう望まれてましたわ」
若葉色の瞳は涙にあふれ、真珠の肌に雫となって流れ落ちる。
「あの女……ヘレナにあうまでは、貴方は毎晩私を愛してくださったではないですか……」
会長は無言でそれを振り払った。その瞳は機密組織イルミナ会長としての鋭い光を宿している。
そんな会長の手に、マリアの柔らかな白い手が重なった。
「ヘレナに教えてあげましょうか、私達のこと。歴代イルミナを統治するモルガン家の血を穢してはならないと」
焦れた末の必死がでていた。とたん会長の手がとまった。マリアはやれしめたと愛しい人を抱き締める。
見上げ、かつてのようなくちづけを求めた。
「愛していますわ、お兄様……」
会長は、かすかに眉根を寄せた。
拒絶するように突き離すと、そんなに力を入れたわけでもないのに、マリアは小さな悲鳴をあげ座り込む。
襟を正す会長は手を貸すことなく、まるで冷淡な目でマリアを睨みおとした。
「マリア、何度も言わせるな。かつての行為はすべて父の指示により強制的にあてがわれたものだ」
会長はまったく情のない事務的な口調で続けた。
「父の亡き今、お前を娶る必要はない」
父は絶対だった。山のように高い背は今でも会長の瞼にやきついている。
泣き虫で甘えん坊なマリアは、いつも会長の背で父に怯えていた。父による破瓜の血を流してから、マリアはすっかり変わってしまったのだ。
そんなマリアを守れるのは、兄である自分だけだと思っていた。
会長は踵をかえし、金細工のようなドアノブに手をかけた。肩越しに、かつての行為にかたく奥歯を噛む。
妹マリアはこんな時でも美しかった。可憐で妖艶な、清純あふれる淫女だ。名画の女神たちも嫉妬に狂うだろう。
しかし、会長はヘレナに出逢ったのだ。そして本当の恋を、愛を知ったのだ。
もちろん先代である父は猛反対だった。イルミナの血統は、純血でなければならないと。
ほざく年老いた父を、人目忍び手にかける事は容易い事だったとも。
「マリア、二度とこの話をするな。……お前は正妻じゃない。妹、なんだよ」
自分に言い聞かせるように呟いた会長は、静かに小憩室をあとにする。
残された少女マリアは、静かに泣き崩れたのだった。
……・……
ヘレナ手作りのアップルパイはシナモンがきいてとても美味しかった。
年齢が近いこともあって、グレアとヘレナはあっという間に打ち解けていく。
「やあ、賑やかそうで何より!」
ドアを開けた会長が、微笑ましい光景にご満悦に目を細めた。
とたん、グレアは思わず姿勢を正す。会長は〔楽にして〕と手でふって、ウィングからエレナを抱き受けた。
「やあやあ、遅れて悪かった。会議が少し長引いてね」
そう言って手を差しのべる会長に、グレアもウィングも応え握手をかわした。
くったくのない爽やかな笑みをうかべる会長だが、身の内からあふれる風格は肩書き以上のものだ。
「ええと、さっそくの話なんだが……悪くない提案だよ」
会長はヘレナから受け取ったコーヒーを片手に、ゆったりとかまえた。一口飲み、カップをデスクに戻す。
「グレイシア、そしてウィング。君達の仲は十分理解しているつもりだ」
とたんのグレアの戸惑いを、穏やかに包むように続けた。
「グレイシア、君を咎めるつもりは全く無い。それをふまえた上での話としてきいてくれ」
グレアは少し息を飲み、祈るようにうなずいた。
会長はいい切り出しに腕時計に目をおとした。そろそろ、といった面持ちだ。ふと気付けば、コーヒーのカップが1つ多い。
間も無く重々しいノック音が響いた。
会長の了解に静かに入室したのは、軍服をきっちり着詰めたジャッドだった。
その手には分厚いファイルがしっかりと握られている。ジャッドはグレアの肩を抱くウィングをじろりと見た。
「失礼します。……それが例の検体モスマンですか」
ジャッドは慣れたように、会長の斜め向かいについた。そして、半ば値踏みするかたちでウィングを刺すように睨み付ける。
ウィングはジャッドというヒトが、どうして自分を睨んだのか皆目見当つかなかった。
何やら嫌われているのはなんとなくわかったが、単に目つきが悪い人なのかもしれないとも。
グレアにとっては、なんとも居心地の悪い空気だった。
幾度となく夜を共にした男と、愛する男が同じ席についているのだ。
もちろん2人に面識はない。しかしジャッドの様子は確実にウィングとの仲に気付いた様子だった。
ジャッドがふいに視線をそらし、ファイルから書類を抜いた。
「……先ほどの評議会でもあがりました、今回の飛来生命体の名前は【マラーク】に関しまして」
ジャッドは続けて、先日イルミナ敷地内に墜落した、飛行盤の内容を説明した。
オキュパント(搭乗者)が特殊なヒューマノイドであること、そして彼をできるだけ早く宇宙に帰さねばならないこと……
そしてそれには、グレアの技術とウィングの知能が必要だということを。
そして、いつもの瞳でグレアを見た。
「グレイシア、北条博士が君を飛行盤修理に推薦した。
モスマンは北条博士の助手として、マラークの生態調査を担当するようにとのことだ。
君は生体医工学課で飛行盤の修理を。モスマンは北条博士とマラークの調査に当たるように」
グレアが驚きに口元をおさえる。
「えっ、それは……」
ヘレナが穏やかに言い添えた。
「引き抜きよ、グレア! ウィングが研究員になれば、同じ研究員同士、交際も結婚も自由に公言し施行できるのよ。ね、悪い話じゃないって言ったでしょ?」
呆然とするグレアに、会長とヘレナが見合って笑顔で頷いた。
「北条がぜひともウィングとグレアをと。北条の推薦は異例だからね、ぜひとも直接会って話がしたかったんだ。君がいい人そうで安心したよ」
グレアは突然の話に驚き反面、安堵にウィングを見上げる。
ウィングもグレアに微笑み、肩を抱いた。そして、会長にしっかり頷いたのだった。
「異議は?」とにこやかに会長。
ウィングが大きく頷き、グレアが零れんばかりの笑みを会長に向けた。
「とんでもありません、喜んで! どうぞよろしくお願いします……!」
喜びに沸く場にそぐわぬ顔で、ジャッドは澄まし込んだ顔で書類をまとめていた。
ふとグレアと視線が絡む。
ついと目を逸らされたグレアは、なんとも言えない気持ちでウィングに肩を抱かれていた。