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Wing  作者: 光輝
■1部
2/19

2:かくしたもの


穏やかな毎日はあっという間で、グレアがウィングの担当になってから一年という歳月が経っていた。


好奇心旺盛のウィングは、こと数学と音楽に興味があった。

ウィングがその二つを認識しからというもの、まるで水を得た魚のように知識を次々とものにしていったのだ。

自ら進んで風呂に入るようになったし、服もカタログを見て選ぶようにもなった。

簡単な食事も作るし、掃除だってするようにもなった。


相変わらず一言も喋らないが、たった1年。

たった1年でウィングは、一般男性と変わらぬ知識と教養を得たのだった。


「今日のテストはこれよ。頑張ってね」

グレアは毎日恒例のテストプリントを手渡した。

素直に受け取ったウィングは、プリントに目を通しつつホットミルクを一口。

片手間に焼きたてのトーストを皿に乗せ、グレアの隣に座った。

そして当然のように軽く抱きよせる。ウィングの長い指がグレアの髪をすいた。

まるで恋人同士の仕草に、グレアはつい頬を染める。


ウィングは軽くサインでもするように筆を走らせ、あっというまに答案を書き終えた。

ウィングの知能の発達はめざましく、今や有名大学の首席でも首を捻る問題を筆が止まる事なく回答するほどだった。努力暗記型では成せない数式を独自の応用で答えを導き出すその姿は、目を見張るどころではなかった。


「今回も正解よ、ウィング」

まるで宝くじが当たったかのように喜ぶグレアに、ウィングは歯を見せ微笑んだ。

グレアの喜ぶさまが嬉しいのか、無邪気な瞳がありありと物語る。


そのあと続けてグレアは200桁の数の13乗根(13乗するとその200桁数になる値)を提題したが、ウィングはそれも流れるようにペンを走らせ、あっという間に回答を書きあげた。


ウィングのめざましい成長は、これまでのフェザーチャイルドの記録を次々と塗り替えていく。


そんなウィングの成長っぷりに感心を抱いた上層部が、幾度か実験室に視察に訪れた日もあった。

しかしその時だけはウィングは頑なに、ベッドで丸くなるのだ。

もちろん上層部は顔をしかめたが、グレアは不思議な気持ちになっていた。


普段ウィングは笑ったり、涙したり、時にはふざけたり怒ったりと、色んな彼をグレアに見せていた。

言葉はなくとも、ふと何分も見つめられた事もある。

グレアが思わず赤くなると、ウィングはまるで花を愛でるように、指で優しくグレアの頬を撫でるのだ。


ウィングが言葉を理解している事は明白だった。何とか会話をしてみたいと、グレアは毎日思うようになっていた。

思いが想いに変わるまで、そう時間はかからなかった。


早い話、すっかり情がわいていたのだ。


……・……


月が高々と昇る夜のこと。

グレアは休憩室のバルコニーでひとり、紅茶片手に月を見上げていた


生ぬるい風に乗って、遠くの生体医工学研究施設の音が響く。

蛍のように光る窓に目を細めた時、ふとドアの音に振り返った。


振り返って、現れたその人にやや姿勢を正す。慌てて手串で髪をすいた。

「こんばんは、ジャッド佐官」


ジャッド佐官は、さも当前にグレアの隣に立った。

「誰もいない時はジャッドでいいと言ったろう、グレア」


挿絵(By みてみん)


そう親し気に微笑む男性は、ジャッド・ダグラス。

ピッシリと着こなした軍服に黒髪が映える、鋭い刀のような男だ。

「お疲れさん。相変わらず遅くまで頑張ってるな」

ジャッドは手元のコーヒーを一口、グレアに穏やかな笑みを見せる。黒い瞳が、ちらと月明りを返す。

「どうだ、モスマンの様子は?」


グレアは待ってましたとばかりに目を輝かせた。

「ええ、とても順調よ。全教科満点だし、今日なんか音楽を聴いたの」

グレアの百合の花のような笑みに、ジャッドは満足げにうなずいた。


ジャッドの眼下に疲労を見たグレアは、思わず訊ねた。

「……大丈夫? ジャッドは最近どうなの?」と。


ジャッドは少しため息をつき、伸びをした。腕をくみ、苦笑に溜息一つ。

「ああ、ミリアムに相変わらず手がかかってるよ」


グレアはうなずき、続きを待った。

ミリアムはイルミナが捕えた宇宙外生命体で、気弱なエキゾチック型エイリアンだ。

ややあって男児に寄生したミリアムをジャッドが引き取り、家族として日々を過ごしている。

「今日は迷子になって、ペットのビッグメンと食堂で泣いていたらしい」


グレアは何とも可愛らしい小言に、口元に手をやって笑みをこぼす。

およそ本題を伏せたそれとない会話をぽつぽつと交わし、ふとした間があった。

2人は示し合わせたかのように見つめ合う。


静かなバルコニーに、生体医工学研究所の作業音が遠く響いていた。

ジャッドは静かに、グレアの髪に触れた。グレアは紅潮に手をさける。


「とって食いやしない」

ジャッドの甘い苦笑と低く穏やかな声に、グレアは思わず耳まで赤くなる。


年上のジャッドは、イルミナ佐官であり、グレアの友人でもある。

一介の研究員と組織の佐官、そんな二人が友人でいるには理由がある。いつの時代も男と女がいるかぎり、そういうものがあるように。


静寂にグレアはふと、ジャッドと出会った夜を思い起こした。


バーでひとりグラスを傾けていた夜のことだ。

野暮ったい田舎娘が珍しかったのか、ジャッドが軽く声をかけてきたのだ。

さぞモテるであろうルックスに紳士な笑みをたたえたジャッドは、男性経験のないグレアには衝撃的だった。

ホイホイ持ち帰られ、気付けばベッドの中だったのだ。


それから幾年月、人目を忍ぶ曖昧な関係が続いている。

互いの部屋を行き会う夜があっても、正式な交際を申し込まれたことはない。

大人の恋愛に言葉はいらない……といえば耳障りはいいが、地に足付かずだらだらと体の関係が続いているだけだ。


グレアの視線の先はジャッドの左手の、月夜に星のように輝く指輪にあった。

友達以上恋人未満とはよくいうが、二人の場合、友達でも恋人でもないに違いない。

最初はそれでもよかった。ジャッドの肉体の熱い高ぶりと雄々しい怒張に魅かれない女はいないだろう。

だけど満たされるのは体を合わせている時だけだ。

それがこんなにも寂しいことだなんて、当時は若すぎてわからなかったのだ。

かといって大人の女性でもない。「私たち、付き合っているの?」の一言すら、怖くて訊けずにいるのだから。


ただ、ジャッドの左手の指輪に気負いしたといえば、諦めに近いかたちでそうだったのかもしれない。

後に噂で知ったことだが、当時ジャッドには恋人どころか妻子があったらしい。そしてそれは、悲しいかたちでの過去形だった。

亡くした妻子の理由をグレアは知らなかった。訊くべきではないと思っていたし、ジャッドも一切妻子の話はしなかった。

よくある一線をひいた大人の関係、ただそれだけだ。



ジャッドは目を伏せるグレアの睫毛を見ていた。

刺激的で派手な女や、歩くブランドのような女はどこにだっている。でもグレアはそのどちらでもないし、特に見目立ちするわけでもなく、けば立つ華やかさもない。

けれどジャッドにとって、一番心が穏やかでいられる存在はグレアだけなのだ。

ジャッドは少し鼻先をかいた。

「……グレア。今週末、よければ食事でも」


ジャッドのデートの誘いに、グレアは目覚めたように顔を上げる。

いつもなら喜んで頷くところだが、返す言葉に詰まった自分に驚いた。

ふと浮かぶはウィングの笑顔だった。グレアは静かに首を横に振った。なぜそうしたのか、グレア自身もわからなかった。


それとない間が心苦しく、仕事を言い訳にグレアはやや逃げるように休息室をあとにした。

妙な罪悪感はウィングに対してだった。まっすぐなあの眼差しを無下にしたようで、心苦しかったのだ。


小さな背を見送りため息ひとつ、ジャッドは空の紙カップを握りつぶし、ゴミ箱へ放った。

グレアがモスマンを担当してからというもの、どこか上の空の様子に気をもんでいた。

(無理もないか、新しい配属先では気が抜けないだろうに)

息抜きになればと食事に誘ってもなしのつぶて、ジャッドはためいきひとつ腕を組む。

グレアの笑顔を咲かせるには、どうすればいいのかと。


ふと休憩室の入口付近に小さな影が走り、ジャッドは目を眇めた。

「ミリアム?」


挿絵(By みてみん)


ジャッドの通った声に、男児ミリアムが小さく顔をのぞかせた。

透き通るような金の髪の間から、青空色の瞳がビー玉のように光る。

ピンク色の可愛らしいワンピースがちらりと揺れた。


「おいで、ミリアム」

手招きするジャッドに、花が咲くように笑顔になったミリアムが駆け寄る。そのままジャッドの膝に抱きつき、軽々と抱き上げられた。


くすぐったげなミリアムの小さな鼻に、ジャッドは軽いキスをする。

「こーら、こんな時間まで起きて悪い子ちゃんめ」


ジャッドの頭に抱き着いていたミリアムが、拳を突き出した。

「ぱぱ! はいどーじょ!」

紅葉のように小さな手には、子供用の大きなビーズで作られた腕輪がひとつあった。


「俺に?」

ジャッドは腕輪をうけとりミリアムをなでた。

「おー、ありがとうミリアム。よく頑張ったな、すごいぞ」


休憩室の椅子を引き、ミリアムを座らせる。ミリアムは嬉しげに両足を泳がせた。


「どうやって作ったんだ? パパに教えてくれ」

肘をつくジャッドに、ミリアムはジャッドが買い与えたビーズセットの箱をいそいそと取り出す。

安っぽい音とともに、プラスチックの蓋が開いた。


「こえでとぅくったの」

ミリアムは舌ったらずに、小さな指で大きなビーズをつまみ、たどたどしい指つきで紐に通し始める。


ジャッドはふと、ドッグタグ(軍隊の身分証)を取り出した。

口を開けみつめるミリアムをよそに、タグのボールチェーンをミリアムの腕に合わせ、ナイフでほどよい長さに押し切る。

そしてビーズをつまみ、一つ一つ通し始めた。

そうしてあっという間に完成した虹色の腕輪を、ミリアムの細い腕につけてやる。

ミリアムはたちまち目を瞬かせた。瞳に虹色がうつり、まるでシャボン玉のように煌めく。


「ミリアムがくれた腕輪のお礼だ。おそろいだな」

「おそぉい?」

「同じってことだ」

そしてひとなですると、ミリアムは向日葵のような笑顔をさかせた。

「ぱっぱ、あいがとお!」


たまらず抱きつくミリアムを撫で、ふと目に着いた結婚指輪にジャッドが目を伏せる。

いつかみた夏の海、妻と娘と砂まみれではしゃぎまわったあの日を思い出していた。

ミリアムはじきに娘の身長を越えるだろう。その時には、この指輪も一緒に片付けるべきなのだと。


「……また大きくなったなぁ、ミリアム」

ジャッドはそういって、亡き娘の服を着た男児ミリアムの背をなでたのだった。



……・……



「今、何を隠したの? ウィング」


グレアは壁ぎわまで追い詰めたウィングに、猫撫で声に歩み寄っていた。

当のウィングはかたくなに首を横にふり、ヤモリのように壁に貼りついている。


ウィングはその手の中の[かくしたもの]を見せまいと拳を石のように堅く握りしめていた。

本来ならば研究員は検体のデータ採取にやっきになるものだが、

グレアはウィングのプライバシーを尊重し、それ以上追求しないことにした。


ウィングは[かくしたもの]をグレアの手の届かない照明の上に隠し、そっと人差し指を唇にあてる。

およそお菓子のオマケか、飴の綺麗な包み紙か……いずれにせよ、プライバシーができたのは成長の証なのだ。

グレアはちょっと感動しつつ、母親のような気持ちで頷いたのだった。


2人でちょっと掃除をしたあと、毎日の恒例ティータイムに一息。

ウィングのいれるホットミルクは、いつもほのかに春の薫りがした。きっと隠し味は蜂蜜だろうとグレアが目を細める。

ふと微笑み返すウィングの瞳はとても穏やかで、グレアは胸の奥までじんと温かくなるのを感じた。


ジャッドの時とはまったく違う。押し詰めたような感覚や、ふと思い出す夜の事などない。

春の野に二人寝転がっているようで、ただそばにいれる事が嬉しかった。


ウィングはその気持ちに応えるようにそっと肩を抱きよせる。

少し驚いたグレアはそのまますっぽりウィングの腕の中におさまり、体温の近さにウィングを感じた。

「ウィング……?」


ウィングはグレアの額に軽いキスをし、まるで子猫でも触れるかのように優しくなでた。

指先から伝わる溢れんばかりの自分への愛しさに、グレアは胸がいっぱいになった。

まるでふわふわの花びらで肺を満たしたかのようだ。

そんなまどろみの中、かつてない抱擁感にグレアは眼下が熱くなるのを感じる。


これはグレアがずっとずっと探していたものだった。ジャッドとの夜になかったものだ。

ウィングはグレアをなだめるように、ずっと優しく優しくなでていた。



腕時計のアラームにまぶたを渋つかせ、グレアはふと顔をあげた。

母鳥のようにグレアを抱き包むウィングに、グレアはあれからすっかり眠りおちていたことを悟る。


つられて起きたウィングが寝ぼけ眼でグレアに微笑んだ。それにグレアは胸がじんと熱くなり、たくさんの花びらが胸から溢れるような気持ちまま、心からの笑顔を返した。

「……おはよう、ウィング」


ウィングは寝ぼけまま、グレアの髪にキスをした。グレアは嬉し気に笑み、応えるように頬にキスを返す。

少しじゃれあって、二人はごく自然にキスを交わした。可愛いキスは、春のあたたかい陽射しのようだった。


それからも、穏やかな毎日は続いた。

2人でリースを編んだり、映画を観たり、時にはささいなケンカもした。

はたからみても恋人同士のそれに、グレアはかつてない幸せを感じていた。


ウィングは相変わらず一言も喋りはしなかったが、いつも優しく、決してグレアを傷つける真似はしなかった。

それどころか、溢れんばかりの愛しさにグレアは心打たれるばかりだった。



やがて2人は自然に手をつなぎ合わせ、口づけをかわし、ひとつになった。

互いにずっと探していたものを見つけたような、自分の半身をやっと見つけたような感覚だった。

ふとした仕草やさりげない癖、何もかもがただただ愛しかった。


額にそっとキスしたウィングは、穏やかな笑みでグレアをなでる。

春の野原に2人で寝転がっているような、穏やかで心地良いひとときは永遠にも思えた。


2人は見つめ合い、そっと額をくっつけあう。互いの鼻先がつんと当たった。

「愛してるわ、ウィング……」


ウィングは穏やかに頷き、愛しさいっぱいにグレアを抱き締めたのだった。


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