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Wing  作者: 光輝
■1部
1/19

1:出会い

挿絵(By みてみん)


白の巨塔を中心とする〔イルミナ生命工学研究所〕は、さながら1つの大都市だった。

天にまで届きそうな白い塀から、警備ライトが夜闇に目を光らせる。


その様子を、研究棟の窓辺で見つめる女性がいた。

なめらかな香木色の髪からのぞく、アイスブルーの瞳。

艶やかな唇からもれたため息は、牢獄のような研究室に寂しげに響いた。


彼女の名は、グレイシア。

イルミナ生命工学研究所の研究員の1人だ。彼女は今まさに、鳥籠の中に等しかった。

薬指にいびつに光る指輪を愛しそうに撫で、グレイシアはかたく目を閉じる。


……あれからもう、16年にもなるのかと。



……・……


さかのぼるは、16年前。


挿絵(By みてみん)


白いペンキにどっぷり浸したかのような研究室で、グレイシアは腕を組んでいた。

分厚いガラスを隔てた研究室の隅で、ダンゴ虫のように丸まっている〔それ〕に、どうしたものかと溜息一つ。


グレイシアことグレアは、【イルミナ生命工学研究所】に勤めて10年になる研究員だ。

様々な検体のデータをみてきたグレアだが、〔それ〕はどこをどう見てもボロ布の塊だった。

ボロ布の塊こと検体は、ぴくりとも動かない。


研究室からして、検体はおよそヒト型だろう。グレアはほとんど白紙の検体ファイルに目を落とした。


(この検体のデータをとるのか……)


グレアは問題児をかかえた教師のように眉間を押さえ、ファイルを片手に仕事にとりかかった。

まずは室内マイクに向かって軽快な挨拶をする。なんせこういうのは第一印象が肝心なのだ。


「初めまして! 私の名前はグレイシア。どうぞよろしくね」


検体は動かない。グレアは一呼吸おき、続けた。

「今日から私が君のデータを記録するの。何かあったらいつでもそこのマイクから訊いて」


グレアは言って、地面に無造作に捨てられているリモコン型マイクに目をやった。

マイクは一度も使った様子がなく、静かに埃をかぶっている。


よくよく見れば、ガラスを隔てた向こうの研究室は、まったく手入れをした様子はなかった。

教室の半分ほどのそこは、パイプベッドがひとつ。

あとは別室でトイレと風呂のみの簡素なものだが、埃だけは立派なものだった。

ねずみ色のベッドはおそらくかつて純白だったのだろう。その上に丸まるボロ布も、きっと。


(もしかして、廃棄予定の検体なのかな? かわいそうに)


なんでもここは先日まで、〔危険生体として侵入不可の研究室〕だったそうだ。

グレアが声をかけた清掃員は、ゴムで束ねた金をちらつかせても、決して首を縦にふらなかった。

「現在は侵入許可が下りるほど安全なんですよ」グレアがそう訴えても、なしのつぶてだった。

グレアはしばし考え、ひとまず研究室の掃除をすることにしたのだった。


研究室へと足を踏み入れたグレアは、水いっぱいのバケツをおろす。

とたん大きなクシャミをひとつ、すぐさまマスクで口元を覆った。


まずホウキで地面をさらってみた。

ホコリは逃げるように舞い上がり、グレアの足首まで霧のように白みがかる。


グレアはあまりの衛生管理のなさに溜息ひとつ。一体どれほどの間掃除していないのか見当もつかない。キリがなさそうなので、とりあえず水で一気に流すことにした。


水をまき、ブラシで掃き、また水をまいてはブラシで掃いた。すると地肌が少し顔をのぞかせる。

白い部屋だと思っていたが、本当の地面はもっと白いようで、真珠のように輝くタイルが見えた。

しかし汚れはヤニのようにこびりついている。あとはただ気合いだった。



掃除を終える頃には、日はとうに落ちていた。

グレアは大きく一息つき、研究室を見渡す。苦労のかいあって、真珠の部屋は艶やかに光っていた。


「やっと綺麗になった。ほら見て!」

ボロ布は返さない。緊張しているのか、頑なに身を強張らせていた。

「次は君よ。綺麗にしましょう」

グレアは意気揚々にベッドで丸くなるボロ布に触れる。とたんボロ布は驚いた猫のようにビクついた。


「大丈夫、少~し洗うだけですよ~」

保育士のような猫撫で声でそっとボロ布を掴む。ボロ布は蓄積した汚れで少々べたついていた。

しかし全身全霊で嫌がりまくったのはボロ布の方だった。


勢いあまって、ボロ布の隙間から逞しい小麦色の肌がのぞく。

それにグレアは目を丸くした。

窓ひとつない実験室に閉じ込められているのに、筋肉は若々しい張りとツヤがあり、健康そのものだったのだ。続いて少しだけ覗く髪は、プラチナとしかいいようがないほど艶やかで、まるで流星のように美しい。


グレアは検体のボロ布を全部ひっぺがして、その全貌を目におさめたくなった。

ベッドに両手、そして片膝をつく。


「……こわがらないで、大丈夫だから」


グレアは緊張に強張る検体を、ボロ布ごしに優しくなで続けた。なだめるように、慰めるように。検体は次第に落ち着いていく。

検体の力みの消えたころ、グレアはそっとボロ布をめくった。とたん思わず言葉を失う。


挿絵(By みてみん)


検体はみたところ未成年ほどで、男らしい若さが目立つ容色だ。

蛍光灯に眩しそうに目を眇めた青年の瞳に、グレアが映る。

青年の通った鼻筋はギリシャ人を思わせた。麗しいラインの唇は、愛を謳うスペイン人のようだ。

そして何よりその瞳に釘付けとなった。

柘榴のように紅い、ルビーの瞳。はぜるような情熱の緋は、グレアがこれまでみたどんな宝石よりも美しかった。



「ぁ……こんにちは、ええと……」

グレアは夢から覚めたように我にかえり、緋瞳の青年に微笑む。

「今日から私が君の担当になるの。グレアって呼んでね」


しかし青年は返さず、唇を固くつぐんだままグレアを見つめるだけだった。

やや懐疑的な瞳に敵意はなかった。ただ、警戒しきりなのは痛いほどに伝わる。


グレアはあえて調子を崩さずに続けた。

「君のデータは白紙だから、とりあえず基礎データからとらないと。綺麗に洗浄しましょう」

そう仕切り直し、青年の手を取ってシャワールームへ誘導する。


ふと青年からするりと落ちたボロ布に、グレアは度肝を抜いた。青年はボロ布以外、何も身に着けてなかったのだ。

グレアは全裸の青年を極力見ないようにつとめ、シャワーの栓をひねった。


とたん青年は仰天に水をよけ、壁にヤモリのように張り付く。目を白黒させ、威嚇に歯を剥くさまは動物そのものだ。

猫のような威嚇にグレアはあっけにとられ、思わず噴き出した。


「大丈夫よ、ほら。おいで」

そう優しく言って、シャワーを自分の体にかけてみせる。

白衣や下着まですっかり濡れたが、グレアは気にしなかった。データより、まずは信頼関係を築かなければならないのだ。

グレアは昔、飼い犬を風呂に慣れさせた日を思い出していた。


「ごめんね、私は本当は管轄が違うから勝手はわからないんだけど……人手が足りなくって」


グレアは言いもって青年の手をとり、シャワーのぬるま湯に触れさせた。

青年は強張っていたものの、案外すんなりいうことをきいた。手のひらを握って広げ、水の感触を確かめるようだった。


ふと、青年の伏せた目がちらとグレアを射抜く。

シャワーを持つ手を優しく握られ、グレアはどきりと視線を逃がした。


ぬるま湯とはいえ湯気があがったのは幸いだった。

この青年からしたら、突如現れた人間に変な事されまくってる気分なのだろう。

しかし、青年は基本穏やかで、嫌がったりはあったものの決して暴れたりはしなかった。


風呂からあがって見事ツルピカになった青年は、爽快感に腕をなでている。

グレアはウエットスーツのように身体にはりつく服を脱ぎ捨ててしまいたかったが、青年を前にひとつこらえた。


ロッカーに替えの衣類は一切なかった。グレアはふむと顎に手をやり思案にふける。

(シーツすらないなんて! 本当にほったらかしだったのね)


青年を全裸のまま研究室に戻すのはシャクだった。かといってまたボロ布を着せるわけにもいかない。

グレアは止む無く、観察室備え付けの白衣で間に合わせることにした。


「しばらくそれでガマンしてね。明日、服を持って来るから」

自らの服をしぼりつつ、グレアは笑顔で続けた。

「そうだ、ついでに髪も切りましょ? 目に入ると痛いもの」


聞いているのかいないのか、青年は白衣のボタンを指でいじっている。

グレアはそれを横目、研究室から観察室へ戻った。


ガラスを隔てた向こう側から、青年がじっとこちらを見ている。グレアはふと笑顔を返した。服の上から膝掛けを羽織り、キーボードを叩く。


青年のデータをまとめている時のことだった。

ふとガラスを隔てた研究室で、青年がグレアに寄り添うように丸まって、あくびをひとつ。疲れたのか、そのまま静かに眠りについた。

グレアは肘をつき、寝顔をしばし眺める。


「……名前にしちゃ、かわいそうよね」


グレアは青年のデータファイルに呟く。

青年はどこをどう見ても人間なのに、前任の基礎データでは【モスマン】と記述されていた。


モスマン。直訳すれば蛾男である。


……・……


翌朝、いつもより早く起きたグレアは、真っ先にイルミナ内の公共資材庫へと足を運んだ。


公共資材庫とはいうものの、精製食品から家具まで何でも揃う大型の販売施設だ。

デパートよりも広い販売施設はイルミナ各所に点在し、研究員達は皆そこで日用品をまかなっている。

例にもれず、グレアもモスマンの服や下着などひととおりをカートへ入れていった。


さてここイルミナ生命工学研究所。

表向きはDNAの研究を務めるが、その実体は生物兵器の研究開発にたずさわる秘密軍事組織である。

機密情報保護のため、研究員達は一切外界から断たれ、文字通り墓場までここで過ごさなくてはならないのだ。

ごく一部の上層部のみ許された外出も、一般研究員であるグレアには関係のない話だった。


そんなイルミナでのグレアの仕事は、人工生命体のデータ採取および遺伝子組換による生物兵器の研究が主だ。

そういった人道外れたものは歴史から見てわかるように、多少のマッドさを必要とされる。

グレアは健康測定器の発表会でヘッドハントされた、いわゆるクリーンな科学者だ。

頭ひとつでイルミナに入社した彼女は、若さゆえに純粋で、マッドな思想は持ち合わせていなかった。

故に検体データ採取に躍起にはならず、まるで親戚の犬をしばらくあずかるような感覚でモスマンを引き受けたのたのだ。


(モスマンには、なにが知育になりそうなものでデータをとろうかな?)


そう思案をめぐらせていたグレアはふと、棚の影から現れた女性を見た。


挿絵(By みてみん)


すらりとした細身の白衣姿に、黒い髪が映える。

この女性こと北条栞(ほうじょう・しおり)博士は、トップクラスの研究者だ。

北条博士の発案したバイオ技術や医科学の特許は星の数で、イルミナの基礎資金源を生んだ人でもある。

イルミナで知らない人はいないだろう。そしてグレアが知る限りで最もマッドな研究者だった。


(うそ! 北条博士だわ!)

グレアはまるで芸能人に遭遇したかのように高ぶった。緊張の残る笑顔で、北条博士に会釈をする。

「北条博士、おはようございます」


それに北条博士の黒い瞳が、ちらとグレアをとらえた。とらえて、ふと向き合う。

「そういう君はグレイシア。……ここにダイオードは無い。どうしてここに」


グレアは自身を覚えてもらっていることに、思わず心臓が跳ねた。

光栄と緊張が入り混じったまま、グレアは失礼のないように挨拶を返す。

「この度、生体医工学課から試料研究課に配属されました。今はフェザーチャイルド(モスマン)を担当しています」


北条博士はフゥンと頷き、それとなくナッツ缶を手に取った。

「フェザーチャイルド型は基礎データはあるはず」


続く会話にグレアは舞い上がりそうになるのをこらえた。

「はい、それが基礎データが紛失したらしくて、前担当が御多忙のため私が指名されたんです。

試料研究は右も左もわかりませんが、精一杯頑張ります」


ぴかぴかの笑顔のグレアに、北条博士は目で頷いた。

「……そう。これを」

言って分厚いファイルに指をなぞり、1枚引き抜いた。ポケットからペンを抜き、サインのように走らせる。


グレアが何事かと思う間もなく、1枚の紙を手渡された。

それは、フェザーチャイルド型の基礎データだった。


北条博士が、グレアの手元に渡った書類を軽く指す。

「フェザーチャイルド型は、育種学として少し触ったことがある。神経系の免疫が非常に弱かった。視力は悪く、自立歩行が困難な個体もいたほど。

今はヒトとそう大差ないけど、健康維持は未確立。日々の記録がものを言う」


グレアは驚きまま、大きく頷いた。

「フェザーチャイルド(モスマン)は、昔はそんなに繊細だったんですね」

「うん。初期は餌に残留する浸透性農薬かと思われたが、原因追及と治療研究の結果、牝牛の分泌液混合物による慢性中毒が原因だった。

当時は薬剤治療が足踏み状態、除去療法を模索する間に4体死んだ」


北条博士の流れるような説明に、グレアはふと訊ねた。

「牝牛の分泌液? それって牛乳ですか?」と。


北条博士は軽く頷いた。その目はグレアにではなく、グレアの手元の書類にある。

白魚のような指がそっと書類をなぞった。

「うん、それ。正しくは、餌に微量に含まれる乳成分が一定の量を越えると急激反応していた。

牛乳を摂取させたフェザーチャイルド型には酵素機能の低下がみられ、長期摂取から神経伝達物質の代謝酵素が阻害状態にあるとみとめられた。

腸の内膜酵素と結合し炎症反応も起こしていたが、個体差が激しかったため

長いあいだ誰も牛乳が原因だとは思わなかったし、予測に確信がもてずにいた。

フェザーチャイルドは水以外の飲み物をひどく警戒していたから〔無色透明の牛乳〕を飲ませてみた。

すると平均720ml上限で激しい下痢と嘔吐を起こし、結果として6体死亡で済んだ」


少し間があった。正しくは、グレアは言葉を失っていた。

北条博士はどうということなく説明したが、衝撃的な内容だったからだ。

あの青年を、事もなく〔体〕と呼び実験をしていた事に、グレアは北条博士がなぜ北条博士たるかを思い出す。

実験で何体も、殺されたのだと。

目前のマッドな北条博士に思わず心臓が冷えた。

「……そうなんですか。でもなんだか、ちょっとかわいそうですね」


北条博士は微塵の後悔もなく、首をしっかりと横に振った。

「可哀想じゃない、無知が悪循環な道徳を生むだけ。今日のフェザーチャイルドは、尊い犠牲の上にある。

おかげで酵素生化学チームが基質特異反応から特定抗生剤を精製することができた。

彼らの技術も向上したし、フェザーチャイルドの基礎生存値はたちまち上昇し、ヒトと相違なく生存することができるようにもなった。

今や牛乳だってがばがば飲める。無駄な犠牲などひとつもない」

そう言って、初めてグレアをまっすぐに見た。

「グレイシア、個を知り全を見て、失敗を恐れず挑戦して。尊い犠牲を消極的な選択で終わらせてはいけない。

君のデータも一縷の無駄はない、フェザーチャイルド製造の成長目安として必ず役立つ。

コンピュータがはじき出すデータよりも、経験と勘がものをいう事はザラ。期待してるよ」


その言葉に、グレアは氷で殴られたかのような衝撃を感じた。

実験の犠牲のおかげで、あの青年は生きてるのだ。

血道を上げるマッドサイエンティストと、気高い志をもって光明を望む北条博士は、

一脈相通ずるものはあるとしても、ひとくくりに捉えるは短慮の極みなのだと。

自身の浅さを恥じたグレアが、思わず感嘆の溜息をついた。

「北条博士……すみません、私は研究の真意を理解していませんでした。自分が恥ずかしいです」


しおれるグレアに、北条博士は腕を組んだ。

「変化は恥ずべきことじゃない」組んで、静かに言葉を添える。「……〔無色透明の牛乳〕を作ったら、1億の遠心分離機がぶっ壊れたけど」


北条博士はそう言って、とたん叩きあげるように声を上げて笑った。

その突如の奇行にグレアは仰天した。まるで笑うということを〔やってみた〕かのような、北条博士の爆笑は鬼気迫るものがあった。

北条博士はストレスを涙で洗い流すかのように盛大に笑いあげ、ふいに断ったように真顔に戻る。


「牛乳と言えば、クロット発生によるプレアナリティカル要因改正案がまだか……」囁くように呟いた北条博士は、ぼそぼそと独りごちながら踵を返していった。

別れ際の挨拶ひとつもなかった。


グレアは北条博士が変わった人だとは知っていたが、いざ目の当たりにすると狂人のそれに近いものがあった。

だがその志の根底には、光を感じた。利己的好奇心を満たすためだけのマッドではないことに、改めて敬服したのだった。


グレアは生体医工学課でやりたいことはたくさんあったし、仕事もやりがいをもっているつもりだった。

試料研究課のモスマン担当に任命された時はそれとなく引き受けたものの、尊い犠牲を想うと身が引き締まる思いだった。


……・……


モスマンの反応は、目を見張るものがあった。


グレアが持って来た服を興味津々に受け取り、広げ、袖に手を通し、何と自分で着衣したのだ。

着やすいようボタンの無いタイプをチョイスしたのは大成功のようで、服を着たモスマンは〔見て!〕といわんばかりに喜々満面に両手を広げる。

驚いたグレアは、まるで保育所の先生のようにモスマンを誉めつぶした。


するとモスマンは興奮気味に脱いでは着てを繰り返し、興奮ままグレアの服を掴んだ。

脱がされそうになったグレアは「人の服は脱がしちゃダメなのよ」と優しく諫める。

それにちょっと目を丸くしたモスマンは、少し首をかしげ素直に頷いたのだった。


そんなモスマンに、グレアはリンゴを1つあたえてみた。モスマンはリンゴの色にまばたきひとつ、手に取り少し嗅ぐ。

ふと思い出したかのようにペロリと芯までたいらげ、もっとくれと手で催促までした。

あっという間に3個もたいらげたモスマンを、グレアはにこやかに撫でた。

モスマンが気持ち良さそうに目を閉じる。


「君の名前を決めないとね。モスマンは種名だし……属名はフェザーチャイルドだし……」

グレアの呟きに、モスマンの目がうっすらと開く。

グレアはしばし考え、花開くように思いついた。

「そうだ、【ウィング】はどう? 翼って意味よ。君の髪は天使の翼みたいに綺麗だもの」


モスマンことウィングは、グレアに甘えるようにもたれかかった。

もっとなでろという意味かと思えば、流れるようにグレアの膝を枕にする。

そのまま抱きかかえるようにグレアの腰に腕をまわし、静かに寝息をたてたのだった。


動物に好かれやすいグレアは、ここまで懐かれたのは初めてだった。


ウィングの髪をそっと撫でる。白銀の髪はシルクのように柔らかかった。

(母親依存と言語獲得能力の兆候があるなんて、まるで人間みたい。こうしてみると、普通の男の子と同じね)


それと同時に湧いた疑問は、なぜウィングは〔危険生体〕扱いだったのだろうという点だった。


グレアは北条栞博士からもらったフェザーチャイルド型の記録に視線を落とした。

書類には、フェザーチャイルド型は行動学でいえばインプリンティング(刷り込み)に近い反応が見られると記載されてあった。

しかしそれは初めて見た相手ではなく、自身が認めた相手が対象だそうだ。

その相手を見つければ心から信頼し、自身顧みず一生涯尽くすらしい。

(まるでツガイね、なんてロマンチック……)


グレアは続けてインプリンティング(刷り込み)項目に目を通す。

フェザーチャイルドはインプリンティングするまでは、精神薄弱で免疫も弱く、まるで幽霊のように覇気がない、と記載されてあった。そのぶん警戒心が強く、攻撃性が非常に高いとも。

その一文にグレアが少し肝が冷えた。


のんびり掃除したグレアだが、ヘタをすればモスマンに攻撃されていた可能性は十分にあったのだ。

清掃員も嫌がる理由も納得の腹落ちだった。

(ただ記録するだけの仕事だからと、気が緩んでたわ。今度からちゃんと書類に目を通そう)


思って、ふとした。

現状は、グレアはウィングにインプリンティングされたという事になるのかもしれない。

隅の方に走り書きで、〔もしインプリンティング反応があれば珍しい事だから詳しく記録して〕と書かれてあった。

その追記に、グレアは胸があたたかくなったのだった。



そのあと40分ほどで目が覚めたウィングは、またリンゴを食べた。

ついうたた寝をしていたグレアだが、ウィングにリンゴをすすめられ一緒に食べた。

リンゴは大きくて食べきれなかったが、残りはウィングがひょいとつまみあげぺろりと平らげた。


「じゃあ次はお勉強をしようね」

グレアは筆記用具と自由帳を広げた。興味津々のウィングが身を乗り出す。

グレアは鉛筆を見せ、まずは自由帳に線を書いてみせた。

ウィングは黒い糸が出るその細い棒をまじまじと見、ノートに落書きをしはじめる。その仕草はまるで幼稚園児のようだった。


グレアはウィングがノートに夢中な隙に、髪を切ってやった。

最初ウィングは驚いていたが、にこやかなグレアを見てすとんと大人しくなる。

途中で鉛筆を放り出したウィングは、嬉しそうに髪を切られていた。


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