9 彼女。彼。彼女と。
「シーナ……ちゃん?」
エルサはシーナを探していた。治療の最中に襲った狼たちによる襲撃の中、小人たち……シーナはゴブリンと言っていたか。ゴブリンの乱入があった。その直後に、シーナの姿を見失ってしまったのだ。
「どこにいるの……?ねえ!」
いない。いない。どうしても見つかってくれない。
エルサの頭が、求めた展開を越えて最悪の予想を伝えてくる。理不尽にさえ思える結末を、金切り声で知らせてくる。
「そんなわけない……そんなわけ、ない!」
狼が火球を放った。それだけではない、囲む影々から飛びだす矢の数々が、見事な精度で小さな身を狙い撃つ。
この場に集う全ての敵意が、この時、一人の少女へと向かっていた。あらん限りの暴力で、その絶命に向けて邁進していたのだ。
煙が立ち上る。渦巻いた炎と、穿ち放つ矢と。人一人を殺すのに、十分すぎるほどの凶器だった。
しかし……どれ程の暴力をもってしても、そこに佇む体から、何一つの変化さえ、得ることは叶わなかった。
焼き焦がす大火はその身に触れることはなく、射並ぶ矢は届くことなく地に落ちた。まるで強固な鎧にでも阻まれたかのように、意味は無く……。
エルサはイタズラに命を散らせていく。あらゆる手を使い、シーナを探すため力を振るっていく。
こいつだ。次は、こいつ……まだなの、まだ、私の目には見えてくれないの……邪魔がおおいからかな。
無造作な腕の一振でさえ、狼の首が飛んでいく、ゴブリンの腹が裂けるーーー……。
次第に諾々と攻撃が止み始めていく中、探し見渡す視界の中で、エルサは一際映る物に眼を留めた。
「……?」
それは死体に間違いなかった。ただ、それだけが他のものに比べて、毛色の違うものだった。
狼は全身を、どす黒い赤色の体毛に覆われている。薔薇を融かして、掻き回したような色。ゴブリンは、土痩けた緑色の皮膚をしている。腐った水を、体から飲み干したような色。
それに比べてその死体は、それらに比べ鮮やかとさえ言える体色をしていた。赤み刺す透き通るような白い肌に、折れそうなほど細ばった筋骨。青白さを見せぬその肌からは、未だ死体に温かみの存在を感じさせ、折れそうなほど細い脚からは、噂に聞く人形や、ある意味では貧しさを感じさせた。それに加えて、雑な作りの履物。これには随分と見覚えのあるように思えた。いつだったか、シーナが作ったものによく似ている……。
「そう……似てる……ほんと、ウリそっくりなくらいに、まるで本物がそのままあるみたいに……ああ、懐かしい……、別に器用なわけでも、今まで興味があった訳でも、ないのに、急にお洒落したいなんて言い出して、次の日に見せてきて……。頑張って作ったんだろな、そんな風には思えて、でも、やっぱり不器用だから、大きさはバラバラだし、紐だって長さが違って、それで、それで……ぁぁあ……」
けれど、その死体には足りないものが数多くあった。
顔が無い。首が無い。腕が無い。胴が無い。
「ーーーねえ……あなたは一体、誰なんだろうね……?エルサは今、誰に、話しかけてるんだろうね……?」
哀しみさえ知らぬ目で問いかけた。物言わぬ亡骸の吐き出す血の泉に体を沈みこませ、後生の手を伸ばした。触れる血肉に生きた心地を見出そうとする。切っ先を突きつけられる思いで、落とされる刃に怯えながら、非望する我が身可愛さにそうせざるを得なかった。
「顔がない、首がない、腕がない、胴がない……」
答えは出ていた。ただ、答え合わせをするのが怖かっただけで……。
「ーーー……」
沈黙が音を食い尽くしていく。
エルサは、昨日のことを思っていた。
■■■■
「こっちだったと思うんだけどな……」
青年はそう言った。聞こえてくる遠吠えに耳を傾けながら、ゆるりゆるりと進んでいく。
「死んでるか、死んでないか。死んでたら、どうすっかな。死んでなかったら、助けよう」
全身黒ずくめで猫背でなで肩。眠たげな目で頭を揺らし、短剣を一つ腰に携えている。
「助けて仲間にしてもらおう。……そうだな、媚の売り方にも、問題は用意されている……。危ない時。そうだ、身の危険を救って、腕っぷしに物言わせた活躍。これしかない……!」
気を窺って、さらに機嫌を伺う。しかし危ないとなれば、期限はいつか。
「くだらなくたって大事は大事だ。繋がなきゃ損だ、損……ん?これは……」
そこで先ず見えたのは、魔物の群れだった。狼に小人が、一緒になって何かを囲んでいる。
なんだ、思ったより消耗してるな……これは少し遅かったか……?
と、ゆっくり来すぎたと思い込む……そんなタイミングで、それは聞こえてきた。
「ーーーねえ……あなたはーー、ーーーーーーーーー?ーーーーー、誰に、話しかけーーーだろうね……?」
途切れ途切れに聞こえてきた。誰かが誰かへ語りかけている。その雰囲気はどこか悲しげで、今にも救われたそうに聞こえた。
「間に合った……か?」
しかしそれにしては静かすぎる。もしやの予想は、外れてくれるだろうか。
……。
場所を移した。魔物の群れに気づかれないよう、遠くをまわって覗き込もうとしたのだ。そして、見えた。
「……ああー、なんだ、死んでたのか……そりゃ、間に合っちゃいない、よなあ……」
無残な死体を目に捉えて、直ぐに目を逸らした。それ以上見る価値がなかった。死んでなかったら、助ける。死んでたらーーー……。
「……今回は、運がなかったってことで……すまねぇけど」
少しばかりの罪悪感を胸にしまいながら、青年は謝った。自己満足でありながら、これ以上ないほどに救ってくれる言葉だったから。
他に仲間はいなかったのだろうか。死体ともう一人いたと思うが、あの数相手では流石に無理なんじゃないだろうか。二人で戦って、一人が倒れてしまった……そんなところだろうか。
その時ふと、一つ考えが過ぎった。突拍子のない訳でもない、善心に拠る発想だった。
ーーー助けるか?一人でダメなら、二人なら……いや……
「助けたって、一人が二人になるだけだ……そこからあと一人集めるより、元から多い仲間に入れてもらった方が、いいに決まってる……」
それは、救ったあとの話だった。救える自信がありながら、あえて無視しようとしていた。
「くそっ……」
半ばやけくそに、意図的に離れようとしている。ここで振り向かずに明日から忘れてしまえば、後悔なんてものも、しないで済むだろうから……。
■■■■
私の名前は、シーナ・ケテルだ。
……。
私は死んでしまったのか。
ええ、死んでしまった。
言いようのない暗闇に漂っている。形容しがたい感触に身を委ねて、不透明な視界の中で無意識に生きている……そう錯覚している。
ここは、死の世界か。
ええ、死んでしまったのだから、そうでしょう。
体はあるように思えなかった。体のある人間が感じる不自由さとは、別のものだったからだ。
……。
私は。
ええ、死んでしまった。
ならば……、
ならばこれは、なんだ?
まるで生きている。この通り、死んだ人間が会話している。……さて、誰だ、この会話の主は。
私は死んだ。死んだのならば、今話しているのもまた、死んでいる。当然だ、生者は生者としか会話しない。ならば、死人は生者と会話せず、死人は死人と会話する。死んだなら、死んだものとだ。
私は、シーナ・ケテルだ。
……そうだ、私はシーナ・ケテルだ。そしてシーナ・ケテルは、死んでいる。
おかしい。私は、たった一人のはずなのに。
独り言?まさか。
……そもそも、死んだはずが、何故こうして話している?死んだはずの意識が、正常に働いている。
いや、そもそも、死んだあとどうなるかなんて、生きているうちはわからないものだ。死んだ後になって気づいて、生きている人に伝わらないまま……そう考えれば、何もおかしくない。死んだら意識も何もかもなくなってしまう、そう勝手に考えていただけで、実際に死んでみたら違った。ただそれだけの話だ。
酷く納得のいく話だった。すんなりと腑に落ちる、単純なものだった。
そうだ……こんなにも現実的な死を受け入れなければならない。体はなくてもいいが、これからどうすればいいのか……いや。
やはり、体は欲しい。死ほどの大きなことの前では気にしないでいた体の有無、今となっては、この曖昧な感覚が不快でしょうがない。
……なんだ、あるじゃないか。見下ろせば、確かな肢体が意思に従って動いている。曖昧だなんて、とんでもない。
そうだ、確かにある。驚きもしない。意識があって、何故体がないと思うのか。それこそおかしな話だと言える……。
…………。
だめだ。ここは、おかしくなってしまう。
どうしたらいい。
私はどうしたい?
意思があって、体があって、ここまであるのに、命がない……。
もどかしい。どうせなら、命まで。
……ならば、早く生き返らねば。
どうやって?
寝たきりの体を起こさねば。呑気に寝てるのは、誰の体か。私の体だ。ならば、起きるのも寝てるのも、私の意思の下でなければならない。意思はある。なら、どうとでも制御せねば、嘘になる。
……そう。
さあ、行こう。霧が晴れるようだ。世界の節々で、闇と光が入れ替わろうとしている。盛大な幕引きが目の前で行われようとしていた。明日も昨日も一緒くたに……尊大なまでの大仰しさで目覚めようとしている。
ーーー折角、友達になれると思ったのに。
私が言った。こんな時に、なんだろう。
同じ境遇の人がいる。初めましての挨拶なんていらない、そんな人が……。
しかし、今にも目覚める。空気を読まない奴が急かしてくるように、無慈悲にも結末を迎えた。
急激な重力と、環境による身体の正常と異常が、微睡みの中で絡み合う。そんな中でも、私は言った。
ーーーだからまた会うときまでに、私のこと……よく、知っておいてね……。
誰に向けての言葉か。それさえもわからない酷く悲しげだった、その言葉を。
私は、忘れずにいられるだろうか。