8 別れ道、獣
気づけば背中合わせになっていた。互いが互いに、死角を補おうとしている。
得物はある。腰に提げた冷酷な刃。私は今から殺さねばならぬのだ。
「剣はもう抜いておいた方がいいよ……多分もう、逃げられないだろうから……」
エルサの言葉に従い剣を抜いた。だが、しかし、果たして……。
「エルサ……」
「ごめんね、私がもっと、どうにかできれば良かったんだけど……どうにかって言うのは、勿論、頭を使ってどうにかってことなんだけど、さっきなんかはもう酷くて、今だって、『もしあの時ああしてれば』って、そういう事ばかり考えてる……。こんな時に、そんな事じゃなくて、どうにかしようかって、できる頭だったならって……」
不安なのか、怯えているのか、焦っているのか。どれもがさも正直者のような顔をしている。でもきっと、同じだけの大きな感情が巣食っているに違いない。
エルサが外へ、私が森の方を向いている。狼たちとの距離はジリジリと近づいてきており、私たちがただ動けないでいる一方、相手はタイミングを待っているかのように、じっと見つめて離さないでいる。
草木を掻き分ける音が聞こえてきた。すると私の前にいる狼の横から、新たに二匹の狼が現れる。先程木の根に巻き込まれたやつらが合流してしまった。
事態は悪くなってきている。ゴールを目前として、足踏みさえできない。
「ど、どうしようエルサ……」
「大丈夫……ううん。今度は、しっかりやるから」
エルサの顔は見えない。故に、今の顔がどんなものなのか、分からずにいた。
ここでついに動きがあった。動いたのは私の目の前にいる狼たち。口元から火の粉を舞わせながら、火球を飛ばしてきた。
「!!」
豪速で迫る火球に対し、私は超人の動体視力にものを言わせて剣を振った。迫り来る火球を斬り落とすと、その間にいつの間にか肉薄していた狼三匹がーーーおそらく火球と共に動き出したーーー牙をむく。
そこで、再び無数の木の根が、先程よりも大きな壁となって地面からせり上がってくる。しかし読まれていたのか、直前で足を止め、壁に対し超至近距離での火球を三匹同時に撃ちはなったのだ。
同時に放たれた火球は大きな爆発を巻き起こし、すぐ近くにいた私は木の根共々吹き飛ばされる。
「うっ、ぐうぅ!!」
直前に危険を感じ僅かながら後ろに飛んでいたため、そこまで大きな怪我はないようだった。後に痛みを感じることになるかもしれないが、今動けるなら大丈夫だろう。そしていつの間にか背後からエルサは居なくなっていたため、どうやらエルサは今の爆発に巻き込まれずに済んだようだった。
倒れた体を起き上がらせながら、同じく巻き込まれたであろう狼に目を向ける。爆煙が晴れてくると、その姿が蜃気楼のように揺らめきながら、その巻き込まれた姿を見せしめる。
「嘘でしょ……」
無傷。依然と変わらず、体毛に火を着けながら、こちらに対し戦意を構えてきている。
後ろにいた狼が再び火球を放った。その動作を見ていた私は、腰に提げていた水筒を宙に投げ、一刀両断する。すると中に入っていた水が辺りに飛び散り、飛来した火球とぶつかる。
すると、再び爆発とともに、大量の煙……水蒸気が発生した。自然と回避行動をとっていた私の辺りに水蒸気による煙幕が張られ、姿を隠すことに成功する。
ここからどうするか……狼は何故か煙の中に入ってこようとはしてこない。それなら、ここからまっすぐ後ろに下がれば森の外だ。
そう思い、早速行動に移そうとすると……、
Ahwoooooooo!!!!!
煙の向こうから、複数の遠吠えが鼓膜を震わせ耳に突き刺さる。
「……?これって……!」
冬の風が吹いているようだった。背筋を凍てつく指先でなぞったのは、紛れもない自分自身の危機感だった。
狼が遠吠えをする理由……特に気になって調べたこともないため確証はないが、安易に思いついた理由で言えば、
「仲間を呼んだ……?」
その考えに至った時、遠くから声がした。
「シーナちゃん逃げて!」
後方の、左から聞こえた声だった。その緊迫した声音に振り向くと、煙幕の向こうから何かが猛スピードで近づいて来ているのが微かに見えたーーー、
「っ!?」
咄嗟に掲げた剣身に、鋭利な牙が噛み付いた。ガチガチと鳴らしながら、目前で獰猛な本性を暴れさせている。
やっぱり仲間を呼んでいたんだ。それにさっきのエルサの言った言葉……”まだ他にいるかもしれない”という言葉、これがもし本当なら、今の遠吠えできっとすぐに……!
狼の力は予想以上に強かった。噛みつきの際の衝撃で体を倒されてしまう。それから長くない時間狼の噛みつきに耐えていたが、もう既に押し負けてしまいそうだった。
「シーナちゃん!頑張って!今、助けるから……!」
顔を向けることは出来ないが、エルサが今、戦っているのが分かる。他にいたもう四匹はどうしたのだろうか。うち一匹が目の前のこいつだとして、他の狼は……。
ふと、力が緩んだ。何事かと思うと、噛み付くのをやめた狼の開けた大口に、炎が集束し始めている。
「う、ぁ、は、離れて!退いて!退いてっ!なんでっ……!このっ!」
まずいまずいまずいまずいまずいまずい……!
逃げたいのに逃げられない。剣を離した狼が、今度は両前足で私の肩を押さえつけている。鋭利な爪が食い込むが、お構い無しに抵抗しなければならない。
何故なら殺される!焼かれて!グシャグシャにされて……!
「嫌だ……!嫌だ嫌だ嫌だ!!」
思い切り体を動かした。すると、運が良かったのか、剣を握っている右腕が自由を得る。
すかさず刃を首元へ一閃させる。死中に見出した千載一遇のチャンスに、全神経を集中させた一撃は、寸分違わず狙い通りの場所へと打ち込まれたーーー。
「な……んで……」
だが、通らない。渾身を込めた一撃は、分厚い毛皮と鎧のような筋肉に阻まれ、自らの掌に無力さを伝えるのみだった。
手が震え始める。首にかけられた刃は今にも命を刈り取るように思えるが、その実立場は全くの逆だった。
集束が終わった。狼は溜めた炎を解き放たんと、吼えるように顎門を解放する。
「あ”あ”あ”あ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”!!!!!!」
結果的に直撃は免れた。投げ出す思いで身をよじることで、髪一重で九死に一生を得たのだった。
「離…れて!!」
エルサの叫ぶ声。と同時に、拘束が解ける。押さえつけていた狼は、木の幹に氷の柱によって磔にされていた。
しかし、それどころではなかった私の体は悲惨なものだった。直撃を免れたものの、捩った体のすぐ真横に着弾した火球の余波によって、上半身ーー特に右半身ーーを、非情な大火傷に襲われていたのだ。
地獄に堕ちたようだった。顔の右側面から右肩にかけて皮膚は炭化し、胸や腕は皮膚が剥げ真っ赤に焼け爛ただれているのが認められた。
息が苦しい。気道までやられている。喉が役目を放棄したのだ。
こんなもの、生きていられるものかーーー。
あまりの苦しさに最後に捨てられるものを、今にして手放そうとしている時、もう何度聞いたかもわからない声を聞く。
「ーーー!ーーーーーー……!」
でも、もうわからない。死んじゃいけない事だけはわかるのに、死なないやり方なんてわからない。
辛うじて動かせる半身を、断じて動けぬ判断とする頭で操り、どうにか腰をつかせることが出来た。
「待ってて、今何とかするから……!う、四の五の言ってる場合じゃない……よね。」
どうやら全ての狼を倒したようだった。辺り一面に血の海と、魔法によって生まれた残骸だけが残っている。
ーーー結局私は、何も出来なかったな……。
今にして、エルサの言っていたことが分かったような気がする。エルサは、私の事を心配していた。何故ならこんなにも弱かったから。エルサにとって私は、庇護の対象だったんだ……。ああ、ようやく気づいた……。
「ごめん……ごめん……」
「謝らなくていいよ……最初から分かってたことだから……」
エルサもまた、気づいていたようだった。今私の中で、どんな思考が生まれているのかを……。
悔しくて、仕方がなくて、諦めるには充分だった。
ーーーエルサ……私……。
そう、口に出るところだった。ただ、それよりも早く、突然の出来事というものは起こったのだ。
その時私はろくに目も開けていられなかった。痛み自体は熱傷が皮下組織にまで及んでいたためほぼ無かったが、それとは別にひたすら気力を叩き起こすはめになっていた。
そんな私を、何かの液体に浸けた包帯で処置していたエルサが、手を止めたのだ。
「……?」
「……ごめん、シーナちゃんの火傷、まだ治せそうにないや……」
「それってどういう……」
説明をする前にエルサは立ち上がり、構える。その構えは、何かに敵対するように、見る者に凄みを与えた。
まさかここに来て増援が……?
分かっているくせに、と思った。エルサが言うなら、そうに決まっているというのに……。
影が見える前に、エルサは先手を打った。地面に手をつけると、エルサを中心として、辺りに氷の膜が張られていく。その範囲は拡大していき、ある程度大きくなったところで、遂に別の動きがあった。
次々と、氷の柱が立っていく。それと同時に聞こえるのは獣の絶叫。エルサは氷の柱に対し、地面から木の根を伸ばし破壊していく。
凄惨な虐殺。先程の数を優に超える狼たちが潜んでいた。それを瞬く間に摘み取っていくエルサの力に、仲間のはずの私は、畏怖していた。
このまま終わるのか。私は足を引っ張っている……そんな風に思っていたが、それさえも歯牙にかけぬほどの力があったんだ。
そんなことを思っていた、矢先のことだった。
バシャッ!と、エルサに液体が降り注いだ。
「……?何が……。」
「これ……!」
私は理解出来ないでいたが、エルサは鬼気迫る表情で伝えてくる。
「これ、油だよ!誰かが私に油をかけてきたんだ!」
その意味を理解すると、狼たちの動きに気づいた。今や数を減らした狼たち。それらが一斉に火球を放つ構えを取ったのだ。
上を見る。油の降ってきた方向に、何者かが居たはずだ。
そしてその予想は的中する。丁度真上くらいの木の枝の上に、人型の影が見えた。あれは……。
「ゴブリン……!?」
一体のゴブリンの存在に気づくと、更に辺りを多くのゴブリンに囲まれていることに気づく。
狼とゴブリンが共闘している?でもさっき、狼はゴブリンを食べていたはず……。一体何故?それともこれは共闘ではなくーーー、
「うっ、ぐぇあっ!!?な、にが……!」
突然、首をなにかに締め付けられた。たまらず、首を締め付けるなにかに手をかけ隙間を作ろうとすると、正体がわかった。
ーーーロープ!?ゴブリンが!!?
首を締め付ける正体はロープだった。それが輪投げの要領で首に巻かれ、私を苦しめている。そしてそのロープが今、何者かに引っ張られる感触とともに、私を引きずり連れ去ろうとしている。
ただでさえ息が苦しいというのに、こんな事……!
辛うじて手離さないでいる剣で、苦しむ現状を断ち切る。解放された喉は喘ぐように息を求めた。
「ゲホッ、ゲホッ……今度こそ、やってやる!」
満身創痍の体を叱咤し、爛れた拳で剣を掴む。ふらつきながらも立ち上がり、敵を見据えた。この時の私は、先の自分も忘れて、戦意をむき出しにした。
目の前に居るのは、弱さの体現ゴブリン。そんな小人に、負けていられないーーー。
ーーーそんな油断、出来るわけない……!
慎重に構えた。敵は弓を番えて、同じく構える。何かを待つことも無く矢は放たれた。
スレスレを避けながら、時に弾いて肉薄する。激痛が意志を断ちにくるが、構わずにいた。
そして遂に、手の届くところまで距離を詰めた。相手は腰に提げていた石斧に持ち替え、私より早く振りかぶった。
「うぉぉぉぉおおおおおりゃぁぁぁぁあああ!!!」
できる限り、ギリギリを。
振り下ろされた石斧に、左の肩が悲鳴をあげた。避けきれなかったのだ。けど、気にしない……!!
軋む腕で、先程狼の首に通らなかったことを意識し、脳髄へと叩き込んだ。
メキりと鈍い音が骨を伝って耳に伝わる。石でも殴ったかのような感触とともに、手応えを得た。
手が痺れる。しかし目の前で泡を吹いた相手に、実感を得た。
「やった……!」
不意に喜びが溢れた。それと同時に、吐き気もした。笑っているのに、歪んだ顔が表れる。何故?だって、そうだ……これが初めてだ。
「殺した……殺した……!仕方がなかった!そう……仕方がないの……。覚悟なんて、そんなものだったの……」
ーーーさっきまで、こんなんじゃなかったのに。
さっきまではただ、倒すことだけを考えていた。遠い忘れた感覚……ここが異世界であること。魔物を倒すなんて、当たり前だと思っていた。けど、実際は、命を奪っているじゃないか……なんだ、残っていたんだ。
半端者だ。半端者だ。半端な人間だ……。何もかもーーー……。
自信だけはあって、向こう見ずで、実力がなくて、強がりで……。
……いや、今考えることじゃない……そうだ、エルサは。
時間にして数秒だろう。けれどこの間にも、エルサは戦っているに違いない。きっと今は、心が不安定なんだ。また後でクヨクヨ悩むべきだ。今はまだ、戦いの途中なんだ。
そうして踵を返した。振り返り、エルサの元へ、何か出来ることはないかと考えたーーー。
「え?」
トスン、と。小さな衝撃が体を揺らした。気づけば見下ろした先、脇腹に矢が突き刺さっていた。
「ぁ……が!!?」
続いて二矢、三矢。卑屈屋が静かに突き刺さっていく。
健朗だった膝が、砕けるように地に落ちた。蹲る体に、力が入らない。
そこから矢の嵐が始まるかと思ったが、そうはならなかった。代わりに二つの雄叫びが聞こえてくる。
一つは狼の声。もう一つは甲高いゴブリンの声。少なくとも会話のようには聞こえず、明らかな敵対する意志を感じさせた。私に矢を射っていたゴブリンも、そこに混ざっていったようだ。
「はは、そりゃそうだよね……」
そのまま私から注意を引いてくれればと考えたが、そう都合よく事が進むのを許してはくれない。今度はまた別の……最初の敵が現れた。
たった一匹の狼が、こちらを見つめてくる。蹲る私は、それを睨み付けるだけで精一杯だった。
「どうしたのさ……喰いに来たんでしょ、私の事を。出来るんでしょ。やれるもんならやってみなさいよ……言ってる意味わかる?」
ただの強がり、挑発。意味は通じたのだろうか。
狼は構えた。最初に見た構えと一緒だ。威嚇するように構え、首元が僅かに肥大化する。ビキビキと音を立てながら一層口元の火を漏らした。
これが最後になるのか。こうして喰われて終わるのが、私の。
なんとか格好だけはつけようと上体を起こした。起こせただけで満足だった。
私はなんでこの世界に生まれてきたのだろう……意味は、なんだろう。これから死ぬというのに、何も出来ずにいる自分が、出来たことはなんだろう。
そうしていると、遂にその時は訪れた。
ーーーああ、エルサには、これが見えていたんだ。
あまりに大きく、並ぶ刃の数々……死の間際に、時がゆったりと流れていた。じっくりと、ゆっくりと、眼前へ迫る兇刃は、まるで死というものを指折り数えて教え込むように、まざまざと見せつけてくる。しかしそれよりも、圧縮される思考の中で、疑問は尽きなかった。
危機的状況下で、確かに声が聞こえた。それはエルサの声ではなかったのだ……。誰の声でもなく、聞き取ることさえできなかった声に、私はなんと思ったのだったか。最初はエルサだと思ったが、今にして思えば、違ったように思える。
それ以外にも、想定外、予定外、意識外において、私の知らぬ何かが起きている。
ーーー知りたい。
この世界において、初めて生まれた探究心だった。
ーーーそれも、もう、遅いけど。
グシャリ。
シーナの体は、魔物の腹の中へと呑まれていった。