5 旅立ちを
「んんっ……ふわぁ……」
朝になった。気持ちのいい朝。こうしてちゃんとした意味で目覚めるのは、この世界では初めてとなる。
無いも同然の掛け布団の中から抜け出し、寝ていた姿のまま、トントントンッという子気味のいい音を響かせる台所へと向かった。
「おや、おはよう」
「うん……おはよう」
今日もまたおばあちゃんが、いつもの通りに朝早くから働いている。
「昨日はよく眠れたかい?」
「うーん、まだちょっと眠いかな。だから、そうだね。昨日はよく眠れなかったかも」
ゆったりとした会話がしばらく続いた。昨日のことから、明日のことまで。
「それじゃあいつも通り、川に水を汲みに行ってくれるかい?ついでにその寝ぼけた頭も、一緒に覚ましてきなさい」
「はーい」
そう言って家を出る。川に着いたらおばあちゃんに言われたとおりに水を汲んで、ついでに顔を洗ってきた後、家の水瓶に水を足しておく。
おばあちゃんが朝ご飯を作り終えるまでには、まだ時間がかかるようだ。
「それじゃあおばあちゃん。散歩、行ってくるね」
「分かったよ。いつも通り、あまり遠くには行くんじゃないよ。それと、朝食までには帰ってきなさい」
「分かってるって」
その空いた時間を使っていつも通り、昨日まで通りに朝の散歩に向かう。何故朝の散歩が習慣化しているのかは、いまいち覚えていない。本当になんとなく、いつからか毎日の日課として森の中を散歩するようになっていた……らしい。
毎日通ったおかげで、すっかり踏み固められたいつもの道を歩いていく。
気温は昨日よりも幾らか涼しいだとか、風も少し肌寒いかな、とかそんなことを考えながら歩く。
「今日はこっちに行ってみようかな」
そのこっちとは、未だ道の踏み固められていない、最近になって開拓し始めた道だ。この道の向かい側なんかはもう既に歩き尽くしてあるので、気分次第ではこういった普段歩かない道を歩いてみたりしている。
草を踏む。土を踏む。木の根を踏み越え転がる石を蹴る。蹴った石に小動物が驚き、茂みを揺らして逃げていく。
勾配のついた山道を、徐々にその様相を変えていく風景を横目に歩む。
突如、視界が一気に晴れた。
下を見れば、呆れるほど下の方に川が流れていることが僅かに視認でき、前を向けば遠くにまた新たな森が広がっている。しかしその間には大きな溝が出来ており、今もまた、小さな石がコロコロと、溝の下へと落ちていくのが偶然見えた。
そう、そこは断崖絶壁。決して自らの胸を例えた訳ではなく、正真正銘、本物の崖が、シーナの目の前に広がっていた。
「落ちたら流石に死ぬよね……いや、こんなこと言わないか……」
勿論そのまま足を踏み出し、その命を天に届けるつもりはない。以前来た時の記憶を頼りに、下へ降りるため、崖に沿うようにして右の方へ足を向けた。端を歩くのは怖いので、少し森の方へと体を寄せながら。
遮蔽物が何も無い崖っぷち。髪をさらうように吹く風を感じながら進むと、見覚えのある場所へとやってきた。そこはさっきまでの断崖絶壁よりもほんの少し傾斜が緩くなっており、手頃な手をかける凸凹も多い。以前はここから崖を降りたと記憶しているが、なぜ崖を降りようだなんて思ったんだろうか、過去のシーナは。
しかし過去のシーナに対してばかり言ってはいられない。何故なら、今の自分も同じことをしようとしているのだから。
むき出しの岩の窪みにそっと足をかける。それからもう片方の足も同様にし、ゆっくりと降りて―――
「よしっ、そーい!」
いかない。かけていた足を離し、次に降りようと見据えていた岩壁へと手をかける。そしてまた次へと飛び移る。
「よっ、そっ、ほいっ、はいっ」
不思議な掛け声とともに次々に飛び移って降りていく様は、ただの人とは思えぬ程に軽やかな身のこなしであった。元の世界であれば「CGか何か?」というつまらない感想を漏らす人がいたことだろう。
そうして順調に降りて半ばが過ぎたところで、
「あっ――」
ボロリ、と。掴んでいた岩が外れてしまう。
「うえぇぇぇ!?」
掴んでいた格好そのままに落ちていく。今さっきまで掴んでいた場所が上へと流れていき、体は重力の伸ばす手に捕まれ地面に引き寄せられていく。
「ちょ、ちょちょちょ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!!!」
心の焦燥ほどに早く落ちて行く最中、どうにか似たような窪みに手をかけることに成功した。あのまま落ちていたら、およそビルの十数階から落ちていたようなものだった。
ほっと息を着く。
降りる時間を短縮できたと前向きに考えられるほど呑気な人間ではないと自負しているので、息をついたあともそろりそろりと、先程のようなことをせずに慎重に降りていく。
もう少しで足をつける。そう思って気を緩めたその時、
ボロリ、と。身に覚えのある感覚を手のひらが感じ取った。勿論この後どうなるのかは言うまでもない。
「なんでぇぇぇぐへぇ!」
聞いたことも無い潰れたカエルのような声を出して、背中から地面へビターン!と叩きつけられた。
「うぅ……背中大丈夫かな……」
そう言って背中をさすってみると、特に痛みもなく、血が出ていることもなさそうだ。
よく無傷だったなーと呑気に考えながら立ち上がり、この場所に来た本来の目的を思い出したシーナは、岸を歩きながらその目的を果たすべく、川の流れを視界の縁に捉えながら歩き始める。
その目的とはすなわち、散歩である。今やっている事そのまんまだ。別に危険なことする必要なかったんじゃないかと今更思い始めるが、気にしたら負けだ。次から別の道を探して行けばいい。
とりあえず下流の方へと歩いていけば村にたどりつくような気がするので、その方向へと進みながら、記憶の整理をする。この記憶とは、自分のこともあるが、シーナの持つ記憶の整理という意味合いが一番強い。
シーナの記憶を整理してみたところ、前世の知識を使って知識無双できる気が全くしなかったため、別にすぐ思い出す必要ないよね?という結論に落ち着いたからだ。
というか出来たとしてもどんなことするのだろうか。水素と酸素で水ができるんだぜ!みたいな?もしくはレモン一個にはレモン一個分のビタミンCがはいってるんだぜ!とか?いや最後のは意味わからんな。正直思いつくのがこんなのばっかりなので、ほんと思い出さなくていい思う。マジで。
そんなこんなでいつものごとく無駄なことを考えながら同時に必要なことを考えるという器用なことをしながら歩いているのだが、元来の性格からか、だんだん戻れるのか不安になってきた。
「これ戻った方がいいかな……」
しかし戻ろうすればあの崖を登らなければならないということ。多分登れるが、また手を滑らせるなりして落ちたら、今度は助からないかもしれない。そうなると、元来た崖を登るという選択肢はない。
ただこのまま歩いていても辿り着かないような気がする……いやさっきから何一つ確証がねぇな。俺は無能か?無能かもしれない。さっきにしたって、崖から降りる時は確実に行けると思っていたけど、今にしてみれば無理に決まってると思う。普通じゃない。呑気に考えたり考えなかったり、確証の持てないこととは別に、所々おかしなことをしている……ように思える。違うかな。それとも、これはシーナと黒伏咲十、2つの意識が、こう、残ってるというか、混ざりあって、まだ馴染んでいないみたいな、そんなところかもしれない。恐らく、これからもまた、こういうことが起こると思う。そう覚悟しておこう。
……という、またもや脱線してきたくだらない思考の中で、一筋ほどの僅かな記憶が呼び覚まされる。そうだ、何か見落としている、もしくは取りこぼしている。思索するに足る要素として、足さねばならぬ要素をポッカリと空けたままにしている。そう、それは確かーー
『ーーー朝食までには帰ってきなさい』
「いや時間ないじゃん!」
思わず叫んでしまった。どんだけ阿呆なんだろう。というかもうダメじゃない?そろそろおばあちゃんの切れるもの全部切れてない?堪忍袋とかさ。
マジやべぇよ帰るべき場所がインフェルノだよ。なんて言い訳しよう。崖降りてましたって正直に言う度胸はないぞ誰が胸はないだ。ダメだまともな思考回路じゃない、このままじゃあ愚かにもその愚を衆目の眼前に晒してしまーー
「お困りかな?翼なきものよ」
ずっと一人の世界であったその場所に、いつの間にか一人の来客があった。
その姿は小さく、短い栗色の髪を真っ直ぐに下ろした髪型は風に揺れる稲穂の如く、背後の太陽光の反射でキラキラと輝いている。その顔には大きな目と、自分にも翼は生えてないだろうに何故か得意げに浮かべられているニヒルな笑み。そしてなんの冗談か、いや、この少女ならばそれは紛れもない真実。
なんとその体は、宙へ浮いていた。
そんなエルサは両腕を組んだまま、空中で仁王立ちしながらこちらを見下ろしてくる。
「おはよう、シーナちゃん」
「えっ、あっ、おはよう」
「今日はいつもと違うんだね」
違う、というのは散歩のルートのことだろう。今日選んだ道だと、今頃崖下ではなく山の山頂に着いているはずだ。ちなみに今日道を変えたのは、単純に最近来ていなかったから、気が変わって久しぶりに遊びたかったからだったりする。
「シーナちゃんと遊ぼうと思って記憶を辿ったら、全然違うとこに向かってたけど、なるほどね。まさか先に一人で遊んでたとは……」
別に遊んでいたわけじゃないよ、という揚げ足取りを飲み込んで、その姿を目にした時に思いついた最高にイカした考えを実行するべく、その開きっぱなしの口を動かした。
「ねぇ、エルサ」
「ん、どったの」
訝しげにエルサは首を傾げた。
「お願いがあるんだけどね。私のこと、村まで連れて行ってくれない?」
イカした考えとはエルサに連れていって貰おうというものだ。別にわざわざイカしたとかつける必要なかったね。しかし、素直に了承してくれると思っていたのだが、なんだか様子がおかしい。
「ふふ、慈悲とは、願おうが願わなかろうが、与えられるかどうかは享受者に依るものにあらず、全てはエルサの胸先三寸で決まるのだよ」
「私のなのか……」
「細かいことは鳥の餌に、感謝の言葉は私の耳が食べてあげよう。それ以外はそのお口に戻すことをお勧めする」
「あ、そう……なんかいつもとテンション違くない?」
「無類の鳥好きかい?動物を大事にするのはいい事だ、私の毛並みも艶やかに輝くというもの。それよりもよくぞ聞いてくれた、私はその為だけにこんなことをしていたのだよ」
「へぇ、なんでまた」
「とある伝言を預かってきたのだよ。今から言う言葉は私の声ならず、伝書鳩が如く、その主の言葉そのままに、愚の骨頂もかくやなちみの耳に届けてみせよう」
「愚の骨頂……?」
そう言って咳払いを一つはさんだエルサは、その目を据わらせながら主とやらの言葉を届けてくれた。
「早く帰ってこい」
「ヒエッ」
えらくドスの効いた、つい朝の台所で聞いた覚えのある声が圧倒的プレッシャーと、容易に想像できるその場の臨場感を伴って襲いかかってきた。もしかしてこれ……
「以上、シーナちゃんのおばあちゃんからの脅しもとい伝言でした〜」
「やっぱりだぁ!うわぁあああ!!」
「これを関係のない私が聞かされたという事実に対して、なにか言うことはあるかね被告人」
「……なんでも一つ言うことを聞くってことで、どうか」
そう言うと、変わらず据わったままだった目を、いつものクリクリっとした目に戻し満面の笑みを浮かべた。
「許そう。二つね」
「……はい」
かくしてかくすることしばらく、エルサに浮かべて貰いたどり着いた先にて、すっかり頭の上まで昇った陽の強さに未だ夏を感じるお昼前。楽しく談笑していた村人達の耳に、一人の少女の叫び声が響いた。
■■■■
あの一人自問した夜から一週間が経った。
天気は快晴。雲ひとつなく、それはこれからの旅路がなんとやら。とくに思いつく言葉もなく、散歩日和くらいにしか思えない、ちょっと特別な日。
辺りにはこの村の人々が、エルサと自身を見送るため、旅の門出を祝うため、村の唯一の出口へと集まっていた。唯一とは言っても、一々通るのが面倒くさくて、普段使う人は多くないのだが。使うのは精々が行商人くらいである。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってっきまーす!!」
そう言って、村長さんと、その他畑仕事や普段は狩りをしている村の人達へと向き直る。
「ああ、いってらっしゃい!気をつけてな!」
「色んなことを聞いて、見て、そして楽しんできてね!」
「たまには帰ってこいよ!」
みんな、みんな、声をかけてくれる。暖かくて、心地よい言葉を、私達二人にかけてくれる。
そんな中、近づいてくる人がいた。それはエルサの母親だった。「エルサ、いい?」エルサの母親は言った。
「変な人について言ったらダメよ?お金落とさないようにね?朝はちゃんと起きるのよ?シーナちゃんに迷惑かけないようにね?それと――」
「大丈夫だよお母さん!エルサは強いから!なんせもう15歳だからね!」
「ええ、ええ、そうね。もう15歳……いえ、まだ15歳なの。いい?本当に気をつけるのよ?」
「うん!気をつけーる!だいじょーぶ!」
「ああ、心配だわ……」
エルサのお母さん……。その気持ちはわからなくもないだけにそれは少々はばかれるが、それでも止めないわけにも行かない。
「エルサのお母さん、私もいるので安心してください。何かあっても、私と、それにエルサもいればきっと大丈夫ですので」
そう言ってなんとか止めようとしたが、エルサのお母さんの心配はとどまるところを知らない。
「いいえ、シーナちゃんも一緒よ。あなた達二人とも、抜けてるところが結構あるから。そこが可愛いのだけれど、それでも、シーナちゃん。私、前から言ってるわよね?私は、母親のいないあなたの母親替わりだって。だから、今日こうして二人の娘が冒険に出ようとすること、本当に嬉しいわ!けれどね、だからこそ、その……上手く、言葉に出来ないのだけれど、こうして心配だけでもさせて頂戴?お願い」
そう言ってエルサのお母さんは、私の手を強く握りしめて、そのあとエルサの頭を撫でた後、その場を離れた。まさに後ろ髪引かれる思いなのだろう。離れたあとも、ほかの人達とは違い、ずっと心配そうな顔でこちらを見つめている。
「エルサ。そしてシーナ」
後ろを振り向くと、そこには村長さんと、私達二人がこれから乗る馬車のような乗り物と、その御者が待っていた。
「儂から送れるような言葉は、他の者が全て言ってしまったのでな。だからという訳では無いが、最後の見送りの言葉は儂から言わせてもらおう。エルサ。シーナ」
そこでひとつ息を置き、私とエルサの顔を順番に、充分に見てから、こう言った。
「いってらっしゃい」
その最後の見送りの言葉。その時は村長ではなく、一人の年長者としての、慈しみの表情を覗かせていた。
馬車に乗る。村の人達に見送られながら、名残惜しくも、この先の興奮にエルサと二人して目を輝かせる。
これから向かうのは冒険者の街、と呼ばれているらしい。なんせそう呼ばれていると聞いただけなのだから、それ以上語れることは無い。そんな場所。
この世界の常識だったり事前知識なんかは色々教えてくれたが、それもどれだけ役に立つのかはわからない。事前に起こるとわかっていて、それに対して常に万全な状態で対処できればいいが、そうもいかない。そのことに不安を覚える。けれど、今だけは不安はなかった。
何故ならこの、辺りを木々に囲まれ見通しの悪い道の、その先に広がる世界の広さに圧倒されるその瞬間を、待ち侘びてきたのだ。
世界が晴れる。
それが木々の茂る道を抜けたことだということに気がつくには、しばらく時間がかかった。
「ついにだね!」
「うん!ついに、来たぁああああああ!!」
それから。朝日が昇り、天から伸びる指先が雄大な大地をなぞり、星空を巡った。
それを四度と、もう一度天が朝を伝えた頃。初日のようなこともなく、そろそろ体を揺らすリズムに合わせて歌を歌うのにも飽きてきた頃に、それは見えてきた。
周りを数キロ離れた、全容が霞んで見える場所からでもわかるほど巨大な塀に囲まれ、その上には複数の人影が見える。今進む道の前方には、ついさっき横から合流した、同じような馬車が歩いている。
「あれが、冒険者の街……」
二人のいずれかから漏れた声には、問うまでもなく喜色の色が滲んでいた。
「ああ、そうさ!あれこそ、私たちの向かうところの冒険者の街―――『ドムレッタ』さ!」
そして応えた声には、自らの住む街を、得意気に自慢する雰囲気があった。
『冒険者の街ドムレッタ』。
およそ知らぬ者のいないほどに有名な街に、どんなことが待ち構えているのだろうと目を輝かせる二人の姦しい少女が、今、向かっていた。