3 シーナ・ケテル
少女は、立っていた。
鬱蒼と茂る森の中で、強かに生きる植物達と降り注ぐ光に囲まれながら、訳も分からぬまま、呆然と、気付けば立っていた。
辺りは静密な空気に満たされ、朝露に濡れた小鳥のさえずりが、木々の隙間を縫う風に乗って森を微かに揺らしている。
―――なんで、忘れてたんだろう。
という、どこか懐かしさの感じる展開と、当たり前の思考にたどり着くまでに大した時間をかけず、少女は次に、こんなことを思っていた。
―――せ、性別変わってるぅ……。
そう、それは未だ終わりを見せない夏の日のこと。
剣も魔法も溢れ、神様が見下ろすこの世界でその日、少女―――『シーナ・ケテル』、もとい『玄伏咲十』は、朝の散歩中唐突に前世の記憶と共に『玄伏咲十』としての自我が目覚め、16年越しに驚愕という名の産声を上げていた。
「シーナちゃーん!おはよーー!!」
遠くからずっと小さい頃からの親友が、全速力で朝から元気に走ってくる。
そんな16歳の事だった。
■■■■
そこは異世界。
時に剣が。
時に魔法が。
時に意志を持った雷が。
時に大槍を携えた骸の騎士が。
世界のことなどお構い無しに蹂躙を繰り返す屍山血河の魔窟。
そしてそれ以上に、逞しく育った木々や草花、そして人々の営みが、流れる血と共に世界を彩る、そんな異世界の、50人ほどが暮らす小さな小さな村に、シーナは暮らしていた。
ザクリ、ザグリと。振り下ろす鍬の土を掘る音がする。
明日を生きる糧を植えようと、汗を垂らしながら作物の苗を植える人々の息遣いが聞こえる。
村で待つ家族のために、獲物を狩ろうと、大声を上げて追い立てる声がする。
そしてそれはシーナも同じ。
「こんなもんかなー」
垂れる汗を手の甲で拭いながら、振り上げる鍬を下ろして照りつける太陽の下、自分の働いたあとを眺めた。
これから主食となるジャガイモみたいなやつの苗を植えれば、ひとまず午前中の作業は終了だ。
そういえば、と隣の畑を見てみると、そこに同じく作業していた筈の、おばあちゃんの姿が見えなくなっている。そしてその跡に、綺麗に植えられた苗だけが、その姿を覗かせていた。力も体力もこちらの方が勝っているのにこちらの方が遅いのは、やはり経験の差だろうか。
それからさっさと苗を植え終え、流れた汗と土に汚れた顔を川で洗おうと一度家に戻った。あとで濡れた顔を拭くための布を持ち、川へと向かう。
川に着くと、そこにはちょうど帰ろうとしていたおばあちゃんの姿が見えた。
おばあちゃん。名前は「シェリル・ケテル」。友人達からはシェリルと呼ばれている。真っ白な髪を後ろで結び、それを揺らす後ろ姿はずっと昔から見てきており、腰の曲がった今でも元気な、私のおばあちゃんだ。
「ああ、シーナかい。もう終わったのかい?」
「うん、おばあちゃん。これから顔洗うところ」
「そうか、そうか。今日は暑かったからねぇ。そんな日に浴びる川の水は格別ってもんさ。それに、酷い顔だ。折角の可愛い顔が台無しだよ。こんな婆に構ってないでさっさとお行き」
「はーい。それじゃあね、おばあちゃん」
「えぇ、じゃあね」
そう言って今私が来た道を、同じくなぞるようにしておばあちゃんが歩いていく。その腰の曲がっていながらも芯の通った後ろ姿には、やはり、結ばれた後ろ髪が揺れているのが見えた。
その変わらぬ姿に心が暖かくなるのを感じながら、川の岸にしゃがみ込み顔を洗う。
汗と共に土が落ちていく気持ちのいい感覚に目を瞑り、持ってきた布で顔を拭く。
「〜〜っ、さっぱりしたぁ!」
開放感溢れる爽快感に気を良くしながら、顔を洗った水の流れる川に視線を向ける。
今も昔もこの村の生命線であり続ける、程よい深さの、透き通るような程に綺麗ないい川だ。
ふと、水面に映る自分の顔を見てみた。
そこには、所々癖毛の跳ねた白くてモサモサな長い髪。琥珀色の覗き込んでくるような光を湛えた大きな目。そこから身体に視線を向ければ、触れればたちまち壊れてしまいそうなほどに細くて繊細な手足。そしてこの世の終わりのような断崖絶壁を誇る平らな胸。
見目麗しいと言うには若干の愛らしさが残る、可愛らしいという言葉が良く似合うその姿は、自他共に誰もが、いわゆる美少女と呼ぶであろうその容姿は。しかしそれもそんなことはどうでもいい訳では無いけれども、それよりも大事なことがあると意識の見えるものからは外されてしまうのは、ある意味では残念な事であった。
「いやまだ15歳だし。成長期だし」
胸に手を当て発した、何故なのだという嘆きにも似た疑問に答える声はなく、虚しさ(胸無しさ)だけが薄っぺらい胸中を満たした。体積が少ないからすぐ満たしたとか言ってはいけない。
「さてと……戻らなくちゃ」
それからしばらく。一向に膨らむ気配のない胸を睨み終えると、その場に立ち上がった。身を翻し、そのままおばあちゃんと同じく来た道を戻ろうと――
「シーナちゃん!」
「ごふぇ!?」
小動物が跳んできた。いや違った。人が跳んできた。その跳んできた勢いそのままに、後ろの川へ謎の人物諸共華麗なダイブを決める。
「おぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ!?」
「あっはははははははははははハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!」
一方は突然の出来事に慌てた声を、そしてもう一方は、そんな事など知らぬとばかりに、たかが外れたかのような狂笑を上げていた。
「はぁ……はぁ……なぁにしてくれてんの!エルサ!」
その突然跳んできた謎の人物―――「エルサ・ストークス」は、悪びれた様子もなく、偉そうに笑い声をあげる。
「ふぅははははは!!どう?驚いた?」
「驚いた?じゃなーい!もう、どうすんのよこれ……」
おかげで全身びしょ濡れである。そのくせ加害者であるエルサには、一緒に川に飛びこんだにもかかわらず水滴一つついていないことに、より一層理不尽さを感じる。
「びしょ濡れ、気持ちいい?」
「確かに気持ちいいけど……それよりも突然何?なんかあった?」
エルサは「は!そういえば!」と思い出したような表情をしたあと、嬉しそうに今回の要件を伝える。
「えーとね、私とシーナと一緒におじいちゃんの所に来てって、たしかお母さんが言ってた!」
おじいちゃんの所。というと、村長さんの家か。
「うん分かった、後で行くね。あと、早く上から降りて?」
「あ、ごめん」
そう言ってエルサは乗ったままだった私の上から降りると、バシャバシャと音を立てながら岸へと走っていき、そのまま村長さんの家の方向へと行ってしまった。一緒に行かなくていいのだろうか。
相変わらず元気で心配にさせられる親友だな、と思いながら川からあがり、適当に服を絞ってからとぼとぼと自分の家へと向かう。
「まず着替えよ……それから行こ……」
家に着いてすぐに、すっかり水を吸って用をなさなくなった布を洗濯物ゾーンに投げ入れ、顔に張り付いて鬱陶しい濡れた髪を新しく用意した布で拭き、服を着替えて村長さんの家に向かう。
さして距離がなく、歩いてすぐに見えてくる村長さんの家は、他の家より一回りも二回りも大きい。
徐々に近づいてくる村長さんの家の前に着いたところで、この後の展開と、村長さんの話について想像してみる。
なんの話をするのかは、すぐに想像できた。
その場にいるであろう人物の顔も、同じく想像がつく。
大体の展開と、その時どうするかだけを考えて、村長さんの家の扉を開けた。
するとそこには、想像通りの人がいた。そして入るなり、そのちょうど真正面にいた、頭の禿げ、ふさふさの髭を生やした老人が開口一番に発した言葉に、「やっぱり」という気持ちになる。
「よく来たの、シーナ。そして大方予想のついていることじゃろうが、これから一週間後のことについての話をしようと思うてな。一先ずそこに座りなさい。なに、エルサと二人で来なかったことに関して、とやかく言うつもりはないよ」
そう言ってモサモサの髭を生やした老人――村長さんは、目を細めながら柔らかく笑った。