12 訣別のプロローグ
視線の交錯は一瞬だったように思えた。
おかしな話で、蛇に目はなかったはずなのに、確かに目が合ったように感じたのだ。その時の私には怯えも緊張もなく、唯ひたすらにまっさらな空白のようでいられた……。
……。
その感慨は私の脳裏で一つの記憶を呼び起こそうとした。ガリガリと削れるような音が、緩慢に流れる時間を満たして追い詰めている。……ように思える。
あれは、いつの話だったっけ……。
根暗な記憶を引きずり出そうと、冷めやらぬ熱が水底へと手を伸ばした。沈み込むほどに、凍てついた焔が抗い、拒絶する。
伸ばした手は何を掴むことも無く、ゆらりゆらりと空を切るばかり。
届かせるには、まだ足りない。
■■■■
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ走れ走れ走れ走れ……!!
冥暗満ちる腐界の森を、走り続ける三人がいた。
なんで!?なんでこんなことに……!
私たちは蛇と遭遇して、ただただ脇目もふらず揃って逃げ続けていた。
そして私は、現状がいらぬ思考を回している場合ではないと理解していながらも、もたげた疑問に気づかぬふりをしていられなかった。
こんなの話が違う……!これじゃあまるで、前提を間違えたとしか……!
そう、前提。蛇に遭遇することなく逃げ切れる筈だった。この場の最大意見として、また、共通にもたらされた認識として、蛇の音は近づいてはいるものの、接的するまでの猶予は与えられていたはずだった。
そして、ルークは蛇には決まって通る道があると言った。ならばルークの取ったルートは、それを元に考えられたものだったに違いない。
つまり、追跡者の通る経路を事前に把握し、それらを踏まえた上で逃走していたにもかかわらず、私たちは追いつかれたのだ。
それだけじゃない……。
蛇はその決まった経路をわざわざ通って移動していた。それが今、私たちと接触してからそのルートを大きく外れ、執拗に私たちを追いかけている。
「……っ!」
ちらりと背後を振り返る。おぞましさが何よりも勝って見えるその威容が、立ち並ぶ大牙を光らせ差し迫って来ているーー。
「っ!右斜め前っ……!」
「「!!」」
エルサの声に意識を現実に連れ戻された。直後に、その声の通りの方向から、肉塊の群れが姿を現す。
「はっ、はっ、はっ……!」
跳んで、跳ねて、時に身を屈めながら、がむしゃらに前を走るルークの後を追った。
右へ、左へ、その背中が不規則に向きを変える度、必死になって着いていく。最早どの辺りを走っているのか見当もつけられず、蛇の動きを予測することも、具体的な対策をする術もない私に、今、それ以外に出来ることというものはなかった。
どうするどうするどうする……!私は一体何をすれば……ルークはどうするつもりだろう?
蛇をこの場で一番よく知っているのはルークだ。そのルークが何をしようとしているのか、微かに残る頭の冷静な部分が知りたがっていた。
前を走るルークはとても速い。いくら全力で走ろうともその差は埋まることがなく、こちらは既に息が上がってきているというのに、ルークは後ろを確認しながら、行く手を遮る草木を手持ちの短剣で切り払う余裕を持っていた。
しかしそれでも、ルークにどうするつもりか聞こうと前に出る。後ろ斜めから僅かに横顔が見えた時、ルークの口が動いた。
「どうなってるんだ……?」
それは紛れもなく困惑の声だった。予想だにしていなかったルークの様子に、思わず声をかけようとしたところで、それよりも先にルークがこちらを向く。
「いいか、余計なことは考えるな。取り敢えずこのまま走り続ける。なんも考えず、ひたすら避けて掻い潜って、そうしたら何も問題ねえ、晴れて森の外だ。いいな」
「いや、え?それってどういうーー」
「すまねぇが、こちとら財布の中身がすっからかんの素寒貧様だ。持ち合わせた頭じゃ全く足りねぇもんで、お前の疑問に答えることは出来ねぇよっ!!」
ルークが突然頭を屈め、地面スレスレを走った。私は何が起きているのか理解出来ず、それを目線で追うばかりだったが、横に振り向いた時、その時になってようやく理解が追いついたのだ。
「ぐっ、あぁあ!!」
気づいた時には既に遅い。ルークの言葉で僅かに注意力が切れたその瞬間に、反射的に同じく身を屈めたが、激しい鈍痛と、急激に頭を揺さぶられる感覚が、全身を包み込む浮遊感とともに襲いかかる。
突き飛ばされた……!?だめ!置いてかれる……!
制御出来ない体が、大きく道から外れようとしている。二人から、離れてしまう。
すると、体を巻きつける何かに、反対方向……二人の方へと引っ張られる。
「気を逸らさないで!集中!」
「あ、ありがとう……」
その正体は、人が吹き飛ぶほどの力にも耐えられる丈夫な植物の根。エルサが私を上手く掴んでいた。
元と同じ並びへと戻った私へ、エルサは依然として険しい表情を浮かべながら、「周りをよく見て」と、私達の左右に並走する植物の根の壁を作り始めながら、今の段階で見える場所へと視線を促した。
これは……血……?
「さっきから、木の幹やら草木なんかに血がついてるの!それもまだ新しいのが!けれど、辺りの植物が腐敗したのはたった今、蛇がやってきてから!つまり、この血が飛び散ったのは、蛇以外が理由ってこと!」
それはつまり、私たち以外の人がこの辺にいたか、もしくは、この辺で最初に見た、狼とゴブリンの争いが起きていたということだ。
しかしそれだけでこうも注目する理由はない。何かもっと別の理由があるのだろうと、今度は駆け抜ける傍に転がる死体へと目を向けた。
「人の死体は無い……けれど、狼とゴブリンの死体はある……いや、待って。ゴブリンの死体?」
その両者の死体は、どちらも損傷が激しく、一部が無くなっていたものはあるものの、どれもが形を残していたのだ。
「狼とゴブリンが争ったなら、ゴブリンはその体を失っていなくちゃいけない!なのに、あるのは五体満足の死体ばかり!」
二種類の死体は進む事にその数を増していった。すると狼もゴブリンも関係なく、醜く食い荒らされたようなものが出てきたが、何れにしても、その体のどこかを丸呑みにされたような形跡はなかった。
蛇の接近に気づいて、丸呑みすることを諦めて逃走を選んだ……?いや、だとしても、一体もそういった死体が見当たらないのが気がかりだ。狼は、例え戦いの最中であっても、隙を見れば喰うだろう……私を喰ったように。
私を喰ったのは、周りの仲間やゴブリン達がエルサへと攻撃を集中させていた最中の事だった。同じように隙を見て喰ったものがいなかったとは考えにくい。
それに、気がかりなのは死体だけではない。私たちを今もなお追いかける蛇もまた、様子がおかしい。
あきらかに攻撃の手が減ってきてる。手を抜いてる……そんな訳ないか。エルサの作った根の壁に手をこまねいている……?
その時、左の壁が壊された。破片が高速で飛び散り、手足へと突き刺ささる。その痛みに思わず足を止めそうになるも、なんとか持ちこたえる。
その蛇の攻撃によって破壊された壁は、メキメキと音を立てながら、あっという間に塞がれていくのを横目に捉えた。
エルサの壁が効いてるっ……!そしてこの破壊力から、手を抜いているわけでもない!だったらこれは……
「他のことにリソースを割いている……?」
気づけば口をついて出た言葉に、不思議と説得力を感じていた。
そうだ、そうに違いない!なら、蛇は何にリソースを割いているんだろう?
魔物である狼とゴブリンが殺されている。そしてこの付近に来てから、蛇の攻撃の手が少なくなっている。ならば蛇は、狼とゴブリンを殺した何者かを攻撃していると考えるのが妥当……。
問題は、その何者かが私たちにとっても敵であるのか、否か。
単純にいけば、魔物の敵は人であると相場が決まっているから、この場合はむしろ仲間と呼んでいいだろうし、力を合わせれば、もしかしたら蛇だって倒せるかもしれない。……蛇の実力を正確に理解しきれてない私がそう考えるのは、ちょっと良くないけど。
しかし、魔物の敵が人であるとは、必ずしも限らない。魔物の敵はまた別の魔物……そういう可能性もある。それこそ狼とゴブリンがいい例だ。
そして更に、人であるならと考えはしたが、人のいた形跡というものが、今のところ見つかっていない。
人がいた形跡がなく、魔物同士で殺し合うこともありえる。そして、蛇が私たち以外に意識を向けざるを得ない状況……。
「なあ、エルサ」
突然、ルークがエルサへ語りかけた。それも随分とゆったりとした様子で、現在の置かれている状況に、全く危機感を持っていないかのようだった。
その声とともに後ろを振り向けば、薄暗い中で苦々しい顔をしたエルサが、忌々しいとでも言わんばかりにルークを睨みつけている。
「うるさいしうざいし前見て走ってて……!」
「……別にいいけどよ」
一体なんの会話だろう……?
再び壁が破壊される。今度は左右を破壊され、しかも先程より広範囲に渡っていた。同じく破片が皮膚へ傷をつけていくが、そこで蛇の攻撃は終わらず、二撃目が目にも止まらぬ霞むほどの速度で迫ってきていた。
壁がまだ……!
たった今空けられた穴がまだ塞がっていない。私たちを護る根の壁が修復しきるまでの、僅かな隙をついてきたのだ。
どうする!?体制は崩された、このままじゃ直撃は必至。弾くか、避けるか……!
そう思った、その時。見慣れぬものが視界に入り込んでくる。これはーー
「鎖……!?」
それは鎖だった。ルークの両腕から幾本もの鎖が飛び出し、蛇の触手を飲み込んでいく。
「これはーー」
「ここで一つ、わかったことがある」
わかったこと?それは一体……それに、なんとなく、私に対して言っているようにも感じる。
もし私に言っているのだとしたら、きっと、私が疑問に思うことがわかっていたのかもしれない。ルークは私の返答を待つことも無く、予想外のことを言い出した。
「エルサが無理をしている」
「……!!」
「さっきからそんな辛そうな顔してりゃあいやでも気づくさ……気づかなかったか?」
咄嗟にエルサを見る。無理をしている?そんな事、おくびにも出していなかった……いや、本当にそうか?苦しそうな顔……確かに、そういう風にも見える。……でも、私が気づけなかった……?
険しい表情、苦々しい表情……。
「エルサ……?」
「……」
何も喋らなかった。悔しそうに唇を噛むエルサの顔は青白く、目が充血している。呼吸は浅く、瞼は上がりきっていない……。
見える……!そういう風にも、見える!!言われてみれば、そうとしか見えなくなる程に……!!
「二つ前の攻撃で気づいた。壁が壊されて、それに反応出来ていなかった時点で確信した。それよりも前から疑ってはいたんだけどな」
だからルークが触手を迎撃したんだ。今のエルサにそれだけの余裕がないから……!
そしてそれは、私が何よりも早く気づいてあげるべきだった!もっと前の段階……どこからだ?一体いつからそんな無理をーー
「勝手なこと……言わないでよ」
「……」
「エル、サ……?」
沈黙を保っていたエルサが口を開いた。それは吹けば消え入りそうなほどの大きさだったが、確かな芯のある声音だった。
「シーナちゃん、ごめん、心配させちゃったね。でも……ううん、大丈夫!次はちゃんと防ぐ……もっと丈夫な根を張って、たとえ突破されてもそれにちゃんと対応出来るようにーー」
違う……それじゃあさっきまでと何も!
「変わらない。お前が無理を通そうとして、それを間抜けにも気づけないこいつが危険な目にあって、俺が手を出す。どうせそうなるさ」
とんだ思い違いをしていた!前提を間違えたと思った。けど、それさえも間違えていた!本当は私の思っている以上に、ずっと前から間違え続けてきたんだ……!
歪な仲間関係。エルサがなんの苦しみもなく戦っていただなんて、どうすればそんな脳天気な考えができるっていうんだ……!私という荷物を抱えて、それを優しいエルサは、私に悟らせないように一人静かに抱え込んで、赤の他人にさえ明ら様になってでも、隠し通そうとしたんだ!
「俺はお前らと仲間になりてぇ。何度も言ってるが、これは本当なんだ。けど、このままじゃあダメだとも思ったんだ。さっき言った通り、たとえこのままエルサが無理をして、シーナがお荷物で、俺が知らないふりをしてようと、森を抜け出すことはできる。けどよ……それでいいわけねえんだ」
悔しい……!腹立たしい程に!!さっきまで私は何をしていた!?何かしたか?役に立ったか?
いや、何もしていなかった!何の役にも立たなかった!そして、どれだけ考えても、私ができたことは何一つ無かった!その事実が、何よりも悔しい……!!
不安な時は励ましてくれた。危険な時は助けてくれた。傷ついた時は治そうとしてくれた。死んでしまった時は悲しんでくれた。……悲しませてしまった。
そして今もまだ、また無理をさせてしまった。全て無意識のうち、意思も関係なくそうなってしまっている……。
けれどルークの言う通り、それで言い訳がない……!
ならば、私のするべきことはただ一つ……それはエルサに無理をさせないこと!この偏りきった負担を分散させ、三人でこの森を抜け出すこと!
そして……私は決意するんだ。
「だから俺はーー」
「ルーク!一瞬でいい!時間を稼いで!」
「っ!?」
ルークが声を詰まらせて、こちらを見た。ようやく三つ目の顔だ。
無機質な顔。ニヤニヤとした顔。そして、驚いた顔。
きっとこんなもんじゃない。人はもっと、色んな表情になれる。それを見る為にも……今回は頼みを聞いておくれ。
「エルサ!背中に乗って!」
「っ!わかった!!」
私は足を止める。全速力で走り続けた足を急に止めて、不格好に声を投げる。
「エルサ、ありがとう……大丈夫」
「うん……そうみたいだね……」
なんとなく、子供っぽい声の調子だった。私の背に乗ったエルサはすぐ、目をつぶって何も喋らなくなる。
「そういうことかよ……!」
ルークも遅れて振り向き足を止めた。そして、私の頼みに、全力でもって応えようとする。
「お願い!」
「任せろ……!」
足を止める。腰を落とす。エルサを乗せて、立ち上がり走り出す。その僅かな間に、蛇との距離はすぐ目の前へと迫ってきていた。
しかし、その巨躯が私たちを飲み込む前に、走り出すことが出来る。
鎖、鎖、鎖鎖鎖鎖鎖鎖ーー……意志を通す鋼縛の鎖。先程の数を優に超える鎖が、蛇の蠢く肉体と辺りの木々や地面とを結び、拘束する。
鎖がちぎれ飛んでいく。そのあまりに巨大な身体をその場に留めることは、どれだけの鎖を用意しようと不可能だったのかもしれない。
エルサを背負った私がルークを追い越したところで、再びルークが前に出て走り出す。
「それで!どうするつもりなんだ!」
「エルサに無理はさせられない。だからといって、私には蛇の攻撃をどうすることも出来ない。だから、私はエルサを背負って森の外まで走る。そしてルークが、私たちを全力で守る」
「あ?エルサに無理させねえってのは賛成だ!だが、そりゃーー」
……ルークの負担が大きい。そして、それは言われずともわかっている。
これはルークを試そうとしている訳ではなく、また、私自身が事前に思ったことを裏切ってしまう訳でもない。
これは偏に、私の力不足……!
エルサという戦力を失ったことで、その負担は私とルークに降りかかる。しかし、それは均等なものでは無い。自分で言った通り、私は蛇の攻撃に為す術もない。しかし、ルークの鎖ならば、そうではない。私に出来ないから、ルークがやる。至極当然の成り行きだと言えるだろう。
「お前は、何もしないのか」
「そう、今回は何もしない……けれどーー」
次こそは……!次こそは……!!
「今回私は、何もしない、何も出来ない!だから、今の私は、いくらでも責めてくれて構わない!……けれど、もし、今度二人のどちらかが、もしくは二人が、背中からの支えを必要とする時ーー」
そう。これが、私の決意!そして今日、この瞬間は、その時のためのバネとすること。決してただの後悔で終わらせてはいけない、覚悟の誓約を、何よりも揺らぐことのない磐石な信頼へとする為の、自分の心へと打ち込む楔……!
初めてだった。こんなにも明確に自分の思いを形に、声として宣言したのは。
「今度は私が……助けるっ!!」
振り向いたルークと私の目が交錯する。その時間は刹那に過ぎ去っていく程に、本当にあったのかどうかさえ疑わしい程の、僅かな時間だった。
「……わかった」
それは私が得なければならない、最も小さくて、何よりも重要な、始まりの信頼。今ここで、ルークが私の言葉を信じるという……第一歩目。
「……っ!!」
その時、ふと、心の底から染み渡るような、暖かなものが背中から流れ出してきた。
エルサは今、目を閉じ黙りこくっている。吐息すら聞こえず、生きてるのかどうかさえわからないような、そんな状況ではあったが……。
ーーありがとう、エルサ。
それがなんだか、私の言葉に対しての返答のように思えて。
「俺は、お前らに言いたいことが、自分でもわからないくらい沢山あるんだ、これでもかってくらいに……。そして、同じくらい、お前らに教えて欲しいことも……沢山あるんだ」
前を走るルークはその顔を見せてはくれなかった。
もしかしたらその顔が、一番見たいものだったかもしれないのに。
「って、なんでこんな事言ってんだ……クソ」
苛立ったような声のルークに、うんうん、と顔を振った。その時も顔は、前を向いたままーー。
■■■■
駆ける。駆ける。光にかつての光景を重ね合わせながら、煌々と輝く森の外に向かって。
後悔を背負い込んだ暗い森の中。この暗闇こそ、今立つべき場所に相応しい。
けれど、私は走ってる。止まろうにも止まれなくて、暗闇に慣れた瞳で見通そうにも焼き切れてしまいそうな、逆光の中に飛び込もうとしている。
羽を生やそう。空を飛ぼう。一陣の風となって海を越えよう。産まれたての決意の手が背中を押している。
緩やかに溶けだした焔。熱を帯びた心に突き動かされる脚が、遂に目前へと運んできた。
訣別することは難しい。けれど、一言。別れの言葉を言うだけなら……光に紛れて呟いた言葉なら、きっと言える。
晴れ渡る空が時の流れを教えていた。あまりに短い時間の中で、随分と回り道をした。
さようなら。
返す言葉は、聞こえなかった。
ポエム風文章書くのが自分の中で楽しみになりつつあるので、それを支えにやっていきます
というわけで、第1章~完~