10 初めまして
俯く影があった。立ち去る影があった。狙い澄ました影があった。覆い隠す雄大な影があった。
集う影はどれも歪み欠けあって、我も忘れて生きている。焼き熄んだ火の粉の舞う焼燼の跡で、流す涙もなく、ただ自らの影さえ分からなくなっていた。
けれど……もし、光に形があるのなら。
きっと今眼に映る、魔法のような奇跡も信じられるのかもしれない。
最初の変化は荒み斃れる銀杖の脚腰に表れた。
正気と狂気の狭間で揺れるエルサの目前で、物言う口を持たぬその身が重力の枷を捨て、収まるべき地上から浮き出したのだ。
次に、腹部、臍部、胸部、肩ーー……。心臓を失い取り残された体に、狼の腹の中へ呑まれたはずの足りなかった肢体が、人の持つべき形へと成り返っていく。目の当たりにする光景は雄弁な舌が語るように、その場にいる者たちへ有り得ぬ可能性に辿り着かせ、一様に正確な理解を強制させる。溢れた水が盆に返ろうとしていた。
そんな本来の主を取り戻した両足が、音も無く地に足をつけて舞い降りる。そうして見る主の姿は生前に比べどこかみすぼらしく、病的な肉付きをしていた。
……。
釘付けだった。目が縫い止められるように、逸らすことも出来ずただただ息を飲んで眺めていた。緋紅の眼は意思を離れたかのようで、この魔法の世界においてさえ、非現実的だったのだ。
沈黙が音を支配する。
シーナ・ケテルは、確かな命を持って生き返った。
■■■■
夢を見ていたようだった。もしくは、そう。
死んでいたようだった。
「……」
何を覚えていて、何を忘れてしまったのか。
悲しい様な、暖かいようなーーー。
私は何をしていた?死んだことなら、覚えてる。
「本当……なの……?」
一人の呟きが聞こえた。沸き上がる疑問。澄み渡る心根。精神の開放感と清純さ。生前とは違う、その身と神経の現在の変化が困惑をもたらす……。そんな混迷の最中であっても耳に通る、よく見知った声音だったーーー。
「んぐっ」
「シーナちゃん、ねえ!本当に本当なの?夢なら夢と教えて、そうしたら、きっと私がおかしくなったなんて思わないから!夢の中なら、突然何が起きたっておかしくないんだから。でも、これが夢じゃないなら、きっと私はおかしくなってる……そう、これは幻覚、狂った人が見る、理想の幻……そうでないなら……」
呆気にとられた顔をしていたエルサが猛ダッシュで詰め寄ってきた。私の頬を手で挟んで、自身の正気の沙汰を測り及ぼうとする。
「ううん……夢は夢と教えてくれない。いつだって無責任で、自分で気づかせようとしてくる……否定もない、反対もない。でも、肯定もないなら、賛成もない……」
私から一歩、二歩と離れ、エルサは並々ならぬ感情を目元へと表しながら、こう言った。
「これは、夢?」
「夢じゃないよ」
予想済みの答えを、即座に否定してみせた。私は、とにかく今の私を……今に溢れだしてしまいそうな、このかつてと隔別的な自分を曝け出してしまいたかった。
「夢じゃない……勿論幻覚でも、幻でもない。夢だって言うなら、私が死んだことこそが夢なのかもしれない。幻だって言うなら、私が喰われたことこそが幻なのかもしれない。……だってその方が、よっぽど納得出来るくらいだもの!」
エルサの心には疑心の鬼が巣食っていた。今にもシーナの体が引き裂かれて、天と地が入れ替わり、ありもしない嘘にめちゃくちゃにされる……そんな非現実がまかり通る夢にいるんじゃないかと、そう思っていた。
「じゃあ、本当に!?嘘じゃない?その生えた手も、目も、白い髪もーー……」
ーー本当に、生きてる?
目には目を、手には手を。だから、言い淀む心には屈託のない正直さで応えなければいけないと……そう思っていた。
「そう、生きてる!私は、今、エルサと言葉を交わしてる!血の通った心臓が、活発に脈動を繰り返して、うるさいくらいに音を鳴らしてる!辺りを狼たちに囲まれていても、気にせずエルサのために、こうして声を上げてる!何故なら生きてるから!生きてるから生きようとして、生きてるから無駄なことをする……ほら、こんなにもらしい事って、ないと私は思うの!」
氷は徐々に溶けていく。それを聞いたエルサの表情に、一雫の火が伝って落ちた。
「……ぁぁ」
言葉にはならなかった。言葉にしなくても、きっとその思いは伝わっている……そう信じ合えるくらいの関係は、あったはずだから……。