第一章【リストラは突然に】
この世界が誕生して、幾星霜。
多くの苦難や絶望を乗り越え、人間は地球上、最大の繁栄を迎えていた。その歴史の影に多くの神々と彼らに仕える天使の力があったことは言うまでもない。その中でも、特に人類史や神話に多くの逸話を残す大天使ミカエルの名は知らぬものがいないほどに有名だろう。
フランスにあるモン・サン=ミッシェル聖堂などは、ミカエルが当時の司教に告げて建設されたという話があるほどだ。世界中の話を探せばミカエルの名が出てくるものは少なくない。武に長け、智を携え、博愛の心を持った大天使ミカエル。彼こそが最も神々に近い天使であることは、誰もが認める事実であった。そして、その評価を感謝しつつも一歩引く謙虚さこそが彼の一番美徳であるという記述も残されている。
「さて、と」
大きな翼を静かにたたみ、彼は呟く。いつぶりかもわからない主の呼び出しに少しの期待を抱かなかったといえば嘘になるだろう。世界が平和になり、役目も落ち着いた。それ自体は喜ばしいこと。けれど、主の役に立てる機会が減ったことは彼にとって心苦しくもあった。
平和な時代に何が出来るかはわからない。けれど、主の命にあらば全力をもってそれに取り組もうと彼は意気込んでいた。
主の玉座がある講堂の大門前、彼は声高らかに名乗りをあげる。
「大天使ミカエル、主の名に従い参上致します」
門は軽く押すと、あとは勝手に奥に吸い込まれるように開いた。
「よく来た。我が親愛なるミカエルよ」
「ご機嫌麗しゅう御座います。主よ」
何なりと、とミカエルは玉座に座す主を前に右手を胸に当て、膝をおり、その言葉に全身で耳を傾ける。
「うむ。少々言い難いことなのだが」
「主よ。貴方の命であればどんな苦行難業とて私には変え難き至福にあります」
ミカエルの言葉に惑いも一片の嘘もなかった。
主が彼に死を命ずるなら、彼は喜んでその身を投げ出すだろう。それほどに彼は主よ敬い慕い、そして崇めていた。
「そうかそうか、それなら……ほんじゃま、ミカエルくん。明日からクビね」
「へっ……?」
唐突にして、天地がひっくり返るほどの衝撃がミカエルを襲う。
主の言う言葉の意味も意図も真意も、叡智に等しい知恵持つ彼にも微塵も理解出来ずにいた。
「しゅ、主よ……それはいったいどういった――」
「では、早速だが、さよならー」
「えっ、ちょ、えぇ!!? 主よ、主よぉぉぉぉぉぉぉぉーー!!!!」
主の言葉と同時に、ミカエルがちょうどいた場所の床が黒い円に変わり、ミカエルはなすすべなくその穴の中に落下していく。虚しくも、彼の叫び声がだんだんと遠のいていった。
「我が主よ」
「なんじゃ、ガブリエルよ」
主の玉座の横に直立不動でミカエルの堕ちるさまを見届けた一人の天使ガブリエルが初めて口を開いた。
「彼に説明することがあったのでは?」
「あっ……」
ガブリエルの言葉に主は考え込むように頭を抱えた。
「いやー、すっかり忘れてた」
「……どうするおつもりで?」
「ガブリエルくん」
「はい?」
「あとで説明よろしくねっ!」
しばしの沈黙が訪れる。
「承知いたしました」
「うむうむ。さて、あやつはどうやっていくかねえ」
「大天使としての地位も名誉も知恵も力も失った彼に何が出来るか、私では想像にも難く及びません」
「ま、どうにかなるでしょ!」
ミカエルの動揺も知る由もなく、主こと神の言葉は能天気に講堂内に響き渡った。
天界は喧騒もなく、常時静謐な空間であるがゆえにこの声はもちろん先程のミカエルの叫び声は今後百年以上は語り継がれることとなるのはまた別のお話だ。
○
「これはいったいどういうことか?」
とりあえず、物事は予想不可能な出来事に直面した際には冷静になることが大事である。
そう私ことミカエルは考える。まず現状の把握だ。落ちている。ただ真っ暗な空間の中を抵抗することも出来ずに落ちている。翼は動きはするものの全く飛べる気配はない。
念の為、手を伸ばしてこの黒い空間に掴めるところがないか確認するも、雲を掴むようにすり抜ける。
「それもそうか。簡単に登れたら、主の御業なわけないですから」
うん。何も口に出して再度絶望することもなかった。うん。
とにかく、このままでいいわけもないような気もするけれど、どうしようもないのも事実である。ただ一体なぜこんなことに? と考えててもきりがない。よって、ここでの最善の結論は……。
「落ちきってから考えようっ!」
さすが私、叡智の大天使だ。無理なことは考えない。出来ることややれることだけ考えよう。
「って。いやいやいや落ちてどうなるのさっ!? おかしいでしょ! この状況? どうすんの? ねえこれ、どうすんの?」
「落ち着け。ミカエル」
「その声はガブリエル!?」
依然として落下途中の私の脳裏にかつての仲間である大天使ガブリエルの声が届く。
「うむ。一応、あまり時間が無いのだが、我らが主の言葉を続けよう」
「おぉ、そうか」
さすがは主である。何の説明もなく、こんな事はなさらないのだな、やはり。
「とりあえず天使としての権能やらその他の人外の力は全部没収だから。そこんとこよろしく! とのことだ」
「何の説明にもなっていないっ!?」
あぁ、すでにその傾向はあったような気がする。私がこんなに感情豊かに叫んだり、驚いたりするわけがない。否、出来なかったはずだ。
「待て待て。時間が無いと言っただろう? ちゃんと、後で説明するがひとまずこれだけ覚えておけ」
ガブリエルの声の神妙さにその言葉を信じ、とにかく落ち着いて耳を傾けてみようという気になる。
「お前の人間として名は三神 エル(みかみ える)だ」
「やっぱり説明じゃない上に、全くもって混乱しかしないですけど!!」
「さぁ、そろそろお別れだ」
ガブリエルの言葉はそれを最後に途絶えた。私はというと暗闇を抜けた。その先は遥か昔に見たことがある。真っ青な空、そう下界の空であった。つまりは、空中数千メートルといったところか。
肌に触れる風が突き刺さるように高速で全身を吹き抜けていく。
「これはいったいどういうことだ!! 飛べない、力もない。これじゃあ、死ぬ。死ぬ死ぬ、絶対に死ぬぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」
どうしたものか、いやどうしようもない。
つまりはあれか、死を乗り越えろという試練ということか。
「なるほど……いや、人の身体で落下の衝撃に耐えられるはずがない! そうか、はるか昔に見たことがあるぞ。ジャパニーズUKEMI、かっ!?」
確か記憶が正しければ、落下の瞬間に合わせて背を丸め、首の直撃を避けて、空を蹴り、腕で地面を強く叩いて衝撃を緩和するんだ。
そうだ、その方法があった。一流の柔道家なら常人が骨を折るような衝撃も見事に受け流すという。
一流どころか、ド素人だが戦いに関しては彼らの数百倍の歴史と蓄積がある。似たような戦いがないか、思い出せばいい。
えっと数百年前に悪魔と対峙したときは激しく弾き飛ばされて、あの時は神通力で地面に干渉して壁を、って今は出来ないじゃないかっ?!
あ、鳥。
落下しながら唸り声や時に叫び声を上げる私を物珍しそうに幾羽かの鳥たちが羽ばたき寄って来た。
「やぁ、君たちみたいに私も飛べればいいんだけどね」
ふん、と鼻で笑う鳥たち。
「何この子たち可愛くない。そもそも私の言葉わかってるのか……」
『そりゃ、わかるだろうさ』
「むっ、誰だ?」
『俺だよ俺。目ついてんのか? 目の前の俺だよ』
「おぉ」
どうやら声の主はその鳥たちの中の一羽、トサカのようなたてがみが目立つ目つきの鋭い鳥だった。
「ふむ、ちなみに何故わかる?」
『むしろ何故わからないと思った』
何でだろうか、この鳥が凄く高圧的で尊大な態度に思える。
「いや一応、今は私、人間だしさ」
『仮にも元天使だろ? そんぐらいは考えおよばせろよ』
「まさか、お前鳥じゃないな。天使だな」
『さてな、天の使いであることは違いない』
「さて鳥よ。では、この状況はどうしたらいい」
『早速、他力本願か。かつての大天使も泣ける話だな。そんなんだからクビにされんだ』
「ちょっと待ってくれ、最後の方に聞き捨てならないことがっ――!!」
その鳥は、私の眼前に片翼を突き出して、私の言葉を遮る。
『今はもうちんたら話す時間はないぞ。このままだと後二十秒ぐらいでてめえはミンチだ。そうなりたくないなら話を聞け』
先程までの茶化すような口ぶりではなくなり、その鳥の声音?はとても真面目な印象を与えた。
『まず、お前の力はもうほとんどない。だが、残りカスでもわずかには残っている。それを開放しろ』
「ほう。ちなみにさっきからそれはしてるんだが、力が分散してしまって、上手くまとめられないんだ」
『コツがある。今まで無尽蔵に近い力を行使し続けていたツケだ。コントロールが下手なんだお前は。右手だけに力を集めろ。んで、さっきお前が考えていた受け身をその力でやってみろ』
「う、ううむ」
半信半疑だが、もう疑い考える余裕もない。
私は言われた通りに全身神経を右手に集中する。かすかにだが、右手に光が灯り始める。
『イメージしろ。右手に剣を象れ』
剣、なるほど。それはわかりやすい。
右手に剣、それで地面を薙ぎ払うイメージ。右手が完全に光り輝いている。これなら……。
地面が眼前に迫る。風の音が消え、世界はゆるやかに動いて見える。
『今だっ! やれ!!』
その声を合図に今持てる全力を右手にこめて振るう。右手はかつてとは程遠いにしろ、人外の速度で地面を薙ぎ払った。
一瞬だが、大きな砂煙が舞い上がり。地面には深さ数メートルのクレーターが形成された。そして、私はその中で砂と土にまみれて倒れている。
「はっ、ははは」
思わず笑みがこぼれる。これが俗に言う臨死体験か。
今までにも死を覚悟したことは幾度となくあるが。これほどまでに困窮し、頭を悩ませた状況は初めてかもしれない。
『微妙にそれは違う気もするが。まぁ頑張れや』
バサッバサ、と音を立てながら横たわる私の上に先ほどの鳥がやってきて言った。
「そういえば、君の名前は?」
ごくごく当然の問いだと私は思っていた。そのはずが、彼(?)はそれに答えるのにどこか躊躇しているように、口を噤んだ。
「いやすまない。もし聞かない方が良いのであれば無理にとは言わない。ともかく助かったよ。ありがとう」
『……カラスだ』
「カラス、感謝している」
ふんっ、とやはり彼は尊大な素振りで去っていった。
それにしてもカラスという名の天使など聞いたことがない。けれど、せっかくの恩人をあまり詮索するのも野暮な話だ。今はとりあえず、生き延びたのだからガブリエルの連絡を待とう。
「……そういえば、この穴、どうやって出ればいいのだろうか?」
――穴の中から見える夕焼け空はとても美しかった。
数年前にある投稿マンガサイトに出そうと作った話ですが、小説用に直しながら投稿してみました。
作画担当とあまり会わなくなってしまったので
更新はまちまちですが、ケツを叩いてもらえれば、早くなるかもしれません……。