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ユズリハ  作者: yuta
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第三章

次の日、朝起きるて一階に降りるといつものように母が朝食の準備をしていてくれた。

「あら、早いわね。おはよう」

「おはよ」

目玉焼きの乗った皿の前に座る。なんの調味料をかけようか迷っているとき、トースターが跳ね上がった。もう一枚の皿にトーストが置かれる。

「今日は図書館に行くの?」

調味料を選ぶのをやめ、代わりにピーナッツバターに手を伸ばした周に母は聞いた。

「うん」

テレビから天気予報が聞こえる。今日も晴天だそうだ。

「遅くまで頑張ってるみたいだけど、気をつけてね。ほら、食べた、食べた!今日も暑いわよ!」

天気予報士は今日も猛暑日と伝えている。夏休みも半分以上過ぎた。相変わらずセミが朝から元気に鳴いていた。それを聞き流しながら周はトーストにかぶりついた。


朝食を済ませ、歯磨きなどを済ませ、部屋に入ると古い本があくびをしていた。気のせいか、グググと、本が伸びているように見える。

『おはよう』

「おはよ。この間の続きできそうか?」

 まだ眠そうな声だったが、すぐにその声は覇気を取り戻した。

『今からでもいいとも!』

「いや、いまからじゃなくていいから」

 両手を上げて制する。喋り出したら止まらなくなるのがこの古い本だ。せめて図書館に行くまで大人しくしてもらいたい。ここで話をされたらいつ終わるかわからない。

昨日の荷物を持ち、部屋を出る。相変わらず不貞腐れたような、いってらっしゃい。が、クローゼットの中から聞こえた。周は、振り返ってクローゼットの中の本に、行ってきます。と、言おうと口を開いたが、それが言葉になることはなかった。


いつもの坂を自転車で駆け下り図書館へ向かう。迷わず今日も共同スペースに入っていった。日曜日ということもあり、誰もいなかった。今日はなにも気にせずに話を聞けそうだ。手がかりになる話が出るといいが。

「さぁ、続きお願いしますよ。たしか昨日は櫂生さんから次に受け継がれたところで終わったよ」

 テーブルの上にそっと古い本を置いた。古い本は表紙をパサッと動かした。

『そうじゃったな。私は櫂生の子供に受け継がれたのじゃ』

 それは懐かしさのこもった声色だった。


律を略奪した櫂生は無事に彼女と結婚。そのまま稼業を継ぎ、ジェロの助言を受けつつ会社をさらに大きくしていった。

その後、子供を一人もうけ、未曾有の大震災をもろともせずに順調に家庭と会社を切り盛りしていた。実に幸せだった。

 櫂生の息子は陽一郎といった。

彼は父親と違い、おとなしかった。いつもだまってジェロ達の話す英語を聞いていたせいか、教わらなくとも話せるようになり、それに気付いたジェロを含む仕事関係者がおもしろがり読み書きを教えて早いうちに語学を身につけた。

 小さい頃から本を読むのが好きということもあり七歳の時にはもう私は櫂生の書斎から離れ、陽一郎の本棚で生活していた。

 彼は一度本を読みだすと周りが見えなくなるという厄介な性分の持ち主だった。

 やはり父親とは違い彼は私を大切にしてくれた。何度も何度も読んでくれた。そのせいであだ名まで本の虫と呼ばれる始末だった。なので当然、友達も少ないと、いうよりむしろ本が友達。人と接するよりも近所の動物達と接しているのを見るのが多かった。

櫂生も心配はしていたが本人がそれでよいと言っていたため、あえて口を出すことはなかった。

 時は明治、大正を過ぎ昭和に入った。

 陽一郎の朝は早い。店の中をくまなく掃除して本日の来客帖を確認する。それから店を開け、外を掃除する。

「おはよう、いつも早いわね」

 身支度を済ませた母、律が起きて来て声をかけた。

「おはようございます」

 ほうきを手に陽一郎は挨拶を返した。

「もう少しゆっくりしてていいのよ。父さんのように・・・・・・とはいいにくいけど」

 肩を竦め、少々呆れながら言った。父、櫂生は朝が弱い。きっと今も寝起きのだるい身体を引きづりながら身支度をしていることだろうと、両親の寝室を見上げた。空は青く澄み渡り暖かい陽射しが降り注いでいた。

「今日も良い天気ですよ」

 なんとも気持ちの良い朝だった。

 学校を卒業してからすぐに陽一郎は会社を手伝い始めた。いつしか自分がここを継ぐのを義務だと思っていたのだ。だから進学や他企業の就職などは考えたこともなかった。ましてや自分が結婚なんて思いつきもしなかったのだった。

 十九になったにも関わらず浮いた話一つもなく家業の手伝いをしているのにいよいよ皆が心配になった時、櫂生が肺をやられ病に倒れた。

とりあえず空気の良い場所へ移動した方が良いという診断に何年も前に仕事で行った山梨の旅館を思い出した。

「予約は取れたけど、俺はいきませんよ? 店があるから」

 そう言われ、櫂生は見事に陽一郎に振られた。

「家族旅行になると思ったんだが・・・・・・」

少々拗ねている父に陽一郎はため息をつく。

「遊びじゃないの!」

 律に正され、二人だけで旅館へと向かったのだった。

 その旅館は荘子(そうし)(あん)と言い、二人が泊まった部屋は窓から竹林が見え、山から流れる湧き水の池が出来ており、時折ししおどしが鳴り、風情を出していた。

 そこで二人が出会ったのが結衣という十八の少女だった。彼女は陽一郎と同じく、仕事の休憩時間や合間があれば本を読んでいた。

「こんにちわ」

 彼女は声をかけても一心に本に読みふけっていた。その姿がいつかの陽一郎と重なり櫂生はふとおかしくなり声を出して笑い出した。その声に驚き彼女は慌てて顔を上げた。

「あはははは!」

 腹を抱えながら笑う中年男性に彼女は戸惑いながら声をかけた。

「あ、あの・・・・・・」

 うっすらと溜まった涙を拭い、櫂生は謝る。

「失礼。結衣、さんだったかな? あまりにもあなたの姿がうちの息子と似ていてね」

 柔らかな物言いと落ち着きの中に潜む子供のような仕草に彼女は安心したのか、ゆるやかに立ち上がると丁寧に頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。本を読むとついつい周りが見えなくなってしまうんです。父にも気をつけるように言われているんですが・・・・・・」

 癖はなかなか治らないと彼女はおどけて笑った。そんな彼女に櫂生は微笑んだ。

「気にすることはないよ。なにか一生懸命になれるものを全員が全員もっているわけじゃない。大事にしたほうがいい」

 彼女は嬉しそうに微笑み、素直に返事を返した。

「ハイ」

 しかし・・・・・・

「似てる」

 そしてまたぷっと、吹き出した。


 その頃陽一郎はというと、得意の計算をしつつ盛大なくしゃみを一つした。

「風邪かイ?」

 店に来ていたジェロが眺めていた雑誌から目を離し日本語で言う。父より少しばかり歳のいっているこの外国人の男性には昔よりチラホラと白いものが目立つようになっていた。

「いや・・・・・・多分、噂」

 陽一郎は頼まれていた紙包みを手渡した。ジェロはおもしろ半分に言う。

「ありがト。親父さんカ? まぁ、彼なら言ってそうダ」

 と、紙包みを受け取り笑った。

「しばらく帰らないと聞いたガ、厄介事を持ってこない事を祈ってるヨ」

 そう言い、手を振り店を出て行った。陽一郎も手を振り返す。ジェロが見えなくなると振っていた手を止めゆっくりと下ろした。

「厄介事、か・・・・・・」

 陽一郎は遠くにいる両親、とくに父を思いポツリと呟いた。


 その夜、櫂生は目が冴えてしまい部屋をこっそりと抜け出していた。なんでこっそりかと言うと律に、「療養なのだから静かにしていろ」と、怒られるからだ。

 その時、受付の明かりが夜なのについていることに気づいた。中をのぞくと案の定、結衣が本を読んでいた。

 その真剣な眼差しに声をかけるのを戸惑っていた時、後ろから声をかけられた。

「お客様、眠れないのですか?」

 旅館の主人、結衣の父だった。

「はい、そんなようなもんです」

 頭を掻きながら笑い答えた。

「娘さん、熱心ですね」

 櫂生が言うと結衣の父親は困ったように言った。

「本に熱中しすぎであの歳で浮いた話もないんですよ」

 どこかで聞いたことのある言葉に櫂生は笑った。

「うちと同じですよ。そうだ! よろしければ・・・・・・」

 深夜、父親二人が良からぬ相談をしているなんて、その娘、息子は知る由もなかった。


 ジェロと陽一郎が話していた厄介事は突然起こった。

 病気療養から二週間ほどで櫂生と律はいきなり家に帰って来た。意外と元気そうな櫂生は陽一郎の顔を見るなり言った。

「陽一郎、見合いだ!」

「・・・・・・」

 さすがの陽一郎も顔を引きつらし耳を疑った。帰って来た早々この親父はなにを言っているのだろうか?

「母さん。父さんの病気は頭だったっけ? たしか肺だと思ったんだけど」

 櫂生から目を離さずに隣にいた律に聞く。その目は氷のように冷たいものを含んでいた。陽一郎が櫂生から目を離さなかったのは、俗に言う危ないものからは目を離すなと、いうものからだった。つまり、櫂生は危ない。

「で、旅先でなにがあったんですか? いきなり見合いだなんて。突拍子もない」

 呆れた陽一郎は父親に冷ややか目を向けつつ答えた。

「だっておまえ浮いた話一つないからお父さん心配で」

 親バカか? と、喉元まで出かかったがそれを飲み込んだ。多少なりこちらにも非はある。

「そしたらおまえにぴったりの子がいたんだよ! きっとお似合いだ」

 目をキラキラさせて言い張る父。ここまで話されたが、まだ顔も見せられていない。まさか連れて来たなんてことないよな? そんな思考がよぎりドキドキしながら周りを伺ったが、どうやら誰も連れてきてはいないらしい。

「明日から店は休みだ。行くぞ」

「ちょっと! 勝手なこと言うなよ。行くってどこへ?」

 ふふん。と、櫂生は不敵に笑った。悪い予感しかしない。律は止めても無駄だというばかりに口すら挟まない。

「山梨へ!」


 次の日、本当に店をしばらく休みにして山梨へ向かった。しばらくと言ったって山梨まで列車でどれだけかかると思っているんだ。

 大赤字だ・・・・・・

 ぶすっと機嫌が悪い顔を隠さずに対面に座りわくわくしている父親を憎たらしそうに陽一郎は睨んだ。なぜか荷物を山ほど持って来ていて通路を半分占拠していた。他の乗客の迷惑だ。

 いいや。顔もみたこともない相手だ。嫌だったら断ればいい・・・・・・

 そんなことを思い窓を流れる景色を見た。だいぶ遠くへ来たようで外は緑が広がっていて青い空がどこまでも広がり流れていった。日差しがまぶしくて目を細める。

こんなにゆっくりとした時間はひさしぶりだ。前に座る両親を見た。和やかな会話を楽しんでいる。ふと父と目が合う。父の顔を見たくなかった陽一郎は不自然に目を逸らした。

 なんでいつもそんなに楽しそうなんだ? 悲観主義の自分には考えられない生き方だ。

 カバンの中から持って来ていたお気に入りの譲り受けた本を取り出した。ほとんど頭に内容は記憶しているがこれを読むと不思議と気が休まる。

 結局、陽一郎は列車での旅のほとんどをこの本と過ごした。


 列車に乗って何日かたった朝、山梨についた。駅前を通り過ぎて山道を二時間ほど歩いたところにその旅館はあるそうだ。櫂生は市場から山の集落へ帰る軽トラックを呼び止めると荷台に乗せてもらえことに成功した。これで時間を短縮出来る。家に小さい子がいるということでお礼に外国のお菓子をたくさん分けてやった。軽トラックの主人は奇妙な物を見るようにお菓子箱を見ていたが、礼を言い去って行った。

 それから山道を登る。ひたすら登る。太陽がてっぺんから少し傾いた頃、目的の旅館、荘子庵についた。竹林に囲まれたその旅館はまるで隠れ家のようだった。

 櫂生は引き戸を開け中に入って行った。

 臙脂の絨毯の引き敷かれた室内に受付があった。そこから顔を出したのは他ならぬ結衣だった。

「北丈さま、お待ちしておりました」

 立ち上がり頭を下げた。そんな彼女が次に顔を上げた時、目に写ったのが陽一郎だった。

「お世話になります」

 櫂生の代わりに結衣と同じように丁寧に頭を下げた。

「・・・・・・」

 初めて見る紳士的な対応をする青年に結衣は見惚れた。なにしろ受付の小娘に普通の人は丁寧に挨拶なんかしていかない。

ボゥと立っていた結衣を陽一郎は不思議そうに見た。我に返った結衣は慌てて室内を案内した。

「こ、こちらです・・・・・・!」

 前を歩く結衣に櫂生はささやいた。

「どうだい? うちの? 見合いしてもらえない?」

 その言葉に結衣は固まったように動かなくなった。

「え?」

「おい、聞こえてるぞ!」

 片方は疑問を、もう片方は唖然とし同時に答えた。怒られた櫂生は面白くなかったのか拗ねたように言う。

「もう相手様のご両親にも話がついているのにぃ」

 この確信犯が! 陽一郎は会ったばかりの結衣に頭を下げた。

「すまない、諦めてくれ」


 出会いも唐突だが、見合いも唐突だった。

 すでに席は用意されていたにもかかわらず、服装は皆、正装ではないというなんとも中途半端なものになった。すっかり意気投合している両父親達はわいわいと楽しそうに話し込んでいた。

 陽一郎はなぜこんなことになったのか・・・・・・と、対面に座る、荘子結衣を見た。たしかに悪い子ではないのだが・・・・・・本人達の意向など完全に無視なところが腹立たしい。

 さてどうしたものか・・・・・・

 困り果てた陽一郎が腕を組み目を瞑った頃、両父親達は動き始めた。

「さて、あとは二人に任せて私たちは酒でもどうです?」

 店の主人、結衣の父が櫂生を誘う。

「いいですね!」

 喜んで申し出を飲む櫂生に律が首根っこをつかんだ。

「病気だということを忘れないで!」

 結衣の父も、仕事中だと、女将さんに怒られ、酒の席は無くなった。

「そんな!」

 どこか似ている両父親達が恐妻達に許しを得ようと説得している話声は部屋を出て、廊下でも続いていた。なぜか気の抜ける会話に陽一郎の肩の力が緩む。

ようやく静かになった頃、陽一郎は対面でずっと黙って俯き座る結衣に話をかけた。

「嫌だったら断っていいんだよ?」

 その言葉に顔を上げた結衣は困ったような顔をしていた。その理由が分からない陽一郎はそれを肯定と取り、立ち上がろうとした。その時。

「あ、あの。ご、ご、ご趣味が読書と聞いたのですが・・・・・・」

 びっくりした陽一郎は再び座り直し、顔を赤くしている結衣を見た。その姿はこっちまで緊張を誘う。

「は、はい。そうです」

 思わず敬語になってしまった。しかしその返事に結衣はぱぁっと花を咲かせたような笑顔を向けた。陽一郎は受付の時とはまた違うその笑顔に一瞬見惚れた。ハッと我に返った時、恥ずかしくなり誤魔化すように本の話題を振っていた。

「あ、この本。父から受け継いだんだが、気に入っているんだ」

 結衣の顔を見ないように本をずいと差し出した。見ていないせいか優しく本を受け取る感触が妙に鮮明に伝わって来る。顔に熱が集中して来る。

「洋書、ですね」

 ペラペラと丁寧に本をめくる音。

「おもしろそう・・・・・・」

 陽一郎が伺うように目を結衣にあげると今度はフワリとした笑顔を本に向けていた。再び陽一郎の心臓が強く脈打つ。

「でも、私、英語分からないんです」

 パタリと本を閉じ、悲しそうに俯いた。

「お、教えます!」

 勢いあまり上半身を乗り出し結衣の手を震える手で握った。真剣な眼差しに最初驚いた顔をしていた結衣だが、顔を赤くしながら震えるその手を優しく握り返した。




『見合いは成功してそのまま二人は無事に結婚したということさ。私のおかげで』

 古い本は一度そこで話を切った。最後の“私のおかげで”は、やけに強調して言った。

「で、その後は? 山梨に住むのか?」

 周はスマホで荘子庵を調べようとしたが、なかなか繋がらない。こういうとき、ノートパソコンがないのは辛い。おかげで昨日から話の要点を入力しているがそれさえもスマホでは遅くあまり、はかどらない。

『いや、結納などが終わったら東京へ戻ったぞ? なにしろ、会社があるからな』

「旅館は?」

 周はスマホ画面から古い本に視線を戻した。まさか閉館したとかじゃないよな? そうしたらまた手がかりがなくなってしまう。

『一人娘ということもあって跡取りなどは考えていなかったようで夫婦で営業することになったのさ』

「へーー。じゃぁ二人は東京で幸せな生活を送るのか? やっぱり持ち主は東京にいるのか・・・・・・」

 図書館に来るんだ地元でなければなかなか来ない。いや、今、夏休みだぞ? 遊びに来たついでとも考えられる・・・・・・

 思考を巡らす周に古い本はパサリと重たげに表紙を動かした。

『歴史は習っただろ? 幸せもそう長くは続かなかった。やがて日本は戦乱に巻き込まれるのだから』




櫂生の持ってきた厄介事は陽一郎にとってかけがえのないものを得ることが出来た素晴らしい出来事になった。

 皆に祝福され二人は結婚をし、ジェロを含む得意先の友達から会社の経営学を学び、その合間を陽一郎は結衣に約束した英語を教えていた。充実した毎日だった。その甲斐あって結衣は一年弱で英語を習得した。

 そんな陽一郎を見、櫂生は会社を少しずつ預けるようになったが、会社経営はそう簡単にはいくものではなかった。

 行きづまることがあると陽一郎は受け継いだあの本を開いた。あの本を開くと不思議と心が落ち着いた。

仕事に構えきりで家のことはなにも出来ない日々が何日も続く。その間に結衣は家事を全てこなし、接客も手伝ってくれていた。やがて夜半まで仕事をしてそのまま寝てしまうことも多くなった。

これでいいのか・・・・・・?

陽一郎は自問する。こんな毎日で本当に良いのだろうか? 結婚してからというもの彼女に苦労ばかりかけている。

走らせていたペンを机に放る。

いいはずがない・・・・・・

こんな甲斐性なしでどうする・・・・・・彼女から幸せを取り上げてしまったような気がしてならない。あんなに好きだった本すらまともに読めていない毎日。本当なら自分が幸せにしなければならないのに・・・・・・なんとも。

「不甲斐ない・・・・・・」

机に額を押し付ける。自分は一人ではなにもできないのだ。そんなことを今更気付かされた。

「情け無い」

机につっぷしたまま陽一郎はいつしか眠りについていた。

しばらくして静かな書斎を不思議に思った結衣が顔を出すと、陽一郎は不安定な姿勢で器用に眠りについていた。その姿がおかしくて、ついクスリと笑ってしまう。開いたままの本に気づきすっと取り、そっと側に置くと、陽一郎の目がゆっくりと開いた。

「あまり根をつめないでくださいね」

 ああ。と、小さく呟くと、ふと寝起きとは思えない深妙な顔をした。

「どうされました?」

 いや・・・・・・とか、あの・・・・・・とか、どうにも煮え切らない。ハッキリして! とは、結衣は言わなかった。ただ、言葉を待っていた。すると、静かに小さくだが陽一郎は言葉を紡いだ。

「・・・・・・後悔、していないか?」

 経営もなかなかうまくいかず、なにかと任せきりだ。幸せとは程遠いだろう。あんなに好きだった本だって読めない。

 意外な言葉に結衣は動きを止めた。この人は本当に不器用な人だ。初めて会った時から人のことばかり。あの見合いの席だって自分はフラれる気でいたのだから。人の気も知らないで。

「本ならいつでも読めますよ。逆に今本以外で熱中できることを見つけられました。それに・・・・・・」

結衣は一度言葉を区切った。

「後悔、しているように見えますか?」

 結衣は微笑み問いかけた。不安そうな陽一郎と目が合う。微笑む結衣を見てつられたように陽一郎も微笑んだ。それで十分だった。この笑顔をずっと守っていこうと思った。もうあれこれ悩むのはやめよう。

「いや?」

 結衣の笑顔が偽りではなく幸せそうだったから。


 結衣の陰ながらの助力もあり、いくつもの山を越えることができた。やがて得意先も増え、会社もちゃくちゃくと大きくなっていった。

その様子に満足した櫂生は陽一郎に経営を譲った。

晴れて陽一郎は社長になった。櫂生は今まで通り自由奔放に律と楽しい隠居生活を送ることが出来た。二人共、学生時代の旧友達と旅行へ行くことが多くなった。結衣も前よりは本を読む時間を設けることができるようになっていた。

 そんな頃息子、仁を授かった。みんなは面白いものでも見るように毎日入れ替わり立ち代り用事もないのに仁に会いにきた。

 陽一郎は、子育てにも参加しようとしていたのだが、周りの人達が取っ替え引っ替え面倒を見ていて、すっかり蚊帳の外になってしまっていた。なんだかおもしろくない。

「あぁ、もう! みんな仕事はいいのか?」

 仕事そっちのけで仁と遊ぶ得意先の皆に、陽一郎はやきもきを焼いていた。

「だってこんなにおもしろいのがいるのニ、仕事なんてしてられないだロ?」

 ジェロはガラガラを手に言った。皆そうだそうだと、変な顔をしたりして仁を笑わせていた。

「ものじゃないんだから・・・・・・」

 そんな得意先に呆れながらも新商品などをその度に売りつけた。

 しかし陽一郎は仁が泣きだすと仕事を放り出しすぐに飛んで行く。ある時、なにをしても泣き止まない仁に困った陽一郎は本棚から本を取り出し、英語ではなく日本語でまるで昔話のように読み始めた。

 始めやかましく泣いていた仁だが、やがて泣き止み、きょとんとした顔で陽一郎の顔を見つめ、話を聞いていた。

 大きくなったらかすかにでもいいから覚えていてもらえているように・・・・・・

 そんな願いを込めて読んでいたらいつの間にか仁は眠ってしまった。その頭を優しく撫でる。スヤスヤと眠る寝顔を見ていたら自分まで睡魔に襲われた。気づけば二人で眠ってしまっていた。

「あらあら」

 静かになったので様子を見に来た律は結衣を呼び眠っている親子を微笑ましく見ていた。

「懐かしい」

 律は陽一郎の持っている本を見て感慨深げに言った。

「これですか?」

 結衣が起こさないようにそっと本を手に取った。

「ええ・・・・・もともとはお父さんので、この子に譲ったの。この本が私達を繋いでくれた」

 律は懐かしみながら続けた。

「別れなくちゃならなくてね、その時に偶然なのか意図的なのか、スピンの挟まっていたページにね“結婚したらなにがしたい?”っていう文を見つけて・・・・・・」

「それで? どうなさったんですか?」

 結衣が期待のこもった眼差しで次をねだる。律が恥ずかしそうに頬を薄い桃色に染めながら言った。

「その時、縁談が決まってたのよ。嬉しいようでさみしいようで・・・・・・ただ泣いていたわ。でも、色々あって今こうしてここにいる」

 ニコリと微笑む律を見て結衣も笑顔になる。

「あなたたちと同じ。この本がみんなを繋いでくれたんだと思うの」

 そう言うと、愛おしそうに大分くたびれてきている本の表紙を撫でた。

話声にふと、目を覚ました陽一郎の上にはふとんがかけられていた。どうやら自分まで眠ってしまったようだった。

「お疲れ様です、陽一郎さん」

 結衣は、起きた陽一郎に気づき微笑んだ。

「なにか、話してませんでした?」

 まだ覚醒しきっていない陽一郎はうとうとしつつ二人に聞いた。二人は顔を見合わせ微笑むと声をそろえて答えた。

「いいえ? なにも?」

そんな二人を不思議に思いながら、眠い目をこすり、隣をみると、まだ仁は寝ていた。それからじんわりと暖かい胸で残りの仕事に取り掛かるのだった。

 その日から仁が寝る前には必ず本を読んでやるようになった。


 仁が二歳になった頃、さらに嬉しい出来事が起こった。陽一郎は娘、円を授かったのだった。

 皆、仁の時と同じように円にも事あることに会いに来た。

ジェロはすっかりやんちゃになった仁の遊び相手になっていた。見ててかわいそうになるくらいもみくちゃにされていた。

「じぇろーー、おうまさんやってーー」

しゃべれるようになった仁は櫂生、陽一郎と同じように良き友達となっていた。

「はいはイ」

言われるまま上に乗せてやると、ジェロの髪の毛を掴み無邪気に笑い出す。その仕草はかわいいのだが、底抜けの体力に悩まされるジェロだった。

ジェロが倒れるとまた他の従業員のもとへ走っていく。

「あそぼーー!」

ゼイゼイと息を荒くしながらジェロは陽一郎に言った。

「これって、隔世遺伝っていうやつかイ?」

そう言わせるほど仁はやんちゃだった。それからさらに子供会いたさについでにと仕事をしていく得意先もさらに増えた。

 気楽に買いとった商品が櫂生には売れるか! と、笑われた品が大ヒットをしたりと企業も慣れて来たおかげで波に乗っていた。

「いつからおまえは楽観主義になったんだ? 昔は売れるかわからないものは絶対に仕入れなかったのに」

 櫂生のつぶやきに陽一郎は豆鉄砲でもくらったような顔をした。

「いつも自分がやっていたことじゃないか?」

 意外な陽一郎の言葉に櫂生は、

「うーん・・・・・・子は親の背中を見て育つとはこういうことか?」

 と、考え込んだ。律は、

「バカは映るっていうから・・・・・・」

 と、心配そうに言う律の言葉に櫂生は凍りつき、その場にいた皆を大いに笑わせた。


「じゃぁ、写真写そウ」

 ある時、ジェロがカメラを家から持って来た。

「庭で一枚撮ろうヨ」

 そう言いみんなを庭に集める。

「ほら陽一郎さん」

 結衣が小さい円を手渡す。

 小さい子に触るのを慣れていない、と、いうより、むしろ今まで触らせてもらえなかった陽一郎はおそるおそる円を抱っこした。

「あーーあーー」

 小さな手をパタパタとさせながら円は喜んだ。フアリとした、でもしっかりと鼓動している温もりと重さがジンワリと腕に広がる。

「仁は母さんと手を繋ぎましょ」

「うん!」

 陽一郎が感動しているのもつかの間。

「はい、撮るヨーー」

ジェロの声を合図に皆が正面を向く。前列に櫂生と律が座り、後列に円を抱っこした陽一郎と、仁と手を繋ぐ結衣。パシャッという音を立てて写真に刻まれた。

「ジェロも入って」

 結衣の言葉に撮影していたジェロは戸惑いながらも、見ていたジェロの会社の社員にカメラを渡し、陽一郎の隣に立った。それから再びパシャッという音を立てて写真が映された。

 カメラを見つめる顔は皆、笑顔だった。


仁は本を読んでもらうのを迫るようになっていた。譲り受けた物以外にも絵本や小説、それこそ日本の物から外国の物まで。

「おとうさん、これよんで」

 今夜は昔話だった。そう言い円のそばに寝転がる。

「まどかも」

「あーー」

 陽一郎は嬉しそうに頷いた。順調だった。幸せだった。こんなに幸せで良いのだろうか? いつの間にか寝ついた子供達の寝顔を見ながら陽一郎は夜そんなことを思っていた。

なにもかも順調だった。会社も年々さらに大きくなっていき、結衣も子育てや家事を一生懸命やってくれる。そばにいてくれる。この上なく陽一郎は幸せだった。

 ふと本棚の中の本を見た。背表紙越しに目が合う。いつの間にかあの本に頼らずとも平気になった。それは強くなった証拠なのだろうか? 今では子供達を寝かしつけるためというまったく違う理由で頼ってはいるのだが。

 陽一郎は音読していた本を閉じると表紙を撫でた。いずれ、自分も父と同じようにこの子達に本を受け継ぐ時が来るのだろう。なんだか嬉しくもあり、悲しくもあった。

陽一郎は二人の寝顔を眺め、目を細めた。

「ゆっくり大きくなるんだよ?」

 そう言うと、明かりを消そうとした。そこへ結衣が家事仕事を終わらせ入ってきた。

「眠りました?」

「うん」

 陽一郎は微笑む。彼女がいたからここまで来れた。こんなかわいい子供も授かることができた。

思えばいつも悲観的だった。なにかといえば考え込み、悩んでいた毎日。人の助言にこんなにも助けられるとは仕事に着くまで考えなかった。本音は、自分とは反対に楽観的な父を羨ましく思っていた。少しは自分も楽観的になれただろうか?

「いつもありがとう」

 結衣は少し驚いたような顔をしたがすぐにいつもの笑顔になった。

「こちらこそ」

 この笑顔にどれだけ救われたのか。ふいに愛しさがつのり結衣の頰に手を添えた。それに答えるように結衣はその手に自分の手を重ねる。クスリと笑みを漏らしたのは同時だった。

 こんなたわいのない、平穏な日々がずっと続くと思っていた。穏やかに年老いて地に帰ると思っていた。

しかし、その平和の影で音もなく、着実に戦火は迫ってきていた。


 だんだんと得意先が日本から強制帰国させられた。皆、申し訳なさそうに陽一郎達に挨拶をしていく。やがて、店を閉めることが多くなった。客も来ないのに店を開けておくことまで出来なくなってきていた。

 街はまだ活気づいていた。行き交う人々も楽しそうに笑っていて、皆、商売に勤しんでいた。 皮肉なことに貿易商を営んでいる陽一郎達は一番に不穏な空気に触れることになった。

仁、四歳、円が一歳になったころ、最後の得意先、ジェロにまでも強制帰国が令が出た。ジェロは再三の令を無視して日本に止まっていてくれた。最後の最後まで粘って残ってくれていたのである。そのジェロを帰らせるということは、よほどの自体になっているのかもしれない。 陽一郎達は只ならぬ予感に不安を覚えるようになった。

「櫂生、陽一郎。すまなイ。ボクもとうとう帰ることになったヨ」

 大きな荷物を持って片手で帽子を取り、すっかり白髪の目立つようになった髪を見せた。

「いいや、ありがとう。ここまで残ってくれて」

 櫂生が手を差し出した。それをジェロは握り返した。

「本当は二人が大きくなるまで見届けようと思ったんだけド、そうはいかなくなっタ」

 結衣と手を繋いでいる仁と律に抱っこされている円を見てから地面にゆっくりとカバンを置いた。

「きっとまた大きな戦争が始まル。ボクらも戦うことになるかもしれなイ」

 ジェロは悲しそうに子供達の頬を優しくつっつきながら言った。

「なぜ・・・・・・戦わなけれれば、ならないのでしょうか?」

 思わずついて出たあまりにも子供じみた言葉に陽一郎本人も驚いた。そんなのは決まっている。国が、世界がそうなってしまうからだ。しかしジェロは真剣に答えてくれた。

「皆、国も違えば、種族も、宗教も違ウ。もちろん考え方モ」

 ジェロは陽一郎の肩をポンと叩いた。

「しかし、形はどうあれ願うことは同じはずダ。平和。共存。歩み寄れば答えてくれるのに・・・・・・今の世界はそんな簡単なことまで分からなくなっているんダ」

 分かるまでの辛抱だよ? と、笑った。

見上げた秋の空は遠く青く澄んでいて、さば雲が浮いていた。ジェロは皆の顔を見た。目に焼き付けるように。

「みんな、どうぞ無事デ。絶対にまた会おウ」

 手を差し出すジェロ。今度はそれを握り返した陽一郎。そして櫂生。

 出会ってからどれくらいがたっただろうか? お互い歳をとった。色々なことを教わった。喜びも苦しみも分かち合った。国という垣根を超えてジェロのいう通り歩み寄り、親友となった。いやもう家族だ。

彼と出会ったあの日、歩いた夕日に染まる歩道、元気つけてくれた中庭。みんなで騒いだ会社、写真を写したあの時・・・・・・たくさんの思い出が次々に蘇ってくる。

 たまらず櫂生はジェロに抱きついていた。

「ジェロも元気でな」

 堪えるものを押し殺し、櫂生は笑顔で言った。ジェロも笑い返す。

「ありがとウ・・・・・・じゃぁ、まタ」

 帽子をかぶりなおし、手を振り去っていく。陽一郎は悔しそうに唇を噛み締めた。櫂生は震える手を強く握りしめ、なにかに耐えるように見えなくなるまでジェロを見送った。

 それから櫂生の胸ポケットには必ずみんなで写した写真が入れられていた。唯一、全員で写した大事な写真となった。

 やがて冬になり年が変わる。不穏な空気はだんだんと具現化していき人々に流行病のように伝染して行く。

 しばらくして、日本は戦場とかした。


 今での暮らしが一変した。会社はすぐに閉めなくてはならなくなった。日本語以外の外国語も絶対に話さないようになった。皆を繋いだ本はいつしか誰の目にも触れないように安全な場所に隠すことになった。洋書の存在が他人に見られたら燃やされてしまう。

私は暗くてジメジメした埃臭い地下室に隠されてしまった。こうして北丈家は堅苦しい生活を余儀なくされてしまったのだった。

 あっという間に平和な日々は遠のいていった。あちらこちらで訃報を聞いた。東京も戦火の渦中になった。毎日のように敵襲にあい逃げ惑う日々。結衣は小さな円を抱き、陽一郎は仁の腕を引っ張って逃げる。街は火の海と化し櫂生は落ち着いていた肺病が悪化。律は必死に支えていた。幸いなことに家だけは無事だった。

 このままでは、ダメだ

 陽一郎は悩んでいた。小さな子供と女性達。病を抱える父。このままだときっと守りきれない。みんな共倒れしてしまう。

 くすぶる街を歩きふと見上げた空は、煙と雲間から青空がのぞいていた。ここにいてはダメだ。陽一郎は会社を手放す決心をつけた。

「結衣、父さん、母さん、聞いてくれ」

 家に入る前陽一郎は家族を呼び止めた。

「実は・・・・・・」

「北丈陽一郎さんですか?」

 話を続けようとしたその時、背後から郵便配達の男に呼び止められた。

「はい・・・・・・そうですが」

「おめでとうございます、ご令状です」

 手渡された令状にその場にいた郵便配達の男意外が凍りついた。


 令状を前に皆が黙り込む。室内はうっそうとした重苦しい空気が包み込んでいた。長い長い静寂が場を征服する。最初に静寂を破ったのは、陽一郎だった。

「みんな聞いてくれ」

 三人は目だけを陽一郎に向けた。こんな時なのに、そっくりな反応に苦笑が漏れた。生死を分ける時を生きているというのに笑えるんだな。そう思うと、この時をいっそう愛おしく思う。

「ここを手放さそうと思うんだ」

 なにも言わない皆に陽一郎は続けた。

「山梨へ行って欲しいんだ。俺がいなくなったら、結衣は子供達を一人で面倒見なくてはならないだろう? 母さんだって病気をぶり返した父さんを引っ張るのは大変だろ? あそこはのどかで良いところだ。戦火もそこまでは伸びないはずだ」

 一度ここで話を区切り周りを見渡す。かけがえのない家族。安らいだ笑顔をいつまでも見ていたい。

「おまえは、どうするんだ?」

 初めて櫂生が口を開いた。真剣なその口調はもしかしたら生まれて初めて聞いたかもしれない。陽一郎は何度か目を泳がし言った。

「俺は・・・・・・どうやら行かなければならないみたいだから・・・・・・」

ゴクリと結衣が息を飲むのがわかった。

「でも・・・・・・子供達は・・・・・・!」

 律の悲痛の言葉に首を横に振る。

「無視は・・・・・・出来ないのわかってるだろう? なに、外国への招待状だとおもえばいい」

 陽一郎はなるべく明るく勤めた。が、皆の不安が痛いほど伝わってくる。

「ここで・・・・・・待つわけには行かないんですか?」

 結衣が苦しそうに胸を押さえながら言う。陽一郎はぎゅっと唇を噛み締める。ここで少しでも優しさを伝えたら彼女は待つと言うだろう。誰よりも彼女は優しい。だからあえてはっきりと言う。

会社はいつでもどこでも立て直すことはできる。しかし、人は違う。死んだらおしまいだ。自分はもう守れない。でも生きて欲しい。誰一人かけて欲しくない。

「ここにいたら・・・・・・みんな死ぬぞ」


 東京離脱前日、眠りについた子供達を陽一郎は毎日の日課のように眺めていた。軽く頰をつついてやる。

 いつもと同じゆっくりとした時間が過ぎていた。明日からこの時間がなくなる。考えられないがそれが現実だった。

 櫂生が今夜も店の営業していない帳簿を見ている陽一郎の肩を叩いた。振り返ると片手になけなしの量の残る一升瓶の酒、もう片方にはグラスを二個持って縁側へ行こうと首で促した。

 昼間の戦乱とは一変して穏やかな月夜だった。そよそよと吹く夜風が気持ち良い。櫂生は酒を両グラスに注ぎ陽一郎の方へ滑らせた。それを受け取り顔の側まで持って行き、見えない乾杯をした。櫂生もそれに答え、酒を飲み始めた。

「まさか、おまえが選ばれるなんてな」

 どうしてだ? と、残った酒を見つめながら言った。そんな父の姿に穏やかに微笑み陽一郎は言った。

「強いて言えば、若いからでしょうか?」

 陽一郎がコクリと酒を飲む横で口をへの字にしてしかめっ面の櫂生がボソリと呟く。

「減らず口が」

 残った酒をぐいっと飲み干し櫂生はグラスを置いた。その言葉にとうとう陽一郎は吹き出した。今まで何度も見た笑顔。大事に大事に育ててきた。なのになんで国に取られなければならないのか?

「周りの男達も戦地へ行き戻ってきていない。若い者も、それなりに年の行っている者も・・・・・・」

たまらなくなり櫂生は陽一郎を抱きしめた。一升瓶が廊下を転がる。

「必ず生きて・・・・・・帰ってこいよ?」

「ええ・・・・・・」

陽一郎はグラスを持ったまま片手で櫂生に答えた。ポンポンと子供をあやすように背中を叩く。その様が憎たらしく思え、櫂生は顔をしかめた。いつの間のこんなに物わかりよく成長したのだろうか?

「おまえは、優しいから」

 ポツリとついて出た言葉に肩口に頭を預けていた陽一郎が笑った。

「なに、彼女ほどではありませんよ?」


 次の日、家族は駅にいた。陽一郎は正装に身を包み止まっている電車の前で皆を見ていた。

「では、いってきます」

 敬礼をピシッと決めた。

「身体に気をつけて」

 律が抱きしめ言った。

「みんなを頼みます」

 陽一郎の言葉に櫂生は頷いた。

「わかってるよ」

「待ってますから」

 結衣も陽一郎に抱きついた。それに応えるように、壊れ物を扱うほど丁寧に包容仕返した。

「子供達を頼むよ」

 仁と目を合わせると、微笑み頭を撫でてやる。

「またほん、よんでくれる?」

 上目遣いで仁が言った。

「ああ、帰って来たらかならずな」

 その言葉に満足げに仁が笑った。

「ぜったいだよ!」

 櫂生に抱っこされていた円の頭を撫でた。

「元気に育つんだよ」

 それぞれに別れを告げ、列車の手すりに手をかけ中に入ろうとした。が、ふと、思い出したように結衣と向き合った。

「結衣」

「はい?」

ぐいっと腕を引き、耳元で小さく、皆に聞こえないようにささやいた。

「生き抜いてくれ」

駅にけたたましい発車ベルが響き渡る。結衣の大きな目がさらに大きくなる。そんな結衣から目を離さずに陽一郎は静かに頷いた。

「あ……」

結衣がなにか言おうと口を開きかけた。しかし、情けないことにかける言葉が見つからなかった。そんな結衣に陽一郎は微笑んだ。

「では、いってきます」

 そう言うと陽一郎は列車を背にして再び皆に向きなおり、ビシッと敬礼をし、中に入った。

「とうさんまたね!」

「っ……て、手紙、書きますから・・・・・・!」

 動き出す列車と速度を合わせながら結衣が走り叫ぶ。陽一郎は頷き手を振った。やがて追いつけない速度で列車は駅をすべり出て行き、遠くの彼方に消えていった。

 生まれて初めて嘘をついた。帰ってこれる保証はない。だから待っていてくれとは言えなかった。

そっと胸ポケットに手を入れる。そこには本がしまわれていた。誰にもひらけないように厳重に針金や紐でぐるぐるに巻かれ、ページ全てを紙で覆い、ノリ付をし、表紙と、背表紙のタイトルを隠すため丁寧に別の本の表紙をその上から被せた。洋書の本があっという間に日本書に変わった。

 そこまでしてもやはりこの本だけは持って行きたかった。

 その存在を確かめると陽一郎は窓の外の遥か彼方をいつまでも眺めた。




『こうして、家族離れ離れに暮らすことになったのじゃ』

 周は昨日と同様にランチをしていた。今日のメニューはハンバーガーだ。

「で、あんたもついていったんでしょう? だからそんなにボロボロなんだ」

 パサリと古い本は表紙を動かした。

『ふむ。あの時はノリをつけられたり、縛られたりとなかなかの拷問にあったのぉ。時には雨にも濡れたぞ』

 納得のいった周は古い本の言葉に頷いた。ものすごくボロボロだったのはそういった事情があったのだ。

「でも、それからどうなったの? みんなはその旅館へ疎開したんだろ? 家族は無事だったとしても陽一郎さんはそういうわけにはいかなかっただろ?」

 もっともな疑問を投げかけた周に古い本はしばらく沈黙した。やがて、重たい表紙、口を開いた。

『陽一郎は・・・・・・』

 ところが古い本の言葉は続かなかった。思考を遠い昔に戻すように、古い本は良く晴れている外を見ていた。それからゆっくりと言葉を繋いだ。

『陽一郎は、戻ってこなかった』




横浜にある駐屯地についた陽一郎を待ち受けていたのは訓練の日々だった。銃系統の使い方を学び模擬練習もした。冷たい銃の感触と重みに眩暈すら覚えた。来る日も来る日も訓練をし、その間に何人かは実際に戦地に向かって出航していった。怪我をして帰ってくるものもいれば、帰ってこないものもいた。彼らが戻ってくるたび血生臭いにおいを連れてくる。そのにおいにつられ、血気を熱くするものもいれば、うんざりしたような顔をするものもいる。陽一郎はそのどれでもなく、ただ悲痛を胸に抱えるだけだった。

 人同士が国の命運をかけて争うなど、なんとも愚かしいことだろう。動物が生きるために狩をするのとは訳が違う。皆、忘れてしまっている。戦う相手側も同じ人間だということを。しかし、今の腐った国内の雰囲気では、こちらの方が馬鹿げていると罵られる。後に残るのは言い知れぬ不安だけだった。

 それでも陽一郎はことあるごとに結衣や子供達に手紙を書いた。結衣もすぐに返事を返してくれた。その度に一緒に写真も同封しあった。おかげで郵送物を回収する係になってしまった。

 そこで出会ったのが郵便屋の(あつむ)だった。

「確かにいただきました。なにがなんでも届けて見ますよ。炎の中でも煙の中でも」

 どんと任せてくれ! と、胸に拳を当てる。

「いやいや。危ない時は逃げてくれよ?」

 あまりにも頻繁に会うので冗談も言える中になっていた。集は小さい頃にかかった流行病のせいで命拾いはしたものの、今でも持病を抱えていた。令状をもらったのはいいが、軍役には省かれてしまった。もともと実家が郵送屋ということもあり駐屯地を回らせてもらっているようだ。

「今じゃ手紙を貰っても届けられないことが多くなったよ。あちこち焼け野原だ。たとえ生きていもどこにいるのかわからない」

 受け取った手紙を悲しそうに見つめる。

「しょうがないさ・・・・・・こんな状況だ。きっと、わかってもらえるよ」

 うんと、集は辛そうに目を閉じ頷いた。次に顔を上げた時はいつも通り集は笑っていた。

「じゃあ、またくるよ。しっかり届けるから、次も会おう」

「ああ」

 そう言い手を振った。

 集が届けてくれた手紙は三通。その中の一通は自分に向けての結衣達からのものだった。こんな殺伐とした時代だが、まだ安らげるものがあるということは、ありがたいことだ。そんなことを思い、集の代わりに二通を持ち主に渡し、自分も手紙を開封した。

 懐かしい結衣の字だった。まだ数ヶ月しかたっていないのに、おかしな感情だ。手紙の内容はなんのこともない日常のことだった。今の陽一郎にはそのなにげない知らせが嬉しかった。  

子供達も元気に成長していて仁は、本を円に読んでやるようになった。お互いの両親も苦しいながらも元気だという報告だった。ただ気掛かりは物資の配給が日に日に少なくなっているということだった。

 就寝前に陽一郎は返事を書いた。毎日訓練の日々。そんな中に郵便屋の友達が出来たこと。家族のこと・・・・・・いつも決まって最後は、なにがあっても生きろ。と、綴った。

 結衣達の住む旅館には兵士見習い達も泊まっていた。少なく供給でお腹いっぱい食べられるように思考を巡らす、それがいつしか楽しくなっていた。みんな子供達を可愛がってくれていたのでおかげで仕事もはかどっていた。

 陽一郎は子供達用にも手紙を書いていた。手紙がくると仁ははしゃぎながら円に聞かせるため音読していた。

 一緒に届けられる写真で子供達の成長を嬉しく思い、良いことから悪いことまで手紙を通じて共同するそんな生活が続いた。


 新しい年を迎え、季節は陽一郎がここに来た春をすぎ、夏になった。戦況はさらにきびしくなっていた。少年達も次々と駐屯地に召集されて、戦地へと向かった仲間が帰ってくる数も減ってきた。

集の話では戦火は拡大されていて、手紙を配っている最中に巻き込まれることがしばしばあったそうだ。命からがら逃げ、ここまで来たという。

「とても大きい声ではいえないけど・・・・・・負けだよ、もう」

 集は陽一郎にこそりと耳打ちした。きっとそれだけのものを彼は見て来たのだろう。陽一郎の言い知れぬ不安はだんだんと大きくなっていった。皆無事なんだろうか?

「今日は手紙の回収はしないけど、なんとなく陽一郎、君に会いたくなったんだ。後、何回会えるかな?」

 目にうっすらと涙を溜めて集は言った。

「不吉なこというなよ・・・・・・君がいなくなったら誰が手紙を運ぶんだい?」

 集は涙を拭い、笑った。

「そうだね・・・・・・どんな状況でも、どんなに大怪我を負ったって手紙を届けるのが僕の仕事だ」

「そのいきだ。でも本当に危険な時は自分を選ぶんだよ? 生きなきゃいけないんだ。なにがあっても」

 この時の陽一郎の言葉が集の胸にやけに刺さった。


 そんな過酷な状況の中、とうとう陽一郎にも令が出た。

「次の出航時、比島へ行く。準備せよ」

 それは、死刑宣告も良いところだった。

 あぁ・・・・・・もう、戻れないのか。

 不思議と恐怖などはなかった。ただあったのは虚無感だけだった。

 周りは喜ぶものもいれば、怯えるものもいた。しかし、今の陽一郎にはそれらはただの風景でしかなかった。心が死んだようになにも感じられなくなった。

 手紙を書かなくては・・・・・・そう思った瞬間景色が変わった。出たのは焦りだった。自分がいなくなったら家族はどうなるのか・・・・・・そのことばかりが頭をよぎっていく。

「・・・・・・」

その夜、陽一郎は手紙を前になにを書けば良いのか迷っていた。嘘や期待は書けないし、持てない、持たせてはいけない。

 しばらく考え込んだ。考えていたら今までのことを思い出した。子供の頃、両親や得意先の人とのなんでもない時間、子供達が生まれた時のこと、結衣のこと・・・・・・

あの笑顔と声がどんなに自分を安心させたことか・・・・・・

思い出すことといえば楽しかったものばかりで、その一分、一秒のありふれたかけがえのない日々が胸をいっぱいにする。愛おしさでたまらなかった。しらず穏やかに微笑んでいる自分に気づきおかしくなる。

本当はずっと生きてそばにいたい。自らの手で幸せにしたい。その願いは残念ながら叶えられないだろう・・・・・・ならば・・・・・・・・・・・・

 いつも胸ポケットにしまっていた本と写真を見た。長い、でも短い時間が過ぎた。やがて陽一郎は静かに筆を取り走らせ始めた。




『ずっと陽一郎のふところにいたせいか、いつからか彼の心がわかるようになっていた・・・・・・戦う意味もわからないまま毎日訓練を重ねて、日々酷くなる戦況に嘆きと不安を抱えながら過ごしていたのを知っている。何度も私を読もうとしてくれていたことも・・・・・・』

 遠い遠いあの日を思い出しながら話す古い本。誰にも語られていない記憶が古い本を介して周に蘇る。

『彼は本当に優しかった。いつ死ぬか分からない状況に置かれているのに、自分のことより人のことばかり気にしていた。いつも心にはこれまで出会ってきた人々がいた。その人達を案じていた』

 さらに古い本は続けた。

『しかし、絶望だけではなかった。彼の中にはちゃんと未来もあった。子供の将来、会社の行く末・・・・・・自分のやりたりこと』

 最後の方はポツリポツリと消え入りそうに紡がれた。

『心残りなのが彼の最後に立ち会えなかったことだ。私も一緒に散ろうと覚悟していたのじゃ。しかし、陽一郎はそうはしてくれなかった』

 パサリと表紙を悲しそうに動かした。

「それだけ、大事だったんじゃないのか? あんたが」

 じっと見つめてくるような視線を感じた。この古い本は本当に主人が好きだったのだろう。

『・・・・・・そうか・・・・・・』

 全身に染みわたらすように答えた。周は必死に検索をかけていた。山梨、旅館。竹、荘子庵・・・・・・

「あ・・・・・・」

 ふと手が止まった。

「もしかして・・・・・・」

 宿泊サイトでは引っかからなかった。県の情報サイトでもダメだった。もちろん、そのまま検索をかけても漢字がわからなく、まったく違うものがヒットした。しかし、ある口コミサイトでレビューを見つけた。

『おい、周、聞いているのか?』

 古い本が黙っている周を不思議に思い声をかける。

 竹林に囲まれた風情ある旅館、荘子庵。

「あった・・・・・・」

『ん?』

 古い本を抱えて、スマホ画面を見せる。

「これ! 違うか?」

 しばし思案するようにんーーと、唸っていた古い本だが、ひらめいたように声を大きく上げた。

『ここじゃ!』

 周は次に行きかたを調べていた。距離、時間、費用。これなら・・・・・・

「よし、行こう!」

場所も忘れて喜びのあまりついつい大きな声を出してしまった。周りでは、いつの間にか団欒を楽しんでいたお年寄り達が驚き、こちらを振り返った。周の突拍子もないセリフに古い本は疑問を投げてしまう。

『どこに?』

「荘子庵に!」

 司書の「走るな!」と、いう注意を受け流し図書館を飛び出し、自転車に飛び乗り、慌てて家に帰る。

クローゼットの中の本達がなんだ? どうした? と、聞いて来るのも無視して貯金箱をひっくり返す。バラバラと飛び出したお金は五千円弱。あとは机の引き出しにしまっていた今年のお年玉の一万円。

 これだけあれば、いける!

 抱えたままだった古い本を両手でかかげ嬉しそうに言った。

「明日行くよ、山梨へ!」

 しばしの沈黙のあと、古い本を含めみんながえーー! と、口を揃え叫んだ。


 次の朝早く、今日は周の母は休みだったのだが周の「小旅行をしてくる」と、いう言葉に目を見張らせた。

「え? 小旅行?」

 驚き聞き返す母に周は、

「返したいものがあるんだ、だけどその人帰っちゃって」

 と、正直に言った。

「宅配便で送ればいいじゃないの?」

 もっともな質問をされた。しかし、それではだめだ。

「会って、みたいんだ。その人に」

 思わず本音が出た。古い本と約束したからだけではなく、いつの間にか北丈家に興味を持っていた。荘子庵が存在しているということで紛れもなく実在している人たちだと分かり、より純粋に会って見たかった。この本を知っている人に聞いてみたいのだ。当時の事を、教えられるようなら、この本が教えてくれた彼らの気持ちも伝えたい。

 幸い、知り合いでもないのに会いにいくのか? とは聞かれなかった。周の顔がそれほど真剣なものだったからだ。

「気をつけていってらっしゃい」

「うん」

 母は周の腕を突くと、新聞を手に居間に入っていった。後ろ手に手を振る。周は荷物を取りに部屋へ急ぐと、

「いくよ!」

 と、古い本をカバンに詰めた。クローゼットからは、

『いってらっしゃーーい』

『気をつけろ』

 などと声をかけてくる。

「・・・・・・いってきます」

 今までとことん無視を続けてきた押入れの中の本達に返事をかえした。部屋の扉を閉めると、うるさいほどの声が聞こえてきた。

『周がーー!』

『返事くれた!』

『うれしい!』

 本当に他の人に声が聞こえてなくてよかったと思う。


 自転車で駅まで行き、乗り継ぎを何回かした。いよいよこの電車一本で目的地、山梨へ着くことができる。

 車内では人の目もあり話すことは難しかった。沈黙が続く。

『周、もう少し続きがあるのじゃが・・・・・・どうする?』

 周は思案したがどうせ周りには古い本の声は聞こえない。カバンの中を探るような仕草をしながらヒソヒソと答える。

「いいよ」

 電車の中には自分を見ていないにしろ人はたくさんいる。かりに周りに見られても不自然にならないように、駅で買った弁当をカバンから出すようなそぶりを見せて、なるべく平静を心がけた。

『では、最終章を話そう』

古い本は窮屈なカバンの中だが、表紙をパタつかせ、昨日の続きを話し出した。




戦地に行く前に陽一郎は集にあった。ことの事情を話すと、悲痛な表情をした集が目の前にいた。

「陽一郎・・・・・・」

「なぁに、心配することはない。きっとまたいつか会えるさ」

気にするなと、言わんばかりに陽一郎はいつもの事のように言った。集は「いつか」とは、いつの時代のことを言っているのか問いたくなったが、その言葉を飲み込んだ。

言わずともそれは、きっと今の時代ではない。もっともっと先の事を言っているのだろう。

「これを届けてくれないか?」

 手渡されたものは、本とその本に挟まれた手紙と、小箱だった。タイトルはわからない。あちらこちらに不自然な跡がついている。それが一緒くたに紐で巻かれていた。

「渡して欲しいんだ」

「陽一郎、もしかして・・・・・・」

 集の肩をポンと叩く。陽一郎は笑っていた。

「たとえ炎の中でも煙の中でも、なにがなんでも届けてくれるんだろう?」

 込み上げてきたものを集はぐっと飲み込み、涙で滲んだ目で無理に笑顔を向けた。

「ああ! 必ずだ・・・・・・!」

 それが陽一郎と集の最後の会話になった。


 数日後、予定通り戦地に向い陽一郎は船に乗っていた。空は雲ひとつなくきれいに晴れていて、太陽が夏特有のジリジリと痛い日差しを船上に注いていた。汗は引かないが、海風がそよそよと吹いているのが救いだった。きらめく海面が眩しい。船には数千人の兵士が乗っていた。

「予定通り敵地に到着するぞ」

「ハッ!」

 少将が皆に伝え全員が揃って敬礼をする。 見ると前方に目的の島があった。もうすぐ上陸だ。不思議なことに陽一郎の心はなにも感じなくなっていた。思えば遠いところに来たものだ。戻りたい、戻れたらいい・・・・・・こんな感情は出航するとき捨てて来ていた。

 何度めかの銃を手に持つ。相変わらず嫌気がさすほどの冷たさだ。深い深呼吸をし、瞑想をする。

「突撃!」

 その合図で船尾が開く。前の兵士達が銃を抱え走り出す。瞑想していた陽一郎も一度銃を握り直すと意を決して走り出した。泣きながら走るものもいた、我先に敵を倒そうと波打際の足場の悪い中を全力疾走するものもいた。中には自害するものもいた。阿鼻叫喚だった。

 そのとき前方に人影を見つけた。その数、数千万人。ものすごい数の銃口がこちらに向けられていた。陽一郎は思わず怯み立ち止まる。場所は海岸。隠れる場所なんてどこにもない。

 後ろから、止まるな、走れという声が遠くに聞こえてくる。その瞬間、銃口から火花が散った。けたたましい轟音に少し遅れて前を走る兵士達が血肉を散らしながら倒れていく。

 あぁ、結衣達はどうしているだろうか?

 目の前で起こっている出来事がゆっくりと過ぎ去って行く。手に持つ銃はまるで装飾品のように力の抜けきった腕に収まっていた。引き金を引くことなどとうに忘れ、たじろいだ足が砂に縺れた。

 先に行った仲間たちの大多数は、赤い海に倒れ動かない。それでも鳴り止まない轟音にまみれ、ドン、と、いう音がひときわ大きく響いた。それはまっすぐ迷わずに陽一郎の元へと迫ってくる。

 それは一瞬だった。確かな衝撃の後、視界に空が広がった。赤い鮮血が遅れて宙を舞う。目を瞑ると瞼の裏には懐かしい家族がいた。やがて彼らは黒い霧にかき消されるように見えなくなった。

 願いが叶うなら

 背中を砂浜に思いっきり強打する。その衝撃で細かく巻き上がった砂に身体が塗れた。薄れゆく意識の中で懐に震えの止まらない砂まみれの手を入れた。胸は生ぬるい液体で満たされ、鼓動とともに嫌な水音が上がる。咳きを込むたびに口から鮮血が溢れ、呼吸もままならない。写真があるのが微かに残る指の感触で分かった。もう目はボヤけててなにも見えない。懐から出すことも出来ず、その写真を残った力でギュッと握った。目から一筋の涙がこぼれた。

 もう一度会って話がしたかったな

 やがて銃声は止み、辺りは静寂に包まれた。硝煙を潮風がかき消していく。寄せては返す波が顔をくすぐり、砂や汗をキレイに洗い流していく。青く澄んだ水に赤い血が混じり揺蕩う。

 写真を握っていた手が力を失い水面にバシャリと落ちた。陽一郎が再び目を覚ますことはなかった。


 それから数週間後。結衣の元にボロボロになった集がやって来た。服は煤にまみれで、ところどころが破れている。

「手紙を・・・・・・お届にあがりました」

 そういうとフラッとよろけた。

「大丈夫ですか!」

 集に結衣は駆け寄り、倒れそうになった身体を支える。

「ありがとう・・・・・・これを・・・・・・」

 それは見覚えのある本とその本に挟まれた手紙と、小箱だった。震える手で結衣はそれを受け取った。

「これ・・・・・・」

「陽一郎さんからです。数週間前だったと思います、戦地へ出航されました」

 結衣は集の顔を凝視する。

「え・・・・・・」

 震える手で集から本と小箱を受け取る。

「約束、守りましたよ? 陽一郎さん」

 集の言葉に結衣は涙を堪えることが出来なかった。身体からは力が抜け、壁にもたれかかった。涙を拭い、フラフラの集と向かい合い、言った。

「ありがとう・・・・・・あなたも気をつけて」

 結衣の言葉に今度は集が目に涙をためた。

「陽一郎さんには、世話になったんで・・・・・・では、私はこれで。次に届けなければならない手紙があるので」

 溢れる涙を隠さずに集は笑顔で言い、旅館から出て行った。

「結衣さんどうしたの?」

 律が呼びに来ても結衣は集を見えなくなるまで見送った。その目は寂しさに溢れ、まるで遠く遠く遥か遠くの想い人を見つめているようでもあった。

 ちゃんと読めるように直された本と手紙、箱の中には蝶結びされた紐で結われた髪の毛が入っていた。それがどういうことを物語っているのか、言われなくても誰もが理解していた。

 櫂生は無言で部屋から出て行き、律は泣き、仁と円はなにも分からずにキョトンとした顔をし、結衣は黙って届けられたそれらを感情のこもっていない目で見つめていた。

 時は昭和二十年、七月終わり。まもなく八月に入りその数週間後、日本は敗戦を迎えた。




古い本を小脇に抱え駅を出て、スマホの地図を頼りにバスに乗り、荘子庵へと向かった。最寄駅を降りるとそこは意外と栄えており、広い道を挟んだ反対側には古民家が並んでいた。道なりに歩道を歩いていく。

 相変わらず太陽はジリジリとした日差しを地上に注ぎ、セミがあちらこちらで鳴いている。ときより吹く生ぬるい風に田んぼの青々とした稲が揺れる。小さな橋を渡り上り坂の山道を少し歩くと霊園があった。

「ちょっと、入って見ない?」

 ペットボトルの水を飲みながら腕で汗を拭った周は古い本に聞いた。

『かまわんが?』

 霊園からは町が一望出来た。ところどころに集落はあるが家の数より緑の方が多い。たくさんのセミ達がうるさいくらいに合唱をし、山特有の地上より涼しい風がまだ残る夏の匂いを運びながら吹き抜けていく。

 周は霊園に並ぶ墓をひとつひとつ確かめるように歩いて行った。

「あ・・・・・」

 階段を上がった一望出来る町を背にして北丈家の墓はあった。墓標に古い本が話してくれた人々の名前が記されていた。周はその墓の前に立った。

「本当に、あった・・・・・」

 この墓の中で古い本の持ち主は眠っている。

『私の知っているのはこれだけじゃ。陽一郎死後、また私は本棚にしまわれてしまった。みんな変わりゆく時代に追いついていけず、また、物資もなく、まずしい暮らしが続いた。当然、旅館は営業を停止していたし、東京に戻って会社を・・・・・なんてことはすぐには出来なかった。それ以上に皆、心が壊れていたんじゃ』

 周はそっと古い本を墓に置いた。これで役目も終わりだ。ここまで長かった。まさかここまで来るとは思わなかった。少ししんみりしてきて、手を合わせ祈ろうとしたその時。

「あら? めずらしいお客さんだね」

 振り向くと、白髪の腰が少し曲がったおばあさんが花を持って立っていた。

 もしかして、円さん?

「おや? その本・・・・・・」

 おばあさんは墓に置かれた古い本を指差した。

「あ、はい。これ、忘れものだったんで」

 周はおばあさんに古い本を手渡した。

「懐かしいね・・・・・・上がっていくかい?」

荘子庵の母屋の方へ着くと客間に案内された。目の前のちゃぶ台の真ん中に置かれている古い本を見つめながら、周は居心地の悪そうに正座をして縮こまっていた。

おばぁさん、多分、円さんがお茶を運んできて周に渡し、対面に座る。そのすぐ後におじぃさんが入ってきた。

「こんにちわ」

「こ、こんにちは・・・・・・あの・・・・・・お邪魔しています」

目をおじぃさんに向けたまま周は会釈した。

「懐かしいな・・・・・・これ小さい時によく読んでいたよ・・・・・・今じゃほとんどが読めな」

老眼のため少し離して古い本をめくっている。多分、この人は仁・・・・・・さん、だろう?

「それだけ英語から離れたということでしょうね」

横から優しそうな眼差しで円が言った。

「これは、私たちの父が祖父から受け付いた物でね、父が戦争で亡くなってからずっと本棚にしまったままだったの」

陽一郎さんのことだ・・・・・・

周は続きを待った。

「東京は焼け野原になっちゃったみたいだし、戻って会社を一から・・・・・・っていうわけにも行かなくてね。だって会社が会社だったから。それで、家族みんなでこの旅館を立て直すべく頑張ったの」

円が古い本の表紙を優しく撫でた。無理もない、会社は、貿易商だ。気持ちは周にも分かる。

「読む暇もなかったなぁ・・・・・・生活がやっとでね・・・・・・まぁ、今も似たようなもんだけどね」

仁が照れ臭そうに笑った。つられて周も微笑んだ。

「それからね、母が東京に行くって言ってそれを持って行ってたのよ」

東京? やっぱり遊びにきていたのか?

二人の手の中にある古い本をじっと見つめた。

でも、これで役割は果たしたのだ。これでお別れだ。チクリと胸が痛んだが、喜ばしいことだ。

「よかったです。持ち主が見つかって・・・・・・」

その光景をホッとしたように周は見つめた。が、それはほんのつかの間だった。

では、僕はこれで・・・・・・と、言いかけたそのとき。

「でもおかしいな。これは東京の孫のなんだが・・・・・・どうしてここまで?」

 小首を傾げたおじぃさん。

「え?」

 今、東京って言ったか?

「ま、孫?」

 おばあさんは古い本を再び周に渡し返す。

「ん。孫の北丈環那、あんたと同い年くらいだよ」

『言ってなかったか?』

 ケロリと言った古い本に周は思いっきり心の中で叫んだ。

 言ってねぇぇぇ!



「結局、とんぼ帰りじゃないかぁ・・・・・・」

 どっと疲れた。地元駅に着き周は抱えたままの状態で古い本に悪態をついた。

「で、その北丈環那って子はどんな子?」

 うーん、やら、むーー、やら、呻り声を上げる古い本。これはだめだな。周は完全に諦め遠い空を見つめた。時刻は夕方。夏なのでまだ日は出ているがだいぶ傾いて来ていた。

「どうするよ、もう」

 とぼとぼと自転車を押しながら気落ちしたまま家路を歩いていたが、自然に図書館方面に足が行く。

「・・・・・・」

 なにか、手がかりは・・・・・・

 そういえば古い本は手紙とともに返されたと言っていたが、その手紙はどこにある? 陽一郎が最後に結衣に書いたという手紙は一体どこへ?

 謎が増えた・・・・・・

まだギリギリ開いていた図書館へと向かった。いつものように司書に頭を下げ、中に入る。さすがに客は帰ったようで誰もいない。歴史のコーナーの前に立ち、周は腕を組んでその場に立ちすくんだ。

これからどうしようか?

振り出しに戻ってしまった。孫を探そうにも情報が少なすぎる。ポケットからスマホを取り出し握る。名前だけでなにかヒットするだろうか?

『あっち』

『あっちだよ』

そのときの、今まで静かだった図書館の本達がざわめき出した。

「え?」

『探してる子来てる』

『早く』

『あっち』

周は弾かれたように走り出した。すると、入り口に見覚えある女の子が司書と話していた。

あの子・・・・・・何日か前にも同じように司書と話してたな

そこへ気になる会話が聞こえて来た。

「古い本なんです・・・・・・」

「でもまだそういったお忘れ物の届けはないんですよ」

 聞き覚えのある単語に中へ進む足を止める周。

 古い本、だって?

 振り返るとワンピースを着た長い髪を一つに結んだ女の子がいた。

「あの・・・・・・その古い本って、もしかしてこれですか?」

 周の言葉に気づき振り向く女の子。この子が北丈環那なのか? 差し出された古い本に女の子が嬉しそうに声を上げた。

「これです!」

『おう! 環那じゃ! わしの持ち主じゃ』

彼女と古い本が叫んだのは同時だった。勝手気まますぎるぞ! と、言いたいのを飲み込んだ。それよりも持ち主と認めているんだな。どうやら杞憂だったようだ。

「よかったぁ! でも、どこで?」

 花が咲いたように笑う彼女が間違えなく北丈環那だ。その笑顔に周は思わず見惚れ、呆けた。そんな周を気遣うように環那は小首を傾げながら訪ねた。

「あの・・・・・・どうかしました?」

 我に帰り慌てて弁解する。

「い、いや! 数日前、閉館間際に見つけたんだ」

 そう答えてからギクリと周は固まった。どうして今まで届けなかったのか? と、聞かれたら・・・・・・なんて言い訳すれば良いのだろう? まさか、自分は本と話せます。と、言って信じる者がいるわけが無い。頭のおかしい奴だと思われるだけだ。そんな周の心配は他所に環那は無邪気に礼を言った。

「そうだったんですね・・・・・・ありがとうございました! 大切にしてたのに、忘れちゃってゴメンね」

 そう古い本にすまなそうに言った。

 もしかして、同士?

 そんな思いが一瞬よぎったが古い本がしゃべらないので、どうやら違うらしい。少し残念でもある。

「これ・・・・・・」

 周が環那に古い本を差し出す。それを受け取ろうとした環那だったが、ふいに周と指が触れた。

「あ・・・・・・」

 思いに反して本がスルリと手から滑り落ちた。

「あ! ご、ごめんなさい!」

「こっちこそ、古い本なのにゴメン!」

 二人同時に本を拾おうとしゃがみこんだその時、落ちた衝撃で無造作に本の最後のページが開かれていた。奥付に書かれていたほとんど色あせて読めない英文のタイトルが西陽に当たりうっすらと文字が浮かび上がっていた。その英文のタイトルの後ろ。

「え?」

 そこにはたしかに「一」と、いう数字が書かれていた跡が残っていた。

「・・・・・・一巻・・・・・・?」

 浮かび上がった数字を指でなぞりポツリと呟いていた。

「え?」

 環那も周の呟きに驚き奥付を見る。彼女の目にも、消えてはいたが書かれていたインクが日を浴びうっすらと見えたようだった。

「うそ・・・・・・」

「しらなかったの?」

 周の問いかけに環那は頷く。

「これは曽祖母のもので、本に興味を持つ前に亡くなってしまったのでなにも聞いていないんです」

 もう一冊あるのか?話の中ではそんなものは出てこなかった。またお得意の『言ってなかったか?』か? 心の中で呟いた周に今まで沈黙を続けていた古い本が気づかれないように静かに表紙を動かした。

『連れて行ってもらえるかな?』

 今までにない深妙な口調に周は黙って頷いた。

 これで約束がはたせる。

「あの、二巻は家にあるの?」

 環那は口元に手を当て脳裏に家の本棚を思い描く。

「いえ・・・・・・うちにはないと思う・・・・・・」

 眉をひそめつつ、それでも考える。すると、ハッと、したように手を叩いた。

「もしかしたら曽祖母の家にあるかも!」

 古い本の話では会社は東京にあったと言っていたが、陽一郎の一件から戻ったとは聞かされていない。しかし、やっと手に入れた手がかりだ。無駄にする訳にはいかない。

「よかったら・・・・・・一緒について行ってもいいかな?」



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