第二章
時は明治三十五年。
本の持ち主、北丈櫂生は東京、銀座にある貿易会社の長男として生まれた。それなりに大きな会社で財力も中の上といったところ。主に取り扱っているのは、生糸や日本と海外の雑貨、食品。
十歳の櫂生は活発でそれでいて豪快な子供だった。貿易商ともあり、家の中は常に海外の来客で賑わっていた。
櫂生は父から貰った本を一瞥する。
「本なんておもしろくない」
チラッと窓の外を見る。一人の海外の商人が櫂生に気付き手を振った。まだ小さい櫂生をなにかと気にしてくれる兄貴のような ジェロである。
ジェロはまだ若い金のかかった茶髪の青年だ。彼は父親に着いて仕事を学んでいた。まだ見習いだった。歳も近いせいか不思議と気が合った。
それを見た櫂生も手を振り返す。彼らの方がよりリアルで好奇心を刺激する様々な事を教えてくれる。それからというと私は彼の本棚の住人になった。
動きがあったのはその七年後。彼が彼女と出会った時だ。
彼の通う高校の近くに外国語学校があった。ある時親睦を深めるためか学校ごとパーティーに招待された。
そして、そのパーティーで彼は運命的な出会いをする。
更科律。彼女と出会ったのだ。
「パーティーだなんてかったるい・・・・・・」
昼休み、ボソリと櫂生は呟き、机に突っ伏した。
「なに言ってんだよ、櫂生。こんなチャンスは二度とこないぞ? 隣の外国語学校といったら超お嬢様じゃないか! しかも女子校!」
櫂生の友達、もとい悪友、勝間高明が高揚しながら言った。舞い上がり踊る、と、いうより乱舞した。
「そんなこと言ったって俺らだって似たようなもんじゃないか・・・・・・ダンスとかあるんだろ? あーーだるい・・・・・・」
櫂生らの通う高校も普通の学校なのだが、そこに通う学生のほとんどが重役やどこぞの社長の娘、息子達が大半だった。
この幸せな妄想でいっぱいの勝間も父は政界の人間だ。将来は官僚になると言っているが、いかんせん彼は素直すぎる。そんな官僚はいかがなものか? と、櫂生は思うがあえてなにも言わなかった。まぁ、こんなのもいたらおもしろいだろうという好奇心を拭えないというのが本音だ。
自分は・・・・・・きっと家業を継ぐのだろう。まったく、将来だのパーティーだの・・・・・
「面倒くさい・・・・・・」
その日から授業終わりにダンスレッスンが盛り込まれたが、櫂生は参加することはなかった。
「やァ、櫂生。珍しくいネ」
帰り道、後ろから聞き覚えのある声をかけられ櫂生はゆっくりと振り返る。そこにいたのはジェロだった。
「やぁ、ジェロ」
暗い声で返事を返した。
「おいおイ、どうしたタ? 暗いナ、青年」
あーーうんと、なんとも気の無い返事。
「なんだか面倒くさくなって・・・・・・将来とかパーティーとか」
ジェロにはいつだって本音を言える仲だった。国は違えど、幼馴染・・・・・・と、ある意味言える。
いつもなら迎えの車が来るはずだったのだが、手紙で本日よりダンスレッスンと連絡されていたので、迎えは来なかったのだ。ジェロの「珍しい」は、櫂生が歩いて帰路についていることだった。
ポケットに手を突っ込んだまま、がくりと首を垂れる櫂生。猫背に真っ黒な重苦しい空気を背負っているように見えた。
「まぁまァ。外国だとパーティーは頻発にあるゾ?」
頻発・・・・・・? 櫂生の頭にはてなマークが浮かび、顔をしかめ考えること数秒。
「あーーああ。頻繁だね」
はははと、豪快に口を開け笑うジェロ。櫂生の背をバシバシと叩く。
「そうそウ! 日本語たまに難しいネ!」
嘘つけ。と、櫂生は背を撫りボヤいた。日本に来て十数年、滅多に言葉を間違えることはないジェロ。勉強家の彼は下手をすれば日本人より日本語が達者だ。
わかっている、ジェロは自分を元気つけてくれているのだ。ヘンテコな日本語を披露してくれたジェロに櫂生は笑う。
「人生ってのはわからないヨ。そのパーティーでいいこと起こるかもしれなイ」
人差し指をあげ、ガールフレンドができるかも。と、楽しそうにジェロは言った。
「だといいけど」
肩を竦ませ櫂生は苦笑した。
「今日の夕飯なんだろうネ」
「食べてくだろ?」
「もちろン!」
そんなたわいのない会話をしながら二人は夕日に染まる歩道を歩いて行った。
パーティー当日。
夕日が落ち始め漆黒の闇が近づいてきている頃、堅苦しいスーツを着せられ、櫂生と勝間は外国語学校の正門にいた。
「ワクワクするな! どんな子がいるんだろう?」
勝間は目移りするようにキョロキョロと校門を歩く自分たちと同じく着飾った女の子達を見て顔が緩んでいた。
そんな勝間を横目に櫂生は足下に転がっていた小石を蹴飛ばした。勝間のあからさまにデレデレして、すっかり鼻の下が伸びきっている顔を見て盛大なため息をつく。
「なにがそんなに楽しいのか・・・・・・」
櫂生がぶすっとしているのには理由がある。ここに来る前、担任に捕まったのだ。結局、ダンスレッスンを一度も受けなかったことにこっぴどく叱られた。
ただでさえ面倒だと思っているのに、拍車をかけられたのだ。拗ねるのも当然だろう。レッスンなんぞ今更受けなくても、皆、一度や二度の社交会に出た事はあるはず。
「ダンスごときできるっての」
ボソッと吐き捨てるように呟いた。
「なんか言ったか?」
女の子に夢中だった勝間が櫂生のボヤキに気づいたのか振り向き聞き返す。
「イヤ、なんでもない」
この状況に心躍らせている悪友にはきっと自分の気持ちは分からない。昔から学校行事というのがあまり好きではない櫂生にはただただ気だるいだけだった。
そわそわとしながら腕時計を見る勝間。その動きすら今は周りを意識して格好をつけている。
「そろそろ時間だ。ほら! 行くぞ、櫂生! 早くしろ! Let's go!」
得意の英語まで出て来るしまつだ。櫂生は思いっきり嫌なそうな顔を一度悪友に向けて、諦め肩を落とした。
「Oh well ・・・・・・」
しかたない。
それだけ答えると、ポケットに手を突っ込みすっかり猫背になりながら勝間の後ろをゆっくりと付いて行った。
会場の体育館は三階建ての室内の最上階にあった。体育館と言っても運動するには少しばかり狭いが、パーティーをするには十分な広さだった。
優雅な音楽が会場を包み、壇上にはグランドピアノ。タキシードに身を包んだ男性が滑らかな指さばきでピアノを弾いていた。
ホールには丸テーブルがいくつも置かれていて、その上には豪華な食事が並べられていた。食事を楽しむもの、おしゃべりを楽しむもの・・・・・・その誰もがみな楽しそうだった。
外国語学校の生徒と思われる女子達グループは目に珍しい男子学生を見るとひそひそ話を始める。櫂生も勝間もズバぬけて容姿が良いわけではなかったが、それなりに女子から人気があった。ので、今回もあちらこちらで指を指されたりしていた。
勝間は御構い無しでそんな女の子たちに手を振り返す。途端、キャーという小さいながらも黄色い叫びが上がる。櫂生は横目で勝間を睨むが、なんとなく居心地が悪く身を縮めた。
パッと照明が落とされた。ピアノの音が消える。ザワザワとしていた空間がしんと静まりかえる。スポットライトが壇上に当たり、両学校の校長が現れた。体育館に集まっている人たちが一斉に壇上を見つめる。
キンという耳をつく機械音を一度響かした後外国語学校の校長がはじめに話し出した。
「××××××××」
お決まりの挨拶と学校の説明。
「長っ・・・・・・」
壇上というより明日を見るかのような目で櫂生は隣の勝間にしか聞こえない呟きをした。
「これをもう一つ聞かなきゃならんぞ?」
勝間は自分で言ったかにもかかわらずピシッと音でも立てそうな勢いで石のように固まった。ほぼ同時に櫂生も固まる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人で顔を見合す。一度頷くと踵を返し体育館から人混みを練って身を隠し、逃げるように体育館を出て行った。
体育館を出た時ちょうど拍手が上がった。外国語学校の校長の挨拶が終わったのだろう。少々の空白の後に再び起こる拍手。
「次はうちの校長の挨拶か・・・・・・」
うんざりとした勝間が体育館を振り返り言った。
「逃げて来て正解だな」
ポケットに手を突っ込み呆れ顔で櫂生が言う。あやうくまた長い長い挨拶を最初から聞かされるところだった。
体育館の外には少ないが学生達がいた。そのほとんどが今夜からカップルになった者たちばかりで、大多数の生徒、教論が体育館にいることを良いことに、いちゃいちゃと自分たちの空間を楽しんでいた。
「見てられないな」
櫂生が呆れ顔をしたが、勝間は羨ましそうに親指の爪を噛んでいた。
「ほら、行くぞ」
勝間の腕を引っ張る。
「うう・・・・・・俺だって、俺だってぇぇぇ!」
「ハイハイ」
どうどうと抑えるように櫂生はその場から勝間を連れて離れた。
校舎から校庭に出る。外はすっかり日が暮れて街灯が道を照らす。校舎からはところどころに明かりがもれていたが、外には誰もいなかった。
「もう帰ろうぜ?」
櫂生はダンスまでにはここを出て行きたかった。見知らぬ女子と手を繋ぎ踊るなんて・・・・・・足でも踏まれたら作り笑いも出来なくなる。
「勝間?」
うずくまりうじうじと砂をいじっている勝間。先ほどのことがよっぽどショックだったのか目は涙に滲んでいる。
「おい・・・・・・」
言葉を続けようとしたその時。
「なにをするんですか!」
女性の威勢の良い怒鳴り声が聞こえてきた。
「?」
涙ぐんでいた勝間と櫂生は顔を見合わせる。
「なにごとだ?」
校庭から校門へ向かう。そこには一台の車が止まっていて、外国語学校の生徒と思われるドレス姿の女子二人が櫂生達と同じ学校の生徒と思わしきスーツ姿の男に腕をひっぱられていた。
「やめてください!」
さっき聞いた威勢の良い声は、緑のドレスの髪が長い小柄な女子だった。友達だろう腕をひっぱられている方の女子はピンクのロングドレスで肩に掛かるくらいの髪の毛が揺れていた。腕を引っ張られたまま女子が叫ぶ。
「誰か!」
パシッと男の腕を掴む櫂生。その後ろに勝間。
「気が緩みすぎだ」
男がこちらを睨みつける。その顔に二人は見覚えがあった。
「あっれぇ? 先輩がなになさってるんで?」
勝間がしらじらしく言う。二人の先輩は櫂生の手を振り払おうと腕を振ったが女子生徒の腕も離していない。それを確認した櫂生も離すことはなかった。
耳打ちでもするかのように勝間が言った。
「いいんですか? こんなことしてるのがバレても? いい所の就職決まったみたいじゃないですか」
ぐぐっと歯を噛みしめる先輩。
「腕、離した方が賢明ですよ?」
冷たく言い放つ櫂生の言葉に従うように、ゆっくりと腕を離した。その行く末をしっかりと見た櫂生も先輩の腕を離した。
自由になった先輩のその顔は悔しさに歪んでいた。チッと舌打ちしたあと車に乗り込み、エンジンをかけるとスピードを思いっきりあげて、あっという間にこの場を立ち去り闇に消えた。
「大丈夫ですか?」
これ見よがしに目をキラキラさせながら勝間が腕を掴まれていた女子生徒に手を差し出す。が、横からバシッとその手を叩かれた。
「へ?」
呆気にとられた勝間は赤くなった手をさする。
「Don't touch by dirty hand! This trying to look good!」
手を叩いたのは緑のドレスの女子生徒だった。勝間を睨みつけ、そう英語で言い放った。
「か、格好つけ・・・・・・」
汚い手で触らないでよ、この格好つけ! 彼女の言い放った言葉はどこか的をついていた。
「せっかく・・・・・・」
助けてやったのに。そう言おうとした。しかし側を通った車のヘッドライトで一瞬見えたそのかわいらしい顔に櫂生は心を奪われた。
「・・・・・・」
ほのかな街灯だけがたよりの夜なのに、世界が一瞬にして光輝いて見えた。彼女だけがまぶしい。目がクギ付けになる。そんな櫂生の様子に異変を感じた勝間が肩を揺する。
「どうしたんだ、櫂生?」
俯いているので表情は見えない。櫂生はフッと一度鼻で笑た。
「They seem to help my Tomboyish daughter who jumped, don't they?」
と、英語で彼女に返した。
「・・・・・・!」
あまりの言葉に彼女は言葉をなくした。とんだおてんば娘を助けてしまったようだね。まさか英語で言い返されるとは思ってもいなかった。そんな彼女とは裏腹、櫂生はしてやったりと人の悪そうな笑顔を向けた。
「律・・・・・・もうやめなよ。助けて貰ったんだよ?」
もう一人の連れ去られようとしていたピンクのロングドレスの女子生徒が彼女のドレスをくいと引っ張り、自分は一歩前に出た。
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げ、櫂生と勝間にお礼を言った。
「礼をもらうことではありませんよ? お嬢さん」
勝間は空気を読まずに格好をつけて言う。隣で櫂生は頭を抱えた。さっき連れ去ろうとしていた先輩とやろうとしていることは変わらないような気がしてならなかった。
緑のドレスの女子生徒、さっき律と呼ばれた彼女が櫂生の顔をジッと睨みつけていた。
「?」
くやしそうな顔と目が合うと、律は、
「ふん!」
と、思いっきり首を左に振った。
「行こう!」
ピンクのロングドレスの女子の手を引っ張り校門へ入って行った。
「本当にありがとうございました」
少し間延びした声が暗闇に響いた。
「なんだったんだ?」
二人が消え去った方向を微動だにせず見つめている櫂生。その目はうっとりとしていた。
「おい、櫂生?」
勝間が櫂生の顔の前で手を振る。こんな不気味な櫂生は見たことがなかった。
「・・・・・・勝間」
目を学校から離さずゆっくりと口を開いた。
「ど、どうしたよ?」
頰を少し赤く染め櫂生は言った。
「一目惚れってあるんだな」
悪友の聞いたこともないセリフに完全に思考が止まってしまった勝間は、
「はぁ?」
と、返事を返すだけで精一杯だった。
思えば律にとっては最悪な出会いだった。しかし、櫂生にとっては最高の出会いだった。
「ねぇ、読まれてないじゃん!」
古い本から出会いまでを聞くとたまらずに周はつっこんだ。時刻は昼を少し過ぎたところ。
「まだ続くの?」
ジトッとした目を向けると古い本はじつに楽しそうに表紙をパタつかせ言った。
『まだ序章だ』
きっぱりと言われたこと言葉に周はうな垂れた。
「さいですか・・・・・・」
序章ということはまだまだ続くのか。と、いうより何章まであるんだ? しかし、ここまでの話の要点を入力している自分も自分だ。
「じゃぁ、ご飯食べながら聞いてていい?」
古い本はパサリと表紙を動かすと、話を続けた。
『いいとも。櫂生は豪快な男だったが、また彼女、律も活発な女だった』
周は持ってきていたサンドイッチを一口、口に含んだ。
これは思ったより長期戦になりそうだ・・・・・・
その日の夜、櫂生は思い出したように本棚から私を取り出した。七年間放置されていたのですっかりほこりまみれになっていた。
櫂生はほこりを丁寧に払うとゆっくりと表紙を開き、私を読み始めた。実に七年間ぶりの再会と念願の読破。櫂生が私を読み終えたのは朝日が上がった頃だった。
一夜にして読破されてしまった。また本棚の住人に戻るのか・・・・・・そう思った。しかしその想いとはうらはらに櫂生は、
「良い話だ」
そう言い、私を机の上に置くとベッドに寝転んだ。
律、と、呼ばれていた外国語学校の生徒。何年生だろうか? あまりにも情報が少ない。目を瞑り今夜のことを思い出す。まぶたの裏にまだ彼女がいた。
明日、行ってみよう。そう決意して櫂生は眠りについた。
次の日。櫂生には世界が変わって見えた。今までの鬱蒼としてなげやりだったモノクロの世界が色をなしたように見えて来た。なにを見ても新鮮だ。飛び跳ねて周りたい。今すぐ、彼女に会いたい。
学校が終わると櫂生はすぐさま外国語学校に向かった。うるさい担任にパーティーにいなかったことを問い出されそうになったが勝間に押し付けてきた。
目の前にそびえ立つ外国語学校を見上げる。昨夜は暗くてよく見えなかったがこんな風貌だったようだ。クリーム色の三階建ての校舎。えんじ色の屋根。校門までの道の脇には草花が植えられていて、学校には似つかない噴水と小さな時計塔が校舎横に備え付けられていた。
櫂生が校門から顔を覗かせた時、終業のチャイムが鳴り響いた。数分遅れて生徒たちが校舎から溢れてくる。櫂生は隠れるように校門の壁にへばりついた。
すぐに見つかるとは思わない。昨日の記憶を頼りにゆっくり見つけよう。
そう思いながらもはやる気持ちを抑えられなくて、ついつい一人一人確かめるように顔を見てしまう。
訝しげに通り過ぎる生徒たちの冷たい眼差しに、バツが悪そうに下を向いた。
まずい。これじゃただの変人だ
その時、かすかに昨日聞いた声が聞こえて、慌てて顔を上げる。
校門を覗き込むと、そこには昨日の緑のドレスとは打って変わった制服姿の律がいた。
やっぱり・・・・・・凛々しい・・・・・・
女子生徒に使うには少々早い単語がついて出る。熱い視線に気づいたのか、律が櫂生に気づく。
「あ! 昨日の・・・・・・!」
飛び上がる心臓を気づかれないように、偶然を装うように自然に櫂生は手を上げ挨拶する。
「き、昨日はどうも」
後ろから花でも飛ばしそうな普段の櫂生とは似つかないさわやかな笑顔。呂律が微妙に回っていない。
律は櫂生をどうでもよい顔で睨みつけた後、
「行こう、和佳」
そう言い、こっちに見向きもせずに行ってしまった。
「あ・・・・・・」
和佳と呼ばれた昨日は腕を引っ張られていた女子生徒が櫂生を下から覗き見た。
「な、なに?」
和佳はにっこりと微笑む。
「律が気に入ったの?」
ど直球な言葉を櫂生に投げた。
「な・・・・・・! どうして!」
さらに和佳はクスクスと声を立てて笑う。
「それくらい分かるわ。」
グゥの根も出なくなった櫂生は諦めて素直に頷いた。
「ハイ・・・・・・」
素直でよろしいと、感想を漏らすと和佳が、
「彼女は更科律。ここの二年生よ」
と、教えてくれた。
「私は彼女の親友、花月和佳。よろしくね、えっと?」
自己紹介がまだだった。櫂生は姿勢を正した。
「俺は北丈櫂生。同じく二年生。こちらこそ、よろしく」
握手を求め手を差し出した時。
「かぁいせぇい・・・・・・」
後ろから棒を杖代わりにボロボロになった勝間が現れた。どうやら担任にこっぴどくやられたようだ。
「おまえ、逃げたな・・・・・・しかも女の子連れとはいい根性じゃないか!」
そのあわれもない姿に二人は笑い出した。
「はははは! あ、これは勝間高明。同い年だよ」
和佳はひとしきり笑い終えると、改めて昨日のお礼と自分の名前を名乗り勝間と握手。勝間は顔を真っ赤にしながらハニカミ自分も名を名乗り手を離した。
「じゃ、今日はここで。また・・・・・・明日?」
律そろそろ怒るから。と、言い残し和佳は二人に手を振り去って行った。
「また明日」
そう言い返し二人は和佳を見送った。
和佳が去った後勝間が櫂生を問いただす。
「どういうことだ、櫂生! なんであんな可愛い子と・・・・・・!」
迫り来る勝間の顔を手で押さえ、
「分かったらから、話すから場所を変えよう」
ここは外国語学校の校門の側であることを勝間はこの時初めて知った。
「ただいま」
扉を開けて家に入ると家政婦といつも送り迎えをしてくれる運転手に出迎えられた。
「おかえりなさいませ」
うやうやしく頭を下げられ、櫂生は困った顔をする。いつもそんなに恐縮するな。と、言っているのだが・・・・・・二人の立場も重々承知してはいるもののどうも慣れない。
「今日は済まなかった。迎えを断ったあげく勝間の世話になった」
申し訳なかった。と、運転手に櫂生は謝った。
「いいえ。御学友との交流も大切ですので。お気になさらないでください」
家政婦はにこやかに笑う。それにつられ櫂生も微笑んだ。
「時間は変わり迷惑をかけるが明日からまた頼むよ」
そう言うと二人は丁寧に頭を下げた。
二人を残し櫂生は自室へと階段を上がる。しかし頭の中では勝間と話したことと律のことがすっかり離れなくなっていた。
「更科っていったら櫂生、おまえんちと同業者じゃないのか?」
帰り道、勝間の長い車で送ってもらっている最中にそんな話が出た。
「そう、だったのか・・・・・・言われるまで気づかなかった。そういえばそんな会社近くにあったな。たしか、うちより規模は小さかったような?」
どこかうろ覚えで、言いながら首をかしげていく。天然なのか、ただ興味がなかったからか、当事者よりも第三者のほうが詳しいこの状況に勝間は、いつものことながらため息をつきつつも、自分の知っている情報を教える。
「でもライバルには変わらないだろう? おまけにあそこの店主は傲慢で融通の聞かない、いけすかない男だって聞いてるぞ? 世間体ばかり気にして家族分裂とか良くない噂ばかりだ」
「そうなのか?」
そこらへんがどうも疎い櫂生であった。
「力のあるものを妬んで、いかなる手でも使ってそこから引きずり降ろそうとする・・・・・・現に何人か知り合いがやられたって話だが・・・・・・」
「・・・・・・」
そこまで言い終わると隣で真面目な顔をしている櫂生がいた。あー、そうだな。と、言葉をにごらし、うん。と、頷いた。
「とりあえず応援はしてやろう。この勝間様が付いているんだ。安心しろ」
えっへんと胸を張る。
「安心できそうにないなぁ」
本音と冗談が入り混じった感想が漏れた。
そんなころ、街中のカフェのテラスでこちらでも似たような話が出ていた。
「北丈ですって?」
ドスの聞いた声。そんな律の様子を和佳はニコニコしながら見ていた。
「おもいっきりライバルじゃないの!」
バンと机を叩く律。皿の上の焼き菓子が宙を踊った。
北丈と言えば代々貿易商を営んでいて、更科家なんか目でもないような大企業だ。
「でも、誠実そうな人だったよぉ?」
昨日も助けてくれたしと、続ける和佳に律は心底嫌そうな顔をした。
「た、頼んでないもの・・・・・・」
素直じゃない律に和佳は苦笑する。
「またまたぁ。でも、今度会ったらお礼言いなよ?」
ブスリとふてくされた顔。それは自分でも失礼だと感じていたのは事実だ。だけど。
「人のことおてんば娘なんて言う奴のどこが誠実なの?」
「自分だって格好つけって言ったでしょ?」
お互い様とでも言いたげな和佳にグゥの根も出なくなる。
「お礼、言ってね?」
正すように言われて律は、
「ハイ・・・・・・」
と、しか言うしかなかった。
次の日も櫂生は外国語学校の校門にいた。櫂生に気付いた律は心底嫌そうな顔をした。
「ご機嫌よう、北丈櫂生さん?」
スカートの両裾を軽くめくりわざとらしく挨拶した。
「名前を覚えていただき光栄です。更科律嬢」
バチバチと火花を散らす律に対して対照的にハートでも飛ばしそうな櫂生。
「北丈のご子息が私に何の用?」
そうは言ったが昨日和佳に念を押されたお礼を言わなければならない。しかし、どうにも言えそうになさそうだ。
「いや、ただ俺は・・・・・・」
突然惚れました! とは言えない。そんなこと言ったら気持ち悪がれてこの先会ってもらえそうにない。言い淀む櫂生に律は言った。
「もしかしてお礼でも言って欲しいの?」
「・・・・・・は?」
突拍子も無い律のセリフに櫂生は素っ頓狂な声をあげた。
「お礼? なんの?」
身に覚えのない言葉に首をかしげる始末だ。そんな櫂生に律は腹を立てた。
「パーティーの時のよ!」
ああ。と、さほど興味のなさそうな返事を返した。そんな様子にますます律は腹を立てる。
「じゃぁ、なんなのよ!」
なんだかバカにされているような気がして、とうとう律は怒った。
「いや、俺は少し話に付き合ってもらいたかっただけだよ」
言って青ざめる櫂生。これでは気持ち悪がられるだけだ。しかし、当の律は思ってもいなかった言葉に目を丸くした。
「話に付き合ってもらいたいだけ? なにそれ、そんなの私じゃなくたっていいじゃないの。変な人・・・・・・」
とりあえず、気持ち悪がられてはいないようだ・・・・・・
ホッと胸を撫で下ろす櫂生と不思議がる律。噛み合っていない二人だが、とりあえず、一歩前進した。
のもつかの間。毎日顔を出す櫂生に外国語学校ではあの二人付き合っているのではないか。と、噂になっていた。ほどなくしてその噂は律の耳に入る。気まずさと恥ずかしさを感じ、櫂生を遠ざけるようになった。
「勝間・・・・・・俺はなにかしたにだろうか? 更科律があってくれない」
机に突っ伏して暗い空気を背中に背負っている。
「それよりも未だにフルネームってことの方が俺にはおかしいと思うぞ? まぁ、あれだけ毎日校門の前で待っているんだ、へんな噂の一つや二つまわるだろ? 現にうちの学校でもそれ、回ってるぞ?」
せっかく仲良くなれたのにな。と、勝間はショックを受けている櫂生をおもしろ半分に見ていた。
遠くを見ながら最近気に入っている本を机に突っ伏したままめくっていた。その時妙案が降りて来た。
「・・・・・・そうか・・・・・・」
途端、暗い空気が嘘のように消えた。
「会ってもらえないなら、無理やりにでも会いに行けばいいんだ!」
櫂生の突拍子もない発言に勝間は驚き目を見張る。
「なんでそうなる! そんなことしたら本当に嫌われるぞ? 少し落ち着け」
いよいよ肩を揺す振りにかかるが櫂生はひらめいたとばかりに目を輝かせている。
「ダメだ。これは何を言っても無駄だ・・・・・・」
こうなってしまったらなんとしてでも止めなければ・・・・・・
「かい・・・・・・」
勝間が言い終わらないうちに櫂生が手をポンと、叩いた。
「そうと決まったら早速更科嬢のところへ行ってくる!」
誰が決めた! と、言う暇も与えず櫂生は放課後のチャイムと同時に教室を飛び出して行った。
さほど遠くない外国語学校に走る。時刻は放課後を少し過ぎた頃。生徒達が下校するため開け放たれている校門の真ん中で櫂生は息を整え、思いっきり空気を吸い込んだ。
そして、
「更科律! いたら出てこい!」
学校中に響き渡る声で叫んだ。呼ばれた当の本人律は付いていた方杖をガクリと滑られた。
「な、なに?」
慌てて窓から外を覗くと、校門のど真ん中にそいつはいた。
「ほ、北丈櫂生?」
なにやってんの? 更科律? だれだっけ? あ、私だ。
どこか夢の中にいるような感覚になる。これが現実逃避か。どこか人ごとのことに思えていた時、もう一度叫ばれた。
「いるんだろ? 更科律! 早く出てこい! 更科律!」
学校中、むしろ近所中に響き渡る自分の名前。たまらず律は校門へ走った。後に和佳は言う。あんなに血相を変えた律を見たのは後にも先にもこの時だけだったと。
「北丈櫂生! あんたなにしてんの! いやがらせ?」
律を見た途端櫂生は破顔した。
「やぁ、更科律嬢!」
「やぁ、じゃないわよ! いちいち本名で呼ばないでちょうだい!」
いつもの清楚さはどこへやら。髪と息は乱れ顔は鬼の形相だった。
「じゃ、名前で呼んでもいいか?」
思っても見なかったセリフに素っ頓狂な声が上がる。
「・・・・・・はぁ?」
想像の上を行く櫂生の発言に律は戸惑いを隠せない。すっかり彼のペースに乗せられている。
「律、会えてよかった」
そうニッコリと笑った。律の大きな目がさらに大きくなる。その屈託のない笑顔に思わず見惚れていた。
な、によ・・・・・・その顔は・・・・・・
さっきとは違う恥ずかしさが律を襲う。顔に熱が集まる。きっと真っ赤になっているだろう。気まずくなってしまい下を向く。
「そ、そんなだから噂になるのよ・・・・・・!」
下を向いてしまったので表情は見えないが、櫂生はお構えなしに言った。
「放っておけ。友達なら普通だろ?」
友達と、いうところをわざと強調して言った。しかし、内心では複雑だった。一人だったら泣いていたかもしれない。
一方律は友達という言葉に俯いていた顔をあげた。そうだ、友達だったら普通だ。
「分かった。それでいいわよ。じゃぁ私も好きなように呼ぶ」
その言葉に櫂生は満足そうに頷いた。
『と、いうことじゃ』
古い本は一度話を区切った。
「思いっきり出会いと友達までの道のりでしかないんですけど? と、いうよりあんたあんまり読まれてないじゃん」
古い本は憤慨して興奮気味に表紙をパタつかせた。
『何を言う! その間にもちゃんと読まれていたぞ! それよりようやく櫂と律と呼び合う仲にまでなったんじゃぞ! すごいじゃないか』
「それ普通だろ?」
容赦ない周のツッコミ。サンドイッチとデザートまでとっくにたいあげていた。ただ律儀に入力だけはしっかりとしていた。
「で、肝心な情報は貿易商の息子しか分かっていないじゃないか」
ここまで話を聞いたのに・・・・・・と、少々ふてくされている。
『まぁ、そういうな。これから私が彼女に会う大事な場面が待っているのだから』
「まだ続くの!?」
構わずに古い本は続ける。
『初めは憮然としていた律だったが、それでも何度か会ううちに打ち解けてくれた』
勝手に続けてるし!
古い本は周の言葉など聞きもせず、楽しそうにどんどん話を進めた。周は諦めて古い本の話に耳を傾けた。
初めは憮然としていた律だったが、それでも何度か会ううちに打ち解けてくれた。恋人とは胸を張っていえないが、お互い特別な存在にまで発展していた。
この日もう出会ってから何度目になるかわからない待ち合わせをしていた櫂生は自分の気に入っている本を彼女に貸そうと思っていた。本の内容は数本の短編と一編の長編で構成された・・・・・・大きくくくれば恋愛小説。
「ちょっと! 聞いてない! あんた恋愛小説だったの!」
あまりに衝撃事実に周がたまらなく声をあげた。もちろん周りの人たちに注目されたが、今はそんなこと気にしている余裕はなかった。てっきり誰かの伝記か冒険小説とばかり思っていた。古い本は釈然としない口調で答えた。
『そうじゃが? いちいち話の腰をおるな』
「だったらもっとこうあるだろう? 恋愛小説とか言ったら女性向きだし、本だってこんなおじいさんではなく、おばあさんを想像するだろう?」
意外すぎる出来事に目を白黒させている周をよそに古い本は表紙をパタつかせ言った。
『だから大きくくくればと言っているじゃろうに。良いところだ。少しは口を慎んでくれ』
頷く周を確認すると本は話を続けた。
その中の一編が自分達と境遇が似ていた。きっと彼女も気にいるだろう。結末は・・・・・・この際置いておくことにする。
シチュエーションもちゃんと考えていた。行きつけのカフェは放課後にはマスターしかいない時間がある。その時にあわよくば・・・・・・こっ、告白とまで持ち込みたかった。勝間にいま流行り・・・・・・なのかわからないがこれを言われたら必ずときめくと言うプロポーズも教えてもらった。
この数ヶ月話す事を許されてから、彼女はやはりモテるという事がわかった。校門で待っていても、カフェでお茶をしていても、そこらへんにいる男は大抵振り向く。
勝気な彼女はまだ自分を含め周囲の男性を男と意識していないようなので安心している。しかしモタモタしていると取られてしまうかもしれない。そんないいしれぬ不安を櫂生は抱えていた。
いつものように校門近くで待ち合わせ。律が恥ずかしいと言うのでここは変えた。そして、行きつけのカフェでコーヒーを二人分頼む。案の定、今の時間はマスターしかいなかった。
チャンスだ。マスターが自慢のコーヒーを丹念に作り席に運ぶ。それに手を取り優雅に飲み始める律。おいしいと呟く。そんな仕草にも目を奪られてしまう自分はもう末期だ。
「なに?」
飲まないの? と、ばかりに律に指摘され櫂生は慌てて頭の邪念を振るう。日差しが窓から差し込み暖かく心地が良い。櫂生は一度ギュッと掌を握った。そして大きく息を吸い込み言った。
「り、律、渡したいものがあるんだ!」
柄にもなく呂律が回らない。律は別に気にするそぶりも見せずに、
「なに?」
と、不思議そうに首を傾げながら返事をした。
「こ、これ。俺も気に入ってる本なんだ」
カップ横に置かれた本を手に取りパラパラと捲る。
「英文? おもしろそう! 読むの私遅いから返すのいつでもいい?」
顔を高揚させ言った。別に返してもらわなくても良いのだが・・・・・・でも、会う口実ができる。
「ああ」
今は目の前の楽しそうな律を見るのが楽しかった。なにより幸せな時間だった。
「櫂は意外といい趣味してるよね? ここのカフェとか、コーヒーはおいしいし、すごくステンドグラスがキレイ」
店内に数カ所、窓の横に縦長にはめ込まれている。二人が座っている席に飾られているのは、青が基調のステンドグラス。男女が手をつなぎ大きな満月が輝く夜道を歩いている。猫や犬やフクロウも二人を祝福するように踊っていた。
うっとりと微笑みを浮かべ見入る律。そんな律に見入る櫂生。勝間に成功すると教えられた言葉がスッと自然に出てきた。
「月が、キレイですね」
キョトンとしている律と一瞬の静寂。それを破ったのは律に笑いだった。
「なに言ってんの? ステンドグラスのこと? それとも本物の月? それだったら残念。今は昼間よ? 変なこと言うわね」
つられて櫂生も笑うがその笑いは苦笑いだった。
「昼間の月もなかなかだよ」
そう言った櫂生の顔がどこか悲しそうで・・・・・・なんで? と、聞こうにも人を遠ざける雰囲気に律は口をつぐんだ。
「行こうか? 本当にそれ面白いから読んでみて」
「・・・・・・うん」
この時間をさかえに律はあまり目を合わせてもらえなくなった。次の日の放課後、櫂生は出会って以来始めて外国語学校に姿を表せなかった。
「時間通りにお迎えできるできるなんて何ヶ月ぶりでしょうか?」
運転手がルームミラーごしに櫂生に話しかけた。
「あぁ、いきなりすまなかったな」
覇気のない返事。櫂生は窓の外の流れて行く景色をボーっとみていた。今までは放課後必ず律のところへ行っていた。帰るときは律を見送ってから自分は車を回してもらっていた。なのでかなり不規則な時間だった。その度に、運転手は嫌な顔せずに迎え入れてくれた。
櫂生は目を閉じた。今までのことが嘘のようだ。
「その本、北丈くん?」
授業終わり見覚えのない本を読む律に和佳が訪ねた。
「うん。昨日貸してくれたの。なかなか面白いよ」
ふーんと、怪しげな目を向ける和佳。
「櫂って結構シャレてるよね。英文の本とか。昨日連れて行ってくれたカフェもすごくステキだったの! ステンドグラスがキレイでね!」
へーと、言うまたしても気の無い返事の和佳になんとなく居心地が悪くて律が口ごもる。
「な、なに?」
「べっつにーー。ほら、帰ろ。そろそろ北丈くんくる頃じゃない?」
意味ありげな和佳に言われるまま校門へと向かった。ところがそこには櫂生の姿はなかった。
「北丈くん、来てないわねぇ?」
和佳が珍しいものを見るように言う。
「・・・・・・うん」
いつも櫂生が待っていてくれていた場所を見つめる。今は、誰もいない。急に寂しさが募ってくる。
すっかり肩を落としている律の肩に優しく手をかける。
なんでだろう・・・・・・すごく悲しい・・・・・・
うっすらと目には涙がたまっている。和佳は元気つけるように言った。
「きっと用事があったのよ。明日にはいつも通りあそこに立っているわ」
「うん・・・・・・」
ポンポンと背中を叩いてあやしてやる。その日、律はさえない心のまま帰路に着いた。
ところが、その次の日も、その次の日も、そのまた次の日も櫂生は来なかった。律は完全にへこんでしまっていた。
「この間のカフェでなにかあったの?」
目は座りかなりブサイクになっている律はさらにしかめっ面になり、先日のことを思い出そうとした。
「えーと、コーヒー飲んで、本借りて、ステンドグラスみた。でもそのあと、すごく悲しそうだったな・・・・・・」
「そのときなにを話したの?」
顎に手をかけて目を閉じ思い出す。
「これといってとくには・・・・・・」
言って首をがっくりと落とす。
「なにかいつもと変わったこととか話さなかったの?」
記憶をあの時に戻す。なにがあったか思い出せ、思い出せ・・・・・・ふと、脳裏に浮かんだステンドグラスに描かれていた月夜の二人・・・・・・
「あ、月」
「え?」
律はあの時のおかしな会話を和佳に話した。
「ステンドグラス見てたとき、月がキレイですねって。昼間なのに変だよって話・・・・・・」
「あーーーー!」
急に彼女らしくない大きな声に呆気に取られる律。
「それよ! 律! それ!」
それって、月がどうしたというのだ。夜に出る月はさほど珍しいものではない。むしろ普通だろう。なのに二人してなにがそんなに話題にするべき項目なのか分からないでいた。
「その言葉、プロポーズよ!」
あの櫂生が自分にプロポーズ? まさか? こんな家柄も普通な自分に?
「う、そ・・・・・・」
耳を疑った。でも、それとこれとは話がべつだろう。
「今、話題なのよ。なんでもとある教師の教えだとか。風流でいて、素敵よね。返事を返さなかった律に、北丈くん振られたと思っているのかも」
プロポーズ・・・・・・本当に・・・・・・
認識したら急に恥ずかしくなってきた。嬉しい。顔が熱い・・・・・・しかし自分ときたら気づかずに、変なこととか言ってしまった。これではあまりにもひどい。だけど、分かりにくいと言ったら、正直かなり分かりにくい。
明日、返事を返そう。本だって返せていないのだ。それよりなによりも今は彼に会いたい・・・・・・
そう心に決めて帰路についた。が、家に帰った早々に律は父親に呼び出された。
「北丈の息子と最近仲が良いと聞いたが、つきあってでもいるのか?」
単刀直入すぎてため息が出る。
「えぇ」
そっけない父に同じくそっけない返事を返す。この人といるといつも気分が悪くなる。律は昔からあまり父が得意ではなかった。何かと言えば頭ごなしに人を押し付ける。
今日もさっさとこの場から退散したい一心だった。しかし次の言葉は思いもよらないものだった。
「三日後に灘丹商店のご子息との見合いがある。身支度をしておきなさい」
見合いという単語に凍りきく。胃の中を重たいものが落ちていく。
「な、なんで・・・・・・!」
見合い。これはきっと自分には断る権利を与えてくれないのだろう。みず知らずのどこの誰かも分からない男と結婚だなんて・・・・・・律は父親に返事も返さずに部屋から出て行った。
「・・・・・・・・・・・・」
自分の部屋に入り扉に背を預けそのまま下に崩れ落ちた。
いやだ・・・・・・いやだ。
ふと机の上を見ると櫂生から借りた本が置いてあった。吸い寄せられるように本に手をかける。そのままパラパラとめくるとリリックがあるページにかかっているのに気付いた。
この本にスピンがあったことにたった今気づいた律はかかっているページを開く。そこのページは恋人たちの会話がメインのものだった。本の左側のちょうど段落が変わる一番最後の一行目の会話が目に入った。
If I get married, what would you like to do?
結婚したらなにしたい?
知らず涙がこぼれた。無性に櫂生に会いたい。いますぐにでも・・・・・・
「う・・・・・・」
涙が頬を伝う。止めようにも止まらない。ボロボロと大粒の涙が溢れる。顔をグシャグシャにしながらここにはいない彼の名前を呼んだ。
「櫂・・・・・・・・・・・・っ」
次の日、今日も櫂生は来ていなかった。昨日の一件で律の心はボロボロで顔からは笑みが消え去っていた。
見合い話をされたと聞かされた和佳は元気つけることも出来ず、ただ見守るしかなかった。
こんな律を見たのは始めてだった。何も出来ない自分がもどかしく、無力さが悲しくなった。終礼が終わりチャイムが放課後を告げる。律は無言のまま立ち上がるとそのまま校門を目指す。
「律!」
和佳が後ろから呼ぶ声が聞こえていないようで、慌てて後を追いかける。このままでは、自害でもしそうな勢いだった。しかし、律は家路とは反対を歩き始めた。だまって歩き続ける。
その方向は・・・・・・
その頃、櫂生もまた落ち込んでいた。
「勝間よ・・・・・・例の言葉は本当に誰もがときめくというものだったのか?」
方杖をつき、目は明後日の方向を見ている櫂生の顔は疲れ果てていた。あれから、律には会っていない。気まずいのもあるが、なにより友達のままでいることが辛かったのだ。自分では最高のシチュエーションのプロポーズだと思っていただけにショックが大きい。
「うん。でもそれだけじゃ足りないと思うぞ? 櫂生よ。女性というものはロマンチックに言った後は花束でも出してストレートに物事を伝えた方が嬉しいと思うぞ? って、なんだよ、その顔?」
そういうことは早く言ってくれ・・・・・・
この上なく嫌そうな顔をしてから、魂が抜けたようにがっくりとうなだれた拍子におでこを容赦なく机に打ち付けたが、今はそっちの痛みよりも心の方が痛かった。
あぁ・・・・・・俺はこの数日間なにをしてきたんだ・・・・・・
まさに後悔先に立たず。で、ある。
「そう落ち込む・・・・・・」
勝間が櫂生の肩に手を下ろそうとしたその時だった。
「北丈櫂生! いるなら出てきなさい!」
学校中に響き渡る聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「北丈櫂生! 早く出てこい!」
慌てて窓を開けて外、校門を見る。
「り、律! なにやってんだ?」
校門前で仁王立ちでこちらを睨む律と目と目が合う。
「北丈櫂生! さっさと降りてきなさい!」
ビシッと指を指され櫂生は、
「ハイっつ! ただいま!」
と、姿勢を正し外の律に届くような大きな声で答え、勢いよく教室を出て、階段を駆け下り、校舎から飛び出し校門へ走った。ものの数分、律の前に膝に手を置き肩で荒い息をしている櫂生がいた。その一連の流れを残っていた生徒と勝間が窓から眺めていた。
「更科嬢、視力いいなぁ」
窓枠に寄りかかり方杖を付きながら、楽しそうに勝間は言った。
「な、なにをしだすんだ、君は!」
しれっと律がいう。
「あら? あなたと同じことをしたまでよ?」
「俺はいいんだよ、君は・・・・・・!」
女性が大声を出すなんて、して良いことなのか? まったくもって破天荒である。
「櫂、どうして会いに来てくれなかったの?」
急にしおらしく言われ、ドキリとする。
「そ、それは・・・・・・」
気まずかった。とは正直に言えず、口ごもり、顔を歪め俯く。自分も辛かったが、律も辛かったのか? チラッと覗き見るように律の顔を覗くが、同じく俯いているので表情は読めなかった。
「私、二日後あのカフェでお見合いすることになったの・・・・・・」
ポツリと呟くかれた言葉は衝撃的だった。
「え・・・・・・!」
い、いま見合いと、言ったか? 櫂生はまるで雷にでも打たれたようにその場から動けなくなった。目の前の律がものすごく遠くに感じる。
「だから・・・・・・」
私を連れ去って。喉元まで出かかった言葉は声にはならなかった。脳裏に昨日の父との会話が蘇る。
「付き合っているだと? はっ。そんなの遊びに決まっているだろう? たとえおまえを選んだとしても釣り合わない。北丈といったら大企業だぞ? うちのような弱小企業相手にすると思うのか?」
家と自分を一緒にする人じゃない! そう、言いたかった。が、言えなかった。急に怖くなった。櫂生にかぎりそんなことをいう人ではないと信じていた。が、現実的問題、その通りだったのだ。
「・・・・・・なんでもない」
涙がこぼれそうだった。それを隠すように踵を返し来た道を戻ろうとした。そうだ、本を返さなければ。カバンに手をかけたその時。
「っ律!」
櫂生に後ろから声をかけられた。急いで目元を拭き、せいいっぱいの作り笑いを作り振り返る。そこには悲しそうな顔をした櫂生が立っていた。
「会えてよかった」
「またいつでも会えるじゃない」
虚勢をはる。弱さを見せてしまえば飛び込みたくなるから・・・・・・じゃぁね。と、手を上げて再び踵を返す。一度振り返りたい衝動に駆られたが、堪えてそのまま前を向いて歩いて行った。
櫂生はいつもと変わらず律が見えなくなるまで見送った。残った櫂生はふぅと、一つため息をついた。その後ろ姿は実に寂しそうだった。
「行かないでくれ、は、ないよな・・・・・・」
結局、律から返事は聞けなかった。選んでもらえない自分が呼び止める訳にはいかないだろう・・・・・・
「気付いてもらえなかったんだな・・・・・・」
ポツリとついて出た声は消え入りそうだった。
「見合い、か・・・・・・」
それはいわずとも政略結婚であることは一目瞭然だった。たしか前に勝間が言っていた、律の父の話を思い出した。
傲慢で融通の聞かない、いけすかない男。
そんな父親に律逆らえなかったのだろう。むしろ、逆らえないのだろう。自分の力や権力で人を押さえつける。そんなの・・・・・・
「らしくないぞ?」
しかし自分が他人の家のことに口を出すことなんてできない。なんとも、もどかしい。引っ張ってても一緒にいたい。が・・・・・・
「なぁんてな・・・・・・選んで貰えなかった奴のいう言葉じゃないな・・・・・・」
「どうするんだよ、櫂生!」
どこに隠れていたのか、勝間と和佳が現れた。
「どうするも・・・・・・たった今振られた奴にかける言葉はないのか?」
俺だって泣きたい! と、心の中で叫ぶ。しかし、和佳はクスクスと笑いうっすらと涙を溜めている櫂生に言った。
「あら、北丈くん? 女性は嫌いな男性のもとに自分から会いに来るなんてこと絶対にありませんよ?」
泣き出しそうだった心がじんわりと暖かくなってくる。
それって・・・・・・自惚れても良いのだろうか? 律は見合いをすると言っていた。だったら、やるべきことは・・・・・・
「二人とも手伝ってくれるか?」
勝間と和佳は顔を見合わせてから、ニカリと悪戯っぽい笑みを向け、同時に言った。
『いいとも!』
『櫂生は律が見合いする人物が自分より長けていた場合、すんなり諦めるつもりでいたのじゃ。しかしな、勝間に素性を調べてもらい、同業者だと分かるとあとはこちらのものだった』
周は古い本の言葉を引き継いだ。
「そんなの周りがいくらでも持ってきてくれるからな」
ふむ。と、古い本が表紙を重量感を含めて動かした。
『いちばん親しいジェロから情報をもらい、業績も彼の人柄もあまり良い噂はないと聞いたのじゃ。その頃、同じく更科家の業績も芳しくなかった。要は娘を使って会社を大きくしようとしただけだった。が、向こうも似たようなことを考えていて、あわよくば人質にして更科家ごと吸収しようと考えていた』
「これじゃぁ、律が幸せになれないな・・・・・・」
ことの顛末を聞いた櫂生は困ったように微笑んだ。律はこのことを把握してくるのだろうか? だとしたら悲しすぎる。
次の日の昼、北丈家の中庭で、櫂生と勝間はジェロから律の相手について聞いていた。
「彼は金の亡者だヨ。なんど痛い目にあわせられたカ・・・・・・なに? 彼結婚するノ?」
「あーーうん、その予定・・・・・・だと思う」
と、櫂生のかわりに勝間が返事を返してくれた。
「無理だネーー無理。彼、顔はいいけど、性格最低だかラ。仮に結婚しても、お相手さん、いいことないんじゃなかナ?」
ポンと櫂生の肩を叩きジェロはその場を去った。
「・・・・・・」
櫂生はジェロの後ろ姿を黙って見送った。
もしかして・・・・・・頑張れってことか?
櫂生は、叩かれた肩にそっと触れ、苦笑した。
「花月嬢は更科嬢についていて貰っているが・・・・・・どうやら見合いは予定通り執り行われるようだぞ? 彼女、すっかり落ち込んでいるそうだ」
そうか・・・・・・という独り言に近い小さな声が帰ってきた。
「勝間よ、見合いは明日だったよな?」
確認するかのように顎に手をあて聞いた。しかしその表情はなにかを企んでいる時、悪さをしようとしている時の顔だった。
「なにをする気だ?」
櫂生はここ数日、見たことのない満面の笑顔で勝間に微笑んだ。
夕方になり和佳が家に帰ったあとも律は泣いていた。なぜこんなに悲しいのか、泣けるのかももうわからなくなっていた。ふと、机の上の本が目に入る。
「・・・・・・返すの忘れてた」
言葉とは裏腹に返したくなかった。これだけはもっていたかったのだ。今までは少しでも会う口実とばかりに思っていたが、今は違う。キレイな思い出として取っておきたかった。これを開けばいつでもあの楽しかった日々に会えるような気がしたから。
思えば、出会いは最悪だった。初対面でおてんば娘と呼ばれ、大きな声で呼び出されて。これは自分もやったが・・・・・・ただ話がしたいだけだと、無邪気な笑顔を向けられて・・・・・・
「・・・・・・!」
あれだ、あの時の笑顔だ。まぶたの裏に蘇る、屈託のない無邪気な笑顔。間違えなく自分にだけ向けられていた笑顔。今まで見て来た人の中で最高にまぶしかった。あれがきっかけで・・・・・・
「今更気付いたって遅いのよ・・・・・・」
結局、返事も気づかずに返していない。あんなに優しくしてくれたのになんともひどい仕打ちだ。結果自分も父親と変わらない。自分のことしか考えていないのだ。脳裏によぎるのは櫂生の悲しそうな顔だった。
「最低だ、私は一番大事な人を傷つけた」
許してほしい。そう言いたくても、きっともう二度と会えない。律の目から再び涙がこぼれる。あんなに泣いたのに涙は枯れることを知らなかった。
見合いは、明日。
無情にも時は過ぎて見合い当日。律は父に連れられて、あのカフェに連れていかれた。席にはもう相手が母親と座っていた。浮かない気分のまま促され席に着く。
その席のステンドグラスは白を基調としていて一本の並木道をすれ違うように男女が歩いていた。この間のものが二人のゴールだとしたらこちらは始まり。
「皮肉・・・・・・」
目を細めて自嘲気味に笑う。その間にも父と向こうの相手の母親で事業の話が進められていた。対面に座る相手の男性はニヤニヤとこちらを見ながら笑っている。
もう、どうでもいいや
心の中で律は呟いた。どうせ否応なしにこの男と結婚させられるのだ。正直律は疲れ果てていた。
「さぁ、食事にいくとしましょうか?」
向こうの母親がそう切り出し四人は立ち上がった。会計を親たちがしている時、見合い相手の男が手を差し伸べて来た。律は結構と言い、その手を取らなかった。しかし、エスコートでもしたいのか、相手の男は律の腰に腕を回して来た。
なんとも気持ち悪い。嫌悪を隠せない律がふと顔をあげると、この間見たステンドグラスを見つけた。
あの時の・・・・・・
櫂生は言っていた。
「・・・・・・月がキレイですね・・・・・・・・・・・・」
思わず言葉にしていた。それを聞いた相手の男は、
「あ、あぁ、こんなものより、うちに来ればもっと良いものを見せてあげますよ。望みとなら、もっと高価なものを買ってさしあげますよ」
と、言った。店の扉の前で早く来るように両親たちが呼んでいる。男はそれに従い、早くおいでと、残し、律を置き扉へ向かって歩いて行った。
ちがう・・・・・・私が欲しいのは・・・・・・・・・・・・
カランカランと来客を告げるチャイムが鳴り、見合い相手は入って来た男と店内ですれ違う。その男は席に着くのではなく、ステンドグラスの前で佇んでいる律のもとへ迷わずに進み彼女の後ろに立つと、スゥと息を吸い込み言った。
「月が、キレイですね」
「!」
聞き覚えのある声。ステンドグラスに映る見覚えのあるスーツ姿の男性。その姿がふいに滲む。
「今は昼間よ?」
溢れる涙をそのままにゆっくりと振り返り言った。
「昼間の月もなかなかだよ?」
そう言い。一歩律に近づくと、親指の腹で涙を拭ってやり、中腰になりそっと掌を見せる。
「お手をどうぞ、お嬢様」
涙でぐしゃぐしゃの顔を笑顔で歪めながら、律は櫂生の手を取った。
「ハイ」
『彼は実に豪快な男だった。見合い相手から律を略奪したのだ。その後、三者は揉めていたようだが櫂生の父の計らいで穏便にすまさせた。その計らいは残念ながら私にはわからない。かくして、無事私は櫂生のもとに帰ることが出来た。と、いうことさ』
古い本はそう話をしめくくった。
「で、その櫂生さんは?」
周はぐぐっと怪訝な顔を古い本に近づけた。
『ちゃんと天寿をまっとうしたぞ』
やっぱり・・・・・・と、項垂れる。こんだけ聞いたのにまた振り出しに戻ってしまった。
『しかしだな、この後ちゃんと私は櫂生の手によって受け継がれたのだよ』
パサリと、表紙を動かした古い本。心なしかニコリと笑った気さえする。誰に? と、聞こうとした。が、その前に古い本がまた話始めた。
『あれから・・・・・・』
が、それはメロディーに乗せた館内アナウンスによって止められてしまった。
「・・・・・・まぁ、なんていうか・・・・・・今日は諦めてよ」
いつの間にか周りには誰もいなくなっていた。時間も時間だ。お年寄りはとっくに帰ったのだろう。それに気づかなかったと言うことは自分もこの本の話に聞き入っていてしまっていたようだ。
『うぅ・・・・・・また止められてしまった・・・・・・・・・・・・』
気のせいではない、古い本はさめざめと泣き出した。周はパソコンのスイッチを切った。小さなファンの音が少し大きくなって消えた。液晶が真っ暗になったのを確認するとパソコンの画面を閉じた。
「まぁまぁ、明日もあるから」
ちょっと楽しくなった周はそう古い本を元気づけ表紙を撫でてやる。
『う、うぅ・・・・・・』
しくしくと涙が流れないにしろ泣いている古い本を横目に周は明日のことを考えていた。今度こそ手がかりになる話が聞ければいいけど・・・・・・
後、ボロボロの理由も。荷造りを済ませて、古い本を小脇に抱えながら周は図書館を後にした。
家に帰り食事を済ませる。自分の部屋の扉を開けた途端押入れの中から本たちが騒ぎ立てた。
『なにがあった』
『どんな話だったんだ?』
『教えろ』
『気になる』
これだから場所を変えてよかった。明日も図書館に行こうと心に固く誓う周であった。
『周、聞いてるのか!』
『教えろ』
「あーーもううるさい!」
とうとう周は押入れに向かい怒った。詳しい説明は全て終わってからにしてもらいたい。今はとにかく情報を一つでも多く集めたい。
『これこれ、ケンカはやめぬか』
押入れと部屋の間を割って古い本が彼らを止めた。
『お主もお主じゃぞ? いつまでも暗く湿った場所に閉まっておるからこっちが気になってしかたがないのじゃ』
思わぬ相手に叱られ周はツノ口をした。
『本には持ち主の記憶が宿る。またその本の記憶も然り』
「溜まっていくいっぽうだぞ?」
あいつら仲間意識強いから。と、付け足した。
『なぁに、わかるさ。今までの礼を言い、ちゃんと別れれば、また巡り巡って会える時が来る』
ふーんと、気の無い返事を返す。
「そんなもんなのか? 泣いて別れを惜しまれたりすると捨てる気がなくなるのだが・・・・・・ま、いいか」
周は話を流すように、ベッドにうつ伏せで寝転がりノートパソコンを再び起動させた。しかし、本当のことなんだろうか? まさか自分の内容を話している訳じゃないよな? と、不安がよぎったが嘘だとは到底考えられなくてもう一度今日聞いた話を整理することにした。
机に置いていた古い本がクローゼットの本達と会話をしている。いつの間に仲良くなったようで、今日話てくれた話をざっくりと説明して聞かせていた。
情報を整理していた時、ふと目に入った文字。
銀座って言ってたよな?
うつ伏せの腕に顔を埋め周は思案した。その間も古い本は昼間同様昔話を続けている。検索ワードに明治、銀座と、入力。別に何か情報を収集しようとは思っていない。ただなんとなく検索をかけてみた。その間も聞落としはないかそれに耳を傾けていた。昼間とは違い古い本は朗読するかのように話を語っていた。とても心地よく、どこか安心できるもので周はそのまま眠ってしまった。
次の日。今日も太陽は憎たらしいほど輝いている。周は完全に寝落ちしていた。電源を立ち上げたままにしていたノートパソコンは充電もしていなかったためこちらも同じく落ちていた。
物語を読んでもらい眠ってしまったなんて・・・・・・
「子供か、俺は?」
机の上を見ると古い本がいた。なにも言わないと言うことはまだ寝ているのかもしれない。そういえばクローゼットも静かだ。きっと夜遅くまで話に花を咲かせていたのだろう。
「周ーー、まだ寝てるのーー?」
下では母が呼んでいる。時刻は八時少し前。もうすぐ母の出勤する時間だ。周は朝食をとるべく下に降りた。
母を見送り、食事を済まし、食器を洗い、身支度を整え、テレビで本日の天気を確認。降水確率はゼロ。夕立もなし。その証拠に今日も太陽は手加減せずに輝いていた。
「おはよう」
『おはよう』
朝食を済まし、再び部屋に戻ると古い本が起きていた。
「じゃ、行こうか?」
どこへ? とは、古い本は聞かなかったので、そのまま抱き上げた。周は荷物一式を昨日と同じく持った。ただし充電切れのノートパソコンだけは置いて行くことにした。部屋を出るとき押入れの本達が眠そうにいってらっしゃいと、声をかけて来たのに苦笑いしつつ、いってきます。と、聞こえないほどの小さな声で返し、戸締りをして家を出た。
この日、周は図書館に向かうのではなく駅へ向かった。
『周、どこに行くんじゃ?』
カゴに入れてあるカバンの中からほ古い本がパサパサと表紙を動かした。
「銀座、だったよね? その櫂生さんのいたところ」
『あぁ』
本がパサっと周を伺うように表紙を動かす。
「行ってみようと思って。もうないかもだけど」
そう言うと坂道を自転車で駆け下りて行った。
駅の近くの駐輪所に自転車を止め、ホームへ向かう。電子マネーで改札を抜けた時カバンの中の本がいっそう騒ぎ出した。
『あ、周! なんじゃそれは!』
心なしかカバンまで小刻みに揺れている。周はカバンを抑え込み抱きかかえた。
「あとで教えるから! ちょっと待ってて!」
小声でヒソヒソと中身に向かって言った。
周の暮らしている街から銀座までは電車で三十分弱。一度乗り換えはするがそう遠くはない。夏休みと言えど平日。時間的にも社会人の出勤時間を過ぎていたので車内の人はまばらだった。
『なぁ、周、周。さっきのピッと言うのはなんじゃ? 切符を買うのではないのか? もしや、無賃乗・・・・・・』
「失礼なこと言うなよ」
周はカバンから古い本を取り出し読んでいるふりをし、それで顔を隠した。
「あれは電子マネーって言って、カードの中にあらかじめお金を入れておくんだよ。降りる駅で同じようにピッてやれば自動的にお金が取られるんだ。だから無賃乗車じゃないの」
ヒソヒソと、周りを伺いながら古い本に説明をした。
『そうか・・・・・・あれから何十年もたっているんじゃもんな。時代も変わるか・・・・・・』
しみじみと言う古い本。自分の生きていた時間と全く違う時間。自分だったらどうだろう? いきなり違う歴史に放り出されたら? きっと自分だけ置いてけぼりにされたようで迷子になったように不安だろう。古い本の今がそうなのかもしれない。違う時間、違う場所、知らない人・・・・・・あっけらかんとしているが、不安なはずだ。
早く探してあげないと・・・・・・その間は自分が持ち主代わりになってやろう。
『なぁ、周! あれはなんじゃ! あれも! あ! これは?』
「・・・・・・」
本当に、不安、なのだろうか?
『なぁなぁ、周!』
「・・・・・・」
いや、意外と楽しんでいるような気がするのは気のせいか?
『あーまーねー』
前言、撤回する・・・・・・
銀座はたくさんの人であふれていた。夏特有のモワッとした空気にひたいからジワリと汗が滲み始めた。様々な国の観光客が楽しそうに行き交っている。
『おぉぉ! すごいのぉ! ビルがたくさん! 人もたくさん! ここは本当に銀座か?』
古い本を小脇に抱え周は人の波にもまれない角に背をつけた。
「そう。で、なんか覚えてる目印みないのは思い出せない?」
『うーむ・・・・・・あの頃とだいぶ様変わりしておるからなぁ・・・・・・』
不自然にならないように古い本を広げ周は聞いた。
「なんか覚えてないの? 調べたら昔の建物結構残ってるみたいだよ?」
うーむと、古い本は唸り続ける。しばらく周は古い本の言葉を待ったが、古い本はうーむやら、んーやら、唸り声を上げるばかり。はぁ。と、ため息を吐いた周はスマホで近郊の明治からある飲食店を探し始めた。数件ヒットした。自分のお腹とお財布と相談して比較的安価でそんなに遠くなく、それでいてノスタルジー感の溢れているカフェを見つけた。駅から少し離れてはいるが店内の雰囲気も良さそうだ。
「行こう」
古い本をパタンと閉じると周は返事も待たずに歩き出した。
『どこへ行くのじゃ?』
「まぁ任せてよ」
そう言うと、大きな通りから一本中へ入る。その通りは表の通りよりひと通りは少なかったものの、スーツ姿の人や車が数台行き交っていた。周は地図を頼りにまっすぐ歩いて行く。すると周りの雰囲気が少し変わった。左右にガス灯が立ち並び始めた。
『ん? このガス灯・・・・・・』
古い本が考え事をするようにパサリと呟いた。
『確か、ガス灯が部屋の二階の窓から見えていたな・・・・・・』
その声はどこか懐かしさを含んでいた。古い本にはセピア色に染まった当時の風景が見えているのだろう。
「ここらへんにあったの?」
キョロキョロと周りを見回した周は一件一件覗き込むように観察し始めた。
『うーん・・・・・・さっぱり思い出せん』
「だよねぇ」
きっと当時とは随分変わってしまっているはずだ。ビルとビルに挟まれた通り。昔はこんなんじゃなかったと周すら想像出来る。
しばらく歩くと一件のカフェに辿り着いた。食べ物サイトによると明治から創業していると言う。名前はコトン。
学生の周にはコーヒーくらいなら出せる金額だ。扉を開けるとカランカランと言う鈴の音が響く。薄暗いオレンジ色の照明の店内には年老いた客が数人座っていた。
「いらっしゃい」
どこでも好きなところを座れるらしく、周はカウンターの端の方へ腰をかけた。
「何にします?」
水の入ったグラスを置き、ファイルに挟まれたメニューをマスターから周は受け取ると、一番上に書いてあったコーヒーを注文した。
コーヒーが出てくる間、店内を見回しながら持っていた古い本を自分の左側に置いた。
「こういうところは初めてかい?」
「はい」
水を飲みながら周は答えた。周のような若い客来るのは珍しいようだ。
「今日はどうして?」
「 あ・・・・・・夏休みの宿題です。明治時代から続く商店と喫茶店、会社のレポートを書くように、と」
もちろん、怪しまれないような口実だ。
そうかい。と、マスターはいうと、コーヒー豆をガリガリとミルでひきはじめた。
「いい匂い」
その言葉にマスターは微笑むと、
「宿題は進みそうかい?」
と、聞き、引いた豆をドリップし始めた。さっきより、コーヒーの香りがふあっと強く巻き上がる。
「はい。感想も書けそうです。とてもいい香りですね・・・・・・」
ホゥと、緊張をほぐすように肩の力を抜いた。周りを見渡すと昔の写真が飾れていた。その中の一つに変わった窓ガラスが写っていた。
「これ・・・・・・」
マスターはコーヒーを周の前に置いた。
「あぁ。昔、ステンドグラスをはめこんでいたみたいなんだが地震で壊れてしまってね・・・・・・」
『ステンドグラス!』
いきなり大きな声を出した古い本に周は慌てて表紙を叩いた。えへへ。と、苦笑いをしてみせるが、古い本の声が聞こえていないマスターは不思議そうに見ていた。
ここが古い本の話していた喫茶店ならきっとこの近くに櫂生の家があったという事だ。焦る気持ちを落ち着かせるため周はコーヒーを一口飲んだ。
「・・・・・・おいしい」
満足気なマスターの顔。その表情に周までほっとした。が、そうじゃない。目的の情報を入手しなければ!
「あ、あの・・・・・・この辺に昔から商店をやっている方をご存知ないでしょうか? 実は・・・・・・祖父! の・・・・・・亡くなった祖父の歴史を宿題にしようとしていまして・・・・・・!」
とっさの機転。少々、上ずってしまったが、なかなか現実味のある事を言えたと思う。マスターは怪しむ事なく、腕を組み考えている。その間、もう一口周はコーヒーを飲んだ。
「それなら、ここから二本の道を行ったところに灘丹商店ってのがあるよ。そこも古いからなにか知っているんじゃないかな?」
話を聞いていた新聞を読んでいた客の老人が言った。
「・・・・・・たん、に?」
「顔はいいんだが、性格がなぁ・・・・・・少々偏屈だが、行ってみるのも悪くない」
マスターが苦笑しながら言った。
「ありがとうございます」
周はメモを取り終えると再びコーヒーを飲んだ。
「本当に美味しい」
次に周はコトンのマスター達に教えてもらった 商店の前にいた。中に入ると様々な輸入品が置いてあった。そのほとんどが見たことのない品々で周は興味を持った。手頃な価格のお菓子を手に、白髪交じりの噂通り偏屈な男性店主のもとへ向かう。
「五百八十円」
周の購入したのはドイツ産のクッキーだった。
「毎度」
「あ、あの・・・・・・! つかぬ事をお聞きしますが、こちらの創業が明治からと聞いたのですが・・・・・・」
ちょっと、とっつきにくい店主に恐る恐る周は聞いた。
「あぁ、そうだ。明治からやっているよ。建物もそのときのままほとんど変わらない。戦災で少々燃えたがな」
店主は周を怪しむように睨め付けたが話してくれた。
「えーと・・・・・・宿題で亡くなった祖父の歴史のレポートを書いているんですけど・・・・・・もしかして北丈ってご存・・・・・・」
「なに! 北丈だって!」
言い終わらないうちに店主が大声を出した。
「昔、うちと争っていた会社だ! こっちは北丈より下で必死に頑張っていたというのに、あろうことかジィちゃんの見合い相手を横取りして、おまけに借金を返してやるから穏便にしろとかいってきやがった下賤なやつだよ! ジィちゃんの遺言でな、あいつの末裔が商売を始めたら潰しにかかれと言われている!」
ものすごい形相で怒鳴られた周は古い本を両手で抱きしめた。
「あ? なんだおまえ、北丈の知り合いか? そういや、祖父って・・・・・・」
「違う違う! 友達の祖父だよ! あくまで一緒に宿題やってるだけ!」
苦し紛れの言い訳に店主は周に詰め寄り目を細めたが、フンと、鼻を鳴らすとレジ横の椅子に座った。
「うちは糸だけじゃない鉄もやってたんだ。だからこうして倒産もせずに、今も経営を続けられている。あれから北丈は戻ってきていない。もしどこかで会社をやっているようなら連絡をくれ! 俺がジィちゃんの代わりに叩き潰してやる!」
商店から逃げるように飛び出した周は駅のホームの椅子に座っていた。
「あの商店のおじぃさん、律さんのお見合い相手だったんだな」
古い本を読むふりをしながら周は言った。
『あぁ・・・・・・喫茶店と言いこんなこともあるんじゃなぁ。長生きはするもんじゃ』
どこか切なさのこもった口調だった。
「・・・・・・」
電車がホームに流れるように到着する。数人が降りた後、周も乗り込み空いていた席に座る。
古い本が過ごした時間から百年以上の歳月が流れた。見知った者を何度も見送ったに違いない。現に櫂生はもうこの世にはいない。
今こうしている時間も一秒でも過ぎれば過去になる。そうやって過去は作られ、人や物に刻まれて行く。では、未来はどうか? 一秒先でもまだ見ぬ未来ならば・・・・・・こうしている今はどのように刻まれて行くのだろう?
古い本は、今の持ち主をどう思っているんだろう? それよりも本当に持ち主なのだろうか? それともまだ見ぬ持ち主を待っているのだろうか? まだ、前の持ち主を忘れられないでいるのだろうか?
ふと窓から流れていく都会の街並みを眺める。二人の間には、電車の走る音だけが響いていた。