後編
「ようオッサン酷い顔だなあ」
母親に頼まれて来たスーパーで小島が見つけたのは髭も剃らないで目も窪んだ拓也の顔だった。
「どうしたんだ、みどりに振られたのか?」
本人も居ないのだから、これくらいは言っても良いだろうと小島は軽く言ったつもりだったが。あっという間に拓也が眼に涙を貯め始めたのを見て引いてしまった。
「おい、何やってんだよ!?」
拓也が落としたスーパーの袋を拾って、小島は泣きそうになった大人を外へと連れ出した。
(なんだ、ビンゴだったのか?)
そんな雰囲気にはこの前あったときには見えなかったのに、小島は拓也を落ち着かせようと思ったが夏休み中の昼前のスーパーは人が多くて直ぐに場所を思いつけなかった。
「しょうがねえなあ、あんた金持ってるか?」
ああ、と拓也は財布を取り出して小島に差し出した。
「バカ、こんな万札だらけの財布なんかいらねえよ」
直ぐに拓也に財布を戻した。
(ああもうすぐ昼だから何処も店は一杯か・・・・・・)
近くのローカル線の駅の周りには何処にでもあるハンバーガーチェーン店などがあるが、直ぐに地元の高校生とかで一杯になる。小島はあの小うるさい感じが大嫌いだった。
「あっそうか、あそこが良いか・・・・・・どうせみどりの話だし」
「八島さん?」
少し拓也の目に生気のようなモノが戻ったのを見て再び小島は呆れた。
「ああオッサンの大好きなみどりゆかりの場所だぜ、来るだろ?」
さっさと歩き出すと、拓也は素直に付いてきたので小島はまた呆れた。
海岸線から少し歩くとすぐ山だらけになるのがこの土地の面白いところだ。
山を切り崩して家を建て、それを縫うように道路が走る。
偶にその山が切り崩される事無く、緑を青々と茂らせている。大抵そう言う場所は公園になっていて、簡単なベンチと海が覗ける景色だけが用意されている。
それはみどりも一緒で、良く二人で逃げ込んだ場所があった。
「ふーん三日間音信不通か・・・・・・」
そんなベンチに座りながら事の一部始終を聞いた小島は対して驚かなかった。
「まあ相手がみどりだったら、しょうがないだろそんなこと」
「けどもう三日も見ていないんだ」
下を向きながら話す拓也を見ながら一息つく。
「アイツ、一回休むと結構長くなるからなあ。学校も一週間位来ないときもあったし」
周りから良くあれで卒業できたモノだと不思議がられたものだった。実際出席日数は本当にギリギリだったらしい。
「三日間くらい来ないで諦めてたら、アイツとつきあえないぜ」
そうかなあとブツクサと呟く拓也を見ながら、自分は何をやってるんだと考えた。
「そんなに落ち込むなよ、みどりはまたひょっこり出てくるから」
多分コイツはつい一年前の自分なんだろうなあと小島は思った。みどりが学校に来るかどうかを毎日心配した自分なのだろう。
「そうかなあ」
まあ、ここまでメソメソはしてなかったと思うが。
「ああもうしょうがねえだろ、あいつ何処に住んでいるのかも良く分からないんだから」
「君も知らないのか?」
「学校に居るヤツで知ってるヤツは一人も居なかった。担任だって知らないんだ」
付き合っているのに連絡方法は無かった、さらにみどりは携帯電話も持っていなかったし打つ手は無かった。
「先生も知らない?」
「あいつの名簿、住所とか電話番号書いてあるけど一度も電話に出たことないんだって有名だった」
嘘なんかついてないぞと指を指しながら念を押した。
「俺も一度電話掛けたことあるけど一度も出なかった」
その事をみどりに言った何だか酷くバツの悪い顔をして謝られた。それ以来電話にでなかった理由も掛け直すことも小島はしなかった。
「何度も家まで送るよって言ったんだけど、凄く大丈夫だからって断られてさ。何にもやましいことはしないからって言っても信用して貰えなかった。まあ、今考えればその辺しつこく言ったから別れるって言われちゃったのかもしれないけど、それくらい頑なに住んでる所に来て欲しくなかった見たいだった」
「両親も居ないのに何処で暮らして居るんだ?」
「さあ、噂じゃ病院から通って居るんじゃないのかって言ってたけどなあ」
小島は何時も歩く海岸の向こうにある岬の方を差す。
「あの向こうに大きな総合病院があって、結構この辺じゃ一番新しくて綺麗な病院で有名なんだ」
まだ病院に厄介になったことのない小島は実感が沸かない様子だった。
「そこに行ったことのあるヤツが、みどりを見かけた事があるって言ってた」
「彼女の病気はそんなに重い病気なのか?」
「それも分からないんだ、アイツそれだけは絶対話してくれなかった。あんたもだろ?」
「ああ」
もし総合病院に通っているのが本当なら大きな病気なのだろうなあと考えた。それを裏付けるようなパーツは幾つか持っていた。特にあの小野田という医師の存在がそれを裏付けているような気がした。
開業医があんな高いスポーツカーを乗り回しているとは思えないし、そこに勤務していると考える方が都合が良い。
「前に主治医で小野田っていう医者が彼女を迎えに来たけど知っているか?」
「小野田・・・・・・あの高そうなスポーツカーに乗ってきたヤツの事か?」
「そう、たぶんそいつ」
「ああ、なんかこれ見よがしに白衣来て、顔がドラマに出てくるような医者って顔したヤツ」
小島は思い出したように喋りはじめた。
「あの医者ちょっと帰りが遅くなると直ぐにみどりを連れて行った」
学校の帰りどうしてもとみどりを山の方まで誘ったことがある。二人で見たいモノがあった。
「一度あの猫が見かけなくなったときがあって、一緒になって探し回ってたんだ」
みどりは足で、拓也は自転車で色々な所を探し回った。
「それで、結局みどりの家に行ってそこに居たんだ」
「なんだよ家の場所知ってるんじゃないか!」
拓也は思わず小島の肩を掴んで問いつめた。
「違う、昔住んでいた家だ!」
「住んでた?」
「両親がいた頃に住んでいた家らしい。今も人手に渡らないでみどりの家の物らしいけど誰も住んでない」
小島は再び手を挙げて遠くの方を指さす。少し小高いところにある一軒家が集中していた。
「あそこに昔住んでいた家があったんだ。あの山の住宅街の天辺で多分一番良い土地で、塀に囲まれた広い平屋の家。何でも昔から有名なお金持ちなんだとみどりの家は」
「けどそこには住んでいないんだ?」
らしいと小島は付け加えた。
「偶になんか物を取りに行ったりしてるみたいだった、みどりの私服って殆どお母さんのお下がりらしい」
品の良い上質なワンピースが多いと思ったら彼女に取って大事な宝物だった。そうやってあの家にはみどりの家族の思い出が詰まっている。
チラッと小島が覗いた家は良く掃除されていたがまるで生活感という物がなかった。そう、良く掃除されているだけで使っている感じがしなかった。まるで博物館のような感じでその家はひっそりと建っていた。
そこの塀の上にディンガーさんは立って居た。直ぐにみどりはその塀を慣れた手つきで登っていった。小島も続いて登ってみた。猫とみどりの二人は何か懐かしそおに塀の上から外を見ていた。
何処を見ているのだろうと思ったら海が見える方向だった。しかし周りの大きな家に邪魔されてよく見えなかった。そんな事より小島にはみどりが住んで居たという家の方が気になった。平屋だが十分広くて、庭も綺麗に手入れされていた。
凄い家だねと感想を言ったらみどりは寂しそうに笑っていた。私の小さい頃と何にも変わらないんだと、懐かしむというわけではなく何かさびそうに猫と共に夕日に佇んでいた。
そこに外から聞き慣れないエンジン音が聞こえてきた。
慌てて敷地の外にでると銀色のスポーツカーが止まっていた、降りて来たのは一人の医者だった。
「捜し物は終わったか?」
有無も言わせない強い口調でみどりを問いつめて確認をしたあと直ぐに車に乗れとみどりに指示した。
「あんたは?」
「医者だ」
それ以上の説明がめんどくさいのか、したくないのかさっさと踵を返した。
みどりもいつの間にか車に乗っていた。
ドアを開けて小島に向かって手を振った。
「捜してくれてありがとう」
「ああ、良いよべつに・・・・・・」
自分の返答がエンジンの爆音で消されたのを感じた。あっという間に大人はみどりを連れ去ってしまった。
「そん時見ただけだけど、印象強く残ってるなあ」
聞けば聞くほどみどりが暮らしている環境が分からなくなった。拓也は途中で買ったコーヒー缶の存在を思い出して開けてみる。ぬるいコーヒーを流し込みながら、彼女の生活している場所を考える。
「やっぱりずっと病院に居て、あの小野田と言う医者に面倒見てもらってるのだろうか?」
拓也がある程度の結論を出した。
「だとしたら俺たちが付け入る隙なんて無かったんじゃないか?」
「隙?」
「ほら相手は医者だし背が高くて格好良くて金持ちだろう?俺たちより絶対女の子だったそっちに靡くぜ」
第一みどりはあの男の事は絶対視しているように見えた。あんなに素直に、まるでロボットのように命令を受けるとその通りに動いていた印象があった。
「じゃあ何で君の告白を受けたんだ?」
「わかんねえ、遊びだったとか言ったら怒るんだろうアンタが?」
缶を強く握っている拓也を見て小島は予想通りで面白かった。
「ホントにみどりって不思議なヤツだよな」
小島は懐かしそうに思い出す。
「付き合ってくれって言ったときアイツはなんて言ったと思う?」
「なんて?」
「面白くねえなあ、ちゃんと考えろよ」
腕を組んで拓也は考え始めた。まじめなヤツだなあと小島は内心大爆笑だった。
「何も出来ないけど良いとか?」
小島は空を見上げて黙ってしまった。
「なんだよ、ちゃんと考えたんだぞ」
「何でそう思ったんだよ?」
小島は興味なさそうに呻いた。
「八島さんは何か自分には何も無いみたいな事を時々言うからさ・・・・・・自分のメリットの事より先に他人の事考えるクセがあるし」
「アンタ一体何者なんだよ?」
「何者って・・・・・・」
「正解、正解だよ」
面白くなさそうに小島は手を叩いた。
「アンタが言ったようにみどりは何も俺に要求しなかった、他のヤツがどっかつれてけとか振り回されているの見ながらやっぱ変わってるって思った」
自分もそれで良かった。一年、二年と声を掛けられなくて、最後の学年になって慌てて付き合ってと思いを打ち明けた。
「けどその告白した時のみどりの困った顔が最後まで離れなかった」
今考えればそうなのだ、多分自分の事を考えていたから困ったのだ。断れば傷つくだろうし、断らなくても傷つけてしまうとみどりは考えたんだろう。
「なんか本当に何もかも他の子とは違ってるよみどりは。時々思うときがあった、みどりはこの世の人間じゃないんじゃないかって。妙にリアルな幽霊とかそんな気がするときがあった」
冗談だがそう思わずに居られないときが有る。すこし恥ずかしながら拓也の方を見る、最近みどりとつきあい始めた拓也も小島の考えを否定しなかった。
「アンタもそう思う?」
「この前まではそう思っていた」
拓也は立ち上がって海の方を見た。
「けど、ディンガーが死んで悲しんでいる彼女は紛れもなく普通の女の子だった」
その時小島はコイツには勝てないと思った。
どれくらいこのオッサンの頭にはみどりの事が詰まっているのだろうか?
「ありがとう、少し納得が行った。」
「本当に?」
「少なくとも彼女と会う手がかりが少し出来たよ、僕も時間だけは沢山あるから捜すのには苦労しない」
「多分全部なんだろうなあ、アンタの頭の中は」
はあと聞き返して、拓也はベンチに座る少年に頭を下げた。
「俺はもう明日には東京に戻るから、手伝えないけど頑張ってみどりの居場所を捜してくれよ」
「あっその前住んでいた家まで案内してもらおうと思ってたんだけど」
「冗談だろう、振られた男と振られたかもしれない男がどの面下げて彼女の居るかもしれない家に行くんだよ」
「僕の場合はまだ分からない」
「だったら一人で決着付けに行ってくれよ」
俺はもういいと小島は疲れた様子でベンチに横になった。
「煉瓦の塀で囲まれた家はみどりの家だけだから行けば分かる」
「わかった、色々とありがとう」
良いから早く行けよと手を振った。
拓也は直ぐに家に帰ることにした、自転車を取りに行くのと、一日ほったらかしにした髭を剃って身なりをちゃんと整えようと思ったからだ。
(まだ希望があるかも・・・・・・)
何度目か数えてないが、また同じ事を繰り返した。よくもまあ飽きないと自分に呆れながら拓也は足早に山を下りた。
「まったく、どっちが年上なんだよ・・・・・・」
嬉しそうに走っていった拓也を見て若いなあと小島は感心してしまった。
まあ何にしても、振られた彼女の為に何で俺はこんな事やって居るんだろうと考えると笑えて来た。
(ただみどりのことが好きだったってだけなんだろうな)
教室の角で誰とも仲良くなることなく、淡々と暮らしていく真面目なみどりの姿に惚れてから告白するまでの長かったことと、告白してから別れるまでの短かった時間の事を思い出す。
この鬱蒼とした木々の屋根の下でつまらない話を楽しく沢山した。それで満足だった筈だった。
だからそれ以上を求めようとして彼女に拒否を突きつけられた時に酷く後悔した。あの時未来を予想できる力があれば、まだみどりは自分とこのベンチに座ってくれたのだろうか?
「馬鹿臭い」
せめて今度みどりと会うとき彼女が難しそうな顔をしているのではなく、ただ楽しそうに笑っていて欲しかった。
その為にはあのオッサンに頑張ってもらわなければいけないんだと思うと情けなくなった。
けど良い線は行っているような予感はした。
「俺って良いヤツだったんだなあ」
小島は腕を目元に当ててしばらく動かなかった。
「確かに分かりやすいな」
と言ったものの実際はなんだかんだと捜してしまい、もう日が落ちそうになって居た。
その家は小島の言うとおり、山の上にあって、静かな林にかこまれていた。
古い煉瓦の塀に囲まれて、大きな鉄の門の間からは夕日を浴びてオレンジ色に輝く屋根の大きな平屋が見えた。広い庭が印象的で一瞬で拓也は古いがいい家だと思った。
周りの他の家は殆どが新しく大きな二階建てなので、みどりの家の古さが際だって見えているのかもしれないが。この家だけ何処か時代に取り残された懐かしい空気を漂わせていた。
「ここで八島さんは暮らしていたんだ」
門に手を掛けながら、拓也はストーカーみたいだなあと思いつつもみどりの事を思った。実際殆どストーカーなのだが、もうこんな場所くらいしかみどりの後を追う方法が無いのだ。
今はどんな小さな可能性でも拓也はすがりたい一心でここまで来た。
「あれ?」
大きな鉄の門に手を掛けると簡単に動ごいた。
「入れるのか?」
罪の意識もしないで拓也は家の敷地に入っていった。普段の拓也なら絶対やらないが、そんなことは構っていられなかった。門が開いたと言うことは、中にみどりが居るのかと思った。
おそるおそる敷地に入り、庭の方から回ってみる。
確かに庭は良く手入れされていて、何か不気味なくらい整っていた。本当は誰か居るんじゃないのかと思ったが、やはり家からは何も音がしなかった。空いている窓も全部カーテンが掛かっていて中の様子は覗けない。
「ここで家族と暮らしてたのか」
そんなことを考えながら庭を散策すると、小島と会話したことを思い出す。
「なんか本当に何もかも他の子とは違ってるよみどりは。時々思うときがあった、みどりはこの世の人間じゃないんじゃないかって。妙にリアルな幽霊とかそんな気がするときがあった」
昼にしか見えない女の子。そんな馬鹿なと考えても、確かにそうだった。彼女は何時も日が沈む前には必ず帰って行った。日が昇ると同時に活動して、沈む頃に眠りにつくのは動物としては正しい行動かもしれない。
けど、世の中には夜行性の動物もいるし昼夜逆転している生活をしている人間もいるし、つい半年ほど前の拓也は昼夜も何もない仕事かそれ以外かの生活しかしない人間も居るのだ。
(規則正しい生活って健康の第一歩か?)
やはりここまで自転車を漕いでも息が上がらなかったのは、健康的な生活を行っているからだろうか。だからみどりも努めて日が出ている間動いて、夜と共に寝ているんだろうか?
何にしてもみどりの病気は特殊で、置かれている状況も特殊なのだ。
だからあの子は猫の死にあんなに悲しんで、同年代の男の子に遠慮がちに付き合ったのだろうか?
何か根本的に想定外のパーツが存在していると拓也は手入れされた庭の芝生を踏み込みながら考えた。適度に柔らかい、綺麗に刈り取られた庭を見て何だか薄気味悪いものを感じた。
まるで博物館のようにこの家は何もかもが整っているように見えるのだ、誰かに見せるために綺麗に整えられている。
(それは多分八島さんの為になんだろうけど・・・・・・)
それにしては何か異様なものを感じた、住んでない家をここまで綺麗にしておく理由が分からない。
あの子はここにも何を隠してるんだろうか?
拓也はボンヤリと夕日の方を眺めた、塀が高くて良く海の方が見えない。
海の近くの家が塀で囲まれているのはやっぱり潮風対策なのだろう、自分の家の無防備さを改めて感心した。ここは高台だから海がよく見えても良いはずなのだが、周りの家が大きくてちょっとよく見えなかった。
もしかしてディンガーさんが家の方に現れるようになったのは、海が見づらくなったからかなと考えてみた。いや猫だから別に屋根の上に登れば一望出来る、別に近くなくても良ければこの辺でも良いだろう。
(違う違う)
今日はみどりを探しに来ているのだ猫ではないと言い聞かせるが、どっちも同じように気まぐれで自分勝手に思えた。
何処にいるのかと考えると不安になる、見えるまでそれは確信ではない。生きているか、死んでいるかもだ。思いこむことでしか確信を得ることは出来ない。当たり前だが、そう言うことに気が付かされる。
時間も置き去りにされた誰も住まない家の敷地の中で、拓也は次の手を考えていた。次はあの岬の先の病院だ。そこが駄目ならこの辺りの病院を探すまでだ。
段々と目的が絞られてきて、拓也は少し楽しくなってきた。
そう思いこまないとやってられないからだが、自分なりにずいぶん感情をコントロール出来るようになったと思った。
妙なやる気が体から溢れてきたところで、それは何時もの様に爆音に乗ってやってきた。
「この音は?」
門の方に目をやると、銀色のスポーツカーが停まった。
小野田の車だ。
門が動く音がして、小野田は何時もの様に白衣姿で現れた。
「お前だけか?」
挨拶もなしに小野田は確認した。
相変わらず無粋な言い方に拓也は不快感を覚えたが、今唯一のみどりへ辿り着く希望をみすみす逃すつもりはなかった。
ああ、と返事をすると、周囲を見渡して鼻を鳴らす。
「なんだ、門が開いてるから期待した」
「彼女は?」
「分からんから捜してるんだ」
そう言って踵を返して車の方に向かう。
「オイ、ちょっと待てよ」
拓也は慌てて車に飛びつく、既に小野田はアクセルを踏み込もうとしたところだった。
「邪魔だ」
「彼女は何処に行った?」
「分からないと言っただろう?」
運転席の横窓にへばり付きながら拓也は必死に小野田を止めようとした。
「俺も捜すの手伝わせてくれ」
小野田はそれを聞くと直ぐ右手で一回だけ助手席を指す。ありがとうと言って前から回り込んで拓也は助手席に座り込んだ。深いシートに体が沈むか沈まないかくらいで車は急発進した。
「おいまだちゃんとドア閉めてないぞ!」
「じゃあさっさとしろ」
直ぐにドアを閉めると、また車は忙しなく動いた。あっという間に住宅街をくぐり抜け、海岸通りの大きな道路に出た。
「一体何をそんなに焦って居るんだ?」
さっきから前しか見ない小野田に向かってやっとシートベルトを締められた拓也が声を掛ける。
「良いから良く目を見開いて外を見てろ!」
「なんだっていうんだ」
「早くみどりを見つけないと面倒になる」
隣のドライバーが顔には出さないが、相当焦っているのを拓也はやっと気が付いた。
「彼女の病気はそんなにヤバイのか?」
「守秘義務だ」
「言うと思ったけど、これだけ必死に捜していたら誰でも説明は求めると思う」
車が急なカーブに達する度に、後ろの方が勝手に動く感じがした。拓也は必死に天井横にあるバーを掴んで、小野田の運転に体を任せながら説明を求めた。
「朝から彼女の姿が見えない」
病気の説明は出来ないが、状況の説明は出来ると言いたいのか小野田は朝から今までの説明をした。
「正確には午前中までは病院の近くに居ると思っていた、所が位置情報端末を持ってたのは近くをうらつく野良犬だった」
「あんた、彼女にそんなもん付けていたのか」
小野田が何時も車で察そうと現れるカラクリはテクノロジーの産物だった。
「彼女の命を守るのが俺の仕事だ」
「プライバシーも何もあったもんじゃない」
「彼女も承知している事だ」
それでも拓也には納得できなかった。まるで、愛玩動物のような扱いのような気がした。
(だからディンガーさんを飼わなかったのか・・・・・・)
考え過ぎかと思ったがたぶんそうなのだろう。
「承知していて今までこっちを撒くようなことをしなかった、所が今日初めて彼女が何処にいるか分からなくなった」
初めてと言うところに小野田の焦りがあるような気がした。
「みどりが初めて自分からこちらとの鎖を断ち切った。事の重大さに気が付いてスタッフは大あわてだ。駅に問い合わせても、彼女が外を出たという確認は出来なかった。それぞれの監視ポイントからも何時もの様に異常はないと連絡をもらった」
「監視ポイント?」
「まあボランティアみたいなもんだ、みどりに何かあったとき、また彼女がこの土地を出ようとしたときに連絡する仕組みになっている」
たった一人の患者にそこまで徹底した監視網を引く理由が思い付かない。まるで漫画か何かの世界の話にしか聞こえない。
「そこまでやっていて彼女の居場所が分からなくなった」
「つまり?」
「最悪のケースも考えている」
小野田の言う最悪は彼女の死なのだろう、拓也は自分が捜しているみどりの今置かれている状況がやっと理解できた。
「なんでそんな事に?」
拓也の言葉に反応するように車は急停止した。前に体が浮いたと思ったら次の瞬間深いシートに押しつけられた。危ないだろうと抗議しようと運転席を見ると、小野田が腕を伸ばしたまま初めて拓也を一瞥した。
「原因は君だろう?」
冷たい視線が一瞬拓也を捉える。
「昨日彼女は病院に笑いながら帰って来た、滅多にないことだ嬉しそうに帰ってくるなんて」
拓也はみどりは病院で暮らしているとやっと確証が持てたが、そんなことは知っているという前提で小野田は喋る。
「何時も何か諦めたように帰って来ては、哀しそうに眠りについている。所が昨日は嬉しそうにベットに入っていったよ。まるで早く明日が訪れるようにと願うようにだ」
「小野田さん、あなたはみどりの・・・・・・」
「俺はみどりの主治医だ、メンタルの面まで気を使っている」
車は駅前に着いた所だ。夏休みの間で私服の学生達の姿が目に付いた。この中にみどりが居るのだろうかと考えて、違うと思った。
「みどりはきっと楽しい未来を見ていた。ところが夜に夢を見て絶望してしまったのかもしれない」
「絶望する?」
「彼女の眠りは僕らの眠りとは違う、何時も彼女は夜に夢を見ると言っている」
「どんな?」
もう既に小野田が戯言を言っているのか真実を言っているのかは拓也は疑ってなかった。
「死者が訪れる海岸で誰かが来るのを待っているらしい」
小野田の言葉が拓也の頭にある記憶と繋がった。
「だから信じて待っていれば、居なくなってしまった人ともきっと会えると小さい頃は信じていたんです。けど、信じたって人は死んでいく。そして、流れ着くように海岸に集まるんです。」
死者が流れ着く海岸、彼女がディンガーさんが死んだときに話してくれた。もしもそう言う場所があったらどうすると?
「私は何時も気が付くとその海岸で待ってるんです誰かが来るのを、でもそこに来た人はもう二度と他の場所では会えない。そこで会ったら最後なんです。私が海岸でその人に会うのはその人はもうこの世には居ないんです。だから来ないで欲しいと思っても、そこで会ってしまったんですディンガーさんに。だから、昨日は悔しかった、ディンガーさんだったらきっと海岸で会ってもこっちで生きていてくれると思ったのに」
そこで会った者はこの世ならざる存在として認知される。
それがみどりが見ていた夢なのか?
「最近はその夢について彼女は深く考えるようになって居た。起きると何時もその夢のことを思い出しては泣いていた」
「みどりちゃんが?」
「ああ、病院では良く泣く」
あの子の笑っている顔や怒っている顔は幾らでも思い付くが、泣いてる顔は思い付かなかった。拓也はやっとあの子が抱えている孤独の姿が見えてきた。足りないパーツは後一つだった。
「小野田さん教えてくれ」
「駄目だ」
「そこまで喋っておいて、どんな病気かだけは教えてくれないのはなぜだ?」
もう、既に医者の義務とかそう言うことを言っている場合じゃない。それにそこまで伏せておかなければ行けない理由が分からなかった。
「彼女が君に言っていない事を俺からは言えない。言えるわけがない」
ギュッとハンドルを強く握る音が聞こえてきた。
「彼女には自分で決めて貰いたいんだ全部、押しつけた生き方をさせたくない。」
この土地にみどりを縛り付けておいて、決めて欲しいとは何だか勝手な気がした。怒りたかったが、シートに深く体を押し込んだ小野田は何処か限界を超えているように見える。酷く疲れているのは確かだ。
「一体何処に居るんだみどりは?」
敗北感を含んだ小野田の声に、拓也はこの自信の固まりみたいな人間もみどりの事になると冷静では居られなくなるらしい。
「あんたの話だとこの町は出てないんだろう、じゃあ行き場所として思い付く場所は一つだけだ」
縋るように小野田は拓也の顔を見た。
「いや、もう捜してるよな当然海岸の、ディンガーさんが死んだ所なんて・・・・・・」
その場で銀色のスポーツカーは弧を描いて綺麗に反転した。道路に黒いラインを植え付けて全速力で走り去った。
「危ないだろう!」
拓也の抗議も小野田には聞こえなかった、車は一目散に小さな海岸を目指す。
「もう日が落ちる」
小野田の呟きは何かを諦めていた。
あっという間に付いた海岸、車を二人とも乗り捨てるように直ぐに浜に降りた。
「俺はこっちを捜す」
海岸の調度真ん中にある階段の所で車を止めたので、二手に分かれて捜すことになった。左側を捜す拓也は確かこの辺でディンガーさんは死んでいたと思い出した。
そこに居るという確証は無かったが、そうでもしないともう縋るものはなかった。
久しぶりに海岸を走った。いや海岸だけでなく誰かのために一生懸命走ったのなんて初めてかもしれない。体が張り裂けようとも足だけは動いた、いや動かせる自信があった。
拓也はもつれそうになる足と格闘しながらも一点の場所を目指す。テトラポットが並ぶ中の小さなくぼみ、アタリはすっかり薄暗くなっていたので、遠目からはわかり難い。
それでもテトラポットに沈み込む小さな体を見つけたときは、何か救われたような気がした。
「みどりちゃん!」
小野田にも分かるように大声で叫んだつもりだった。
「小野田さん、みどりちゃんが居たぞ!」
小野田はもう既に遠くの方にいて、中々こっちの方を気が付かない。仕方なくとりあえずみどりの方へと近付いた。
遠目に座り込むみどりを見て拓也は不安になった。
やはり何か病気で体が動かないのだろうか?
「みどりちゃん大丈夫?」
顔が分かるくらい近くによって初めて気が付いた。薄暗闇にとけ込むように来ていた濃紺のワンピースから零れるようにだらしなく投げ出された手足、そしてまるで色がない顔を見て拓也は足下がすくんだ。
それは最近見た幾つかの事を思い出した。
「違う」
自分の両親と最後病院で会った時のことを思い出して直ぐに否定した。
確かめようとみどりに近付く、彼女は置物のように微動だにしなかった。
「違う!」
馬鹿なことを考えるなとみどりに手を伸ばす。伸ばした手で横たわる彼女の両肩を掴んだ、そして直ぐに離してしまう。
「嘘だろう?」
引っ込めた手をもう一度伸ばしてみる、小刻みに自分の手が震えているのがよく分かった。もう一度掴んで布越しに伝わるその冷たさに恐怖した。
「みどりちゃん! オイ、みどり!」
体を揺すってもまるで反応がしない、閉じた目は開かず、壊れた人形のように手足はだらしなく垂れ下がっていた。
直ぐに胸に耳を当ててみた。彼女の身体は冷たく何も聞こえなかった。みどりの全てが停止していた。
「そんな、なんで・・・・・・君までディンガーと同じように」
気が付いたら涙はあふれ出て停まらなくなっていた。拓也の嗚咽が誰も居ない薄暗い海岸に染みつくように吸い込まれた。
彼女の肩を握ったまま、どうして良いのか分からずにただその場にしゃがみ込んでしまった。
「おい、見つけたら直ぐに声くらい掛けてくれ」
いつの間にか小野田が拓也の方へと歩いて来た。しかし、拓也にはそんなことはどうでも良くなっていた。ただ八島みどりの死体の前で泣き続けるだけだった。
直ぐに状況を察知したのか、小野田は歩みを緩くしてゆっくりと近付いて行った。
そして携帯電話で簡単に連絡をした。
「なんでこんな所で」
冷たくなったみどりを抱きながら、拓也はあふれ出る涙を抑えることが出来なかった。唐突だからか、それとも考えている部分が違うのか、親の死を見たときだってこんなにも涙溢れることは無かった。自分でも何が外れたか分からないくらい停まらないで、みどりの頬を濡らし続けた。
「ここであの猫も死んでいたのか?」
「だからってなんでみどりが後を追う必要があったのか?」
「違う彼女がそこで死んでいるのは病気のせいだ、彼女はここに日が沈むまで居たらそうなることを知っていてそこに居た」
「なんでだよ?」
「君だったら見つけてくれると思ったんじゃないか?」
いつの間にか取り出したタバコを加えながら、小野田は至極冷静に目の前の状況を観察していた。
「俺には此所だと思い付かない・・・・・・君とみどりの大事な思い出の場所なんだろう?」
「だからなんで・・・・・・死んでなきゃならないんだ!」
その時小野田が何処か苦笑したような気がした。拓也は恨めしそうにタバコを吸う小野田を睨む。
「何を呑気にたばこなんか吸ってやがる、もとはあんた達がしっかりしてないからだろうが」
「逆恨みだな」
直ぐに拓也は体が動いた、足がもつれながらも小野田に向かって突進する。
「逆恨みで!」
何が言いたいか分からない拓也を小野田は慣れた手つきで半歩軸をずらして簡単に避けた。拓也はそのまま海岸に顔毎突っ込む形で倒れ込んだ。
拓也を避けた後小野田はそのままみどりに近付いた。
そして、両腕を抱えるように慣れた手つきでみどりを抱え込んだ。
「まったく無茶する」
感情を極力廃した表情からは微かだが見つけた喜びが零れていた。砂で良く前が見えない拓也にはそんな小野田の表情は見えなかった。
小野田はみどりを抱えたままスタスタと歩き始める。女の子を抱きながら海岸を何の苦もなく歩いていった。
「おい何処に行くんだ?」
「決まっているだろ病院だ」
情けないながらも必死に追いついて、拓也はみどりを抱える小野田に近付いた。
「僕も行く」
「残念ながら俺の車は座席は二つしかない」
そう言って小野田は助手席にみどりを座らせてシートベルトを締めた。
「アンタずいぶん冷静だな」
皮肉を込めて拓也は何時もの様にサイドウインドーにしがみついた。
「そう見えるか?」
「人が死んでるんだぞ」
「そうだな」
「だから医者って嫌いなんだ、人の死を簡単に扱いやがって」
その時初めて小野田の手が拓也の首元に伸びた。白衣で分からなかったが太く鍛えあげられていたその腕は怒りで震えているようだった。
「俺は人の死を簡単に扱えるほど呑気な生き方はしていない」
「じゃあ何でそんなに長く付き合っているみどりに対して言葉一つも掛けてやらないんだよ」
一歩も引かない拓也の目を見て小野田は直ぐに手を引っ込めた。そして、胸ポケットから一枚の名刺を取り出した。
「病院の場所は分かるな?」
名刺には八島総合病院と書かれていた後に、見慣れない役職の文字が並んでいた。
「応用法医学研究室長?」
「院に付いたらその内線番号に電話しろ迎えに行く」
「オイ何するんだ?」
「説明しても分からん、それに俺の口からは言えないと行っただろ?」
そう言ってパワーウインドウのスイッチを押して窓を上げた。
ドンドンと拓也がドアを叩く音が聞こえたが、気にしないで車を発進させた。
名刺を握りしめてただ道路に立ち尽くす拓也をバックミラーで確認した後、横で死体となった八島みどりを見た。
「君は一体どんな夢を見ているんだ?」
高回転のエンジン音のお陰で小野田の優しい声が車外へ零れることは無かった。車はテールランプを灯らせて病院へと急いだ。
結局拓也が病院に着いたのは夜の十時を過ぎていた。
なぜそんなに遅れたかというと、一つは拓也唯一の移動手段をみどりの実家に置き忘れていたこと。結局自転車を取りに行ってから、岬の先にあるこの「八島総合病院」に来るまでにえらく時間が掛かった。
八島総合病院は森に囲まれた広く大きな病院だった。
建物は新しく綺麗で、ビルの角は丸く整えられていて病院特有の圧迫感も無い。電灯の明かりに浮かび上がっているので全貌はよく分からないが、綺麗で大きな病院なのだろう。
自分の両親達が通ってた病院に比べればホテルみたいな所だった。
夜間受付の守衛にモノを尋ねるとき、名刺を見せると直ぐに連絡を取ってくれた。
程なく小野田が迎えに来た。
「遅かったな」
「自転車を取りに行ってた」
「てっきりもう来ないかと思っていた」
「ふざけるな」
先へ進む小野田に低く声を掛ける。
「すまん」
珍しくというか初めて小野田に謝られて少し拓也は大人げなかったかなと恐縮した。
(なんなんだコイツは)
拓也の小野田に対する印象が変わりつつあった。
みどりが冷たくなっていたのに、さも当たり前の様に担ぎ上げて病院まで運んだ。まるでその死が当たり前の如く振る舞っている。
彼女の主治医として長く係わっているはずなのに、妙にあっさりしすぎている。
ただの冷血漢にしては、こうやって拓也を呼び寄せたりしている。
拓也の不安は病院の奥に入るに従って拡大していった。階段を昇って三階のフロアに付くと拓也は鼻に付く臭いを感じた。
(ああ病院の臭いだ)
今年に入って体に染みつくほど嗅いだ臭いが微かにした。そう、ここは幾ら新しく綺麗でも病院には違いなかった。消毒液と他の薬品が醸し出す臭いがする。拓也がその臭いを嗅いで思い出すのは死だった。父も母もこの臭いの中で息を引き取った。
そしてまた息を引き取った子に会いに行く。歩みは億劫になっても良いはずだが、迷わず前に進んだ。真実が知りたいと、体全体が欲しているような感じだった。
小野田が扉の前で立ち止まる、ずいぶん厚い鉄製の両開きの扉だ。胸からカードらしきモノを取り出すと、扉のノブの所に付いていたスリットにそれを通す。
ガチャっという機械音と共にロックが外れ扉を開く。
(ずいぶんと厳重だ)
遺体が安置されているところにしては物騒な扉だった、拓也は自分が本当にみどりの所に連れて行って貰えるのか不安になってきた。
扉を開けた先は薄暗く足下の非常灯だけが灯っていた。やけに広い一本だけの短い廊下の先には窓がある、遠くにまた海が見えた。右手には扉が二つ、手前に小さい扉、窓側の奥手にはベット毎入るような大きな両開きの扉、左手にはエレベータらしい扉がある。
「ここは隔離病棟の一つで一般の人間は入れない、本来は地下の駐車場から直接入る場所だ」
「地下の駐車場?」
「このビルの下にある、病院関係者専用の駐車場だ」
拓也には何が言いたいのかさっぱり分からなかった。
「それが彼女とどういう関係があるんだ?」
「彼女は普段この隔離病棟の中で夜を過ごしている」
「そんな危険な病気なのか?」
「だったら毎日太陽の下出歩かないさ。別に感染症の為の隔離病棟じゃない。病院へ通って居るのを知られたくない人間が使う特別な病棟だ」
「なんでそんな所に・・・・・・」
質問に答えずに小野田は奥の扉に向かった、扉を開けて拓也を招き寄せる。拓也が中を覗き込むとそこは大きな窓が付いた広い部屋だった。そして真ん中には白いシーツのベットが一つ、そこからコードが出て心電図をモニターする小さな機械が繋がっていた。
ゆっくりと中に入ると、ベットの上にみどりが横たわる。大きな窓から月明かりが差し込んでみどりを照らし出していた。
微動だにしない姿を見てまた拓也は愕然とした。物音一つ無いこの部屋でみどりは今静かに眠っている。あの雨の日のディンガーさんと同じように目を閉じて静かに動かない。
動いていない心電図の方に一つ椅子があったので、みどりの横で拓也は腰を下ろす。そして懺悔するように手を合わせ彼女の横で啜り泣いた。
何も出来なかった、何も知ることが出来なかった。
彼女が何を考えて、何を感じていたのかを確認する術を全て失った。拓也はものを言わなくなったみどりの前で、自分も言葉を忘れて泣いた。
いつの間にか小野田は消えてみどりと部屋で二人っきりになった。
そう言えばみどりを夜に見るのは初めてだった。陽射し輝く時間にしか会ったことがなかった、天気に会わせて怒ったり、笑ったりするみどりを思い出す。
目の前で何の表情も、喜びも、哀しみも無く静止している彼女はとても綺麗で残酷だった。
(何で・・・・・・僕は此所に居るんだろう)
拓也には分からなかった。
彼女の未来が無くなってしまった事を悔いているのか? それとも自分と一緒に思い出を作って行くことが出来なくなったのを悲しんでいるのか? それともこうなる前に何か出来なかったのかと自分を責めているのだろうか?
少なくとも死んだみどりの前で拓也は動けなかった。
現実を目の当たりにして小野田にみどりの死因や今までの説明を聞く気にもなれなかった。
ただ目の前の白いベットに横たわるみどりを呆然と見ていた。そして重い頭を支えながら苦悩する。
気が付くと泣き疲れたのか拓也はベットの脇に頭を置いて寝ていた、死者の横で同じように眠る。
日が差し込んでくるのが分かった、空調によって冷やされた部屋を暖める。
そして自動的にエアコンの音が少しうるさくなる、またこの部屋は冷たく沈み込むのだと拓也は薄い意識の中で感じた。
その時手が何かに触れた、徐々にだがそれは暖かくなり拓也の手を包み込む。
柔らかい温もりに覚えが合った。
ついこの前に感じたそれは、もう在るはずのない彼女の温もりだった。
何の冗談だよと妄想に耽る自分の頭を醒まそうと目を開ける。目の前に日の光が差し込むまぶしいと薄く開いた目に映るのは薄暗い窓の景色と小さなシルエット。
肩にかかった髪が揺れて、彼女はそこに居て拓也を哀しそうに見ていた。
「おはよう」
極自然に八島みどりは朝の挨拶をした。何事もなかったように目を開けて拓也の手を握る。目にはうっすらと涙を貯めて。
「御免なさい」
信じられない物を見てただ呆然とする拓也を見てみどりは視線を外す。
それでもお互い手だけは離さない。
感触を確かめて嘘ではない事を確かめようとする拓也の手と、それに足して謝るように従順に寄り添うみどりの手が重なる。
「嘘じゃない」
拓也は白い寝間着のみどりを見る。
「本当に君は生きているの?」
応えずにみどりは俯く。
「僕が君を海岸で見つけたときとても冷たかった。胸に耳を充てても心臓の音も聞こえない、僕は完全に君がこの世からいなくなってしまったと思って・・・・・・」
「御免なさい」
拓也の右手に両手を添えてみどりが謝る。
「本当に御免なさい・・・・・・」
目の前で初めてみどりは泣いた。今までため込んでいた物が少しずつ溢れ出る。
「でも私、自分でも分からなくなったの、自分で何がしたいか分からなくなってね」
幼い声が広い病室に響いた。
「沢山考えたけどもう動けなかった」
「みどりちゃん・・・・・・」
「手を握りながら眠る拓也さんを見てね、私はこれ以上此所にいてはいけないって分かっていても止められなかった。もっと一緒に居たいと思った」
前髪で表情を隠しても落ちる涙は隠せなかった。
「それは僕も思ったよ、だから君に・・・・・・」
「けど私は手を離さなければいけないの、夜私の手は熱を失ってしまう。私は此所で眠らないといけないの、死んだ人間が病院から出ては行けない」
「君は生きてるじゃないか?」
拓也も両手を添えてみどりへ懇願するように顔を覗き込む。振り切りように顔を振って拓也の手を離した。
「私は毎日死んでいるんです」
そんな言葉が在って良いのかと確かめるように、拓也はもう一度彼女の手を握ろうとする。
「毎晩この世界と違う場所で待って居るんです、誰かが来るのを」
「待つ、誰を?」
「私はどっちの世界にも中途半端な存在なんです、寝ても覚めてもどちらかの世界で行き交う人々をただ眺めて居る」
拓也は何時かみどりが言っていた言葉を思い出す。
「何時か君が言ってた海岸で誰かを待っているって事?」
「良く覚えてますね」
「君と居た時間の事はしつこいくらいに販推しているから」
「私の話ちゃんと聞いてくれてありがとう」
「僕にはそれ位しかできない」
振りかえればお互いがお互いの話をした。今まで合ったことを確認し合うように拓也とみどりは会話をしていた。それが拓也にはこれ以上なく幸せで、みどりには楽しくもあり逆に不安を掻き立てるものになっていたのだと拓也は気が付いた。
それが自分が特殊な体質で在るという負い目が合ったんだと拓也は後悔する。
「これ以上拓也さんに何もしてあげられないんです、昼の間だけ現れる幽霊なんです私は」
「幽霊ならこの手は掴めないじゃないか・・・・・・」
「また夜が来れば冷たくなるんです、私はその時あっち側で誰かの死と向き合うんです。みんな生きている時みたいに元気で居るんです。お父さんもお母さんもお祖父ちゃんも、私が好きだった人全員があそこには揃って居るんです。今はディンガーさんも居る・・・・・・みんなあの海岸に集まって笑っているんです」
何か急にみどりは懐かしそうに喋り始めた、薄暗い部屋で静かに笑う。
「時々あの場所にずっと居たいと思うんです、私は本当はもうあっち側の住人の筈なんだって」
そんな怖いこと言うなよと強く手を握ったが、みどりは握り返しては来なかった。何か忘れ物を思い出しす様に呆然とするみどりを見て、拓也は自分の涙が乾いた頬を拭った。
結局今日はそこまでしか拓也はみどりと会話をする事が出来なかった。
上半身を起こしてベットの上で惚けるみどりを見ているのが辛く、程なく小野田が入ってきてどうすると聞かれたので、とりあえず帰ると応えた。
送ると車に押し込められ、付いた場所は家の手前の例の海岸だった。
まだ朝早く誰も居ない殺風景な風景が何時もの様に続いていた。程なく二人でベンチに腰を下ろす。もちろん背を向けて両端に陣取った。
小野田は取り出したタバコに火を付ける。
「納得したか?」
「できない」
だろうなと言う顔をして小野田は鼻を鳴らした。
「彼女の病名は「不明」だ」
「なんだって?」
馬鹿にしてるのかと怒ろうと思ったが、振り向いて見えた小野田の背中は自信を損失した惨めな姿だった。
「全く分からないんだ、日が沈むのと同時に心肺停止状態に陥る」
みどりの体は正確に夜を迎えるとその体の活動を停止してしまう。
「そして夜が明けると共に再び命が芽生える。それが毎日繰り返されている、彼女の病気が本格的に発症した時から変わらずな」
「何時から?」
「小学校に入る前からだ、最初は誰も気が付かないくらい緩やかな症状だったが小学校に上がる前には完全に今のサイクルで心肺停止状態に陥る」
「直る見込みは無いのか?」
「言っただろう「不明」だって」
小野田は携帯灰皿にタバコを押しつけるとすぐさま二本目に火を付けた。
「冗談の様に現代医療が通用しない。遺伝的や精神的に見ても彼女は健康そのものだ、なのにあの死の世界に毎日片足突っ込んでいる」
死の世界とはずいぶん詩的な言葉を使って小野田は説明した。
「俺は法医学で人の死の提議を研究しているんだ」
「脳死とか?」
タバコを持った手で良くできましたと拓也を指す。
「そう、そういう問題に対して医学的な立場で判定を下す」
小野田は再び咥えて口に煙を含む。
「だから彼女のように毎日死んで毎日生き返る人間を見ていると気が狂いそうになる、俺たち法医学者、医学に係わる人間全ての認識を簡単に壊してくれる。全く、彼女を知らなければ俺の仕事なんか楽なのに」
拓也が想像していた小野田の印象とは正反対に、タバコを吸っている小野田は流暢に喋る。
「彼女の亡くなったお祖父さんがあの八島病院を作った、実際はその息子、みどりの父親に当たる満雄先生が指揮を執られた。僕はその八島満雄ラボの最後の研究生だった」
小野田が大学生の時に感銘を受けた講演者が八島満雄だった、それ以来大学を転籍してまで八島満雄に従事して終末医療問題に関わっている。
「満雄先生が病院を作るときに教えてくれたのが彼女の存在だった」
小野田は初めてみどりに会った時のことを思い出す、あの山上の家で一人で遊んでいたみどりの事を。
「夜、死んでいる彼女を見た時僕も言葉を失った。次の日、陽光の下を元気に歩くみどりを見て僕らはこの世の摂理を超えた力が有るのかと研究に没頭した」
その為の施設として父が建築を目指していた最新の総合病院を自分の研究用に仕様変更して満雄が「八島病院」を建てた。その矢先に事故が起こった。
「唐突な旅行中の事故で満雄先生が奥様と一緒に亡くなってしまって研究は中止になった」
研究は八島満雄と言うリーダーとスポンサーを兼ねた人物が居なくなったところで自然的に消滅した。
「旅行中の事故って?」
「交通事故だヨーロッパの山奥で。その事故があった日の事は今でも覚えている。朝起きて何時もの様にみどりの病室に状況の確認にいった。そしたら彼女は目に大粒の涙を貯めて起きて居た。どうしたのと聞いたら彼女は泣きながら僕に訴えてきた。会ってしまったと」
みどりは近くに来た小野田の白衣を握りしめると獣の様に泣いた。小野田が状況が分からず狼狽えると、みどりはパパがママがと繰り返すだけだった。
「それまで彼女は感情の起伏が余りない物静かな子だった、あの日に限ってはそんな印象を一瞬で拭い去る程の悲しい鳴き声を日が出ている間ずっと泣いていた」
みどりはグシャグシャになった顔を真っ赤にして病院のベットで泣いていた。
「その日の午後に事故の連絡が有った。今まで何一つワガママ言わずに僕や先生の言うことを聞いて研究に協力していた彼女が狂ったように泣いていた」
研究対象としてしか見ていなかったみどりが急に一人の悲しいモノを背負った子供に見えた。
「それを見たらもう研究が急にばかげたモノに感じた」
「彼女が会ったって言うのは例の・・・・・・」
「そう死者に会う海岸だ。先生の事故の前まで僕はただの記憶障害の一種だと思っていた、ところが両親だけでなく彼女はその後も病院で知り合った人が亡くなる度にその夢に人が出てきたらしい。隔離された状況でも知り合いの死を認知していった」
「本当に彼女は死んだ人間に会っているのか?」
「幽霊とか魂の存在なんて僕は信じていない」
小野田がそう断言して三本目のタバコに火を付けた。
「でも、彼女が見たモノは本当の事なんだろうと信じている」
「ずいぶん優しいな」
「研究対象として見られなくなってから彼女を見守る事に徹している」
その時拓也は小野田が必死にみどりを支えてきたことを悟った。小野田が居たからこそ彼女は一人きりにならず、学校に通ったり笑えるようになったのだろう。
「彼女はこれからどうなるんだ?」
「それは誰にもわからない」
質問をした拓也も答えが有るとは思っていなかったが、小野田もそれは分かって口を開く。
「夜、彼女が心肺機能を停止して、それが朝よみがえるとは誰も保証が出来ない」
「何時死んでもおかしくないのか?」
「提議としてはだ、誰にも先のことはわからないのだからな」
「他の病院だったら治る可能性は?」
「この情報化社会で医学に関することは何処でも手に入る」
静かに手を組んで小野田は呆然とする。
「そんな症例は何処にもない、それに俺は彼女を世の中の見せ物にするつもりもない。この土地にいれば彼女は静かに暮らせる」
「それで良いのか?」
「みどりがそれを望むならそれで良いと思った・・・・・・」
次のタバコに手を掛けようとして小野田は中身が空っぽなのに気が付いた。不安そうに口元に手を充てて誰も通らない海沿いの道路をじっと見ている。
「最近変化があった」
小野田は立ち上がり、ガードレールの向こうの海を見る。黒い砂浜の先にはくすんだ青が一面に広がっていた。
「みどりはあの死者に会う空間に惹かれている」
みどりが夢で見ている光景と似た景色を見ながら小野田は拓也に語る。
「あそこが、夜見る風景が自分の本当の住むべき場所だと思い始めている」
「なんで?」
拓也が問うと小野田は真っ直ぐ拓也の前に立ち覆い被さるように影を作る。
「君のせいだ」
「俺?」
「君が暇に任せて彼女の話を全部聞いてあげたからだ。孤独な彼女の話を自分に併せて語り、話を聞いてあげたからだ。みどりは君の家に行った後はずいぶん楽しそうその話をしてくれた。そして次の日の朝何時も泣いていた」
明かりの中の楽しさと、自分だけの暗い孤独な世界との対比が毎日みどりを苦しめていた。
「学校を卒業して社会と別れることを決めた彼女の心に君はもう一度日の光を当てていたんだ」
「そんな・・・・・・ただ一緒に掃除してご飯を食べただけ・・・・・・」
拓也はその時に気が付いた。
それがみどりが一番欲しかったものだと言うことに。
あの病院が幾ら綺麗で清潔な建物でも「生活」は無い。生きるための設備は全て揃っているが、生活するための道具は何処にもない。自分のために掃除をし、洗濯してご飯を食べる日常的な行為がみどりには欠けていたのだ。
自分もそうだった事を思い出して、拓也はみどりが自分と暮らした時間が楽しかったものだった事に気が付いた。
「分かったか?」
今にも唾を吐き付けそうな勢いで小野田は拓也を睨んだ。
「みどりには君が必要なんだ」
「俺が?」
「あの子に本当の世の中の楽しさを教えてやれるのは君だけだ」
小野田の台詞に拓也は下を向いた。
すかさず小野田の手が伸びる。
「自分にそんな資格なんてとか考えているのなら飛んだお登りだぞ貴様!」
シャツを破けんばかりに引っ張り拓也を恫喝する。
「資格も糞もない、彼女がお前の事を考えて自分の命をこの海岸で危険に曝したんだ。結局みどりが見つけて貰いたかったのはお前なんだよ。そして見つけたのもお前だ。どんな変化だか知らないが彼女は初めて自分の病気の事を知らせても良いと思ったんだ。自分が望んで居なかった普通の生活を得られる可能性をお前みたいな引きこもりに見いだしたんだ。そして君は事実を知った」
それだけ言うと小野田は手を離した。力なく拓也はベンチに座り込んだ。
「もちろんお前の人生だからどう選択しようと構わない。しかし、長い間生きることの意味を考え続けてきた女の子に救いの手を差し伸べることが出来るのはお前だけなんだ」
そう言って小野田は胸ポケットから一枚のカードを取り出した。
「そのカードを使えば一回だけみどりの病室の扉が開く」
小野田が拓也に渡したのは一回だけの認証権限を持たせた面会用のカードだった。
「チャンスは一度だけだ、それで結論を出せ」
「結論?」
「この先みどりと係わるか、無かったことにするかだ」
馬鹿にするなと拓也は立ち上がって白衣を掴んだ。
「彼女のことを無かったことになんか出来るわけ無いだろう!」
「だったらどうする?」
拓也と小野田の間には絶対的な壁が立ちふさがっていた。みどりに何かしてあげたい気持ちをお互い持っている。しかし、実際に与えられるのは拓也で小野田ではなかった。
小野田は壁の外から拓也の行動を見守るしか無いのだ。それが、理知的でだれよりもみどりのことを考えていた男のどうしようもない立場だった。
「なんでアンタじゃないんだ?」
立派な仕事も、大人としての責任感も有る小野田がみどりの側にいて何で駄目なんだと拓也は疑問を口にした。
「俺もそう思う」
何時でも側にいたからみどりには小野田はそれ以上それ以下でもなかった。意識するには近すぎて、気配りを無視出来ないくらい優しい小野田ではみどりを変えることはもう出来なかった。
だから一緒に成長していくことは出来ないのだ。ただ見守るだけしか出来ない。
「俺ではみどりを暖かくしてやることはもう出来ない」
最後まで小野田は涙を流さなかった。それでも拓也はシャツを握る強さで彼の悔しさを知った。
「よく考えろ」
小野田はそれだけ言うと直ぐに車に乗った。
「なんだよ」
言いたいことだけ言われて拓也はベンチに腰を下ろした。
「答えなんか出てるさ」
みどりと一緒に居たい。
そう、答えは出ていた。
「でもどうしたらいんだよ・・・・・・」
出た答えに不安を感じている、信じるしかないのだが根拠がない。それが一番不安だと言うことに拓也は最近気が付いた。段々と明かりが差し込み世界が色を取り戻し始めた頃、拓也は必死に答えの根拠を捜し始めた。
歩きながら家に着くまでには当然根拠たるモノは得られなかった。
そんなモノが本当に有るのかと、部屋の中で自問自答を繰り返す。
窓から差し込んだ日の光をまぶしいと感じて閉じた目は、そのまま睡眠へと拓也を誘った。
自分を中心に世界が回ってないの知ったのはずいぶん前の事だが、今日は改めてその事を思い知らされた。
八島みどりの事しか考えられない拓也にも、簡単に現実は訪れて問題を提起する。
「いやー良い景色だなあ」
初めてこの部屋に聞こえた野太い声の持ち主は阿部典幸と言う元拓也の上司だった。
小野田に覚悟を決めろと言われてから数時間後、呼び鈴にならされて起きたら阿部が来ていた。お邪魔するぞとどかどかと張った肩を揺らして部屋に入り、最初に窓の外の景色を見て放った褒め言葉だった。
「うん、まあ座れよな」
一言で窓の景色の感想を表すと阿部は直ぐに床に腰を下ろした。
調度昼前の一番太陽の日差しがきつく、海も空も一段と綺麗に映る絶好のオーシャンビューを、たった一言で済ましてしまうあたりが流石阿部さんだと思った。
感受性が無いわけではなくて、余計な言葉が嫌いなだけなので拓也にはそれがおかしかった。
自分だったらまず理由から説明をするが阿部は結論から話を進めるのだ。そういう取り繕った所が無いから付き合っていて拓也には苦はなかった。
「いやーそれにしても此所は遠いいな」
膝を叩きながら、シャツの襟の部分をわざとらしくパタパタとさした。
お茶でもと拓也が立ち上がろうとすると、鞄から冷えた缶コーヒーを取り出した。
「ほれ、飲め」
「頂きます」
会社に勤めているとき、部署は違えど良く面倒を見て貰った。会う度に声を掛けられて最初は人懐っこい人だなあと思ったが、誰かが肩を落としていたら声を掛けずには居られないタイプの人だ。
良く何かというと自動販売機の前で引き留められて、何か飲むかと声を掛けられた。
「今日は急に・・・・・・」
「急にじゃないぞ、メールもしたし携帯電話にも何度も掛けたぞ。お前、会社の同僚に番号教えないでさ、何で取引先のサポートサービスの人には教えてるんだよ」
笑いながら阿部は大きな声を上げた。
「本当にお前らしいよな」
「すみません・・・・・・」
また阿部は嬉しそうに目を細めて、一気に缶を飲み干した。その一連の動作を見て何も変わっていないなあと拓也は何処か安心した。
「いやあそれにしても綺麗な部屋だな、ちゃんと掃除してある独身男の部屋なんか初めて見たぞ」
「いや海沿いって毎日掃除しないとなんか気持ち悪いんですよ」
普通に阿倍の相手をしている自分に驚いた。数日間前まではみどりのことで一杯だった頭に簡単に阿部とやった仕事の事を思い出している。何だか自分の言葉が嘘くさいと感じた。
「それにしたってなあ連絡しても返事もないし、余程荒んだ生活を送っているのかと思えば前よりもずっと元気になったみたいじゃないか」
まるで自分の事のように阿部は喜んだ。
「さては彼女か何か出来たのか?」
そう言われて拓也は押し黙ってしまった。そして、阿部は再び大声を出した笑い、机越しに拓也の肩を叩いた。
「ハハ、本当かよ全く意外としっかりしてるなあお前。そう言うの全然駄目だと思ったけど、本当に良かったなあ」
何も言わなくても阿部は勝手に結論付けて拓也を祝福する。
「いやーやっぱ仕事だけじゃなくて、休まないと駄目だなあ。そうかお前に彼女が出来たか、いやー来た甲斐があったなあ、みんな腰抜かすな」
相づちも打てない拓也を置いて阿部は話を進める。
「居るなんて一言も・・・・・・」
「けど何もなかったらもっと適当にあしらうだろお前だったらさ、ちょっと馬鹿にした感じで」
ズバリ言い当てられた拓也はまた押し黙った。
「他人に干渉されたくないから干渉しないお前のやり方良いと思うぞ、それが人付き合いで一番楽な方法だからな」
どうだと指をさされながら喋られるとますます拓也は立つ瀬がなかった。
「けど完全に仲間はずれにされると寂しくて、ますます意固地に断ってみて一生懸命相手の気を引こうと努力する。俺はお前のそう言う可愛いところ好きだぜ分かりやすくて」
普通に聞いたらけなされていると思うのだが、阿部が話すと何処かそうだと納得してしまう。
多分裏表がなく言葉が額面通り受け取れるからだろう。
「そんなお前が付き合いたいって思う子だからまあ余程変わってるんだろうな?」
全部が全部当たっているのでもう拓也は頭を下げて降参したい気分だった。
「全く彼女が居て、こんな所で若隠居なんて勿体ないぞお前」
そろそろいじめるのも飽きてきたのか、阿部は本題に入ろうと身を乗り出して来た。
「何時までも無職というわけにはいかないだろう?」
阿部が目を輝かせて拓也に詰め寄った。
「俺今度会社を作るんだ」
「誰のですか?」
「だから俺の会社」
なにいってんだという顔で阿部は一瞬身を引いた。
「今の会社辞めて新しい会社を作る」
「えっ折角上場したのに」
あー駄目駄目と阿部は手を振って、顔をしかめた。
「もう、ちょっと上場して小銭が入るとみんなやる気なくなっちゃって、社内の空気なんかユルユルだよもう何も面白くない。あの最初の殺伐として何をやっても上手くいかない頃の方が何倍も楽しかっただろ、俺はあの雰囲気をもう一度味わいたい」
何人もの人間が体を壊して辞めて、女の子が泣きながら出社したあの状況を楽しいと言ってのける阿倍のすごさを拓也は改めて実感した。
「社内の人間にも声を掛けてな、別の仕事をしようと思うんだ。経理の村井、営業の巻、あとハース・ホランドと坂本が一緒にやってくれるって」
「殆ど主力じゃないですか」
拓也の会社はネット・サービスを提供する会社で、経理の村井さんは一人で上場まで準備してしまった会社経営の鬼だ、営業の巻は顔と人が良く、どんな所に行っても友達を作ってきていつの間にか仕事を取ってくる。ハース・ラドビッチはマニアックな秋葉通いのセルビア人だがプログラムの腕は確かだ。坂本はシステム構築のスペシャリストにして完璧なファイヤーマン(消防士)でどんなトラブルも根気よく解決していく持久力のある苦労人だ。
「そう、また面白いことが出来るぞ山口」
「そうですか・・・・・・大変ですね」
「だろ、だから手伝え」
簡単に言うと阿部は身を乗りだして、腕を組んで拓也を睨んだ。
「お前、まさか俺がお前に報告だけしに来たと思っているのか?」
「えっ、まさか?」
「お前も一緒にやらないかって誘いに来たんだぞ」
「だって、そんな凄いメンバーが居たら俺なんか要らないじゃないですか?」
「馬鹿みんなお前を連れてこいって言ってる、嘘じゃないぞ」
「だって、俺はみんなの手伝いをしていただけで・・・・・・」
「お前が居たから社内が落ち着いて外の仕事が出来たんだろ。みんなそれは知ってるさ、社内仕様変更の度にお前がフロア中に頭下げて走り回っていたから色んな事が上手くいったんじゃないか」
当たり前のことを聞くなと阿部はまた笑った。
「俺は昔話しに来たんじゃないぞ、お前を誘いに来たんだ」
自分に念押すように言ってから、改めて阿部は頭を下げた。
「頼む」
「そんなやめてください」
「じゃあ一緒にやってくれるな?」
「あの、すいません結論はまだ・・・・・・」
「分かった考える時間をやろう」
頭を上げて阿部はしょうがないといった感じで腕を組む。
「いつまでですか?」
「明日まで」
「早!」
「俺もそれまでは待てん」
だからといって一日で決めるのはどうかと思った、この人は何時も何か結論を早くシンプルに答えを求めるのを思い出した。
「なあ別に他で働く予定もないんだろ?」
「今はそうですけど」
「だったら一緒にやろうぜ? 俺お前の考え方大好きなんだ」
「俺の考え方ですか?」
「そう、他人に期待しない所なんか最高にこの仕事向いていると思うもん。お前は人にこれだけやって当たり前だっていう押しつけるのを非常に嫌うよね、たぶん自分がそうやられたら嫌だから何だろうけど。そういう線引きって大事だと思うぜこの仕事。コンピュータは位置かゼロしかわからねえもんな」
「俺は何でも線を引いて居るんですか?」
「あっすまん失礼だったか」
「いや、その」
「お前は若いからなあ分からないかもしれないけど線なんて引き始めたらこの世の中はがんじがらめで動けなくなっちまうぞ」
「線を引くと動けなくなるんですか?」
「たとえばさあそこから入ってくるなって線が国境だろ? そこから先は自分の領分だと決めてしまえばそれ以上は動かないって事だ」
まるでみどりに話している時の自分の様だと拓也は思った。そうか、自分はこの人のマネをしていたのかもしれないと楽しそうに喋る阿部を見る。阿部は腕を組んで一人で頷きながら話を続けた。
「その方がルールがしっかりして分かりやすいと思うが、それじゃあつまらないと思うのも事実だぞ。だって自分で決めたルールのせいで楽しいことを放棄しちまうもんな、偶には馬鹿な事をやってみるべきだと思うぞ」
「もうやってます」
今まで自分に熱心に語っていた阿部が顔を上げるとそこには、ちゃんと結論を出した顔があった。
「毎日規則正しい生活をして、彼女を待つために部屋を綺麗にしてるんです。今までだったら考えられないくらい馬鹿なことだと思います。毎日そうやって同じ事を繰り返す事が大事だなんて全然分かりませんでした。けど今はそれが一番大事なんでうす。自分よりもどうにかしたいって思う人が居るんです」
そこまで言って拓也は何を話して居るんだろうとハッとした。
「お前、やっぱ変わったなあ。彼女のせいか?」
「そうですかね?」
「ほら居るだろう、付き合う男で趣味が変わる女って、なんかそんな感じだ、いや若いね」
馬鹿にされているのは分かっているが、事実なので拓也は怒らない。自分は変わったんだと昔の自分を知る人間と話してその事に気づく。
「まあ何だ、じゃあOKて事で良いんだな?」
「いや、まあ何時からなんですか?」
「来月からだ」
「二週間ないですよ」
「ああだから忙しくてな、会社作る方が辞表書くより先になった」
また急だなあと拓也はもう諦めていた。
「ともかくこれでメンバーが揃って良かった」
そう言うと阿部は立ち上がって帰る準備をし始めた。何処までも羨ましい人だなあと拓也は思う。
「あっ阿部さん一つだけ条件があるんですけど・・・・・・」
「何だ、給料はとりあえず前と同じ出すけど、福利厚生はまだ整えられないぞ?」
「違います、一つだけオフィスは何処に借りるんですか?」
「一番近い駅は品川だけどな?」
「じゃあ此所から通えますね」
「二時間以上掛かるぞ?」
玄関で靴を履きながら阿部は本当に良いのか問いただす。
「此所が僕の家ですから」
「やっぱお前変わりすぎ」
満足しながら阿部は帰っていった。
帰った後拓也は一人でテラスに立って、自分は多分此所に引っ越してきて良かったんだと思った。自分の事を変えることが出来て良かったのだろう。
ずっと此所で暮らせるか分からない、それでも暮らしたいと努力したいと思った。
(ディンガー、君がいなくなって寂しい)
テラスにはもうディンガーが来ることはない、素敵な日常を連れてきた猫はもう居ないのだ。
この家は色々なことを教えてくれる良い家なのだと思った。
黙っていても体を動かさなければ行けないけど、景色は色々なモノを見せてくれる。
(ああ、答えなんかやっぱり出てた)
遠くディンガーが眺めていたように拓也は海を見る。海は紺碧に輝き白い靄が水平線に掛かっていた。遠く、遠くには違う海岸が有るのは分かっているが、それでもどんな所か考えてしまう。この景色を見ながら自分みたいに遠い未来のことを考えている人間が居るのだろうか。
(そいつはどんな答えなんだろう?)
そう言って拓也はとりあえず眠るために本を読み始めた。
そして程なく眠りに落ちる。用意した答えは寝ても忘れるつもりはなかった。起きて彼女に会いに行く。
白いワンピースを着た少女が一人海岸に立っていた。薄暗い景色でその白は黒い海岸と対のコントラストでよく映える。
薄暗い柔らかな光に包まれた静かな景色。今日は自分一人だとみどりは周りを見渡す。
この彼岸には長い海岸が続く。長い海岸は歩いても歩いても同じような風景を見せる。沖の方には防風林だろうか何か黒い木々の固まりが見える。砂浜が盛り上がっていて茂みの先にあるその木々まで一度言ってみたことがあるのだが、有るところまで行くと体全体を寒気が包んで前に進めなかった。
それ以来この薄暗い海岸を歩いている。
月が鈍く輝く夜、久しく本当の夜を見ていないみどりにとって、この彼岸の地の月明かりに照らされた景色が全てだった。
(今日は誰も居ない)
いつもは気が付くと誰かが隣で一緒に歩いていた。
お父さん、お母さん、お祖父ちゃん。偶に病院で知り合った人達などが現れては生きていたと比と同じように笑ったり話したりしてくる。
お母さんにはご飯の作り方を聞いた。まるで調理道具が有るかのように、身振り手振りで優しく教えてくれる。お父さんも色々なことを教えてくれた、拓也からディンガーさんの名前の由来を聞いて話したときは、その通りだよと嬉しそうだった。
そんな風にまるで生きているかのように振る舞う死んだはずの人達と、みどりは毎日この海岸を歩く、たわいもない会話をしながら誰かと夜を共にする。
この世界には時計もないのでどれくらい一緒にいられるかは分からない。いや、時間なんて関係ないのだ、昼の世界には居ない人達と会うことが出来て嬉しいのだ。
そう、わたしがずっと此所にいられればいいのにとみどりは常々思っていた。それを言うと両親は非常に困った顔をするが、みどりにはそれで良いと思った。
何れ自分は此所にずっと居ることになるのだろうからそれが遅いか早いだけの違い。昼の世界に生きても小野田さんや小島君の様に迷惑や嫌なことを感じさせるだけなのかもしれない。
そう考えると自分は此所にしか居場所が無いと思うのだ。
この死後の世界に輝く月明かりに照らされて、海は遠くに輝く光の橋を海面に作っていた。
不思議な光景に惹かれて海に足を付ける。冷たい感触が足を洗った、砂を踏む感触などは確かに感じられるが不思議と音だけがない様な静かな世界。まるで絵の上を歩いているかのように、みどりは前を向いてどことなく歩き始めた。
誰も居ない薄暗い海岸を一人で歩く、誰も居ないこの世界で充てもなくふらふらと歩く。
果てしなく続く海岸線を見ながら、自分はどこから来て何処へ行けばよいのかと時々立ち尽くした。
そんなとき何処か人懐っこい鳴き声がした。
欠伸でもするような呑気な声の主は、少し怯えながらみどりの方へと近づいていった。
「ディンガーさん」
みどりは両手を広げて彼を招く、ディンガーは当たり前だと言わんばかりにみどりの腕に飛び込んだ。
みどりの胸に暖かい感触がよみがえる。何度も抱いた感触を確かめてディンガーと顔を合わせる。
「今日はディンガーさんと一緒なんだ」
嬉しそうにはしゃぐみどりとは関係なく、またディンガーは海の方を見ていた。
「本当にディンガーさんは海が好きなのね」
波の音も静かなので、薄暗く月の光だけが海と認識させている暗い空間をディンガーはずっと見ていた。
みどりも一緒になって立ち止まり海を見た。
その海が一瞬明るくなったように見えた。思い出したのは昼に輝く海、ディンガーと一緒に見た海だ。
「此所にはあの人は居ないもんね」
そのとき横で、猫と同じように熱心に海を見ていた男の事を思い出した。
「此所に居ちゃ行けないんだけど・・・・・・」
三人で見た海は何だか楽しかった、馬鹿みたいにずっと見ていたいと思ったあの時間を思い出す。
「やっぱりあの海が好きなんだディンガーさん」
少し強く胸にディンガーを抱き寄せた。ワガママなのは分かっていた、けど自分にあの日の下でまた海をみる理由が有るのだろうか?
拓也を拒絶した自分にはもうそんな時間はないのだとみどりは強くディンガーを抱きしめた。
「あっ!」
するとディンガーはみどりの腕をすり抜け砂浜に降り立った。
そして、あんなに臆病に怯えていた水面に近付いていく。
「あぶないよディンガーさん!」
みどりが近づくと逃げるようにディンガーは水の中に入っていった。波がその小さな体を運び去ろうとするが、不思議とディンガーはその力に耐えて毅然と海の中を進んだ。
「何処に行くの?」
みどりも再び海岸に入る。それでもディンガーは先に進んでいった。
海は直ぐに深くなってワンピースの裾を濡らした。
「まって」
みどりは慌てて水を含んだスカートを引きずりながら前に進んだ。あっという間で腰の高さになったところでディンガーさんの姿は見えなかった。
何処に言ったのと更に足を前に進めると、突然今までの中では一番大きな波がやってきてあっという間にみどりを巻き込んだ。
突然の出来事で何をして良いのか分からず、波に飲み込まれたみどりは海中に沈んだ。
海中は不気味なくらい静かで、底の方は何処までも続く奈落の底の様に真っ暗で光が届かない。
この世界で溺れ死ぬことが出来るのだろうか等とみどりは考えてみたが、落ち着いてみると特に息苦しさを感じている分けでもなかった。ただ水の感触が全身を包んでいた。振り向いて海面の方を見ると、底とは対照的な光の天井が現れていた。
それは海の底の闇と比べると何とも頼りない小さな光だったがみどりは安心して手を伸ばした。
(暖かい)
伸ばした手には微かな温もりが感じられた。
有るはずないが、誰かに手を引っ張られているような感じだった。
(誰?)
光へ向かってみどりはゆっくりと浮上した。
気が付くとそこは何時もの病室だった。
変わらない風景の筈だったが今日は直ぐに人の気配に気が付いた。
「拓也さん?」
自分の手を握って昨日と同じ様に隣には拓也が居た。
顔を伏せているので表情は見えないが、手だけはしっかりとみどりの左手を掴んでいた。
少し戸惑いながらみどりはあちら側で感じた温もりは彼の手だったのだろうか、確かめるように手を握り返してみる。
確かにこんな感触だった。
沈み込む自分に手を差し伸べてくれたのはこの人なのだろうか?
「うん?」
拓也がゆっくりと起きてきた。
「みどりちゃん・・・・・・しまった起きるまで起きてようと思ったのに」
申し訳なさそうに拓也は眠い目を擦った。
「駄目だね、普段規則正しい生活をしていると夜が辛い」
昔は二日間完徹などは良くあったのに、最近は気を抜くと寝てしまう。
「拓也さんどうして」
どうして此所に居るのだとみどりは聞きたかったが、拓也が妙に晴れ晴れとした表情で此方を見ていたのでなんだか恥ずかしくなって視線を逸らしてしまった。
「ああ、君が起きたら伝えたいことがあってね。小野田さんに今日だけ特別に通して貰った」
「今日だけ?」
「小野田さんに君とどうしたいのか決めろと言われた」
何となくだが小野田が何を言ったかみどりは分かった。小野田は厳格で優しい男だ。多分中途半端なことは許さない、病気の事を知ってしまったらそれでも自分と付き合うのかと問いただしたんだろう。
あの人は本当に優しい。中途半端な優しさが何れ自分を傷つけると分かっていると、元から完全に関係を絶って綺麗にしようとする根っからの医者なのだ。
「それで一日色々考えようとした」
拓也はみどりの手を握ったまま話を続けた。何処かみどりは居心地が悪く、手を引こうとしたが。強い力で拓也はそれを拒んだ。
「ところが一日も要らなかった」
「家に帰って誰も居ない部屋を見たとき。思い出すのは君とディンガーさんと一緒に居た時間の事だった。その時もう答えなんか出てたんだと思った」
誰も居ない部屋を寂しいと思った事なんてなかった。ただ一度誰かと一緒に暮らした後の孤独には耐えられない。一度味わってしまった楽しさは、なくなれば直ぐに寂しさに変わる。楽しければ楽しいほどに寂しい気分は大きくなる。
「僕は君と居たい、あの部屋で君とずっと一緒に暮らしたい。それだけが言いたくてここに来た」
阿部のクセが写ったのか、拓也は短い説明で決めた答えを言った。
あまりにも前後の仮定がどうでも良かったから、長い説明なんか要らないと思った。
病気のこと、自分がみどりに何をしてやれるか、いつまで一緒にいられるか何て事を説明してもどれだけ意味があるのだろうか。
そう考えると悩みは直ぐに薄くなった、残った想いは水のように綺麗に透き通っていた。だから説明なんか要らないのだと。
「ごめん僕はもう結論を出した、その為にだったら何でもする。また働くんだ、君と一緒にいられる時間を本当の意味で長くするために、働いて給料貰ってずっとあの部屋に住めるようにする」
貯金は幾ら有っても何時かはなくなるモノだ、だったら稼がなければ行けない。ずっと彼女とあの家で暮らしたければ働いて自分たちのいる場所を作っていかなければ行けない。
手を握りながら拓也はみどりの目を見る、涙はまだ見えなかった。
みどりはその時初めて拓也の真剣な顔を見た。やっぱり頑固な人だと思った、どうして自分の周りにはこういう人ばかりなのだろうかと。
「狡い」
みどりはそう言って拓也の手を放して、シーツを引いて枕に顔を埋めた。
「全部自分で勝手に決めて狡い」
駄々を捏ねる子供のように、くぐもった声。
「勝手なのは分かっているんだ。けどもう決めたから、君の答えを聞きたい」
「いつまで?」
「今が良い」
「今出した答えなんか明日変わっているかもしれない」
「それでも構わないよ」
拓也の覚悟を聞いてみどりは再び上半身を起こした。
シーツがはだけて肩が見える。窓からの薄い明かりが彼女の小さな背中をくっきりと浮かび上がらせる。丸い輪郭の黒いボサボサの髪、細い腕、全てが綺麗でさっきまでの硬直した姿とは別物だった。
今彼女は生きている、それを見ていて嬉しかった何も怖くない。
惹かれるように拓也が少し前のめりになると、みどりは突然振り向いた。
細い腕を拓也の背に回し顔を横に付ける。
拓也は初めて感じる彼女の温もりに完全に許容量を超えてしまった。とにかくからだが熱く、自分の心臓の音が体全体に響いているような気分で気が付くと面白いくらい手が震えていた。
「みどりちゃん?」
さっきまでの真剣な顔から完全に拓也は舞い上がっていた。どうして良いか分からずに答えを捜すが、脳の中にはエラーメッセージしか見あたらなかった。
「一つだけ確認させて」
みどりが耳元で呟く、いよいよ拓也の頭の中は完全に青くなった。
「私に小野田さんや拓也さんに迷惑を掛けて生きる意味があるの?」
彼女の悲痛な声で拓也は我に戻った。手が自然に動いて彼女の細い腰へ回す。背中に回した手で細い肩を掴むとまた涙が出て来た。
「もう君が居ないあの部屋は耐えられないんだきっと。だから、君にこっちにいて欲しいのは僕のワガママだよ」
「私は本当に側にいて良いの?」
耳元でみどりが小さく聞いた。
「ずっと一緒に居たいんだ、それは君があっち側の世界に居るときだって同じだ」
「嫌だよこっちに来て欲しくない」
細い腕に力が入った。
「いや、それは変えられないんだ。だから君は海岸で待っていて。僕が行くまで寂しいだろうけど待っていてくれる?」
「貴方の方が先に死ぬの?」
「君の方が十歳も若いんだから当然だろ?」
残酷かと思ったが多分事実だ。けど、結果が分かっていてもやらなければ行けないことが世の中沢山あることを拓也は知っていた。若いみどりは知らないかもしれないが、残念ながら世界は残酷だ。
「ありがとう」
「何?」
「ありがとう、本当にありがとう。みんなに感謝したいの、お祖父ちゃん、お父さん、おかあさん、小野田さん、小島君、ディンガーさんに、みんなにありがとうって言いたい」
「そうだね」
拓也は濡れた肩の熱さを感じながら、子供をあやすように抱いた。
「待ってる、私信じて待ってるよ。たぶんそれしかできないから」
みどりは家族に、ディンガーに教えて貰った信じると言うことを今一度挑戦すると拓也に誓った。
「ああ、何時か君の夜に行くよ」
こうして偶然とか奇跡とか様々な言葉で呼ばれるものの力によって、結ばれるはずのない線が繋がった。
拓也は自分でも考えられないくらい不思議で振りかえれば何も根拠がないことに驚いた。みどりの病気が重く、これからも苦しめ続ける事実は変わらないし、自分が何を残してあげられるか分からない。
奇跡でも起こらない限り、この不安から解き放たれることはないのだと。
ただそれでも、考えてみれば流されて辿り着いたこの彼岸に幸せが合った。こうやって一瞬でも彼女を確かめられる、これ以上の楽しいことを短い人生の中では知らない。
今此所でこうしていることが奇跡だと拓也は思う、それが奇跡でなかったら何が奇跡なんだろう?
意外と奇跡も起こりやすいモノだと想うと不安は消えた。
次の夜に不安が来ると分かっていても、次の朝にそれが解消されるのであれば前に進める。
拓也は唇を重ねながらそう想うことにした。
一年後。
「あーまたエラーだよ」
大きなビルの、巨大なワンフロアーに悲鳴が響く。
「どうしたの豊田さん?」
若い男が悲鳴の主である豊田明里に声を掛けた。
「竹内くん何度やっても上手くいかないの?」
「どれが?」
そう言って彼女は同じ部署の竹内に手順書を渡す。
「ずいぶん丁寧な手順書だね」
図と要点が綺麗にまとめてインデックスが振られた資料を覗き込みながら男が操作する。
「ほら主任から引き継いだ仕事だから」
「へえ自分用のなのにここまで細かく描いてあるんだ?」
「何時でも誰かに渡せるようにって、前から準備していたんだって凄いでしょ」
「暇なんじゃないの?」
主任の手際の良さをまるで自分の事のように自慢するので男は少し腹が立った。なんで腹がったったか理由は分からなかったが、多分最近明里の事が気になっているからだろう。
「主任は忙しいよ、暇そうにしてた所見たこと無いもの」
「でもあの人何時も定時に帰ってるよなあ」
そういえば残業している姿を見たことが無い。会社は基本的にフレックスなので定時というモノのも人によって、その日によってまちまちなのだが主任だけは毎日決まった時間に帰っていった。
「凄いよね、あれだけ仕事任されてもちゃんと時間通りにやってのけるなんてさ」
「本当にやってるのかな、あっエラーだ」
竹内が手元の資料を読みながら入れたコマンドに対して画面はエラーを表示した。
「何処が間違って居るんだ?」
パラパラと資料を読み直して竹内が調べ始めると、スッと後ろから手が伸びた。
「どうした?」
「あっ山口主任」
スーツを着込んだ拓也が資料をパラパラと捲りながら明里に声を掛ける。
「もう帰られたんじゃないんですか?」
竹内は少しムッとなった。それは資料を取られたんじゃなくて、ずいぶんさっき話していた時と違って、明里の声に張りがあったからだ。
「上手くいかない?」
「ハイ、すいません」
さっと画面を覗いて拓也は机の上を見渡して、一つのファイルを取り出す。
「豊田さん、この仕様のときはこっちのファイルだよ」
ああと今度も大きな声を出して明里は驚く、そして直ぐに口元に手を充てて頭を下げた。まだ少し残っていた数人のスタッフの視線が突き刺さって更に顔を赤くした。
「ごめんね、似ているから注意したつもりだったんだけど」
「そうでした、スミマセン本当に・・・・・・」
豊田は泣きそうな顔をしながらひたすら頭を下げた。
「気になって寄って良かったよ」
拓也はそう言って椅子に座った。
「主任?」
「ごめん、豊田さんお茶買ってきてくれる?」
「えっ」
渡された小銭をみながら状況が把握できない豊田に拓也は微笑む。
「次の電車まで時間があるから、時間つぶしも兼ねてちょっと様子を見ていこうと思ってね」
「すっすみません本当に」
また豊田は深々と頭を下げる。
「僕はコーヒーが良い」
「ダッシュで買ってきます!」
あっ俺が行くよと竹内が声を掛ける暇もなく明里は一目散に自動販売機に駆けていった。
「このソフトやり始めると時間が掛かるからな」
何処か懐かしそうにファイルを覗き込む。
「竹内君ちょっとここ覚えておいて、この画面で此所のパラメータをちゃんと確認しないと次の画面でエラーが出るよ」
「何で僕が?」
思わず強い口調で返答してしまってしまったと思った。拓也は楽しそうにメモを取った。
「えっ多分彼女が此所に辿り着くまでに僕はもう帰っているからさ、君に覚えておいて貰った方が良い」
「そんなの彼女に言えばいいじゃないですか」
「いや、出なければそれで良いんだけど、出たらそれまでだから。自分でやったミスは覚えるし、何もかも覚えるとエラーの出し方まで覚えちゃうから進歩ないよ。それに君は彼女を置いて家に帰って一人で飯を食うなんて事しないだろう?」
拓也の周到さを見て竹内はこの人には敵わないと思った、明里が好意を寄せる理由も分かる。
「凄いっすね主任は」
「何が?」
「何でも知ってるって感じで・・・・・・俺なんか何してあげて良いか今分かんなかったですよ」
「それでも助けようと声を掛けたんだろ?」
けど何も分からなかったと不満そうな顔をすると、拓也はじゃあ分かるように努力するかと机の上にあった仕様書の束を持って竹内に渡した。
「がんばれよ」
素直に仕様書を読み始めた竹内を見て拓也は笑った。
「主任買ってきました」
本当に息を上げて明里は帰ってきた。
じゃあやろうかと拓也が声を掛けると、鼻息の荒いままハイっと元気に応えてパソコンの画面に向かった。
「あれ画面が違う?」
「別のアイコンクリックしたよ」
先は長そうだと拓也は呆れた。
「このアイコンだぞ」
横から竹内が手を伸ばす。
「何で知ってるの?」
「良いからさっさとやろうぜ、終わらないと主任が気になって帰れないだろう?」
そうかと明里は画面に目の色変えて取り込んだ。
これで良いんですかと竹内が合図を送ってきたので、とりあえず合格のサインを出した。
「じゃあ俺先帰るよ」
「あっありがとうございました」
明里は席を立って深々と頭を下げる。軽く手を振って拓也はフロアを後にした。
「ああ悪い事したなあ」
椅子に座りながら明里は肩を落とした。
「主任の家って何処だっけ?」
とりあえず何か会話をと、竹内は適当に話題を振った。
「名前忘れちゃったけど、確か片道二時間半くらい掛かるところって言ってたかな」
「二時間半も?」
「うん」
なんだか明里が更に肩を落としたので竹内がどうしたのと聞くと、明里は少し目を潤ませた。
「大変ですねって聞いてもね、凄く嬉しそうに全然って言ったの。きっと奥さんの事大事にしてるんだろうなあ」
「何、失恋?」
嬉しそうに竹内が聞くと、明里は目をつり上げて怒った。
「うっさいバカ!」
キーを叩く音が一段と強くなって行くのを見ながら竹内は援護射撃に感謝しつつ、どうやって本陣に辿り着けばよいのだろうと一生懸命考えた。
隣の男の子が自分も何時間も掛けて誰かの為に働く日が来るのかなと呑気な事を考えているとも知らずに、女の子は必死で仕事に取りかかった。
(少し遅れたな)
電車に飛び乗ってボックスシートの座席に座ると何かの臭いがした。
斜め前を見ると高校生がファーストフードに食らい付いていた。この電車は一駅の区間が長く、まるで観光地に行くような乗りで誰もが思い思いのご飯を買い込んで毎日乗車する。
拓也は家に帰ればご飯が用意されているので何も持ち込まない。変わりにノートパソコンを取り出して早速仕事の準備をする。
この時間が一番誰にも邪魔されないで仕事が出来るなあと、苦笑しながら画面を立ち上げる。
そして何時もの様にまずはメールボックスを開く。
みどりから今日の出来事が簡単にまとめられていた。
今日も昼は快晴で洗濯物が良く乾いて助かったと。そして夕方小野田が訪れて、なにやら頂き物があるので食べてくださいと書いてあった。
(また小野田さん来たのか・・・・・・)
あの人の過保護もいい加減にしないとなあと思った。
まったく、一緒に暮らすと言ったときは顔色変えずに全部手配したのに結局心配でしょうがないんだと、あのまま結婚も何も出来ないんじゃないかなあと心配した。
結局夜眠るみどりとはこうやってメールで日々の事を確認し合っている。
最初の内は携帯では読み取れないくらいの文量だったが、最近はやっと落ち着いた。
みどりらしい豊かな感受性溢れる文章が拓也の毎日の楽しみの一つになっていた。会社で読むとにやけた顔を見られるのでなるべく電車の中で、端の席え読むようにしている。一回窓に映っている自分のにやけた顔を見て本当に心配になったモノだ。
(こんなに楽しくて良いのだろうか?)
そんな疑問が浮かび上がるくらい自分の顔は楽しそうだった。今の生活が長く続けばいいと思った、その為だったら何でも出来ると思う、あっという間に立った一年を振り返って拓也は窓の暗闇を睨み付けた。絶対に自分は約束を守るんだと言い聞かせる。
今日みどりからのメールにの最後に書いてあった言葉を思い返した。
「また明日」
そう朝になればまた彼女の笑顔に遭える。いま別の夜を過ごしている彼女との距離が電車に乗っていると縮まるまっていくような気がしてきながら、拓也は早く家に着けと無駄なことを考えずに仕事を始める。
電車は確実に前へと進む、振り返らずに真っ直ぐと。
だから拓也は長い時間乗っていても何の苦にもならなかった。ただ幸せなだけだった。
END
遠い未来。
薄暗い海岸に少女が佇む、そこへ一人の老人が歩いて来た。
少女が老人の姿を見ると一瞬寂しそうな顔をしたが、直ぐに駆け寄って抱きついた。
何度もお互いの存在を確かめるように手を繋ぎ見つめ合う。
「ここでは君は会った頃のままなんだね」
そう言うと少女手を放して一瞬下を向いた、そしてその場にはすり替わったように老女が現れた。
「別にどんな姿でもいられるの、肉体とは関係のない場所だから」
声はかすれた年相応のモノだった。
「けど・・・・・・」
老女が再び顔を上げると、髪が薄暗いなかでもはっきりと分かるくらい白髪から若々しい黒髪に変わった。
「初めて貴方とここを歩くのならば、やっぱり初めてあったときの姿が良いな」
山口拓也の顔を覗き込む八島みどりの表情は出会った時の、溢れんばかりの晴れやかな笑顔だった。
気が付くと拓也もみどりと初めて会った時の姿に戻っていた。
「そうか、なんか今更照れるよ」
頭の後ろに手をやって拓也は照れると、口元に手をやってみどりは笑った。
「ここが君が見ていた海なんだ」
「そう、私だけの海」
「綺麗だね」
此所が彼岸と呼ばれる場所かと拓也は物見気分で周囲を見渡した。
「そう?」
「君もこの世界も今見えるモノは全て綺麗だと感じる」
月明かりに浮かぶ若々しい姿のみどりを見て拓也は強く手を握った。
「あらあら、心の中まで昔に戻ったの?」
「そうかな?」
「そうだよ」
向き合った二人は自然に手を併せた。指を絡ませお互いを認識する。太い指と細い指が交差し折り重なって波のように何度も交わる。
「歩こうか?」
返事もなくみどりは拓也の横に付く。
「何か本当に最初から始まりそうだね」
「どこからが良い?」
「最初から、初めて貴方を見つけた所から」
「またあんなに君に会えない不安に怯えなきゃいけないの?」
勘弁して欲しいと拓也は泣きそうな顔をした。
「だってこれからずっと一緒なのよ、それ位我慢しなさい」
苦笑しながら肩を抱き寄せる広い海岸で二人だけの世界、他には何もない。
こうして初めて二人で夜を歩いた。
何も怖くないことだけに二人はただ驚いていた。
Fine.
最近好きな言葉
「ただ あの時オレは 胸いっぱいに 幸せだと思ったんだ。ありがとうって思った、でもあげられるものなんて 心くらいしかないから君にわたそうと思った」
竹本 裕太(自分探し三級)
あとがき
どうもさわだです。
今回の成分としては「赤ちゃんと僕(13)」が元ネタです。そうそう、あの主人公のお父さんとお母さんの出会ったときの話、あれが大好きであの巻だけ狂ったように見てた時期がありました(遠い目)。
あと「お願いティーチャー」とかも入っていますかね? ちゃんと見たこと無いけど多分そう。あとは名作SF「夏への扉」を意識しつつ、なんか周りで仕事している人間の話を参考にしながら「ハチミツとクローバー」をまた猿のように何度も読み返してベットでのたうち回ったりしながら悶々として、こうの史代さんの「長い道」に至る過程を自分なりに考えてみた部分と、TVのCMと雑誌で出て来た窓の大きな海沿いのマンションで一人で誰にも干渉されず孤独に暮らしたらなあと言う願望なんだか絶望なんだか分からない想像が入り交じって出て来た話がこれです。
・・・・・・
それで何故こうなるかは神のみぞ知ると言うところですね。
凄い。
まあ流石にコミティアに二年以上、末席に名を連ねさせて頂いたお陰で文量だけは結構書けるようになってきたかなあと自負しております。
だからといって読んで頂いている皆様に、ドンドン文字が小さくなって読み辛い思いをさせているのも事実なので、申し訳なく思っています。コピー本じゃない方法を取ろうとも思うのですが、納期的に絶望先生なので御免なさい。
では