第1節 罪と罰(1)
死後の世界が暗黒に包まれているという、ぼくの勝手なイメージはおそらく、今日この日に払拭されたのだと思う。
ぼくが目を覚ますと、延々と長い廊下に直立不動の状態で突っ立っていて、その廊下の中央には赤茶の絨毯が伸びていた。窓からは朝焼けが差し込み、小鳥のさえずりが聞こえてくる。心地よい、朝の風景だ。
そのときぼくはまだ意識がぼんやりとしていて、なんとなくこの光景が夢の中の産物なんだろうなという認識でいた。
さっきまで生き抜いていたストレス社会なんかと比べると、夢の中であるこちらの世界は断然魅力あるものに見えたし、むしろここが本来ぼくの帰るべき場所のような気持ちになった。
そのときぼくが覚えた感情は、半分は的中していて半分は外れていたんだと思う。
だるくて重い足で、ぼくは廊下をゆったり歩みはじめる。
瞼をこすり、長い廊下の先を見やると奥には茶色で大きな扉が目に入った。あの扉の先へ行かなければならないんだろうなとなぜか直感的に感じた。
扉の近くまで辿り着くと、改めてその扉の大きさに目を見張った。その木製の扉は重厚で、それでいて厳格さと、わずかな高貴さを醸し出していた。ぼくは大きく深呼吸しながら、その扉についている金色のドアノブをひねる。
すると、そこには広いとも狭いとも言い難い空間が広がっていた。
部屋中央には大きな長方形の木製テーブル、その脇には座り心地がよさそうなフカフカのソファーが二対。それぞれの後方、部屋の両端の壁側にはガラスケースで埋め尽くされており、その中には剣やら盾やら刀や鎌、杯や弓などいかにも高級そうな品から一見飾る価値すらなさそうな代物までぎっしり詰まっていた。
そして奥まった場所にはこの部屋の主の席なのか、人が座るものにはやや大きいのではないかというほどのサイズの机と椅子が構えていた。
ぼくはあれこれと考えた結果、これだけ広い部屋なのに広い印象を持てないのはこの部屋の主が物を大量に詰め込んでいるからだという結論に至った。
ガラスケースの上には肖像画が並べられている。見たところ、偉人の肖像画なのだと思うがぼくには肖像画に描かれている人物に見覚えがなかった。普通なら下の枠に記されてあるであろうその人物の名前も一切見当たらなかったので、ぼくにとってはただの知らない人の人物画に成り下がっていただけだった。
それらを眺めていくとそのなかにひとつだけ何も描かれていないものを見つけて首を傾げる。背景はきちんと描かれている。背後に食器棚とその上にリンゴがひとつ、そして壁には縦長い木製の振り子時計がかかっていた。ただ、肝心のその絵の主役になるであろう人物だけがすっかり姿をくらましていた。
そのときだった。
「ふぉっふぉっふぉ……待ち侘びたぞい。珍しい客じゃな」
絵に夢中になっていたぼくに後ろから呼びかける声がある。
慌てて振り返ってみるとさっきまでは空席になっていたはずの部屋の主の席にずっしりと腰かけている老人がそこにはいた。
「ええと……すみませんお邪魔しています。ここはどこでしょうか」
老人はぼくの言葉に目を丸くし、少し考えてから思い出したように、
「あー、そうじゃったな。おまえさんは例外的に記憶を消しているんじゃったな。どれ……少し待っているがよい」と言った。
老人が机の引き出しからなにやらゴソゴソと探し物をしている。
「お! あったぞい。これじゃこれじゃ」
取り出したのはひとつの手のひらに入るぐらいの大きさをした鐘の鈴だ。
老人はほれ、といいながらその鈴をチリンと鳴らした。
と同時にぼくの頭の中が急に高速で回転し始める。
気持ち悪い。なんだこれ……あの老人、ぼくに一体何を……。
だがそうした眩暈も嘔吐感もすぐにおさまった。
「おー、大丈夫じゃったか? すまんかったのう。だが、どうじゃ? ちっとは思い出せたかの」
次の瞬間ぼくの口から出た言葉。それは、
「父さん……!?」
口にした内容が初対面の老人に対していうものとして相応しくないもので、ぼくは我ながらに驚く。
「え……あれ?」
状況が飲み込めない。誤解がないように言っておくけど、ぼくの産みの親は間違いなくあのサラリーマン夫婦だ。それ以外の、それ以上に他の誰かに育てられた記憶なんてあるはずもないのに。老人の顔を見た途端に肌で感じた父性がぼくからその言葉を引き出した。
「まずは……そうじゃな、おかえり」
老人はそう言いながらにっこりとほほ笑む。とても優し気な顔だった。まさに父親が実の子に向けるほほ笑みもこうであるべきだと思わせた。そんな笑顔だった。
「そこのソファーに腰かけなさい。きみは何を飲むかな? 基本なんでもあるが」
老人は無駄に大きな椅子から立ち上がるとお茶の茶葉が入っている缶やらコーヒーの粉が詰まっている瓶やらを手に取ってぼくの方を振り返った。
「なんでも大丈夫です」
「そう……か。きみはそう言うだろうと思ったよ」
老人が二人分の飲み物を用意している間、ぼくはいろいろと考えをめぐらせていた。
鈴の音。
さっきぼくが感じた眩暈や嘔吐感は、それとともに何千年、何万年にも渡る記憶を記憶の彼方から無理矢理引っ張ってきた、そんなものだった。ぼくが十八年生きてきた世界よりもっと古い、はるか昔の記憶がほとんどで、ぼくの人生は最後のほんの一幕にすぎない。そんな膨大な量の記憶がぼくの脳内に負荷を過剰な負荷をかけた。その結果があの眩暈と嘔吐感というわけだった。
そしてその記憶の彼方、初期の頃の記憶にこの世界に生きているぼくを見た。おそらくこの世界はいままでぼくが十八年間住んできた地球ではないし、それに夢の中の出来事でもないらしい。
「気持ちは落ち着いたかの?」
「ええ……だいぶ。ありがとうございます」
老人は盆を静かにテーブルに置くと、テーブルの対岸、すなわち僕の真正面のソファーに腰かけた。ぼくにコーヒーを差し出すと老人の方はココアで満たされたティーカップを手に取る。
「砂糖とミルクはすきに使っていいからの。こっちはセルフサービスじゃからな? ふぉっふぉ」
ぼくは盆の上に置いてある瓶からスティクシュガーをひとつ取りだすと、コーヒーに注ぎ込みスプーンでかき混ぜる。老人の方はまだココアが熱かったのを飲もうとしたからだろうか、息を吹きかけながらココアの熱を逃がそうと奮闘していた。
「さて、これからのことを話そうかの。ちっとは思い出せたかもしれんが全てではないじゃろう。それにまだ君も混乱しているじゃろうからできる限り説明はしていくつもりじゃ」
そういって老人は会話を切り出した。
ぼくは改めてその老人を観察する。老人とは言っても日本人平均身長のぼくよりも背丈はだいぶ高い。少なくとも二メートルは超えるだろう。西洋風の顔だちをしていて皺こそ刻まれてはいるものの堂々としていた。白銀の髪は胸まで降り、顎髭は今にも床まで伸びんとしている。その幻想的な白銀と同様、高級そうな白いローブを身に纏い、老人は周囲に静寂のオーラを放っていた。
「はい……一体ここはどこなんですか。応接室……?」
「半分当たりで半分はずれじゃよ。……ふぉっふぉ。君らしいのう」
目の前にいる老人はそのやり取りを、どこか楽しんでいるかのように思えた。
いや、懐かしんでいる、というべきだろうか。
ひょっとしたら以前に、ぼくが二十四年生きてきたそれよりも昔に、この老人と会ったことがあるのかもしれないなと鐘の鈴を見ながら考えた。
「応接間、兼わしの校長室じゃよ。そしてここは学校じゃ」
「はぁ……学校ですか」
「そう学校。スクールじゃよ。ふぉっふぉ。正確には学園じゃがの」
確かにぼくが歩いてきた長い廊下も、そしてこの校長室も改めて見ると学校の造りだとすれば合点がいった。
なるほど、学校か。
だけど何の学校……?
「まず君が再びこの場所に呼び戻された理由から話すとするかのう」
再び呼び戻された。それはやはり一度ぼくがこの場所に来たことがあるということを示唆する。
「はい……お願いします」
「きみが生きてきた人界。そこでは生を受け寿命を全うした者は輪廻の輪に組み込まれた後に再び生を受ける。これに該当しない者が我々神じゃ。人間を遥かに超越した存在で半永久の命を宿しておる。例外はあるが基本的に神とはそういうもんじゃ。君がただひとつ彼らと違ったのはじゃな――」
目の前の老人は一呼吸置くと、ぼくに目を合わせると真剣なまなざしで、
「――自分が神であると認識せず生きてきたことじゃ。」と続けた。
「ぼくが……神?」
それはあまりに唐突で、驚愕的な内容だった。神様なんて存在は神話の中や、漫画やアニメに出てくる登場人物で十分だ。ぼくはそう考えていたからだった。
「君はさっきの鈴の音でちっとは思い出したじゃろう? まぁ慌てなさんな。ゆっくり、ゆっくりでいいんじゃ」
「でもぼくが神だったとして、ぼくが何かやっていたんでしょうか?」
「ふむ、君は実に素晴らしい役割をしていたとも。あの役割は君以外にこなせる神はいないからのう」
はたして本当にそうなのだろうか?
ぼくは普通で平凡でありきたりな生活を送っていただけだというのに。
いまいち実感が湧かない。
ぼくが生きてきた人生の中で神様のような行いをしたことはただの一回もない。
そう断言できるくらいにぼくは普通な人生を歩み続けた。
だけど、あの引きずり出された記憶は……。
老人はティーカップに手を伸ばすと、いまだに冷め切っていないココアを静かに口に含んだ。
「君の名前は……なんだったかのう。ころころ変わるから思い出せないんじゃ」
「野中正ですけど」
「あー……違う。神としての本来の名前じゃ。ゼウスとかオーディンとかシヴァとかいろいろあるじゃろう?」
なるほど。たしかにどれも聞いたことがあるような名前だった。だが、肝心なぼくの名前だけはどうしても思い出せない。どれだけ頭をひねっても、逆立ちをしようとも、正解に辿り着くための糸口すら出てこない。
ぼくと老人の間でしばし沈黙が流れる。老人はついに考えるのを諦めたかのように、
「お手上げじゃな。君のことはとりあえずタダシと、そう呼ぶことにしよう」
「そっちの方が慣れてますのでそう呼んでいただけるとありがたいです……えっと……」
「わしか。神の中では父の役割を持つ神じゃからそう呼んでくれても構わんのじゃけど、いちおうここでは校長先生と呼んでもらえるかな? 学校じゃしの。ふぉっふぉ」
分かりましたと返事すると、ぼくもまた彼と同じようにティーカップのコーヒーに口を付けた。
校長先生……か。
ぼくはおおよそ世間一般から見てもありふれた学生時代を送っていた。
万年、成績は全体でもいつも中の中。すべての教科において平均点しか取れなかった。平均点しか取れないとはいえ、平均点以下になることはなかったし全体の平均点が高ければそれに比例するようにぼくの成績はなぜか上がった。部活動に所属することもなければグレてもいなかったし教師から見れば真面目な一生徒だったことだろう。
恋をすることもあったかもしれない。その女の子と幸運にも付き合うことができたのだけれど残念ながらそれもまた一瞬だけで終わってしまった。フラれた原因はというとぼくがあまりにも普通すぎてつまらない、とそんなことを百五十キロストレートの豪速球で告げられたからだ。
そんなこんなで卒業を目前にした学生時代を振り返ってみると苦笑いが出るし、あまり嬉々として人に話したいような内容ではなかった。
「さて……本題じゃ」
校長先生の雰囲気がこれまでとは打って変わって、優し気な雰囲気から厳かな雰囲気へと変わった。
例えていうなら。
覇気。
その言葉がまさしくぴったりな表現だと思った。
ぼくを睨み付ける目は先ほどまでとは別人だった。
「――お説教といくかの」