最初で最後のラブゲーム
たまにはこんなかるーいお話を書いてみるのも一興ですね。
突っ込みどころは多々あるかと思いますが、コメディということで何も考えず楽しんでいただければ幸いです。
それではどうぞ。
五月も中頃。窓から差し込む光がぽかぽかと暖かい、四時間目の英語の授業中のこと。
念仏のような先生の言葉は僕ら学生からことごとく思考能力を奪い去り、更にお昼前という時間も相まってひとりまたひとりと睡魔の誘惑に屈していく、それはまさに悪魔の時間帯。
そんな中、僕はといえば。
(……沢渡さん、話があるって……なんのことだろう?)
とあるクラスメイトのことで頭がいっぱいで、授業の内容なんてさっぱり聞いていなかった。
話は数十分前の休み時間まで遡る――。
「西村くん、大事な話があるからお昼休みに屋上まで来てくれる?」
僕の机までやって来て、小声でそんなことを言ってきたクラスメイト。この一言に僕の心臓は破れるんじゃないかってぐらい大きく高鳴った。
名前を沢渡遥というこの女の子は、この学校に籍を置く者であれば知らない人間は誰一人としていないだろうという有名人。才色兼備でスポーツ万能、おまけに一年生にして生徒会の副会長という異例の肩書きまで持っている、僕みたいな一般生徒からすれば『高嶺の花』という表現があまりにもぴったりな子なのである。
ほんの数回しか話したことはないけれど、高校一年生の男子が恋慕の情を抱くにはその程度だって十分理由になる。つまるところ、僕は沢渡さんに絶賛片思い中だったりするわけだ。……とはいえ、その想いを告げることなんて大層なことはとても出来なくて、遠目に彼女の姿を見ていればそれだけで満足だったりする、典型的な根性無しなのだけれど。
……と、そんな懊悩とした日々を過ごしていた中で、沢渡さんからの予期せぬ言葉。いやまさか僕なんかに限ってそんなこと有り得ないだろう……と考えるのが当然なのだろうけど、やっぱり、あんなことを言われてしまっては期待するなと言うほうが無理な話。
「う、うん」
と曖昧な返事しか返せなかった自分が恨めしい。この場でそれ以上の話をする気はなかったのだろう、沢渡さんは僕の返事を認めると、スカートを翻しつつ颯爽とその場から去っていった。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花――なんて古くからの言葉があるけれど、真っ直ぐに伸びた沢渡さんの背中を見ていると、その言葉はまるで彼女のためにあるんじゃないかとさえ思えてくる。
冷静に考えてみれば、沢渡さんほどの女の子に彼氏がいない筈がないのだ。……でも、彼女に限っては不思議と浮いた話を耳にしない。そこに希望を見出して特攻を試みた友人も何人かいるのだけど――結果は全て撃沈に終わっている。ライバルとは言え、志を同じくした者の死は傍で見ていて辛いものがあり、失意に暮れる彼らを慰めるのは決まって僕の役目だった。
……そういえば、少し気になることがあった。こうして沢渡さんに振られた友人たちが、僕に慰められる中で、最後にはみな口を揃えて同じことを言っていたのを思い出す。
――あの女は、やめとけ。
もっとも撃沈直後にそんなことを言われても単なる負け犬の遠吠えにしか聞こえなくて、はいはいそうだねそうするよー、とその時は軽く流していた言葉。しかしまあ、誰もが異口同音に同じことを言っていたというのは、後にして思えば少しぐらい首を傾げても良さそうなものではある。
……もっとも。この時の浮かれきった僕に、そんなことを考える余裕なんてなかったのだけれど。
沢渡さんのことを考えているうち、ようやく四時間目終了のチャイムが鳴り響く。僕はもういてもたってもいられず、教科書を片付ける間も惜しんで机から立ち上がった。
沢渡さんの席に目をやると、なんと既にもぬけの殻。もう屋上に向かったのだろうか?
こうあっては事態は一刻を争う。一秒でも早く彼女の元へと向かうため、僕は全速力で教室を飛び出した!
「待て、西村」
そんな僕の首根っこをむんずと掴み、無理矢理に正面に向き合わせたのはつい先ほどまで教鞭を振るっていた英語教師。その無駄なまでの体格の良さから、体育教師にジョブチェンジしたほうが良いんじゃないかというのは学校中の総意。
「ちょ、先生、なにするんですかぁ……っ!」
しかし、今はそんな無駄な話をしている場合ではない。こんなところで道草を食わされている時間はないのだ。
「……西村。おまえ、今の授業をほとんど聞いていなかっただろう。目がずっと上の空だったぞ」
「そ、それは……認めます、けど」
「一年生だからと言って授業を真面目に受けなくてもいい、なんて話はない。三年間なんてあっという間だ。いざ受験という時になって後悔するのはおまえなんだぞ」
言っていることはまったくもってその通りなのだけれど、だったら聞いていなかったどころか夢の世界に旅立っていた他多数はどうなんだ、と心底言ってやりたかった。どうしてこんな時に限って、いちいち僕にだけ……!
「おい、西村。聞いているのか」
「き、聞いてます。聞いてますから、今日はこの辺で許してくださ……」
「いいや駄目だ。少しぐらいテストの点が良いからと言って、それで全て許されると思ったら大間違いだぞ。それをきちんと理解するまで逃がしてやらんからな」
確かに英語は得意教科で、授業なんて聞かなくてもテストは九割方取れたりするけどっ!
っていうかそれが悔しいから八つ当たりしてるんだよねぇこの先生!
「聞いているのか、西村!」
「聞いてます聞いてますから早くそのありがたいお話を終わらせてくださいお願いしますほんと!」
「なんだその態度は! そもそもな、お前は入学当初からどうも授業態度が悪いと思っていたんだ――」
泣き出してしまいたかった。
こうして英語教師のありがたいお話が終わったのは、昼休みも半分を終わろうという頃で。クラス中の奇異の視線に晒されながらもどうにか釈放された僕は、あらん限りの全力疾走で屋上を目指した。一年生の教室はすべて一階に位置されているため、屋上へ向かうには建物まるまるひとつ分階段を上りきらなければならない。いつもは楽でいいなぁなんて思っていた教室配置を、この時ばかりは心から恨んだ。
そうして、息も切れ切れでようやく最上階に辿り着いた。深呼吸する間も惜しんで屋上へと続く扉を開く。立て付けの悪い扉がぎしぎしと軋んだ音を響かせた。
その音に反応したのだろう。金網で出来たフェンスを背に、こちらにじっと視線をよこしてくる先客の存在に気付いた。
「女を待たせるなんて良い趣味してるじゃない、西村くん? ま、別にいいけど」
不機嫌そうにこちらを睨み付けてくるのは、見紛うこともない沢渡遥その人だ。本気で怒っているわけではなさそうだったけれど、なまじ美人なだけに迫力がある。
「う……ご、ごめん」
一世一代の大遅刻をやらかしてしまった今、もはや言い訳するのも恥ずかしくて、とにかく頭を下げるしかなかった。
「ロクに授業を聞いてなかったものだから先生にお説教されてた、そんなところでしょ。困ったものね、まったく」
「……」
そのうえ完全なまでにバレていた。語る言葉もなく全身硬直してしまう僕。
「金縛りになってないで、こっちに来たらどう? こんな話をするためにあなたを呼んだわけじゃないんだけれども」
ふう、と溜息を吐く姿ひとつを取っても様になっていた。吹き抜けていく春風は沢渡さんの長く艶やかな黒髪をゆらゆらと揺らし、そのたびに僕の心までもを揺らす。もはや挽回不可能なほどにアドバンテージを取られてしまった僕は、馬鹿正直に沢渡さんの言葉に従うほかに選択肢をもたなかった。
「う、うん。じゃあ、その……失礼します」
もしかしたら手と足が一緒に出ていたかもしれないけれど、もう知らない。爆発しそうな心臓をどうにか押さえ込んで、沢渡さんの隣に並ぶ。
手を伸ばせば触れ合えるほどの距離。ここでようやく沢渡さんは笑顔を見せてくれた。直視するだけで脳が蕩けそうになる、極上の微笑み。
「知ってるかしら、西村くん。ここってね、一般生徒は立ち入り禁止なの。読めるわよね、あれ」
そう言って先ほど僕が出てきたばかりの扉を指差す沢渡さん。ひたすらに平静を装い、言われるがままに扉へと視線を移す。なるほど確かに、そこには『立ち入り禁止』と書かれた張り紙がしてあった。
「あ、ほんとだ。……でも、こっち側に張り紙しても意味ないんじゃないかなぁ。入ってくるときはあんな張り紙なかったし」
「ナンセンスよね。ま、見つかったときの言い訳にできるからいいんだけど。ここ、風が気持ちよくてお気に入りなの。西村くんもそう思わない?」
にっこりと微笑みながら語る沢渡さん。なんかもうここから飛び降りて死んだっていいや、なんて思いつつ相槌を返す。
「確かに、いいところだね。沢渡さんってお昼休みになるとよく姿を消してたから、どこに行ってるんだろうって思ってたんだけど」
「結構常連さんもいるのよ。今日はたまたま私たちだけみたいだけれど」
「そうなんだ。……って、え」
言われて初めて気付くほど、僕はガチガチに緊張していたらしい。屋上一面を見渡してみると、そこに僕らの以外の人影は窺えない。……つまり、この空間にいるのは僕と沢渡さんの二人だけというわけで。
しかも、こともあろうに――沢渡さんは軽く目を伏せて、その頬を薄桃色に染めたりなんかし始めているわけで。
僅かな期待が、まさかの確信に変わった瞬間だった。
「あなたのこと、入学式の日からずっと見てた。西村くんは気付かなかったかな?」
「ちょ、ちょっと待ってよ、沢渡さんっ。……ええと、その、え、えええっ?」
出来すぎた展開に脳内がパニック状態に陥る。信じられないとかその前に、これって本当に現実に起こっていることなのだろうか。それとも何かのドッキリ企画? だとしたらなんて悪質な番組だ……許すまじ!
そんな感じで、僕はあれよあれよと言う間に百面相を浮かべていたらしい。くすくすと笑う沢渡さんの声にようやく現実に引き戻された。
「楽しい人よね、西村くんって。そんなところが……その、好き、なの」
「……ほ、本当、に?」
上ずった声で聞き返す。我ながらなんて情けない声だろう……。
「迷惑よね、いきなりこんなこと言われても。でも、どうしても言っておきたくて。……西村くんは、わたしのこと、嫌い?」
「そ、そそそそんなことないけど! あるはずないけど! で、でも……と、突然すぎて何がなんだかっ!」
いやもう本当に。人生万事塞翁が馬とはよく言ったものだけれど、この展開はさすがに有り得ないだろう。有り得ないけど……でも、やっぱりこれって現実なんだよね? 信じていいんだよね?
「よく考えて返事をください。それで、わたし……えっと、これ。手紙を書いたの」
「て、手紙?」
そう言って、沢渡さんは制服のポケットから可愛らしい装丁に包まれた便箋を取り出した。そっと差し出されたそれを、雰囲気も何もないままに、まるで表彰状を渡されたかのような気持ちで受け取る。
「ただの手紙じゃないから。わたしの気持ちがぜんぶ詰まってる。ちゃんと読んでくれなきゃ駄目」
「わ、わかった。心して読むよ。……そ、その、ありがと」
付け加えた言葉は、この時の僕にできる精一杯の意思表示。沢渡さんの顔も真っ赤だけれど、僕の顔はきっとそれ以上に大変なことになっているのだろう。
「……西村くんの顔、もう直視できない」
「いや、お願いだからそんなこと言わないで……」
僕はもう一生彼女の名を呼ぶことすら出来なくなってしまう。
「……うん。その、これだけ言いたかっただけだから。わざわざ来てくれてありがと。わたし、もう行くわね」
「え、あ、ちょ……」
呼び止めようと伸ばした手をするりと抜けて、沢渡さんは小走りに屋上を去っていった。だんだんと小さくなっていく背中を呆然と見送ることしかできない僕。
沢渡さんがいなくなってからもしばらくの間、僕は何がなんだかわからないままその場に立ち尽くしていた。
*
真っ白な頭で立ち尽くす僕を現実に引き戻したのは、昼休み終了と五時間目開始を同時に告げるチャイムの音だった。はっと気付いた時にはもう遅く、しかも不幸なことに、五時間目の世界史を受け持つのはチャイムが鳴るのと同時に授業を開始するという生徒からすれば迷惑以外の何物でもない先生だったりする。
急いで教室に戻るべきか否か少しだけ考えて、僕はすぐに思考を投げ出すことにした。事ここに至っては遅刻もサボりも大差ないだろう。だいたい、世界史ぐらいなら授業に出なくたってテストで良い点取るぐらいは造作もないことなのだ。英語もそうだけど、僕は暗記科目が大の得意なのである。……それ以外に取り柄がないとも言うんだけど。
ぶんぶんと頭を振って余計な考えを追い出した。そう、今の僕はそれどころではないのだ。何て言ったって、あの憧れの存在である沢渡さんから……その、告白、されてしまったのだから。
最終確認のため、全力で頬をつねってみた。相応に痛かった。
「くぅっ……」
涙目になりつつも、嬉しさが先に込み上げてきてしまう僕は男としてとても正常だろう。沢渡さんに告白されたのだという事実がようやく胸に落ちてきて、思わず頬を緩めてしまわずにはいられなかった。今の僕はとても気持ちの悪い顔をしているに違いない。
さて、これからどうしたものか――と考えを巡らすよりも先に、自身の右手に握り締められた便箋に目がいった。そう、沢渡さんが僕のために書いてくれた手紙である。これを読まずして何を読む、という帯句はこの手紙にこそ相応しい……!
はやる心をどうにか押さえつけて、便箋の封をぺりぺりとめくる。取り出されたるはベージュ色の紙が一枚。汗ばんだ指先では触れることにさえ逡巡を覚えてしまうぐらい、それは僕にとって神々しい輝きを放っていた。
震える手で手紙を抜き取り、まずは深呼吸をして心を落ち着ける。それを数回繰り返して、十分に冷静さを取り戻したところで、手紙の本文を読み上げる。
一行目。
『説明すると長くなりますが、さっきの告白はぜんぶ嘘です。ごめんなさい』
「ってええええええええええええええええっ!?」
叫んだ。吼えた。転んだ。痛かった。泣いた。
って、ちょっと待ってよ! 何これ! なにこれ! マジでドッキリかよ!?
興奮冷めやらぬままに思う様身をよじり、人生最大のパニックにも負けず精一杯に思考を巡らせたところ、これはきっと僕の見間違いに違いないのだという結論に達することができた僕は褒められて然るべきだろう。
結論が出たなら話は早い。僕はもう一度手紙の一行目に目を走らせた。
『説明すると長くなりますが、さっきの告白はぜんぶ嘘です。ごめんなさい』
「ぎゃああああああああああああああああっ!?」
今度は転んでないのに痛かった。特に胸のあたりが串刺しにされたようにズキズキと痛む。本当に血が出ていないかどうか素で確認してしまうぐらい僕は気が動転してしまっていた。
……いや、まあ、ねえ。そりゃ、虫の良すぎる話だとは思ってたけどさぁ。
でも……、でも……っ、こんなのって……ないだろぉ……。
ぼろぼろと溢れる涙。拭う気にもなりはしない。こんなに泣いたのは中学のとき妹に自慰現場を見られて以来だ。
さんざっぱら泣きはらしてから、僕は三たび沢渡さんの手紙へと目を落とした。よくよく見ると、悪夢の一行目から先にも続きが書かれているようだった。もう何もかもどうだっていいや……なんて思いながらもしっかりと手紙を拾い上げているあたり、僕の未練たらたらっぷりが窺える。期待も何もしていないけれど、それでも沢渡さんが僕のために書いてくれた手紙なのだ。最後まで読まなきゃ男じゃないぜ。
制服の袖で両目をこすり、歪んだ視界をクリアにする。一行目はなるべく見ないようにしながら、その続きに目をやった。
『普通に伝えられれば良かったのですが、女の口からこんなことを言うのはやはり躊躇われますので。ヒントは服』
……これが二行目。ヒントは服……って、いったい沢渡さんは何のことを言っているのだろう?
『残り少ないお昼休みで、あなたは果たして気付くことができるでしょうか。不謹慎ながら結構楽しみです。ふふふ』
三行目。ここでようやく僕は小さな違和感を発見した。何かがおかしいのだ。いやまあ沢渡さんが僕みたいな男を好きになってくれるなんて最初からおかしいと思ってたんだけど……それはまた別の話。
気を取り直し、そこから先を一気に読み上げた。
『あなたにもう一つ、最大のヒントをあげましょう。さっきの告白はぜんぶ嘘と書きましたが、正確には違います』
『中身ではなく形に注目してください。わたしは『最初』と『最後』のみ、真実を語っています。どうですか? わかりましたかー?』
『頑張って考えてみてくださいね。気付いてくれると嬉しいなあ』
『意味のわからない女だと思うでしょうが、これでも一応気は遣ったつもりです。本当ですって』
『まあ、気付かなければそれはそれで面白いのですけれど。それでは、これにて失礼します』
『追伸――答えが見つかったら、この手紙をもう一度読み直してみましょう。きっと幸せになれますよ』
……と、いうことである。一見した感じでは何がなんだかわからないというのが正直な感想だけれど、これだけは間違いないと瞬時に理解したことがひとつだけある。
「……あの女……猫被ってやがった……っ!」
これはもう一発でわかった。口調こそ丁寧なものの、普段の沢渡さんからはあまりにもかけ離れたその文章は、それこそがまさしく彼女の本性であるということを雄弁に語っていた。
ここでようやく、僕は友人たちが口を揃えて語っていたことの本当の意味を理解する。なるほど……なるほどねぇ……よくわかったよ、うん。
涙も乾いたところで、今度は手紙の内容について一考を巡らせる。さっきの告白は……認めるのも悲しいけど嘘で、だけど沢渡さんいわく『最初』と『最後』だけは本当のことを言っていた――というのがこの手紙の大筋なわけだけれど、いったいどういう意味だろう。
ええと……『最初』といえば、屋上に来てから最初に沢渡さんが喋ったこと、ということだろうか?
唯一の取り柄をフル活用して、僕は先ほどの記憶を脳内からサルベージしてみた。沢渡さんの最初の言葉は、確か――
『女を待たせるなんて良い趣味してるじゃない、西村くん? ま、別にいいけど』
これだ。一言一句違わず合っている自信がある。あれだけ衝撃的な告白だったのだ。一生だって忘れず思い出してやるとも。
……それはともかく、この言葉だけは本当のことを言っているらしいけれど、何のこっちゃ。とはいえ思考を諦めるにはまだ早い。同様にして、沢渡さんが別れ際に口にしていた言葉を思い出す。
『……うん。その、これだけ言いたかっただけだから。わざわざ来てくれてありがと。わたし、もう行くわね』
ますます意味がわからない。女を待たせる趣味を許してくれて、それを言うために僕を呼んで、わざわざ来てくれてありがとう?
自分で言ってみて余計に意味がわからなくなった。もしかすると……いや、もしかしなくても、沢渡さんの言うところの『最初』と『最後』は別の事柄を意味しているんじゃないか。
沢渡さんの手紙をもう一度隅から隅まで読み返す。すると、ひとつだけ気になるキーワードに行き当たった。
『中身ではなく形に注目してください』
これである。中身ではなく形。中身ではなく、形……?
……形、ねぇ。
しばし頭を唸らせて、最終的に考え付いた唯一の可能性。
まさかなぁ……とは思いつつも、一応、その可能性を試してみることにする。
『女を待たせるなんて良い趣味してるじゃない、西村くん? ま、別にいいけど』
沢渡さんが最初に言ったこの言葉。この言葉のうち、『最初』と『最後』だけが真実だというのだから――その言葉通り、『お』と『ど』を抜き出してみる。要するに、言葉の意味を一切無視して、紙に書いた文章から文頭と文末だけを抜き出してみたというわけだ。悪足掻きにしても苦しいなぁ……というのは重々承知。
記憶を辿り、同様に沢渡さんの二言目を思い出す。
『ロクに授業を聞いてなかったものだから先生にお説教されてた、そんなところでしょ。困ったものね、まったく』
これは『ろ』と『く』になるというわけだ。じゃあ、この調子で次の台詞。
『金縛りになってないで、こっちに来たらどう? こんな話をするためにあなたを呼んだわけじゃないんだけれども』
これは『か』と『も』が真実ということになる。
我ながら馬鹿馬鹿しいことやってるよなぁ、という考えが――ここに来て、なにやらそれらしい様相を帯びてきたことに気付く。
……ここまでの言葉を並べてみよう。
『おどろくかも』
……きちんと読める言葉になっているのは、うん、きっとただの偶然だろう。
偶然は続かないから偶然っていうわけで。確かめてみれば、すぐにわかるはずだよね。
*
「……偶然、じゃなかった」
茫然自失。誰に話したって信じてもらえそうにないけれど、当事者である僕だけは、この冗談みたいなパズルを疑うことなんて出来なかった。
『おどろくかもしれないけどあなたのめいよのためにいうね』
間違いない。もし嘘だと思うならタイムマシンで過去に飛んで確かめてみればいい。
組み上がったパズルをもう一度眺め、僕はもう何度目かもわからない溜息を吐いた。
「ありえねぇ、あの女……」
頭が良いのは知っていたけれど。っていうか、こんなの気付かないって普通。たまたま僕の記憶力が人より優れてたって話で……いやしかし。人生とは割合にご都合主義で出来ているものなのかもしれない。
しかし、気を取り直して再び考えを巡らせてみる。ここで出来上がった魔法の言葉ではあるけれど、結局のところ何を言いたいのかということが相変わらずわからないままなのだ。
『驚くかもしれないけど、あなたの名誉のために言うね』
そりゃ確かに驚いたけど、僕の名誉っていったい何さ。それならついさっき貴女に粉々にされたばかりなんですけれど。
……しかし今日の僕は妙に冴えていた。ここですぐ、最後のヒントに思い当たったのだ。
そう。手紙の最後に書かれていた、追伸である。
『答えが見つかったら、この手紙をもう一度読み直してみましょう。きっと幸せになれますよ』
なるほど、幸せになれるらしい。言われるがまま、手紙を最初から読み直してみる。
説明すると長くなりますが、さっきの告白はぜんぶ嘘です。ごめんなさい。
普通に伝えられれば良かったのですが、女の口からこんなことを言うのはやはり躊躇われますので。ヒントは服。
残り少ないお昼休みで、あなたは果たして気付くことができるでしょうか。不謹慎ながら結構楽しみです。ふふふ。
あなたにもう一つ、最大のヒントをあげましょう。さっきの告白はぜんぶ嘘と書きましたが、正確には違います。
中身ではなく形に注目してください。わたしは『最初』と『最後』のみ、真実を語っています。どうですか? わかりましたかー?
頑張って考えてみてくださいね。気付いてくれると嬉しいなあ。
意味のわからない女だと思うでしょうが、これでも一応気は遣ったつもりです。本当ですって。
まあ、気付かなければそれはそれで面白いのですけれど。それでは、これにて失礼します。
「……」
恐る恐る、自分の股間に目を落とす。
いろんな感情に全身が支配されていくのを感じつつ、とりあえず絶叫する僕だった。
*
その日の放課後のこと。
最悪の気分でひとり帰路につく僕の背中を、とんとんと叩く細い指先。
まさかと思って振り向くと、そこには案の定、沢渡遥がいたわけで。
「……そんなに僕のことを辱めたいのかよ。頼むからあっち行ってくれ」
「ふっふっふー、お断りします。わたしと並んで帰れるなんて、男の人じゃ西村くんが初めてなんですよ?」
夕暮れの田舎道。この時間に人通りがないのはいつものことで、今日も例に及ばず辺りは閑散としきっていた。つまるところ、またしても僕と沢渡さんの二人きり。
「で、それを名誉に思えって? ……はぁ。なんかもう、笑えてくるよね。勝手に理想を重ねてたのは僕の責任だけども」
「ええ、ぜんぶ西村くんの責任です。でも大したものでしょう? 隙のない優等生キャラを演じるのも楽じゃないんですよ?」
もっとも、今日の昼間みたいな浮いた感情はもう沸いてこないけれど。くすくすと楽しげに微笑む沢渡さんは小悪魔という表現がぴったりで、少なくとも、どこをどう間違っても天使には見えそうにもなかった。
「僕みたいな被害者がこれ以上増えないことを切に願うよ、まったく……」
「ひとを犯罪者みたいに言わないでください。そもそも今日の件だって基本的には善意で動いてあげたんですよ、わたしは」
「はぁ……善意、ねぇ。君みたいなのを何て言うか知ってる? こう言うんだぜ、男の敵」
「ひどい言い草。これでもわたしは、つまらない日常にちょっとした遊び心を彩るプレゼンターを自負しているのですが」
ここまで来ると、呆れを通り越してちょっとした憧憬の念情さえ浮かんでくる。まったくもって大した物言いだ。
……だけどやっぱり、彼女のことをそう簡単には許せそうになくて。
「みんながみんな、沢渡さんみたいに物事を考えられるわけじゃないんだ。君さ、あの手紙を読んだ僕がどれだけ傷ついたかわかってるの?」
「……それはまあ、ちょっとは悪いことしちゃったかなぁとは思ってます。まさか、本気でわたしに気があるとは思ってませんでしたから」
……許せそうになかったはずなんだけど、その一言で完全に気が抜けてしまった。
「こんなに人を憎いと思ったのは産まれてこの方初めてだよ……女でよかったね、ほんと」
「……ごめんなさい。確かに、今日は少しやりすぎました。今まではもっとソフトにやってたんですけど、西村くんがうろたえる様子が面白くて。つい」
つい、じゃねえよ。
そう言いたいところをぐっと堪えて、用意した言葉を並べていく。
「……我慢してあげるよ。君の言うとおり、確かに楽しかったし。それに心が狭い男って思われるのも嫌だしね。言いたいことは色々あるけど許す」
「うふふ、ありがとうございます。もちろん、わたしも楽しかったですよ? 西村くんの記憶力を甘く見ていたのが敗因ですね……次はもっと難解なネタを仕込んでおきましょう」
「聞かなかったことにしておくよ。それじゃ、僕はこっちだからここでお別れだね。……あ、そうだ」
「ええ、それじゃまた明日……って、どうしたんですか、西村くん?」
二人の道を分かつY字路を前にして、僕は最後の一言を口にする。
画竜点睛。気付いていないなら、気付かせてあげよう。
「からかわれっぱなしじゃ夢見が悪いからね。僕が今言ったことはぜんぶ嘘。ただし『最初』と『最後』だけは本当。じゃ、そういうことだから」
「……え?」
呆気に取られたその表情を見て、内心してやったりとほくそ笑む。あーすっきりした。
意趣返しと言うにはずいぶん下手に出てしまったけれど、それでも後悔はしていない。
高嶺の花に手が届かなかったのは残念だけど。僕は、こういう面白い子のほうがタイプなのだ。
「ちょ……ちょっと待ってください、西村くんっ!」
呼ばれたので振り返ってみると、そこには顔を真っ赤に上気させた沢渡さんが立っていた。
……もしかして、脈アリ?
「い……今のはちょっと、きゅんって来ました。そういうの……嫌いじゃないです」
「気に入ってくれたみたいで。良かったよ」
僕らしくもなく、不思議と心は落ち着いていた。理由は、たぶん――雲の上の存在だった沢渡さんを身近に感じることができたから。
「……ええと、その」
もごもごと何か言いたげに口を動かす沢渡さん。
過度な期待はせず、その言葉を待つ。
「……お友達から、始めませんか?」
ほらね。期待しすぎると怪我をする――今日、痛いほど思い知らされた教訓だ。
「それ、今度は『最初』から『最後』まで本当だよね?」
「も、もちろんです。それで、どうなんですか」
色々なことがあった一日だけど、最終的に振り返ってみれば、そう悪いことばかりでもなかったかもしれない。
「……喜んで。そのうち昇進できることを期待して、ね」
まあ、ほら。男って、バカな生き物だからさ。
了