3-9改
――家を出てから数分。
夜とはいえ、商店街の中心近くまできたためか、それなりに人も多くなってきたなぁ。
――なんてことを、のん気に考えていた矢先だった。
……おそらく人ごみに慣れていなかったせいで緊張していたのだろう。俺の左腕には、結の、未だかつて体感したこともないような〝神秘的な柔らかさを持つ物体〟が、まさに、これでもかっ! と言わんばかりに激しく押しつけられていた。
――いかんっっっ!!
そう心の中で叫んだ俺は、とっさに空いていた右手で顔面を強打する。
――ゴッ!
「ぐ……ぬぅぅっっ!!」
……殴った時の音と、あまりの痛みに思わず声を出してしまったことのせいで、結にも、周りにいた奥さま方にも「何だ?」と首を傾げられてしまった……が、それでも何とか、俺が俺であるための意識だけは、正常に保つことができた。
「あの……だいじょうぶ、亮……?」
「……大丈夫。大丈夫だ…………」
ちなみにこの返事は結に向けて、ではなく、自分に向けて言ったセリフだということは、言うまでもないだろう……。
「そ、そんなことより、着いたぞ……」
と、俺は顔を押さえていた手を離し、目の前にあった店を指差した。
【スーパー・愛ON デラックスバリュー】
……憶えているだろうか? いや、たぶん憶えているだろう。この、どう考えても某有名店のパクリだろう。と思わずには決していられないこの店は、前回父さんの墓参り(店参り)をした際、俺がその救援物資を調達しに立ち寄った〝奇妙な〟店である。
……え? だから何が〝奇妙〟なのかって? それは……ま、まぁ、入れば…分かるだろう。
……たぶん。
「……それじゃあ行くか、結?」
えっ! と結は驚きの声を上げた。そのまま上目遣いに俺のことを見て続ける。
「わ…私も、入って……だいじょうぶ、なの……?」
もちろん、と俺は即答した。
「大丈夫だって。今の結は変装してるわけだし、それにほら、現に高利にだってバレはしなかっただろ? ――お前のことをよく知っているはずのやつが見ても分からなかったんだ。ましてや、そこらの知らないおばさんがお前のことを見ても分かるわけないって」
「それは……ま、まぁ、確かにそうだけど……」
でも……と呟きそうになった結の唇を、俺は人差し指で静止させる。
「それじゃあべつにいいじゃないか。何の問題もないわけだろ? だったら早く行こうぜ?」
「あ…う、うんっ……!」
きゅっ。俺の服を握り締めていた結の手に、さらに力が込められたのが分かった。
……不安、なのだろう。そんなことは、驚異的洞察力を持つ俺でなくても分かることだ。
しかし、ならばせめて、少しでも結の不安がなくなるように、俺だけでも堂々と胸を張っていよう。
そう考えて、俺はそのまま結を引っ張るようにして、店の自動ドアをくぐった。
――瞬間、だった。
ふわり……と、入ってすぐに。入口のすぐ右側にある野菜コーナーの所からだろう。俺たちの全身を、〝冷たい風〟が通り抜けて行った。
――それは、俺みたいに、普段そこで普通に買い物をしているような人にとっては、何ということもない、ただの〝冷たい風〟ではあったが……小さい頃の記憶で、それをこう、思ったことはないだろうか?
――〝不思議だ〟と。
――ただの冷たい風が、なぜだか不思議に思えて。
――店内を流れるBGMが、不思議と楽しく聞こえて。
――歩く人、商品を眺める人、そのどれもが、何もかもが、
〝不思議〟に感じた……そんな、記憶が……。
……買い物という、誰もが普通に経験、日常として行っているはずのそれを、結は未だかつて経験したことがなかったのだろう。
結のその横顔は、まさに、初めてこの〝世界〟というものを垣間見た小さな子どものように、キラキラ、と輝いていた。
「……すごい」
思わずそう呟いた結の頭を優しくなで、俺もそれに答えた。
「ああ、すごいな。……でも、これがお前の目指している、〝白乃宮〟という名前を取り戻した後の、その〝先〟にあるものなんだよ」
「これが……」
結は静かに呟いて、そして、ゆっくりと、深呼吸をするかのように一度だけ瞬きをした。
「……私、がんばる。がんばって、がんばって、そしていつか、必ず……」
「……ああ」
がんばれ……俺は、そう静かに呟いた。
「――さて、それじゃあ、結。その〝がんばる〟、の最初のステップだ。まず何を作るか、その辺の材料を適当に眺めながら考えてみようか?」
「うん!」
よし! 俺は結に元気が戻ったのを確認してから、さっそく一番近くの野菜コーナーへと歩を進ませた。
「……えーと、それじゃあ見てのとおり野菜からなんだけど……ここから思いつく簡単な料理っていえば……」
1、野菜炒め。
2、野菜スープ。
3、……きんぴら?
「えと……野菜…炒め???」
……どうやら、結も同じことを考えていたらしい。
しかし、と俺はそこに割って入った。
「いや……確かに野菜炒めは炒めるだけだし、簡単といえば簡単なんだが……結、お前って料理、あんまりしたことないんだよな?」
「……うん?」
「じゃあ、〝包丁〟を使ったことは……あるのか?」
「………………」
……あ。――結が小さく呟いたのが分かった。やはり、持ったことすらなかったか……。
「ん~…まぁ、練習になると言えば聞こえはいいのかもしれないけど……野菜炒めだと、どうしても種類だとか、量をいっぱい切らなければならなくなるから、それだけケガとかもしやすくなるんだよ。だから最初は、もうちょっと、できるだけ包丁を使わない料理にしようか?」
「……うん」
そう答えると、しゅん、と結は小さくなってしまった。
……きっと、包丁すらまともに使えない自分の不甲斐なさを嘆いているのだろう。
「大丈夫だって」
そんな結に俺は一言かけた。
「誰だって最初はそんなもんさ。てゆーか、最初からできるやつなんて存在しないって。だからもっと気楽に、できるところから始めていけばいいんだよ」
「……わかった」そう、納得して静かに結は頷いた。
――とはいえ、どうしたものか……野菜炒めがダメだとなると、他の野菜料理もほとんどダメ、ということになる。と、すれば、残るは肉か魚料理になるわけだが……そのどちらも作るのが難しいものばかりだし、何よりも食中毒……いくらよく手を洗ったからといっても、素材自体にちゃんと火が通っていなければ非常に危険だ。これは俺自身の身のためにも止めておいた方がいいだろう。
……じゃあ、どうする? と俺はあごに手を当てた。こうなったらいっそホットケーキ…とか? あ、いや…でもあれって料理……まぁ、料理には違いないんだろうけど、でも……。
「――それなら、〝オムレット・サンプル〟なんていかがかしら~ん❤」




