逃げるんです(仮)
男は重刑判決を言い渡されたとき、歓喜の笑みを浮かべたという。
無論、その表情を見た者は少ない。しかし、裁判長の残念そうに首を振った表情で、傍聴人のほとんどがそれと知った。
男の罪は、報道により多くの者の知るところになっているので、ここでは割愛する。もしも知らないとしても、きわめて重い罪だ、と理解してくれればいい。加えて理解してほしいのは、私がその男から話を聞きこの文章を書き、それをあなたたちが読んでいる、という事実だ。
話を戻す。
やがて男は刑務所に送られた。危機的な地球温暖化で暑い暑い夏の日だった。
護送した者は一様に、気味悪そうな表情を浮かべていたそうだ。男によると、そ
表情を見てさらに期待感で顔を緩めたと言う。
男の期待感は、「脱獄」の一点に尽きる。
もっとも、具体的な方法があるわけではなかった。
綿密な計画があったわけでもなかった。
外部にも協力者はおらず、男一人で脱走する予定だ。さらに言えば、たったそれだけのために炎天下、何の罪も面識も関わりもない、小さな命を多数殺めたのだ。
実はこの男、一ヵ月前に「逃げるんです(仮)」という新薬を服用していた。知らないのも無理はない。今では「逃走薬」というくくりの中、各種名称に名前を変えて商品化され広く服用されているのだから。当時はまだ「逃走薬」という名称ではなく、便利な薬として犯罪者間など闇の世界で流通したばかりだ。
「逃げるんです(仮)」の効用は、その名の通り服用すればすべてのものから逃げることができることにある。効果が表れるのは、服用から一ヵ月後。何の罪もない市民多数の犠牲は、すべてこの新薬を効果を試すためだっだのだ。
実際、脱獄は簡単だった。
男は堂々と正面から、誰と出会ってもとがめられることなくできたそうだ。閉じたままの鉄扉は、そのまま幽霊のようにすり抜けることができるというSF的な効果さえ、あった。
これだけでは実験結果に不足だからと、脱走5分後に車の乗り逃げ、轢き逃げ、通り魔殺人、食い逃げ、万引き、置き引きなどさまざま試した。結果、罪の大小、逃走の手段などにかかわらずいずれも成功。薬の効き目は半永久的で、対人だろうが対監視カメラだろうが関係なく発揮される。不可視や壁抜けといった特殊効果は、自分の意識とは無関係に必要な瞬間だけ、必要な分量だけ発生するというなんとも脳天気な都合の良さであることが分かった。
ただし。
人間というのは面白いもので、何でも都合良くいくとある時を境に劇的な精神的変化をもたらすようだ男の場合は、無性に虚しくなったと言う。
「一体俺は、どこに逃げてんだろう」
それが、男の生の声だ。
やがて、男は捕まることを望み始めた。自首ではなく、わざと捕まるのではなく、逃走する後ろ手をがっしり捕まれるような、そんな自然でがっしりとした捕まり方。当然、いくら罪を重ねようと、男の意思とはかかわらずあの薬を飲んだ者の宿命として、そういった捕まり方はされない。
「さりとて、犯罪者として自首だけはできないし」
いつもの居酒屋でいつものようにくわえ楊枝のまま暖簾をくぐり外に出て食い逃げし、そんなことをつぶやく。虚しさのあまり夜空を見上げたところで、後ろから腕を掴まれた。
「食い逃げの現行犯だ」
振りかえると、腕を掴んだ背広の男が言った。反対の手には、警察手帳がある。
「なぜ?」
男は半分驚き、半分喜びながら聞いた。
「お前を捕まえるため、俺も『逃げるんです(仮)』を飲んだんだよ」
警察官はそう言って一歩踏み出し、がちゃりと手錠を取りだした。棄てられた楊子が踏まれる。
「お前は、あらゆるものから逃げながら生活してきた。俺も、あらゆるものから逃げている形になる。あらゆるものから逃げている世界の中でお前は捕まったということ。言いかえれば、お前は逃げながら捕まっているという状態だ」
「理屈はよしましょうや、刑事さん。俺は捕まった。それだけでいいじゃないですか」
「そうだな。数年後には、地球上の全人類がこの薬を飲むことになるだろう。それで、
すべては元通りになる」
締まる手錠。二人は、夜空を見上げた。男が脱獄して二年。さらに地球温暖化が進んで危機的状況に陥った、暑い暑い夜のことだった。
とまあ、男の話はここでおしまいだが、理解してほしいことがある。
この物語から数年後、人類は「逃走薬」というくくりの中、各種名称で商品化された「逃げるんです(仮)」を服用した。これで、男を捕まえた刑事が言うように「元通り」になった。すべての人があらゆるものから逃げながら、相対的に特別に逃げることができない世界で生活している。
だがしかし。
私は警告する。「元通り」にはなってないということを。
人間社会が手を取りあって逃げているだけだということを。
世の中全体が何かから逃げているのだ、と。
ほら。
早速テレビのニュースが騒ぎ始めた。
未曾有の規模の津波が世界各地で観測され、すぐにでも沿岸部で被害が出る、と。いや、沿岸部だけではなく陸地がほぼ沈んでしまうほどの巨大津波だ、と。
予想したとおりだ。
全人類が飲み終わって、もう誰も飲むあてがなくなった余った逃走薬を、誰かが海に不法投棄したのだ!
おしまい
ふらっと、瀬川です。
他サイトに「深夜真世」名義で発表したことのある旧作品です。
なんだそのご都合主義の塊は、みたいな新薬の効能をお楽しみください。




