春景色
三月も中旬を過ぎた頃。
「桃の節句」の名残の早咲きの桃が、カーテン越しの柔らかな陽気の中に映える。
奈良は東大寺二月堂の「お水取り」も終わり、春はゆっくりとした足取りで近づきまた遠のき、そんなこんなの間に、いつしか彼岸の中日も過ぎていた。
「きゃあああああぁぁぁぁぁ!」
麗らかでのどかな情景が、そんな悲鳴に切り裂かれた。
居眠りをしていた者たちが、勢いよく目を覚ます。
「何事?」
「今のは、何?」
そして、彼女らもまた気が付いたのだ。
わたわたと起き出し、周りの風景と自分たちの姿を見て悲鳴を上げる。
「ぎゃぁぁぁ!」
「ひぃぃぃぃぃ!」
もはや、先刻までの静寂はどこにもない。
慌ててタンスの中を漁る者。これでもないこれでもないと、やたらめったら色んなものを引っ張り出して、あたりに散らまけている。
そして、それを踏んで転ぶ者。転んだ者にけつまづく者。
もう、てんやわんやの大騒ぎだ。
「落ち着きなさい」
「やかましい」
片や毅然としたよく響く声が、片や苛立たしげな少しどすの利いた声が、そんな大混乱を治めた。
「焦る気持ちは解りますが、慌てるのとパニックを起こすのは違います。先ずはひとりひとりが今の状況を把握して、落ち着いてかつ迅速に行動をするべきです」
と、告げたのは長いストレートの黒髪が印象的な純和風の美人。
白いおもてに、まるで紅を差したような桜色の頬が美しく映える。
「お言葉はご立派だけど、一番最初に騒いだのは、あんたでしょうが? さくら」
言いながら、大きな欠伸をしたのは未だ寝間着を着て、あまつさえナイトキャップまで被ったままの大柄の女だった。
目鼻立ちがやけにくっきりとしていて、こちらもかなりの美人だ。
黒髪の女が、居心地が悪げに眼を逸らす。
「ほんっとうに、勘弁して欲しいんだけど。こちとら、大仕事を終えてやっと休眠に入って、あとひと月はゆっくりしようって心づもりだったってのに。こんなに早くに起こされて、いい迷惑だわ」
「そんなことを言っていると、大切な時に出遅れますわよ。くれは」
負けじと、長い黒髪の和風美人が挑発的な視線を送ると、
「わたしは、あんたらみたいに間抜けじゃないって」
ナイトキャップの女も、ふふんと笑う。
「ああ、腹がたつ。誰か、今、あの女の帽子を取ってくれないかしら。そうしたら、もう、百年分ぐらい笑えそうなのに」
「あはは。そんな事をした奴は、引き裂いてやるから覚悟しなさい」
二人はまるで陰険漫才を楽しんでいるようだが、周りで見ている者はそうも行かない。顔面を蒼白にしながら、はらはらと事の成り行きを見守っていた。
「あの、さくらさま」
勇気のある少女が、ゆっくりと二人に近づき声をかける。
即座に二人が険を孕んだままの眼をそちらに向けたので、その迫力に、少女は「ひぃ」と悲鳴を上げた。
「何かしら?」
取り繕うかのように笑みを向けながらさくらが告げると、
「そ、その。お召し物はこちらでいかがでしょう?」
少女は、手にした打ち掛けをさくらに羽織らせた。
それは、春霞の中に浮かび上がる紅と淡いピンクの濃淡模様。かつて、天下人が催した花見の宴の折にさくらが纏ったものだった。
「その、今年は新しいお召し物が間に合わず……」
本来なら、時間をかけて色合いを吟味するものだ。一年の初め、春に花開くものだから。幸先の良い一年である事を祈って。
でも、今からそれを吟味していたのでは、間に合わない。もう、時はそこまで迫っているのだ。
「いいんじゃない?」
ちらりと、それを横目で伺ってまたあくびを漏らすのは、くれは。
「古きみやこの姥桜は、それぐらい目立つ方が人が喜ぶ」
険しい目が女を捉えるが、くれはは気にせずに続けた。
「わたしは、あんたらなんかどうでも良いんだけど。人が喜ぶのを見るのは好きなんだ」
東方の地を、みはるかすように背伸びをする、くれは。どこか遠いその目には、かつて起こった光景が、映っているのだろうか。
それにつられるように、居合わせた一同が同じ方向を見る。
かつて。
花は咲いても、人はそれを愛でる事を律した時代が、あった。
「皆さま、支度は整いまして?」
凛とした声に振り返った一同の目の前には、艶やかな濃淡の衣装を纏い、ゆったりと結った黒髪に桜の髪飾りを散りばめた美しい女の姿があった。
真っ白な足袋に金箔で桜の花びらをあしらった、草履。
その足が一歩を踏み出すと、まるで風で花が揺れるように髪飾りが揺れる。
「さくらさま、綺麗」
少女のひとりがこぼすと、
「貴女もね」
華やかな笑みが、返される。
そして、少女は気づいた。いつの間にか、自分も美しい桜色の衣装を纏っている事に。
嬉しくなって、少女もまた、笑った。
何もなかった山の一角が、淡いピンクに染まる。と、それにつられたように、また隣の一角へと広がりを見せる。
「山が、笑う」とは、よく言ったものだ。長い冬を終えて、山に春が訪れる。
「さて、ワタクシたちも参りますわよ」
さくらを中心に、艶やかな衣装の女たちがゆるやかに立ち上がる。
「行っておいで、さくら前線」
小さな声で、くれはが告げた。
自分の出番は、しばらく来ない。だったら、もう少し惰眠を貪ろう。
最後に、もういちど美しい色で染められた山と街を伺う。その口元に笑みが浮かんだ。
「嫌いじゃないね、この景色は」
「あら」と、その耳元に聞きなれた声が響いた。春の風が、その声を運んで来た。
「あなたにしては、えらく素直ですのね。でも、ワタクシはあなたが大嫌いですわ」
「そうね。わたしも、『あんた』は大嫌いだ」
誰よりも艶やかに春の宴を演出する。
今年は、桜前線が思いもかけず早く訪れてさすがに焦ったようだが、準備が整えば、ああやって平然と一族を引き連れ、そつなく最高の舞台を見せるのだろう。
誰が何と言おうと、「今」のさくらは名演出家であり、主役だ。
きっと誰もがその姿にため息をつくだろう。
だが。
くれはは、小さく欠伸をすると再び眠りにつく。
再び目覚めた時、この髪は深紅に染まる。錦の衣装を着たくれはを見て、誰もが感嘆の吐息を漏らす筈だ。
その時は、さくらたちだって、くれはに従わざるを得ない。その時、くれはは主役になり名演出家になるのだから。
くれはが、寝息を立て始めた頃。
春の風が、くすくすと笑いながら、囁く。
「ほら、今のうちにあの帽子を取って来なさい。百年は笑える光景が見えますわよ」
「さ、さくらさま。それだけは……」
―了―
こちらまで、お読みいただきありがとうございました。
この物語は、「さくら」と「くれは」が互いに、「私は、あんたが嫌いだ」と言う。そんなネタを某ダディに頂き、形にしてみました。
ダディ、ネタ提供ありがとう。
秋に「くれは」バージョンで書く予定だったのに、桜の時期になってしまったので「さくら」バージョンで(苦笑)。
しかし、今年の桜は早いですね。花見行けるかなぁ……