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空に抱かれ

作者: 天帆出

某SNSサイト内、小説サークルにて投稿。

テーマ『不倫』

「女房は空気だって、あの人言っていたわ」

 女からの突然の電話に早苗は「はぁそうですか」と気の抜けた返事をする。

 本当なら律儀に相手をする謂れは無いのだけれど、どんな気持ちで電話をかけてきたのかを思うと無碍にも出来ない。

「今夜もあの人、遅いわよ。ごめんなさいね奥様」

 少しキーの高い声が淫靡に笑う。


 一通り好き勝手に喋りつくして勝手に切れた電話を置きながら

「私ってお人よしね」

 そんな話に二十分も付き合ってしまった自分に薄く笑み零しながら、早苗はリビングに戻った。

「そっか、空気かぁ」

 ちらり見たベランダの向こうでは、すっかり花びらを散らしてしまったチューリップの茎が揺れている。

 白い小ぶりの、可愛かった花。

 どうせなら、摘んで飾っておけば良かったと、茎だけが揺れる無残な姿に後悔を感じながら、けれど咲いている花に刃を入れる事も痛々しくてできなかった。

 自分は、優柔不断なのかもしれない。早苗はまた薄く笑って瞼を閉じた。


 見合いで何とはなしに結婚を果たし、三十年を超えた。一人息子はとっくに手元を離れ、自分はどんどん老けてゆくのに、齢五十を超えてなお夫は女性に人気があるらしい。

 年に何度か、思い出したかのようにかかってくる電話は毎回声が違う。そのせいか、早苗も昔のようにオロオロする事はなくなった。

 それにしても『空気』とは。今回の女性は上手い言葉を使ったものだと、感心すら覚えてしまった。

「そうね。私、空気なんだわ」

 微かな囁きを聞いているかのように揺れる、花の無いチューリップ。

 夫の武は毎日が午前様だ。だからといって呑んで帰ってくるというわけでもない。

 帰れば「風呂、沸いてる?」と目も合わせずに聞き、「沸いてるわよ」と答えれば「ビール冷えてる?」とまた尋ねる。

 冷えている、と答えれば「そう」と服を脱ぎ散らかしながら風呂場へ直行し、その後は勝手にビールを飲みながら遅い夕食をとり、殆ど会話もないままに就寝する。

 『私の部屋ではあの人、何でもしてくれるのよ。何でも』彼女の笑い声を思い出して、早苗はふっと笑ってしまった。

「知ってるわ。そんな事」

 彼女は武が『家では何もしない男』だと感じているのだろう。

「実際、風呂、飯、ビール、だものね。毎日」

 早苗の呟きにチューリップの葉がざわりと揺れた。

「……あれは十年も前だったかしら」

 思い出したのは、実家の母が体調を崩した折に手伝いの為、家を数日空けた時のこと。

 我が家に帰った早苗は愕然とした。

 いつも午前様の武が、まだ夕暮れだというのにリビングに居る。

 散らばった洋服と弁当の空箱、ペットボトルの山。武は自分でお茶を沸かすこともしなかったのだ。

 そのゴミ山の奥でパソコンの画面に向かい、黙々と仕事をしていた武は、早苗の帰宅に気付くと画面から目を離しもしないで「風呂、沸かしてくれ」とだけ言った。


「新婚の頃、あの人に『家に仕事を持ち込まないで』って我儘言ったことがあったわ」

 それ以来武は二度と残業を持ち帰ることをしなくなった。

「でもあの時は家で仕事をしていたの。その理由も私、知っているのよ」

 ……それは……

「あの人、本当は遅くまで会社に残っていたくないのよ」

 武が残業をする事で部下が気を遣うようになる。

 それを避けるために言葉かけや態度で武も気を遣う。

「でも私は空気なの。そんな気を遣わなくてもいいんだわ」

 一度だけ、忘れ物を届けに会社へ出向いた。

 そこで待っていた夫は、かっちりと締めたネクタイに一筋の乱れもない髪。あの日家で仕事をしていた夫とは雲泥の差だった。

「そう。あの時は、とてものんびり仕事をしていたわ。……周囲に気を遣うの、本当は苦手な人なのよ」

 ……私が空気だから……

「だから私には、彼を誘うための香水もステキな服も、彼の唇を塞ぐためのルージュも必要ないの。……そう、貴女のような甘えた声も」

 早苗の瞳はチューリップを通り越して、声しか知らない女性をぼんやりと映した。

「だって彼に必要なものは、そんなものじゃないのだもの」

 つん、とつついた雌蕊には、まだねっとりと尾を引く粘りが残っていた。早苗はそれを指の腹でこすりながら、ぼんやりと呟き続ける。

「私は空気なの。そして彼も、私の空気」


 仕事熱心な夫が職場で充分に力を出せるよう居心地の良い家という匣を整えながら、邪魔もしない。

 武もまた、家庭を愛する早苗が気持ちよく過ごせるように、ほんの僅かに心を配る。

「私たちは空気なの。息苦しさを感じない関係をいつまでも続けていたいだけの、空気。

 だからこんな電話をかけてきても、私もあの人もお互いを疑ったりなんかしないのよ。ごめんなさいね」

 指の腹についていた雌蕊の粘りはすっかり取れた。

 晴れ渡る空を見上げて早苗は、散ってしまった白い花びらが今はうっとりと青空に抱かれて漂っている姿を思って、微笑んだ。




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