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嵩昌のクラスにはまだスバルの姿はなかった。嵩昌の姿はと探したら、窓際で友人と談笑しているところだった。しかし目ざとく姉を見つけると走って近寄った。
「姉ちゃん、珍しいじゃん。俺に会いに来るなんて。さては俺に恋しくなった?やだなあ、朝会ったばっかり」
「あんた、スバルって昔会った事ある?」
麻綾の台詞と同時に嵩昌の顔が険しいものとなる。一気に阿修羅の表情を浮かべ、ぎりぎりと歯ぎしりをした。
「姉ちゃん……昨日からやけにスバルの事聞くけど、さては……さては!あんな奴が好みなのか!?どう考えても姉ちゃんの方が強くてかっこいいぱーふぇくつ!」
「それで、あるのないの」
鋭い眼光に射られ、嵩昌はおとなしく「ありません」と答えた。
「ないよね……。私たち兄弟にも家族にも関わりない人よね……なのにどうして……」
「どうしたんだよ、なんだか変だよ?今日も朝から調子悪そうだし。まさか、スバルの野郎に何かされて」
嵩昌の台詞を聞き終える前に麻綾はクラスから離れた。
「姉ちゃん!無視すんなよ!」
「何か思い出した事があったら言って。あの、スバルって子の事。昔でもいつでも、この学校で会う以前に会ってるかどうか」
「……わかった。とりあえずわかったのは、スバルって苗字だった。本名は昴風人。やっぱり根暗で友達ゼロ」
「そう……」
昴風人。その名前を頭の中で巡らせるが思い出せるものは何もない。
麻綾は嵩昌に手を振ると、ぼんやりと階段を上った。足は二階、三階と行くが止まらない。そのまま四階、屋上へと出る。そろそろ教室に戻らなくてはいけない時間だが、そのおかげで人はいない。
麻綾は手を上げる。こんなにも頻繁に空間の中に入ろうと思ったことはない。それでも手を一閃し、空間を作り出す。
なぜか緊張する。昨夜見たものが夢でありますようにと願いながら入る。
しかし広がっていたのは、空だけではない。
「そんな……」
麻綾は驚き、口を塞いだ。両手がどうしようもなく震えている。
昨夜広がっていた空らしき闇色のものは、今は明るい。コバルトブルーのものが広がり、白い靄が浮かんでいる……雲だ。そう、青い空に白い雲。間違いようもなく、晴天がそこにある。それは今まで一度も見たことがない、景色らしい景色。
ノイズの世界こそあってはならない不思議なものだが、見慣れているのがノイズのせいか、青い空は異質に見える。
そしてもう一つ。空からゆっくり視線を落とすと、緑色に茂るもの――森がある。深い闇を抱いてざわめく葉がすれ音は間違いなく森だ。
「嘘……ちゃんとした景色……?」
麻綾は急いで空間から出た。そしてもう一度入り、確認する。先ほど見たものと同じ、青い空と森が空間の中に広がっていた。道は相変わらず獣道で、森と空はつながっているのに、森から獣道はまだノイズが走っている。不完全な景色は否が応でも麻綾の心の不安をかき混ぜてぐちゃぐちゃにする。
麻綾はよろめきながら空間を出た。足が震え、立っている事が出来ない。
「……どうして……入るなと、言っただろ」
低い声が麻綾を責める。慌てて振り向くと、そこには昴風人が立っていた。風に折れそうな華奢な体だが目は強い。麻綾を睨みつけ、苛立ちすら覚えているようだ。
麻綾は思わず空間を作り、逃げた。
明らかにおかしい。昴風人に出会った時から空間が、力が、疑問に思っていた事があふれ出す。今まで隣にあったはずなのに途端に恐怖の存在になってしまった。なのに逃げるのは空間しかない。
「やめろと言ってるのに……!」
風人が手を伸ばす。麻綾は逃げようとしたが捕まり、二人は空間の中に転がるように入り込んだ。遠くでチャイムが鳴った気がした。
***
意識が回る。コーヒーにミルクを入れたように影と光がぐるぐると交じり合う。麻綾は何が何だか理解が出来ず、目の前のものにしがみついた。受け身も習っているとはいえ、こういう形で実践をしたことはない。あんなにも体に仕込んだというのにちっとも身についていない――そんな余分な事ばかり思ってしまう。
悲鳴を押し殺し、転がるのが終わるのを待ち続けた。
「おい、起きろ」
低い声と小さな揺さぶりが麻綾を起こす。回転はすでに終わっていた。麻綾の意識だけがぐるぐると回っていたようだ。麻綾ははっと気づき、しがみついていたものが風人だと気づくと急いで手を離した。
「畜生……どうしてまた、繰り返すんだ……!」
麻綾は恐る恐る目を開き顔を上げた。風人は苛立ちながら歯を食いしばっている。青い顔がますます蒼白だ。
「もう二度とここには来たくなかった……」
「ここは……空間の中……」
麻綾は体を起こした。そこはきっといつもの、ノイズが走った暗い空間……のはず。空や森があるなんて、今までにない景色が突如現れる現象なんて――この力こそ夢のようなものだが――麻綾にとってありえない事はありえてはいけない。
「何、ここ……!」
麻綾は思わず息を飲み込んだ。ひゅう、と喉が鳴る。麻綾は無意識のうちに風人の袖を握りしめる。風人は何も言わず麻綾をじっと覗き込んだが、それに反応するゆとりはなかった。
空間は――青い空や森があるだけでも奇跡のような光景だったというのに。
獣道はあぜ道に、空には雲がゆるゆると流れ、森は風に揺れてさわさわと音を立てている。そして空白だった部分には――鬼瓦並ぶ家がぽつりぽつりと森に埋まるように建ち、作物並ぶ畑が穏やかに広がっていた……。
田舎に来たような、青い葉と土の匂いが心地よい。だが田舎というには妙な違和感があり、その正体はすぐに知ることになる。