4
風呂で汗をさっぱり流し、夕飯の後でプリンを食べ、至福に満ちていたはずだった。
時計は二時になろうとしていたが眠気がさっぱりこない。麻綾はベッドに横になりながら時計の音を聞く。額に腕をあて、ぼんやり天井を見上げた。
――あの空間には入らない方がいい。
青白い男の子の台詞がずっと繰り返されている。嵩昌よりも低い声をしていた。なんとなく儚い印象を持った不思議な人だ。
麻綾は手を天井に向ける。小さな頃からなんとなく身に付き、使い方をわかっている能力。その意味はわからないまま時々便利に使っている。意味なんて考えた事なかった。
麻綾はしばらく天井を眺めていたが、立ち上がって空間を引き裂いた。暗闇よりもさらに黒い一本筋が今日はなぜだか怖かった。
中にはテレビのノイズのような世界に、かろうじて見える獣道しかない。その道も一本しかなく、進んだ歩数によって現実世界への出口が決められる。
そのはずだった。
麻綾が中に入ると、そこはノイズの世界ではない。昼でも夜でも変わらないはずの、ざらついた世界に色があった。
「……空?」
麻綾は思わずつぶやいて顔を上げた。いつもなら上も左右も同じ景色なのだが、今日は違う。空に似た、透明なものがそこに広がっていた。色は今の時間と同じく闇色だ。
「どういう事……」
空間の中では時間はリンクしていない。空間の方が遅い流れをしているはずだ。いや、闇色の空だからといってここの時刻もまた夜とは限らないし、この上にあるものも空とは限らない――けれど透明なそれに、靄のようなものが流れている――雲だろうか。
麻綾は急いで頭を振った。もう一度見上げるが、それは間違いなく空間の中で広がっている。一度出てもう一度中に入ってみたが、変わらない。
麻綾は急いでベッドの中に潜った。あれほど無意識に隣にあった空間が別物になろうとしている。
「あの人に会わなくちゃ……」
麻綾はぎゅっと目をつむって眠りに無理やりついた。頭は冴えていたが、体の疲労が手伝って眠気はほどなくやってきた。
***
剣道部は朝練もある。グラウンドを五周する程度の軽い訓練だが、麻綾はそれを休んだ。しかしいつもの時間に学校へ向かい、一年生のクラスをちらりちらりと見て回る。まだ七時を少し回った程度なのでどの教室も人がいないどころかまだ鍵が閉まっている。
「い、いるはずないよね……」
誰もが早いと思ったら大間違いだと、椎音も時々言っている。結局、基本や標準なんて存在しないに過ぎないんだから自分が基準と思っちゃだめだよと、椎音の台詞が頭の中を巡る。
しかし部活は休むと言ってしまったし、やることはない。結局三階へ向かう事にしたが、その途中、物音がした。
三階の奥は美術室がある。麻綾のクラスの二つ隣だ。麻綾はそっと美術室へ近づく。油と鉛筆の匂いがした。
「あ……」
麻綾はあわてて口を塞いだ。朝の陽光に照らされ、石膏像が白く発光している。その目の前でイーゼルを立て、カルトンを下敷きに画用紙を置き、鉛筆を滑らせる手がある。細長く、あまり節のないきれいな指先だ。石膏像と同じぐらい白く発光している。無駄のない動きで大まかに形を取り、腕を大きく動かして陰影をつけ始める。
その手の先にあるのは昨日見た顔――スバルという男の子だ。麻綾は思わず唾を飲み込むが、緊張以上にその手の動きや次々に描かれる鉛筆の線に見とれてしまった。
「……あ」
先に気づいたのはスバルだった。鉛筆の手を止め、それが誰かわからない様子でぼんやりと麻綾を見ていたが、不意に視線をそらして鉛筆の手を再開した。無視された。
「ねえ、あの。えっと、スバル君?」
しかし麻綾は気にすることなく教室に入り、スバルの一歩後ろに立った。なるべく邪魔しないように画用紙をそっと見る。まだ明確な形ではないが、陰影のコントラストは美しい。
スバルの指先がぴくりと動くが、顔は麻綾を見ない。
「……空間に入っただろ」
「それを聞きたい。どうして知ってる?」
麻綾の静かな声にスバルは手を止めた。けれどまだ振り返らない。
「私とあなた、どこかで会った?なんで空間の事……」
スバルは一息つくと、振り返った。ガラスのような目はどこか訝るように半眼だ。麻綾をにらんでいるのかもしれないが、麻綾はそれに気づかない。
「俺は……信じてもらえないかもしれないけど、君を守らないといけないんだ」
ぽつぽつと抑揚のない声。表情は仏頂面で、目は合わせない。麻綾は思わずきょとんとするが、スバルはしばらく黙った。
「だから、空間に入るな。それだけ」
「そう言われても、私のこの力……小さい頃から使ってきたし、不思議さはあるけど何の危害もない。いつも普通にあるから、いきなりそう言われても」
「入らなければいい。少しずつでいいからその力の事は忘れろ」
がらりと扉が開く。同じ美術部の部員らしき、エプロンを着けた女子生徒が入る。女子生徒は気まずそうに一歩よろめいたが、麻綾の方が先に動いた。そのまま廊下に出ると、徐々に生徒が登校し始めている。
麻綾は少し息を吐出した。いつの間にか手に汗が、心臓が早鐘のように鳴り響いている。
麻綾は慌ててクラスへ入った。鍵は開いていて、椎音が登校したところだった。
「おはよ、マーヤ。ねえー宿題やった?あの問題意地悪過ぎ」
「椎音。スバルって人知ってる?」
「登校するなりなんなの、いきなり。知らないわよ、誰それ」
「やっぱり気になるから嵩昌のところ行ってくる」
「あ、ちょっと、マーヤ!……珍しい。あんなに慌てて。慌てることなんてあるんだー」
椎音はのんきにつぶやいたが麻綾の耳には届かなかった。