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竹刀から汗が零れ落ちる。百を超えた所で腕にしびれがきたがそれは痛みよりも心地よさがある。何度も踏みしめた足の裏の皮はむけてしまったがすでに感覚はない。リズムを取りながら竹刀を振り上げ、同時に声を出しているので喉もからから。けれど部員たちは乱れることなく続ける。
百五十で一回止め、十分間の休憩に入って立ち止まるとどっと汗が噴き出す。額や髪の中から汗があふれ出し、頬を濡らす。麻綾は乱暴にタオルで拭うと体を震わせて全身の筋肉を徐々に落ち着かせていった。
もう一度同じメニューをこなして今日のメニューは終わった。麻綾はいつも通り胴着を脱いで道場を閉め、荒木に鍵を渡して校門へ向かう。
「姉ちゃん、お疲れ!」
約束通り嵩昌が犬のように待っていた。しっぽがあったら振っているかもしれないと思うほど嵩昌は嬉しそうに麻綾に近寄ったが、麻綾の目はごまかせない。黒い影らしきものが嵩昌から逃げるように行ってしまったのを。
「嵩昌、さっきここに人がいただろう」
「姉ちゃんの目はごまかせないな……。いたよ」
「友達か?」
「いんや、俺のファンだって。俺、超可愛い一年生に告られちゃった」
嵩昌はチャラついた見た目通り、よくモテる。モテるというのか、人が寄ってきやすい。入学して間もないのだがもうそんなチャンスが回ってきたらしい。麻綾は対して興味がないので頷くだけだったが嵩昌はもっと聞いてほしいらしく、勝手にしゃべり始めた。
「すげー華奢なんだけどこう、胸が、いい感じに膨らんでるっていうの?顔も小さいしさー、付き合おうかと考えてるんだけど、俺には姉ちゃんというスペクタクルな存在がいるわけで」
「まさか、断ったのか?」
「断ったよ。俺の理想はクールビューティーお姉さま!強くてかっこいい人だから、そこんとこよろしくだぜ」
「……思うんだけど、あんた時々古いよね?」
「それは言わない約束だぜ」
指を二本立てて輝く姿は昔テレビで見た、アイドル青年隊に近い。弟ながら妙な奴だと麻綾は肩で笑った。
「じゃあ、姉ちゃん。プリン買って行こうか」
「プリンではない。ただのプリンじゃないんだ。でかでかぷっちんちゃんだ」
嵩昌はなぜかガッツポーズをとった。これが言わせたかった、というのは嵩昌しか知らない事情である。
学校帰りに唯一ある光源、田舎を明るく照らすコンビニはありがたい存在で、いつも満員だ。今日も八時に近いため、おやつを買いに来た学生や会社帰りのサラリーマンとOLで溢れている。麻綾たち学生服の姿も少なくはない。
「あ、嵩昌。先買ってて。トイレ行ってくる」
「わかった」
嵩昌は両手にプリンとスナック菓子、チョコレートを積みながら頷く。麻綾は急いでトイレに行くと、すれ違いざまい見たことのある顔があった。
「あ」
同時に声を出す。二人は顔を合わせた。麻綾はもちろん、嵩昌よりも身長が高い。かなり大きい部類だ。青白い顔は蛍光灯の下でも変わらず、近くで見ると印象よりもかなり華奢だということがわかる。ガラスのように透き通り、愁いを帯びた目はしっかりと麻綾を見下ろしていた。動きのない、あまり元気そうではない顔が少しだけ歪んだ。
「君、一年生の……」
同じ学生服の男子生徒は、移動教室の途中で目があった男子だった。こうして顔を合わせても誰かはわからないが、男子生徒は麻綾から目をそらさない。しかしその唇が動いた。
「……もう、使わない方がいい」
「え?」
「あの空間には入らない方がいい」
麻綾の胸がどきりと飛び上がる。麻綾の能力は嵩昌にも教えていない。秘密というわけではないが、特殊な力なので言わないようにしていた。
なのに彼はどうして、誰も知らないはずの、あてずっぽうでも当たるはずのない事を言うのだろう。
「ど、どうして……何の事」
男子生徒はじっと麻綾を見ていたが、やがて目をそらしてパンとコーヒーを手にレジへと行ってしまった。そのまま何事もなかったように外に出てしまい、顔を合わせる事はもうなかった。
「ね、ねえねえ、嵩昌」
限定のスナック菓子を買おうか買わないかで悩んでいた嵩昌は急いで顔を上げる。
「何、姉ちゃん」
「あんたのクラスに、青白くってひょろ長い人いる?」
「あー……いるいる。ジャストそんな感じの奴。俺の斜め前の席で、確か……スバルとか言ったな。スバル……なんとかクン。根暗で、ぽそぽそ言ってて何考えてるかいまいちわかんない、所謂オタク?って感じの奴。好かないわけじゃないけど、近寄りがたいってか。そいつがどうかした?まさか、姉ちゃんに何か」
「そう……。なんでもない。さあ、早くでかでかぷっちんちゃんを買おう」
麻綾は振り払うように首を振ると、嵩昌の腕からひょいとプリンを持ち上げた。