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「一本!」
雷のような竹刀の音。高らかな声に場の空気が元のざわめきを取り戻す。凍りついていた道場に小さな感嘆の声が次々と囁かれる。
「さすが仙石麻綾……」
部員の誰かが唾を飲み込んだ。仙石麻綾、それは勝者の名前。闘志、戦いぶりはもちろんだが、面を脱いだその下にある顔も気迫に満ちている。長い黒髪は乱れながらも艶やかで、胴着にちょこんと乗る顔は小さく、目鼻立ちは女らしいというよりもボーイッシュな印象がある。戦いの余韻を残す瞳はつり目でらんらんと輝いて相手を見つめる。かたや対戦相手は男にも関わらず肩で荒く呼吸を繰り返している。涼しげな麻綾の目を見て、相手はどきりと肩をすくめながら二人は手を取った。
「参りました、仙石先輩……」
「まだまだ練習が足りないよ。足腰が弱いから、下半身を強化する訓練をもっと取り入れた方がいい」
淡々としながらも相手を思いやるように麻綾が言うと、後輩男子は戦った後の火照りとは違う赤みを頬に混じらせ、元気に返事を返して仲間の元へ戻った。
「うわああ、やべえ!先輩と握手しちゃったよ!やっぱり先輩かっけえっ」
「ずるいぞ、こいつ!どさくさに紛れやがって!俺たちよりちょっと腕があるからって対戦なんて申し込んで」
「抜け駆けだ、抜け駆け!」
後輩男子たちは小声で騒ぎ、小突き合い、ちらりちらりと麻綾を見ながら正座する。凛と背筋を伸ばす麻綾はまるで侍。麻綾の凛々しい姿や鋭くも無駄のない太刀筋は剣道部全員の憧れの的。男子だけではなく女子もまた麻綾を目標としている人は多い。
ぱんぱん、と顧問の荒木が手を叩いた。時計を見ると、七時を回っている。
「今日はここまで。最近、部活動の時間が長いって苦情が出てるからな。もっとやりたいが、苦情のほうが怖いんでさっさと帰るように」
「荒木先生ー、せめてあんまり遅くなると夜道が危ないって、紳士的な言い方にしてくださいー」
「そうだよ。先生がそんなのだから苦情来るんじゃないの?」
どっと部員たちが笑う。荒木は蹴るように足で部員を薙ぎ払い、部員たちは笑いながら部室を出た。更衣室で着替えをさっさと済ませ、汗まみれの体を気にしながら帰って行った。最後に麻綾が鍵を閉め、荒木に渡す。
「お疲れ、仙石。突然だけどお前、進路決めた?」
「進路……そういえば、何も」
ぼんやりと答える麻綾に荒木は顔を覆う。薄暗い中でも荒木の顔ははっきりと苦く浮かぶ。
「お前なあ……。剣道の時はぴりっとしてるけど、その他は全然だな。ちゃんと決めろよ。来月から高校三年生、受験シーズンだぞ。俺としてはこのまま剣道を続けてほしいが、そうもいかないしな。勉強のことはとやかく聞かないから、とりあえず決めとけよ。先生、応援してるからな」
麻綾の背中を軽く叩き、荒木は校舎へとのんびり歩いて行った。その後ろ姿を見ながら、麻綾はぼんやりと空を見上げた。すっかり日が暮れ、冷たい風が吹いているが二月の寒さに比べたらなんとなくまろやかで穏やかに思える。花粉が飛んでいるのか、夜でも少しむず痒い。
麻綾はそのまま三秒考えて、すぐに思考を捨てた。
剣道以外になると割とどうでもよくなってしまう麻綾だった。かといって剣道一筋というわけではなく、戦うという行為がなんとなくしっくり来るから、女だが中学校の時から部活は剣道一筋だ。好戦的かというとそれは違い、精神を統一して相手に切り込むその姿勢が好きなんだと分析している。
おなかが大げさに鳴った。鞄を探ってもおやつは出てこなかった。
「ひ、ひもじい……おなかすいた……もうだめ、耐えられない」
時計を見る。時刻は八時近い。今からなら何とか夕飯が残っているかもしれない。
その他の部活帰りの生徒の合間を駆け抜け、道を右に折れる。辺りに誰もいないことをしながら歩く。学校の周りはほとんど住宅街だ。隣同士がくっつきそうなほど家が並んでいる。時間が帰宅とも夕飯ともつかない中途半端な時間のせいか、人はほとんどいない。玄関と窓からの明かりだけがぽつぽつと並ぶだけだ。かすかな人の声だけが響いている。風呂に入っている人も多いだろう。
誰もいない。犬の散歩やランニングをしている人もいない。他の生徒に会うこともなさそうだ。剣道で培った集中を巡らせ、一人頷く。
よし、と麻綾は手刀を前方に掲げた。そのままゆっくりと真上にかざすと、竹刀を振り下ろすように一閃する。風が切れる音がし、麻綾は息を吐いた。
一陣の風が吹く。ファスナーを開けたように空間が引き裂かれた。
ぱっくりと、布のを裂いたように目の前に真っ暗な裂け目が生じているのだ。
麻綾は疑問なくその中に入った。裂け目は何もなかったように一瞬にして消え、麻綾の姿も消えた。
いつの頃からか、麻綾には特殊な能力が身についていた。麻綾は勝手にだが、空間を引き裂く力と呼んでいる。手をかざし、振り下ろすと目の前の空間が破ける。その中に入ると麻綾はその場から消えることができた。おかげで、幼少の頃はかくれんぼの天才だった。
中に入るとそこは、歪んだ世界が広がっている。何もかもぼやけていて、獣道のようなものがずっとまっすぐ、一本道に続いている。
そこを歩いてまた手をかざすと、現実世界に戻ってくることができる。空間の中と現実の世界はリンクしているらしく、戻ってきたそこは別の場所に移動している。小さな頃は加減がわからず、隣町の公園に出てしまったり、他県に行きそうになった事もあったが、今ではどれくらい進めば自分の望む場所に出るのかわかっていた。
麻綾はほとんど勘で適当な場所を切って出て、現実世界に戻った。
見慣れた玄関はまさしく自分の家。木目調の扉とかわいらしい小さなベルが風に揺れている。
時計を見ると、先ほどから三秒ほどしか進んでいない。空間の中と現実の世界では時間がずれていると、これも幼い頃知った。
結局これが何かはわからないが、とりあえず便利なので使っている。その程度だ。得する事はないし、これによって何かが出来る天才になったわけでもない。
これで何かが出来たら進路ももっと楽になったかもしれないのに。
麻綾は心中でつぶやくと扉を開けた。シチューのいい香りがした。