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過去の顔

 始めて栞が万博記念公園に来たのは、六歳の誕生日を迎えた歳の盆だった。父と母と祖父、栞。家族そろってドライブに来たのだ。自分はお気に入りのブルーの半袖Tシャツを着て、父はパンチパーマにサングラス姿。まるで犯罪者のようだったと記憶している。

 太陽の塔は修復前で、黄金の太陽の顔には錆のような汚れが付き、真中の顔は涙を流し、裏の黒い太陽の顔は、黒いタイルが剥がれ落ちていた。鮮明に覚えているのは、とにかく怖かったからだ。

 油蝉の声の響く公園を散策中、ふと、父が俯き加減にぼやいた。

「信じられへん。あの科学都市も社会主義の夢も、完全に森に戻ったんや。日本の未来はテクノポリスになるって信じてたのに」

「栞、ここにな、昔ビルマ館があったんやで」祖父が教えてくれる。「ビルマ人な、パンツ穿かへんねんぞ。ロンジーいう布だけ穿きよる」

 祖父が戦争当時のビルマを語り始める。栞の頭に浮かんだ、行ったことのないビルマのイメージは、ジャングルに蔓がぶら下がり、ひどく暑くて水の多い所だった。

「ビルマには、お寺がいっぱいあんの」

「おう、ごついお釈迦さんが寝てはる。村人が仏塔で勤行しとる。今も多分、変わってへん」

「勤行って、何」

「栞と一緒に毎朝やっとる、死んだおばあちゃんなんまんだぶつや」

 その時、父が嘲笑めいた鼻息を吐いた。

「なんまんだぶつ、だから親父は立ちおくれてんのや。栞、神さん仏さんは怖いんやで」

「なんで」

 父は少し悩んだ後、まるで教え諭すように、こう答えてきた。

「なあ栞。おまえは大きなっても、阿片人間になったらあかんで。神さんにすがったらあかんで。もし お父さんが死んだり、突然、栞の前からいなくなってても」

 阿片の意味を考えながら空を見上げた時、太陽の塔の黄金の顔と視線が合ってしまい、栞はなんだか居心地が悪くなった。塔は遠目にも、質感がさわっと肌のような感じがして、父の言う神さんみたいなのだ。でも、神さんが動き出しても逃げてはいけない。ここからひとりでなんて帰れない。

「何や、栞。あれが怖いんか」

 父が構ってくる。五歳といえども自尊心はある。

「怖いことあらへん」

 すると、母が父に向かって、棘を含んだ言葉を吐いた。

「今日のお父さんの方が怖いんとちゃうん。この格好」

 父が背を向けてカメラを取り出すと、測道沿いのハイビスカスにピントを合わせ始める。その時、栞の頭上で祖父の雷が落ちた。

「馬鹿もん。まず栞の写真撮ったれや」

「チッ」

 父が舌を打つ。

 一時間ほど後、ようやく塔の御前から解放され、隣の遊園地、エキスポランドに入る。

 しかし、特にめぼしいものもなく退屈していると、また父がちょっかいを出してきた。

「栞」

 父が身をかがめ、額にサングラスの蝉のような眼を近寄らせた。

「ジェットコースター独りで乗って来いや」

「なんで」ぎくりとした。「あんなん、大人しか乗せてくれへんで」

「大丈夫や。こっち来てみ」

 父が、野球帽の男の子の絵に栞を並べる。

「大丈夫。もう、ぎりぎり身長足りてる」

 事態を察したのか、母が父を諫めてくれた。

「やめときいな、栞こわがってる」

 祖父も味方に入り、再び父を怒鳴る。

「阿呆馬鹿もん。もしなんかあったらどうすんねん」

 しかし、栞は高い軌道を見上げ、はるか大人のお姉さんの絶叫を聞きながら、反面、母と祖父に甘えたくない葛藤に捕らわれていた。自分は来年小学生になるのだ。就学前の時期、子どもの自我は完全になると言われているが、確かにこの時の栞はすでに、百二十センチの身長と、隣のエキスポタワーほどの高い鼻を持ち合わせていた。

 栞は持てるだけの知識を振りしぼって、母と祖父に言い聞かせた。

「大丈夫、私、落ちて死んだら、裁判でイシャー料とって、お医者さんに払ろて」

 父のぎゅっと汗ばんだ手をほどくと、ダイダラザウルスコースターの、乗り場入り口の階段と向き合う。

「待ち」

 母が呼び止めた。そして、父と祖父に対してまなざしで訴えるような一瞥をくれると、

「イシャー料、お母さんと栞、女二人でもらお」

 始めて乗ったジェットコースターの座席には、平べったい、身体にまわす座席ベルトがくたびれていた。母がそれを手に取り、カチリと留めてくれる。しかし、栞のちいさな胸の前で、ベルトはたるんだままだった。

「遠心力つくし、大丈夫」

 母も自らのベルトを締め、正面の高い軌道と向き合う。横顔が、乗り場の屋根の影の中で白く光っていた。

 コースターが乗り場を離れ、軌道の坂道を登ってゆく。首を伸ばして下界を見た。真下の植え込み、ソフトクリームの店の緑色の屋根の近くに、見守る父や祖父が見えたかもしれないが、そこまでは憶えていない。

 コースターが滑り落ちる瞬間、最後に視界に入ったのが、太陽の塔の巨大な避雷針と汚れた金色のマスク、尖った両手だった。生まれて初めての死の通過儀礼中、風を受けながら栞は太陽の塔だけを見つめ続けた。

(もし死んだら、あれに迎えられるんやろか)

 完全に理性が戻るのは、三分ほどの儀式が終わった後、父が食堂のケースの中の、作り物のカレーライスを自分に勧めてくれたところからだ。

「栞、カレーいらんのか。かき氷は」

 香辛料の匂いを嗅いでも、食欲はまったく湧かなかった。とにかく身体中が震え、つま先や指が冷たかった。

「いらへん。酔った」

 恐怖を隠すため、嘘をついた。

「ほな、せめてお母さんと半分こしやい」父が頭を掻く。「栞はまだ子どもなんや。ちゃんと食べなあかん」

 母と交代で、ウスターソースを掛けたカレーを口に持っていく。確かインドカレーだった。しかし今のインド料理店のものとは違う、普通の、ほとんど辛さのないチキンカレーだったと思う。万博当時から残っているような食堂で、食券を自販機で買って支払った。

 母も恐らく食欲がないのか、まずそうにスプーンを口に運んでいる。やがて、薔薇柄のスプーンを紙ナプキンに置いた。

「栞が落ちそうになって、私、ずっと、ずっと栞の身体押さえてたわ」

 その後、父と母と祖父は、近所の家がどうかしたとか、田んぼの土地が何とか、普通の家族の昼食に ありがちな話をしていたと思う。ただ、母の放った会話はボールのように跳ね返らず、転がったとしてもすぐに止まってしまった。自分と同じように、母も祖父も気遣い合っているんだな。と栞は六歳のカンで感じ取った。

(なんで大人は気、遣い合うんやろ)

 母の指輪をはめた指もパーマを掛けた髪の毛も、汗で崩れた白い化粧も、太陽の塔とちょっと似ている。と思った。メッキの剥げた顔は強ばり、ただ眼力だけを無言で、栞以外の向かい合う家族にぎらつかせていたのだ。

 その夜の夢も憶えている。夢の中で、栞は旅館の部屋にいた。竹籤の照明の下に、両親が向かい合っている。二人は栞をあえて無視して大人の話を続けていた。

 突然、父が猫の子のように栞の背中をひっつかみ、窓から外に放り出した。栞は闇に落ちながら父を見上げる。窓の四角い光が小さくなっていく。

 捨てられたショックで、泣くことも忘れて落ち続けた。そこで場面が変わり、栞は地面のない宙ぶらりんな場所に出た。頭上に石ころだらけの黄色い星と、足元の下には、よく『こどものかがく』に写真が出てくる青い惑星が浮かんでいる。その頃、地球が大地とよく解っていなかったので、栞はとにかく、土っぽい星に行けば、死んだ祖母が助けてくれると思い、そちらの方を向いた。

 しかし、月の表面には祖母ではなく、あの太陽の塔が両手を広げ、パラボラのような黄金のマスクを向け、空洞の目の虚空を向けていた。騙された。今度こそ死んでしまうと思い、栞は叫びを上げた。

 そこで目が覚めたが、その後、どうしても寝入ることが出来なかった。朝五時のNHKラジオの浪花節を聞きながら、隣で眠っている祖父が夜明けと共に死んでしまい、両親も今日の仕事から永遠に帰ってこず、この広い家に、たった独り残される悪い予感に捕らわれた。

 自我が完全になった栞が初めて感じ取ったのは、両親の仲の悪さと、家長たる祖父の死、家族を含む人間関係の乾土の脆さと、そして、結局最後に信じられるのは自分だけ、自分最高という、ひとすじの希望だった。


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