現在の顔
創世記二章
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう/まさに、男から取られたものだから」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
創世記三章
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして生命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
こうしてアダムを追放し、生命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
「何読んでんの」
と託馬に尋ねられたので、
「旧約聖書」
とだけ答えた。途端、左隣の人が固まったのが伝わる。託馬はもう動じないだろうが、左隣への言い訳の為、栞は言葉を継いだ。
「次の二科展の題材、『楽園追放』にするねん。だから資料の為に借りてきた」
「へえ、栞、二科展出すんだ」
「うん。追放されたアダムには労働の苦、エヴァには陣痛の苦っていうテーマで、、現代的に描くねん」
御堂筋線終点からモノレールに乗り換えて数分、千里ニュータウン過ぎると、急に車窓が青くなり日光が差す。大阪のドーナツ住宅地の奥の奥、広大な森の広がる地域に入ったのだ。
日本万国博覧会は何十年も昔に終わり、全ては一度、土へと帰した。現在、かの地は樹木が茂り、万博記念公園、自然文化園として葬られている。しかしその中心には、当時の記念碑が今なお、土に帰ることなく白々と息づいている。
「マジで何なんだろうな、これ」
託馬の呼吸の乱れが伝わる。そう、太陽の塔。岡本太郎作。今だ生き長らえ、頂上に黄金をいただいている。
客が無目的に万博記念公園に入ると、足と眼がどうしてもこの太陽の塔に引き寄せられていく。栞はその現象に身体を任せた。それは、栞にとって旧約聖書と同じぐらい不可解で魅せ惹かれる存在だった。
託馬が溜息をつく。
「なんかエヴァの使徒に似てるかもね」
「あー、確かに庵野監督と岡本太郎、同じ属性の芸術家グループかも」栞は持てる雑学を披露した。「石原慎太郎もそう。『太陽の季節』」
「何で東京の都知事が関係あるのさ」
「この小説の中に、障子を突き破る超有名な場面があるけど。昔、万博の頃は太陽の塔の周りに屋根があって、塔と屋根の構図がそのままやったって」
すると、託馬もようやく察したらしく、
「あ、知ってる。そのシーンだけ。でも結局、みんな過去の話じゃない」塔の影に託馬が踏み込む。「こないだ大学に来てた、代官山のデザイン会社の人が言ってた。『過去に頼らず、無からヒットをバッと出せる職人しか、今の画壇にはいらない』って。俺、ムカついたけどちょっと感動した」
栞は高い天を仰ぎ息をついた。
「神様やん、それ。東京の人は傲慢やね」
「あの先生、『おまえら世代の芸大生なら、神レベルを越えられる』って堂々と言ってくれる。俺、あの授業結構好きかも。評価は厳しいけど」
太陽の塔が後ろに下がってゆく。代わりに見えてくるのは、過去、現在、未来を象徴する三つの太陽のうちのひとつ、『黒い太陽の顔』
栞はふとよみがえる思い出があり、話を続けた。
「これバックにして、死んだおじいさんとおばあはんが写ってる写真、実家で見たことあるわ。万博当時のやつ」
万博記念公園を縦断し、民族学博物館の企画展、「朝鮮半島のシャーマニズム」に入る。今、最も関心の強い、朝鮮半島の演劇のコーナーまで託馬と手を繋ぎながら、栞は話をも引っ張る。
「朝鮮文化とか、悪趣味って固定観念ある人多いけど、私は惹かれるけどなあ。鶴橋とか」
「鶴橋って、あのガード下の市場、魚とか肉をそのまま売ってる場所」
「うん、朝鮮文化について、託馬はどう思う」
「うーん」
農楽劇の展示を見やりながら、託馬が返答に困った様子なので、彼の内心を察した。恐らく、日本人の目から見たらジェイソンのような、穴をえぐり開けた仮面の個性や、演技前の儀式で使う牛頭に食指が動かないか、ひょっとしたら、どちらかといえば嫌いなのかもしれない。
「そんな風に思ってたらあかんで」
「あ、うん、うん」
「これから団塊世代が退職したら人材足りんようになって、外国人労働者、いっぱい来るようになるかもしれんし」
「マジ、そうなったら俺生きていけないかも」陰陽五行を象徴する、原色の韓服を眺めて託馬がぼやく。「それってかなり、辛くない。あっちの人、はっきりもの言うし」
博物館を出て再び万博記念公園に入り、現代美術の森に入った時、託馬がニヤニヤと囁いてきた。
「あのさ、今日はホテル行かないで外にしない」
オブジェを鑑賞していた栞は、頭を上げた。
「ちょ、なんで」
「だって、栞、アダムとエヴァの話読んでただろう」
こんもりとした現代美術の森は人気がなく、ただ湿気と生の土だけがべったりと広がっている。街では聴けないような鋭い鳥の声が、栞の耳をつんざいていった。
「わかった」
銅や石やガラスの現代美術、原始の地球から存在する物質に囲まれて、お互い裸になり抱き合う。コンドームは持ってきていないが、結果などどうでもよかった。これは、自分たちが愛し合っていると納得するための大切な儀式なのだから。今のつながりだけが欲しい。
ふと、天の梢の隙間から太陽の塔の裏側、黒い太陽の顔がちらついた。ちょっとだけだが、栞はその視線に恥ずかしくなった。
外ということでいつも以上に興奮してしまったらしく、託馬は簡単に尽きてしまった。背中に枯葉や土が付くのも構わずお互い抱き締め合い、そのまま腐葉土の中に転がる。
「託馬」
「何」
「なあ、人は元々森の生き物で、ごく普通のことやのに、なんで早くイッちゃうの」
猥談めかして囁くと、
「そりゃあ人はいつも、服着てるせいだ」託馬らしくない、断定したような答えが返ってきた。「こんな風に森の中でヤッてると、何で人間って服着てるんだろう。って、俺、馬鹿馬鹿しくなってきた」
「うん、うん」
「服だけじゃなくて、恥ずかしさとか罪悪感とかを隠す心の蓋。そう、心のATフィールドかな。さっきの仮面みたいな」
託馬の口から先の企画展の感想が洩れだしたので、栞はああ、やっぱりこの人と自分はベストカップルなんだ。と水を含むように喜びを味わった。
託馬の心音に合わせて、栞も想いを紡ぐ。
「仮面、人間のタテマエ、の象徴かも。DNA、親から代々染みわたってゆく、業、。原罪」
「考えすぎるなよ」
託馬が髪を撫でてくれる。足の赤い、鷺のような鳥が一羽、ゆっくりと狭い上空を羽ばたいてゆく。その先には塔がある。
「栞は自己中だから、すぐ内面に落ちたがる」
「それ、褒め言葉ととっとくで」そこで栞は起き上がった。「芸大生が、自分の内面と向き合わなくてどうすんのさ」
ジーンズを穿く。今日はもうゴールデンウィークの最終日で蒸し暑さがあり、上半身だけでも裸のままでいたかった。だが、しぶしぶとブラウスのボタンを留める。
「世の中って不条理に出来てんなあ」
一番上のボタンだけ外して、栞は呟いた。
ぶらぶらしているうちに、万博記念公園内の花の丘に辿り着いた。連休はポピーの季節で、薄い絹に似たオレンジや白や黄色の花びらが、丘の風に不規則になびいていた。
ずっと歩きっぱなしで、足ががくがくになっていたのでとりあえずベンチに座る。そして無意識のうちに、身体に付着している枯葉の欠片や泥を、叩き合い払い合い始める。ふと視界に入った太陽の塔を伺うと、向こうからわざと目を伏せて、ぷいと横向きの姿勢になっていた。栞も身体を横に向けて、背中に付いた泥を託馬に払ってもらう。
「タオルかなんか、買ってこようか」
と、その時、
「お兄ちゃん、タオル貸したげよか」
託馬に掛けられた声に、栞は頭を上げた。
「あ」
お互い呟き合う。そこにいたのは母と、その隣には父の左手が、しっかりと握られていたのだ。